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ケロロ
元陸上自衛隊第7師団戦車連隊の 偵察小隊等に勤務していました。 実際に74式戦車・主に偵察用オート・60式装甲車に搭乗していました。 戦争映画や軍機・ミリタリー・バイク・波乗り・山登りと興味は多い50代。 戦車や戦艦などのラジコン遊びが好き。 自室を戦闘基地にしたい。 しかしながら一番は平和と健康です♪
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2016年05月11日

日本海軍航空母艦 赤城

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赤城は、かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦[。同型艦に天城(未成)。太平洋戦争初期の重要な海戦において機動部隊の旗艦として活躍し、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で沈没した。

艦名の由来

赤城の艦名は群馬県前橋市の赤城山にちなんで命名された。日本海軍の軍艦としては、摩耶型砲艦の赤城に続いて二隻目。空母でありながら山名に由来する艦名がつけられたままとなった理由は、当時は航空母艦の命名に関する明確な規定が無かったためである。航空母艦命名に関して明確な命名標準が設けられたのは昭和8年12月18日付 海軍大臣から侍従長宛文書「海軍大臣官房 官房機密第2417号」、およびそれに対して返信された同年12月19日付 侍従長から海軍大臣宛書簡によってである。

初期の艦形

赤城は巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合を抱えることになった。計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった。建造当初の赤城の飛行甲板はイギリス海軍空母フューリアスの第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(赤城は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中はどの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった。

また煙突は右舷に設置され、重油専焼缶の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の過去から現在の空母の中でも後にも先にも赤城だけである。完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った加賀で改装前に使用されていたものを移設したものである。
沈没

赤城は魚雷を被雷しておらず、格納庫内部の誘爆によって内部から焼き尽くされていった。当時赤城雷爆兵器員だった秋本勝太郎によると、総員退艦命令が出たころ、機関科は健在で火災が鎮火し次第いつでも動く状態だったという。そのうち「注水弁開け」と命令があり、注水弁を開口しこれがさらなる誘爆を防いだ結果、被弾したほかの艦よりも生存者が多かったと語っている。甲板士官が独断で防火扉を開放したため、負傷者の移動と応急班員の移動を迅速に行うことが出来たという。午前8時、機関部との連絡が途絶。罐室の機関科兵は脱出に成功したが、タービン室と発電機室の兵は脱出連絡が間に合わず、全員戦死した。午前8時20分、青木泰二郎大佐は火勢が強まった艦橋から飛行甲板前部に移ると、負傷兵の駆逐艦移乗を命じる。この時点で格納庫内の魚雷と爆弾の誘爆により飛行甲板は大火災となり、艦長以下幹部達は艦首錨甲板(飛行甲板と船体の間)に追い込まれた。午前9時3分、赤城はなぜか自然に前進をはじめ、右回りに円を描いた。午前10時38分、昭和天皇の写真(御真影)を野分に移す。この後、後部との連絡が可能となったが、正午ちょうどに前部格納庫で再び大爆発が起きた。午後1時、赤城の青木艦長は赤城は一部の乗組員を野分や嵐に移乗させた。それでも青木艦長は赤城を救おうと努力し、午後3時20分には機関部の復旧を試みたが、ガスと熱気のため作業不可能であった。

午後4時20分、赤城の機関長の「自力航行不可能」の報告をもって青木艦長は総員退去を決定した。自沈のため、駆逐艦の魚雷発射を要請した。午後5時、乗組員は艦長の訓示を受け、嵐と野分に移乗を開始する[。午後7時、嵐に約500名、野分に約200名が移乗した。ところが午後7時25分、後方の主力部隊・旗艦大和に座乗していた山本五十六連合艦隊司令長官(旧赤城艦長)から「赤城の処分は待て」と命令が入る。午後7時30分、青木艦長は第4駆逐隊の有賀幸作司令(後の戦艦大和艦長)、三浦中佐(赤城航海長)、増田正吾中佐(赤城飛行長)等の説得により嵐に移った。以後の赤城は無人のまま漂流を続けた。日付が変わる頃、沈没した空母加賀の乗組員を救助していた萩風と舞風が合流、有賀司令は「今夜は赤城の警戒に任じ、敵艦来たらば刺違え戦法をもってこれを撃滅せんとす」を発令し、第4駆逐隊各艦は赤城の周囲を往復して警戒を行った。

午後11時55分、空母飛龍の喪失により勝敗が決したことを悟った山本司令長官は、連合艦隊電令第161号にてミッドウェー攻略中止を各部隊に命じる。日本時間6月5日午後11時50分、山本長官は黒島亀人参謀等の反対論を抑え、かつて艦長をつとめていた赤城の処分を命令した。第4駆逐隊は日付変更の時点でも燃えていると報告したが、この頃になると可燃物が全て燃え尽きたため、赤城は焼け焦げた姿で漂流していたという。一方、未だ誘爆が起きていたという証言もある。6月6日午前2時、第4駆逐隊各艦(航行順は嵐、野分、萩風、舞風)は赤城の右舷に対し各1本を発射した。4本の魚雷のうち2ないし3本が命中。1942年(昭和17年)6月6日午前2時10分、北緯30度30分、西経178度40分の地点で、赤城は艦尾から沈んでいった。中杉清治(舞風駆逐艦長)は沈没時に赤城から聞こえてきた音について「なにか生きているものの悲鳴のように思えた」と回想している。沈没からしばらくして海中で大爆発音があったという。萩風によれば、沈没時刻は現地時間午前4時55分(日の出五分前)。駆逐艦に分乗した赤城の生存者は連合艦隊主力部隊と合流後、戦艦陸奥等に移乗して日本本土へ向かった。











沈没

ミッドウェー海戦時の赤城に乗り組んでいた実員は不明である。これはミッドウェー基地占領時、同島基地に進出するための基地要員や兵員が便乗していた為である。赤城の定員は1,630名、第一航空艦隊司令部員が64名で、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死した。機関科員が閉じ込められた加賀や蒼龍と異なり、その多くが救出されたため人的被害はこの二艦ほど多くはなかった。同海戦における赤城搭載機搭乗員の戦死者は機上3名、艦上4名の合わせて7名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻2名)で[177]、淵田中佐、板谷少佐、村田少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。赤城の炎上後も、数機の零戦が飛龍に着艦したが、その後の戦闘や飛龍の沈没によって全機が失われた。赤城の被弾直前に発進した木村の零戦も、エルロン故障のため飛龍へ着艦後海中投棄された。



1/350 日本海軍 航空母艦 赤城
ハセガワ の説明
航空母艦赤城の1/350スケールプラスチックモデル。
組み上がると全長745mmとなる、大ボリュームキットです。キット開発にあたり、新たな事実が判明!格納庫後端形状、艦底キール部分の大きさ・形状、側舷アーマープレートフェアリング部分の形状につきましては、新資料に基づいた設計となっています。

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