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ケロロ
元陸上自衛隊第7師団戦車連隊の 偵察小隊等に勤務していました。 実際に74式戦車・主に偵察用オート・60式装甲車に搭乗していました。 戦争映画や軍機・ミリタリー・バイク・波乗り・山登りと興味は多い50代。 戦車や戦艦などのラジコン遊びが好き。 自室を戦闘基地にしたい。 しかしながら一番は平和と健康です♪
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2016年05月11日

美しい機体。夜間戦闘機月光

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月光(げっこう)

開発の経緯

昭和12年(1937年)、大陸での渡洋爆撃において、敵戦闘機の迎撃により九六式陸上攻撃機が大きな被害を受けた事に衝撃を受けた海軍は、より高速かつ重武装の「十二試陸上攻撃機」(後の一式陸上攻撃機)の開発を急遽開始する一方、翌昭和13年(1938年)11月、中島飛行機に対し陸攻援護専用の遠距離戦闘機である「十三試双発陸上戦闘機」計画要求書を提示した。これを受けた中島では九七式艦上攻撃機の開発主任であった中村勝治技師(後に病気のため大野和男技師と交代)を中心とした設計陣を組み、開発に当たった。


月光(げっこう)は、日本海軍(以下、海軍)が、太平洋戦争中期から運用した夜間戦闘機。ちなみに従来の海軍の戦闘機は「○式○○戦闘機」という風に制式名称がつけられていたが、本機以降は命名基準が変わり、「月光」は愛称ではなく制式名称である(ちなみに夜間戦闘機に分類される丙戦は「光」の字を含むように定められていた)。連合軍が本機に与えたコードネームはIrving(アーヴィング)。十三試双発陸上戦闘機から二式陸上偵察機

昭和16年(1941年)3月26日に十三試陸戦試作一号機が完成し、5月2日に初飛行した。しかし、テストの結果、速度や航続力はほぼ要求通りではあったものの、運動性能に劣るため敵戦闘機に対抗するには不足と判定されたこと、遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃の信頼性が低いこと、また既に零戦が長距離援護戦闘機として活躍していたこともあって戦闘機としては不採用となった。しかし、九八式陸上偵察機以外に本格的な陸上偵察機を保有していなかった海軍は、本機が従来の九八式陸上偵察機に比べ高速かつ航続距離が長いこと、そして前方機銃と空戦機動に耐える機体強度を持ち、ある程度の自衛戦闘が可能な点に注目し、強行偵察にも使用可能な偵察機に転用することを計画した。そして、昭和17年(1942年)3月に受領した試作5号機から7号機までを偵察機に改造し、実用試験を行った。その結果、4月以降偵察機として50機生産されることとなり、7月6日に二式陸上偵察機(J1N1-C。その後J1N1-Rに改称)として制式採用されることになった。初期生産型(十三試陸戦試作機の改造型も含む)は遠隔操作式機銃がそのまま残されていたが、ほとんどの生産機は遠隔操作式機銃の廃止の代わりに後下方旋回機銃を1挺装備した。また、後期生産型では落下式増槽も装備できるようになった。

制式採用直後の昭和17年(1942年)7月、J1N1-C試作機(十三試陸戦試作機に偵察用カメラを追加した機体。遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃はそのまま)3機がラバウルに進出し、翌月から開始された米軍のガダルカナル進攻においても最初にラバウルからガダルカナルに航空偵察を行い、貴重な情報をもたらしている。その後各部隊に配備されるようになったが、米軍の戦力が増強されるにつれ強行偵察では被害が続出するようになり、より高速の二式艦上偵察機(D4Y1-C)や陸軍から借用した一〇〇式司令部偵察機の方が重用されるようになった.

夜間戦闘機「月光」


月光一一型(スミソニアン博物館に展示されている元横須賀航空隊所属機。右翼下は二式複戦「屠龍」の胴体、後方に見える尾翼はB-29(エノラ・ゲイ)のもの)
昭和18年(1943年)初め、豊橋で練成・再編成中だった第251海軍航空隊(ラバウルで消耗しつつあった台南海軍航空隊を前年1942年11月1日改称して設立。以下、二五一空)司令の小園安名中佐(当時)は海軍中央の反対を押し切って、十三試陸戦試作機に重爆撃機対策として自ら発案した斜銃(機軸に対して上方または下方に30°前後の仰角を付けて装備された20mm機銃)を追加装備した改造夜間戦闘機を自らの部隊に配備させる事に成功した。二五一空はこの改造夜戦と共に昭和18年(1943年)5月にラバウルへ再進出、同月21日深夜ラバウルに来襲した2機のB-17を撃墜することに成功、その後も次々と夜間爆撃に襲来するB-17を撃墜した。初撃墜の直後、海軍中央から二五一空の保有する二式陸偵全機の改修許可と改造夜戦の制式化内示が伝えられ、昭和18年(1943年)8月23日には丙戦(夜間戦闘機)「月光」(J1N1-S)として制式採用、斜銃も制式兵器となった。

小園大佐は最初に下向き斜銃、次に上向き斜銃による敵機攻撃を発案したが、主に視界の問題(機体下部に開けた窓を通じて照準するため視界が限られる。また夜間においては月や星のため明るい上空に敵機をおいた方が識別しやすい)から、構想の比較的初期段階で下向き斜銃による敵機攻撃は現実的ではないとされ、敵機攻撃には上向き斜銃が使用されることとなった。にも拘らず月光の初期型に上向きと下向きの斜銃が2挺ずつ装備されているのは、敵機迎撃と並んで夜戦の重要な任務と考えられた敵基地などへの夜間攻撃では下向き斜銃の方が便利と考えられたためであり、戦況の悪化に伴い敵基地襲撃より敵機迎撃の重要度が増してくると下向き斜銃を装備する意義は薄れ、後期型では上向き斜銃のみ装備となっている。

月光の登場により、一時はB-17やB-24によるラバウルへの夜間爆撃を押さえ込むことに成功したが、戦力バランスが大きく連合国軍側に傾いてくると効率の悪い夜間爆撃はあまり行われなくなったため、中部太平洋やフィリピンを巡る戦いでは月光は夜間迎撃より夜間偵察や敵基地等の夜間襲撃等に用いられることが多くなった。事実、この時期に月光に装備されたレーダーは対水上用のものである。

本土防空戦においては、P-51が援護戦闘機として登場するまでは夜間のみならず昼間もB-29迎撃に出撃した。しかし、速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を挙げることはできなかった。アメリカ軍のカーチス・エマーソン・ルメイ陸軍航空軍少将は昼間の高々度爆撃の効果が無いと判断し夜間の焼夷弾爆撃に切り替え、命中精度を高める為にB-29を低空で進入させはじめた。これに対しては斜銃のみ装備により夜間迎撃する厚木基地に配備された月光はかなりの戦果を挙げており、横須賀航空隊の黒鳥四朗少尉−倉本十三上飛曹機の様に一晩で5機撃墜した例もある。この頃になるとかなりの数の月光に対航空機用レーダーが装備されていたが、搭乗員や整備員がレーダーの取り扱いに不慣れであったこと、レーダー自体の信頼性も低かったことなどから、実戦において戦果を挙げるまでには至らなかった。

生産機数は二式陸上偵察機も含めて477機で、この内40機が終戦時に残存していた。

<要目>
全幅17m 全長12.2m 自重4.6トン 乗員2名(一式双発戦闘機、夜間戦闘機月光)、3名(一式陸上偵察機) 
武装20ミリ機銃×4(機首×2、翼内×2)、7.7ミリ機銃×1(後方旋回機銃):(一式双発戦闘機)
7.7ミリ機銃×1(後方旋回機銃):(一式陸上偵察機)
20ミリ機銃×2(翼内×2)、20ミリ連装機銃×1(後方旋回機銃):(夜間戦闘機月光)
エンジン出力1150hp×2 最大速度510km/h 航続距離3,700km




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