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2016年05月13日
自室でタンクバトル勃発 手のひらラジコン 1/72 RC VS タンクS06 M4 シャーマン (ID4) 1/72 RC VS タンクS05 M4 シャーマン (ID3)
自室でタンクバトル勃発 手のひらラジコン 1/72 RC VS タンクS04 タイガーI (ID2)
自室でタンクバトル勃発 手のひらラジコン 1/72 RC VS タンクS04 タイガーI (ID2)
商品の説明
手のひらサイズの戦車のラジコンです。
小さいからと言ってもちゃんと前後・左右の動作でフルファンクション
ケースもアクリルケースに入っていますので使用しない時は飾りにもベスト
タンク本体サイズ:全長:約70mm・高さ:40mm
本体:充電式・送信機:単三電池4本使用(別売り)
タンク本体充電時間:約5分・走行時間:約5分
生産国:中国
周波数:27MHz
この手のラジコンは飾ったりするよりも、複数の車両を購入してタンクバトルするのが面白いと思います。
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自室でタンクバトル勃発 手のひらラジコン 1/72 RC VS タンクS01 97式中戦車チハ 激シブです。
大日本帝国海軍の航空母艦 隼鷹
隼鷹(じゅんよう)は、大日本帝国海軍の航空母艦。飛鷹型航空母艦の2番艦。 ただし、帝国海軍の公式記録上では隼鷹型航空母艦の1番艦である。
隼鷹は、姉妹艦の空母飛鷹(出雲丸)と同様、有事の空母改造を前提に建造中の日本郵船の橿原丸級貨客船橿原丸(かしはらまる)を空母へ改装したものである。帝国海軍は太平洋戦争開戦から約半年を経て発生した1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦において大敗、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を失う。この時点で残る中型以上の高速正規空母は翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)のみであった。隼鷹、飛鷹の速力は正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板も薄く防御能力でも見劣りしたが、中型の正規空母蒼龍なみの航空機搭載量を持つ貴重な戦力であり[25]、ミッドウェー海戦以降は大型正規空母の翔鶴、瑞鶴をサポートし、それに勝るとも劣らぬといえる活躍をした。なお、姉妹艦の飛鷹は1944年6月のマリアナ沖海戦で撃沈されている。以後の隼鷹は高速輸送艦として運用され、終戦まで残存した。だが機関部の損傷により、空母鳳翔、葛城のように復員船として運用されることなく、また客船に戻されることもなく解体された。
艦歴
橿原丸として
海軍技術将校/艦艇研究家の福井静夫によれば、大型高速客船を有事に際し空母に改造する発想はイギリスからもたらされたという。1923年(大正12年)末、第一次大戦後の欧州視察のためイギリスを訪問した平賀譲造船少将に対し、イギリス海軍造船局長サー・ユースタス・テニスン・ダインコートは大型商船を空母化する利点について熱心に説いた[。当時のイギリスが保有する150隻以上の1万トン以上大型客船は、有事に際し兵員輸送船や特設巡洋艦に転用できるため、列強(特にアメリカ)から重大な脅威とみなされていた。サー・ユースタス・ダインコートの提案は日本海軍の構想と一致した。アメリカを仮想敵とした場合に求められたのは、兵員輸送力ではなく、洋上決戦を挑むための航空戦力とそれを運用する航空母艦だったからである。こうして帝国海軍は有事空母化を前提とした商船や客船の建造を模索、1929-1930年に日本郵船の秩父丸(鎌倉丸)、浅間丸、龍田丸が完成し]。続いて大阪商船のあるぜんちな丸級貨客船2隻(あるぜんちな丸《海鷹》、ぶらじる丸)が三菱重工業長崎造船所で1938年-1939年にそれぞれ進水、竣工する。さらに1940年東京オリンピックにそなえるべく日本郵船の新田丸級貨客船3隻(新田丸《冲鷹》、八幡丸《雲鷹》、春日丸《大鷹》)が計画され、いずれも三菱重工業長崎造船所で建造された。太平洋戦争と共に各船は日本海軍に徴用され、大鷹型航空母艦として再就役した。
隼鷹の前身である客船橿原丸は三菱重工業長崎造船所において1939年(昭和14年)3月20日に起工した。完成した場合には、2万7700トン、最大発揮速力25.5ノット、旅客定員890名という、太平洋航路最大級の客船となるはずだった[。だが機関部や客室部分など、設計段階から空母に改造することを前提とした構造となっていた。隣の船台では大和型戦艦2番艦武蔵が建造中であった(1938年3月29日起工)。1939年11月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所(川崎重工業)で空母瑞鶴が進水、3日後の11月30日に同船台にて出雲丸(第一〇〇一番艦)が起工される。1940年(昭和15年)1月6日、新田丸級貨客船春日丸が橿原丸の隣で起工される(同年9月15日進水)。11月1日、武蔵は橿原丸より一足先に進水した。だが武蔵進水後の造船台は依然として簾で隠されたままで、長崎の住民は「武蔵はもう1隻いる」と噂していた。造船所の火災で橿原丸の姿が簾越しに浮かびあがると、住民達は同船を第二の武蔵と錯覚したという。1941年(昭和16年)2月、橿原丸は日本海軍に買収され第一〇〇二番艦の仮艦名を与えられる]。6月24日、出雲丸/1001番艦が進水、2日後の6月26日に橿原丸/1002号艦が進水した。12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまった。
アリューシャン作戦
1002号艦」は1942年(昭和17年)5月3日に竣工、特設航空母艦隼鷹として呉鎮守府所管。この時はまだ艦首の菊御紋章がついていなかった。隼鷹は日本の空母として初めて島型艦橋と上方煙突が一体化した大型艦橋を有していた。これは建造中の大鳳型航空母艦の実験を兼ねており、煙突は外側へ26度傾斜している。レーダー(二式二号電波探信儀一型)の装備も日本空母初の試みであった。また商船としてある程度建造が進んでいた隼鷹は、姉妹艦の飛鷹にくらべて木製部分が多く、戦争後半の出火対策で苦労する事になった。
竣工後の隼鷹はただちに空母龍驤と合同し、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された。5月19日、隼鷹は広島湾那沙美水道の最狭部で軍艦大和と反航してすれ違い、宇垣纏連合艦隊参謀長は「無謀とや云はん。禮儀を知らずとや云はん。」と隼鷹艦長に怒っている。 5月20日附で、四航戦(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶、高雄)、第一水雷戦隊(旗艦阿武隈、第6駆逐隊《響、暁、雷、電》、第21駆逐隊《若葉、初霜、子日、初春》、第7駆逐隊《潮、曙、漣》)は北方部隊に編入された。隼鷹は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、駆逐艦3隻(潮、曙、漣)、補給船「帝洋丸」と共にアリューシャン方面作戦に参加した。 6月3日、雲間より出現したPBYカタリナ飛行艇に雷撃されるが、投下位置が隼鷹に近すぎたため魚雷は飛行甲板を越えて反対舷に落下、その後PBYは高雄に撃墜されたという。6月4日よりダッチハーバーに対し空襲を行うが、小数兵力のため大きな戦果をあげることもなく、天候悪化により隼鷹艦爆1機が行方不明となった。龍驤所属の零戦が不時着し、アメリカ軍に鹵獲されたのも、この作戦中の出来事だった(アクタン・ゼロ)。 6月5日、ミッドウェー海戦で南雲機動部隊主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)が沈没した。6月14日、攻略部隊に所属していた空母瑞鳳、第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)が北方部隊に合流した。隼鷹は駆逐艦から蒼龍の搭乗員を受け入れたという。また本土からも空母瑞鶴が出撃し、6月23日に大湊で四航戦と合流した。各隊はアメリカ軍機動部隊来襲に備えて北方海域の哨戒を行ったが米艦隊出現の徴候はなく、7月5日には米潜水艦グロウラー、トライトンの雷撃で駆逐艦2隻(霰、子日)が沈没、2隻(不知火、霞)も大破航行不能という被害を出した。これを機会に、各隊は日本本土の母港へと帰投した。7月10日、隼鷹以下各隊各艦は北方部隊の指揮下を離れた。
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2016年05月11日
日本海軍航空母艦 赤城
赤城は、かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦[。同型艦に天城(未成)。太平洋戦争初期の重要な海戦において機動部隊の旗艦として活躍し、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で沈没した。
艦名の由来
赤城の艦名は群馬県前橋市の赤城山にちなんで命名された。日本海軍の軍艦としては、摩耶型砲艦の赤城に続いて二隻目。空母でありながら山名に由来する艦名がつけられたままとなった理由は、当時は航空母艦の命名に関する明確な規定が無かったためである。航空母艦命名に関して明確な命名標準が設けられたのは昭和8年12月18日付 海軍大臣から侍従長宛文書「海軍大臣官房 官房機密第2417号」、およびそれに対して返信された同年12月19日付 侍従長から海軍大臣宛書簡によってである。
初期の艦形
赤城は巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合を抱えることになった。計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった。建造当初の赤城の飛行甲板はイギリス海軍空母フューリアスの第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(赤城は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中はどの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった。
また煙突は右舷に設置され、重油専焼缶の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の過去から現在の空母の中でも後にも先にも赤城だけである。完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った加賀で改装前に使用されていたものを移設したものである。
沈没
赤城は魚雷を被雷しておらず、格納庫内部の誘爆によって内部から焼き尽くされていった。当時赤城雷爆兵器員だった秋本勝太郎によると、総員退艦命令が出たころ、機関科は健在で火災が鎮火し次第いつでも動く状態だったという。そのうち「注水弁開け」と命令があり、注水弁を開口しこれがさらなる誘爆を防いだ結果、被弾したほかの艦よりも生存者が多かったと語っている。甲板士官が独断で防火扉を開放したため、負傷者の移動と応急班員の移動を迅速に行うことが出来たという。午前8時、機関部との連絡が途絶。罐室の機関科兵は脱出に成功したが、タービン室と発電機室の兵は脱出連絡が間に合わず、全員戦死した。午前8時20分、青木泰二郎大佐は火勢が強まった艦橋から飛行甲板前部に移ると、負傷兵の駆逐艦移乗を命じる。この時点で格納庫内の魚雷と爆弾の誘爆により飛行甲板は大火災となり、艦長以下幹部達は艦首錨甲板(飛行甲板と船体の間)に追い込まれた。午前9時3分、赤城はなぜか自然に前進をはじめ、右回りに円を描いた。午前10時38分、昭和天皇の写真(御真影)を野分に移す。この後、後部との連絡が可能となったが、正午ちょうどに前部格納庫で再び大爆発が起きた。午後1時、赤城の青木艦長は赤城は一部の乗組員を野分や嵐に移乗させた。それでも青木艦長は赤城を救おうと努力し、午後3時20分には機関部の復旧を試みたが、ガスと熱気のため作業不可能であった。
午後4時20分、赤城の機関長の「自力航行不可能」の報告をもって青木艦長は総員退去を決定した。自沈のため、駆逐艦の魚雷発射を要請した。午後5時、乗組員は艦長の訓示を受け、嵐と野分に移乗を開始する[。午後7時、嵐に約500名、野分に約200名が移乗した。ところが午後7時25分、後方の主力部隊・旗艦大和に座乗していた山本五十六連合艦隊司令長官(旧赤城艦長)から「赤城の処分は待て」と命令が入る。午後7時30分、青木艦長は第4駆逐隊の有賀幸作司令(後の戦艦大和艦長)、三浦中佐(赤城航海長)、増田正吾中佐(赤城飛行長)等の説得により嵐に移った。以後の赤城は無人のまま漂流を続けた。日付が変わる頃、沈没した空母加賀の乗組員を救助していた萩風と舞風が合流、有賀司令は「今夜は赤城の警戒に任じ、敵艦来たらば刺違え戦法をもってこれを撃滅せんとす」を発令し、第4駆逐隊各艦は赤城の周囲を往復して警戒を行った。
午後11時55分、空母飛龍の喪失により勝敗が決したことを悟った山本司令長官は、連合艦隊電令第161号にてミッドウェー攻略中止を各部隊に命じる。日本時間6月5日午後11時50分、山本長官は黒島亀人参謀等の反対論を抑え、かつて艦長をつとめていた赤城の処分を命令した。第4駆逐隊は日付変更の時点でも燃えていると報告したが、この頃になると可燃物が全て燃え尽きたため、赤城は焼け焦げた姿で漂流していたという。一方、未だ誘爆が起きていたという証言もある。6月6日午前2時、第4駆逐隊各艦(航行順は嵐、野分、萩風、舞風)は赤城の右舷に対し各1本を発射した。4本の魚雷のうち2ないし3本が命中。1942年(昭和17年)6月6日午前2時10分、北緯30度30分、西経178度40分の地点で、赤城は艦尾から沈んでいった。中杉清治(舞風駆逐艦長)は沈没時に赤城から聞こえてきた音について「なにか生きているものの悲鳴のように思えた」と回想している。沈没からしばらくして海中で大爆発音があったという。萩風によれば、沈没時刻は現地時間午前4時55分(日の出五分前)。駆逐艦に分乗した赤城の生存者は連合艦隊主力部隊と合流後、戦艦陸奥等に移乗して日本本土へ向かった。
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