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2016年04月29日
2016年04月28日
日本海軍
日本海軍
大日本帝国海軍のこと。安政2 (1855) 年江戸幕府は海軍伝習所を長崎に設立し,オランダ海軍士官を師として海軍に関する学術,実習の教育を行なったが,これが日本における近代的海軍の始りとされる。 日本海軍
にほんかいぐん
大日本帝国海軍ともいう。近代日本の海上兵力で、明治新政府成立とともに創建され、第二次世界大戦における敗北の結果、解体・消滅した。今日の海上自衛隊に人事・施設面での痕跡(こんせき)を一部残したとはいえ、その存続期間は、海軍省設置(1872)から数えても、73年にしかすぎない。この間、日清(にっしん)・日露の戦役に従事して戦勝の立役者となり、一時は、英米と並ぶ世界三大海軍国の地位を謳歌(おうか)したが、その英米と同時に戈(ほこ)を交える最悪の方向に自らを追い詰め、太平洋における一連の海空戦で多くの将兵と艦艇のほとんどを失って、歴史の幕を閉じた。
創設から5年間は官制に「海陸軍」と表されていたことでもわかるように、明治新政府は対外政策上から海軍力を重視、育成する姿勢を示していた。兵部省の建議書「大(おおい)ニ海軍ヲ創立スベキノ議」の一節には、「イギリスはロシアに比すれば国少にして陸軍の数大いに劣るといえども、海軍の力は遙(はる)かに勝(まさ)れり」とあり、帝政ロシアを想定敵国とし、大英帝国型海洋国家を目ざすことが海軍創建の思想的基盤であった。1872年(明治5)2月海軍省設置に至るまで、海軍行政は、太政(だじょう)官官制の「海陸軍科」「軍防事務局」「軍務官」「兵部省」を変遷したが、この期間中、1869年に教育機関として海軍操練所(翌年兵学寮、76年兵学校と改称)開設、また70年にはイギリス式制度を日本海軍の手本とすることを決定、さらに71年横須賀(よこすか)造船所(後の海軍工廠(こうしょう))を完成させるなど基盤形成がなされた。73年、初代海軍卿(きょう)・勝安房(かつあわ)は――結局幻と終わったものの――一大製艦計画を提出、甲鉄艦26隻、大艦14隻、中艦32隻、小艦16隻、運送艦以下16隻、総計104隻からなる艦隊を18年以内に整備することを提案した。対露戦備の嚆矢(こうし)といえるものである。75年イギリスに軍艦3隻の建造を発注、扶桑(ふそう)(戦艦)、金剛(海防艦)、比叡(ひえい)(同)を得てからは、海軍拡張は急速に進んだ。下って86年には内閣制度発足によって、海軍大臣が海軍軍政を管理・監督する体制の確立をみた。初代海軍大臣に任命されたのは陸軍中将・西郷従道(つぐみち)であった。同時期、軍令機関として参謀本部海軍部も編制され、これにより海軍も陸軍と同様、軍政と軍令の二元組織となった(1893年以降は海軍軍令部、1933年からは軍令部と称す。
明治中期から日清・
明治中期、日清・日露の外征戦争に備えて海軍軍備はさらに進展の歩を速めるが、この時代を体現する人物は、「日本海軍生みの親が勝海舟ならば、育ての親は山本権兵衛(ごんべえ)である」という評言に表されるとおり、海軍省官房主事・山本権兵衛大佐(のち大将)であった。兵学寮を卒業し海兵第一期生となった山本は主事に任命されるや海軍諸制度の改革整備に全力をあげ「大佐大臣」の異名をとった。山本主事の下で、維新の勲功により将官の地位を占めていた上層部の淘汰(とうた)が行われ、かわって新教育を受けた士官の登用が行われた。
日清戦争開始の際、日本海軍の勢力は、軍艦31隻5万9800トン、水雷艇24隻1470トンで、常備艦隊と西海艦隊をもって連合艦隊を編成、旗艦に松島(4278トン)をあて伊東祐亨(ゆうこう)中将が初の連合艦隊司令長官として海戦を指揮した。この戦役では黄海海戦(1894)において、優勢な清国北洋艦隊と相対した連合艦隊が、速力および速射砲の優越を利して清国側を圧倒し、海戦史上最初の甲鉄艦どうしによる海戦に勝利を収めるとともに、黄海の制海権を獲得、以後、陸軍への補給・輸送作戦を容易ならしめて戦勝の道を開いた。日清戦争後、次に対露開戦必至とみた海軍首脳(西郷海相、山本軍務局長)はさらに大規模な海軍拡張計画にとりかかった。六・四艦隊(戦艦6、1等巡洋艦4よりなる艦隊)から六・六艦隊へと改訂される決戦艦隊の建造計画がそれである。富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠(みかさ)など1万トンを超す主力艦を戦列に組み入れ、一方、統帥面においても戦時大本営条例改正をめぐる折衝で、それまでの陸軍優位の機構を陸海並立とすることに成功し、天皇の下での陸海軍比肩連立時代を確定した。山本権兵衛は1898年以降海軍大臣の地位にあり、これら作業を成し遂げて日露開戦に臨んだ。こうした周到な準備が功を奏し、日本とロシアの海戦は、装備、練度、士気いずれの面でも日本側の圧倒するところとなり、日本海海戦(1905)における連合艦隊(東郷平八郎司令長官)の完勝をもって、明治期日本海軍はそのクライマックスをしるした。
大艦巨砲時代
日露戦勝後、日本海軍は栄光の絶頂にありながら没落の影を宿すようになる。一つは、幕末以来の宿敵ロシアを降(くだ)し想定敵国をアメリカへと転換した結果、引き続きロシアとの再戦に備える作戦を目標とした陸軍と戦略指向において深刻な分裂を生じたこと、いま一つは、統帥権独立によって分離した軍政(海軍省)部門と軍令(海軍軍令部・連合艦隊)部門との間に隔意をしだいに大きくし、第一次世界大戦後の海軍軍縮会議(ワシントン・1921、ロンドン・1930)の際あらわになったような、「統帥権干犯」を名分として海軍省の統制に従わない部分(艦隊派)を抱えるようになったことである。山本権兵衛の目ざした一枚岩の大海軍主義は日露戦争を境として急速に変質し、昭和時代の「イデオロギーなき冒険主義」へと継承されてゆく。
とはいえ、20世紀初頭の30年間は、日本海軍がその歴史のなかでひときわ光彩を放った時代であった。1907年(明治40)初めて策定された「帝国国防方針」において、海軍の兵備は「米国ノ海軍ニ対シ、東洋ニ於(おい)テ攻勢ヲ取ル」対米標準戦備とすることを明記、同時に採択された「国防所要兵力」は、戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻からなる兵力を「国防上ノ第一線艦隊トス」と定めた。ここに「八・八艦隊」によって象徴される大艦巨砲時代、戦艦全盛時代が到来するのである。20年(大正9)竣工(しゅんこう)した戦艦「長門(ながと)」、同21年の「陸奥(むつ)」は連合艦隊のシンボルであり、同時に「三大海軍国」の威容を現すものだった。この思想の下、戦艦「大和(やまと)」(1941竣工)、「武蔵(むさし)」(1942)建造が推進される。当時構想されていた対米作戦方針によれば、八・八艦隊をもって主力とする日本海軍は渡洋してくる米艦隊を西太平洋に迎え、小笠原(おがさわら)諸島を前哨(ぜんしょう)線、南西諸島を決勝線にしてこれを撃破するというものであった。その後、日米決戦海域は艦の大型化に伴い、大正時代には小笠原諸島、昭和に入るとマリアナ〜西カロリン諸島海域へと遠隔化していくが、基本となる迎撃・決戦・巨砲の勝利という作戦構想は、対米開戦直前まで揺らぐことはなかった。艦隊整備と並行して、「月月火水木金金」とよばれる厳しい訓練の日々が日本海軍のもう一つの代名詞となる。
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大日本帝国海軍のこと。安政2 (1855) 年江戸幕府は海軍伝習所を長崎に設立し,オランダ海軍士官を師として海軍に関する学術,実習の教育を行なったが,これが日本における近代的海軍の始りとされる。 日本海軍
にほんかいぐん
大日本帝国海軍ともいう。近代日本の海上兵力で、明治新政府成立とともに創建され、第二次世界大戦における敗北の結果、解体・消滅した。今日の海上自衛隊に人事・施設面での痕跡(こんせき)を一部残したとはいえ、その存続期間は、海軍省設置(1872)から数えても、73年にしかすぎない。この間、日清(にっしん)・日露の戦役に従事して戦勝の立役者となり、一時は、英米と並ぶ世界三大海軍国の地位を謳歌(おうか)したが、その英米と同時に戈(ほこ)を交える最悪の方向に自らを追い詰め、太平洋における一連の海空戦で多くの将兵と艦艇のほとんどを失って、歴史の幕を閉じた。
創設から5年間は官制に「海陸軍」と表されていたことでもわかるように、明治新政府は対外政策上から海軍力を重視、育成する姿勢を示していた。兵部省の建議書「大(おおい)ニ海軍ヲ創立スベキノ議」の一節には、「イギリスはロシアに比すれば国少にして陸軍の数大いに劣るといえども、海軍の力は遙(はる)かに勝(まさ)れり」とあり、帝政ロシアを想定敵国とし、大英帝国型海洋国家を目ざすことが海軍創建の思想的基盤であった。1872年(明治5)2月海軍省設置に至るまで、海軍行政は、太政(だじょう)官官制の「海陸軍科」「軍防事務局」「軍務官」「兵部省」を変遷したが、この期間中、1869年に教育機関として海軍操練所(翌年兵学寮、76年兵学校と改称)開設、また70年にはイギリス式制度を日本海軍の手本とすることを決定、さらに71年横須賀(よこすか)造船所(後の海軍工廠(こうしょう))を完成させるなど基盤形成がなされた。73年、初代海軍卿(きょう)・勝安房(かつあわ)は――結局幻と終わったものの――一大製艦計画を提出、甲鉄艦26隻、大艦14隻、中艦32隻、小艦16隻、運送艦以下16隻、総計104隻からなる艦隊を18年以内に整備することを提案した。対露戦備の嚆矢(こうし)といえるものである。75年イギリスに軍艦3隻の建造を発注、扶桑(ふそう)(戦艦)、金剛(海防艦)、比叡(ひえい)(同)を得てからは、海軍拡張は急速に進んだ。下って86年には内閣制度発足によって、海軍大臣が海軍軍政を管理・監督する体制の確立をみた。初代海軍大臣に任命されたのは陸軍中将・西郷従道(つぐみち)であった。同時期、軍令機関として参謀本部海軍部も編制され、これにより海軍も陸軍と同様、軍政と軍令の二元組織となった(1893年以降は海軍軍令部、1933年からは軍令部と称す。
明治中期から日清・
明治中期、日清・日露の外征戦争に備えて海軍軍備はさらに進展の歩を速めるが、この時代を体現する人物は、「日本海軍生みの親が勝海舟ならば、育ての親は山本権兵衛(ごんべえ)である」という評言に表されるとおり、海軍省官房主事・山本権兵衛大佐(のち大将)であった。兵学寮を卒業し海兵第一期生となった山本は主事に任命されるや海軍諸制度の改革整備に全力をあげ「大佐大臣」の異名をとった。山本主事の下で、維新の勲功により将官の地位を占めていた上層部の淘汰(とうた)が行われ、かわって新教育を受けた士官の登用が行われた。
日清戦争開始の際、日本海軍の勢力は、軍艦31隻5万9800トン、水雷艇24隻1470トンで、常備艦隊と西海艦隊をもって連合艦隊を編成、旗艦に松島(4278トン)をあて伊東祐亨(ゆうこう)中将が初の連合艦隊司令長官として海戦を指揮した。この戦役では黄海海戦(1894)において、優勢な清国北洋艦隊と相対した連合艦隊が、速力および速射砲の優越を利して清国側を圧倒し、海戦史上最初の甲鉄艦どうしによる海戦に勝利を収めるとともに、黄海の制海権を獲得、以後、陸軍への補給・輸送作戦を容易ならしめて戦勝の道を開いた。日清戦争後、次に対露開戦必至とみた海軍首脳(西郷海相、山本軍務局長)はさらに大規模な海軍拡張計画にとりかかった。六・四艦隊(戦艦6、1等巡洋艦4よりなる艦隊)から六・六艦隊へと改訂される決戦艦隊の建造計画がそれである。富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠(みかさ)など1万トンを超す主力艦を戦列に組み入れ、一方、統帥面においても戦時大本営条例改正をめぐる折衝で、それまでの陸軍優位の機構を陸海並立とすることに成功し、天皇の下での陸海軍比肩連立時代を確定した。山本権兵衛は1898年以降海軍大臣の地位にあり、これら作業を成し遂げて日露開戦に臨んだ。こうした周到な準備が功を奏し、日本とロシアの海戦は、装備、練度、士気いずれの面でも日本側の圧倒するところとなり、日本海海戦(1905)における連合艦隊(東郷平八郎司令長官)の完勝をもって、明治期日本海軍はそのクライマックスをしるした。
大艦巨砲時代
日露戦勝後、日本海軍は栄光の絶頂にありながら没落の影を宿すようになる。一つは、幕末以来の宿敵ロシアを降(くだ)し想定敵国をアメリカへと転換した結果、引き続きロシアとの再戦に備える作戦を目標とした陸軍と戦略指向において深刻な分裂を生じたこと、いま一つは、統帥権独立によって分離した軍政(海軍省)部門と軍令(海軍軍令部・連合艦隊)部門との間に隔意をしだいに大きくし、第一次世界大戦後の海軍軍縮会議(ワシントン・1921、ロンドン・1930)の際あらわになったような、「統帥権干犯」を名分として海軍省の統制に従わない部分(艦隊派)を抱えるようになったことである。山本権兵衛の目ざした一枚岩の大海軍主義は日露戦争を境として急速に変質し、昭和時代の「イデオロギーなき冒険主義」へと継承されてゆく。
とはいえ、20世紀初頭の30年間は、日本海軍がその歴史のなかでひときわ光彩を放った時代であった。1907年(明治40)初めて策定された「帝国国防方針」において、海軍の兵備は「米国ノ海軍ニ対シ、東洋ニ於(おい)テ攻勢ヲ取ル」対米標準戦備とすることを明記、同時に採択された「国防所要兵力」は、戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻からなる兵力を「国防上ノ第一線艦隊トス」と定めた。ここに「八・八艦隊」によって象徴される大艦巨砲時代、戦艦全盛時代が到来するのである。20年(大正9)竣工(しゅんこう)した戦艦「長門(ながと)」、同21年の「陸奥(むつ)」は連合艦隊のシンボルであり、同時に「三大海軍国」の威容を現すものだった。この思想の下、戦艦「大和(やまと)」(1941竣工)、「武蔵(むさし)」(1942)建造が推進される。当時構想されていた対米作戦方針によれば、八・八艦隊をもって主力とする日本海軍は渡洋してくる米艦隊を西太平洋に迎え、小笠原(おがさわら)諸島を前哨(ぜんしょう)線、南西諸島を決勝線にしてこれを撃破するというものであった。その後、日米決戦海域は艦の大型化に伴い、大正時代には小笠原諸島、昭和に入るとマリアナ〜西カロリン諸島海域へと遠隔化していくが、基本となる迎撃・決戦・巨砲の勝利という作戦構想は、対米開戦直前まで揺らぐことはなかった。艦隊整備と並行して、「月月火水木金金」とよばれる厳しい訓練の日々が日本海軍のもう一つの代名詞となる。
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アーツガチャの「連合艦隊コレクション」
![078-12.jpg](/tetugyuu/file/078-12-thumbnail2.jpg)
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熊本地震 お見舞いを申し上げます。
熊本地震で被害に遭われた皆さまにお見舞いを申し上げるとともに、
犠牲となられた方々のご冥福をお祈り致します。
また救助、復旧、支援活動にご尽力されている国や自治体、警察、消防、海保
、自衛隊、などの皆さまも、大変な任務、ご苦労だとだと思いますが、ご無事の
活動をよろしくお願い申し上げます。
犠牲となられた方々のご冥福をお祈り致します。
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