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高原茂
メンタル心理カウンセラー・上級心理カウンセラー・行動心理士の高原茂です。宜しくお願い致します。 「このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。」 など
プロフィール

2024年11月16日

【六波羅蜜とは?】

【六波羅蜜とは?】

『六波羅蜜』とは何でしょうか?

岩波 仏教辞典に、こう書いてあります。

「大乗仏教において菩薩に課せられた6種の実践徳目で、〈六度〉ともいわれる。

1)布施(檀):財施、法施(真理を教えること)、無畏施(恐怖を除き、安心を与えること)の3種。

2)持戒:戒律を守ること。

3)忍辱:苦難に堪え忍ぶこと。

4)精進:たゆまず仏道を実践すること。

5)禅定:瞑想により精神を統一させること。

6)智慧(般若):真理をみきわめ、悟りを完成させる智慧。

六波羅蜜の中ではこの智慧波羅蜜が肝要とされ、
前の五波羅蜜はこれを得るための準備手段として要請される。

波羅蜜とはこれら6種の徳目の完成態をいう。」

『六波羅蜜のはなし』(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)

には、こう書いてあります。

「お経にはな
おまえが
知りたがっている
さとりの世界に
いたる教えが
説かれているんじゃ

(中略)

仏教では
大きな河を
想定してな

河のこちら側の
世界を “此岸” と呼び
向こう側の世界を
“彼岸” と呼んで
いるんじゃ

此岸とはな
わしたちが住む
この世のことじゃ

煩悩や迷いに
満ちた
世界のことじゃ

彼岸とは
煩悩や迷いを
断じつくした
さとりの世界の
ことじゃ

この此岸から
彼岸へ
わたることを
到彼岸という

到彼岸する
ことによって

わしたちは
ほとけになれると
説かれているのじゃ

(中略)

この世に生きる
人間たちは

おのれの欲に
目がくらみ
たいせつなものを
見失っている

(中略)

その欲を捨てて
さとりにいたった
世界が
向こう岸・・・・

つまり
彼岸の世界
なんじゃ

その欲を捨てて
向こう岸に
いたるのじゃ
彼岸の世界に
いたるのじゃ

(中略)

まずは
“少欲知足” を
身につける
ことじゃな

(中略)

欲を少なくして
わずかなもので
満足する心を
もつという
ことじゃ

(中略)

少欲知足と
ことばで言うは
たやすいが

だれにでも
簡単にできる
ことではない

しかし
欲におぼれて
いるうちは
決してさとりは
開けん

どこかで
限度を設けて
“もうこれでじゅうぶんです” と
思う心がけが
大事なんじゃ

(中略)

これからが
本題じゃ
仏教には
六波羅蜜という
教えがある

(中略)

布施行

持戒行

忍辱行

精進行

禅定行

智慧行

といってな
わしたちが
積まねばなるぬ
六つの修行の
ことじゃ

真の布施とは

相手のために
するのでは
なく

自分のために
するのじゃ

(中略)

させて
いただくの
じゃよ

その気持が
あって
はじめて
ほんとうの
布施ができる

お釈迦さまは
その前世において
自分のいちばん
たいせつなものを
捨ててまで
布施の修行を
されたと言われる

われわれには
とても
そこまでは
できん

しかし
できないから
それでいい・・・・と
いうわけではない

われわれは
そこまで
できないことを
自覚して

布施を常に
心がけていくことが
大事なのじゃ

ほんとうの布施を
するためには

まず
こだわりを
なくすことじゃ

おれがおまえに
施してやるんだから
おまえはおれに
感謝しろ

そんな気持ちでは
いつまでたっても
ほんとうの布施は
できぬ

布施とは
捨てることじゃ

自分のもっている
ものを捨てさせて
いただくことじゃ

自分が捨てたものを
後はどうしようが
他人におまかせする
そういう気持ちで
するのが布施じゃ
そして布施するときには
心をスッカラカンに
することじゃ

布施を受けて
いただいて
ありがとうという
気持ちをもてば
いいのじゃよ

(中略)

布施行は
ただ人にものを
あたえればよいと
いうものではない

真の布施と
なるためには
次の三つを
忘れてはならん

布施をする側に
施してやるという
おごりがあってはならぬ

同じように
布施された側も
相手に恩義を感じて
いるようではいかん

そして
布施する品は
ぬすんだもので
あってはならぬ

この三つが
そろわねば
ならんのじゃ

(中略)

相手に恵んで
やるんだ

という思い上がった
気持ちや

感謝のことばを
相手に求めたり
する気持ちが
少しでもあると
それは布施には
ならない

布施とは
本来させて
いただくもの

布施をさせて
いただいたら
感謝の気持ちを
もつべきなんじゃ

こういう
気持ちがないと
ほんとうの布施は
できない

(中略)

せちがらいこの世の中
わしらは笑顔という
ものを忘れておる

自分じゃ
気がつかんが
イライラしたり
クヨクヨしたり・・・・
そんな心が顔に出て
ことばに表れる

(中略)

いいかい
和顔とは
柔和な顔
のこと

つまり
笑顔じゃ

そして
愛語とは
やさしいことば
思いやりのことば
のことじゃ

笑顔の布施と
ことばの布施
これが
和顔愛語じゃ

これなら
だれにでもできる

(中略)
例えばじゃ
寝たきりの
病人であっても

看護して
くれる人に
笑顔を布施して

ありがとうの
ことばを
布施することは
できる

赤ん坊は
いつもにこにこと
笑っているが

あれはほとけさまが
赤ん坊には
布施する財産が
ないからと

あたえられた
笑顔という
布施なのじゃ

われわれは
おとなになると
笑顔をなくして
仏頂面をする

(中略)

こんな世の中でも
やさしいことばの
一つでもかけ合えば
ずいぶんちがってくる
とは思わんか

(中略)

夫婦の間でも
そうじゃよ

おたがいに
やさしさと
いたわりをもって
接すれば

そうけんかも
起こらんじゃろう

(中略)

そうじゃ みんなが
和顔愛語で
くらしていけば
この世の中も
もう少し
住みやすくなるし

さとりの
世界にも
少し近づくの
じゃよ

(中略)

六波羅蜜の
第二番目の
持戒とはな

戒を保ち
守ることじゃ

中でも
五戒という
五つの戒めは
大事な修行なんじゃ

一 不殺生戒
  生き物を殺すなかれ

二 不倫盗戒
  ものをぬすむなかれ

三 不邪淫戒
  夫や妻以外の異性と
  性的な交わりを
  もつなかれ

四 不妄語戒
  うそをつくなかれ

五 不飲酒戒
  酒を飲むなかれ

・・・とあるがな
在家の者には
この五戒が
基本となる

(中略)

わしたち凡夫が
人間という存在の
弱さを自覚するために
戒がもうけられたのじゃ

わしたち人間は
どんなに努力をしても
戒を完全に守る
ことはできんのだ

(中略)

人間は戒を守り通す
ことはできない

ということを
お釈迦さまは知っておられたのじゃ

(中略)

この教えを
“捨戒便法” と
言うのじゃ

(中略)

仏教の
戒とは

戒を守れない
人間の弱さを
自覚するために
あるのじゃ

それを知った
うえで
自分の弱さを省み
深く懺悔する

そのために
戒はもうけ
られたのじゃ

人間は弱い
存在だから
戒を破ったからと
いって
決して負けたわけでは
ないんじゃよ

これが持戒の
ほんとうの
意味じゃよ

(中略)

六波羅蜜の
三番目は忍辱じゃ

忍辱とは
文字どおり

他人から
めいわくや侮辱を
受けたとき
じっと耐えしのぶ
ことを言うのじゃ

いつも心を
平安に保ち

絶対にいかりの
気持ちを
起こさない

もっと
積極的に
言うと

他人を許す
心じゃ

それが
忍辱じゃよ

(中略)

人間は
この世に生きて
いる限り
どうしても
他人にめいわくを
かけてしまう
のじゃよ

そしてな
そのめいわくを
許してもらって
生きている
のじゃよ

だとすれば
わしたち自身も
他人から受ける
めいわくや侮辱に
耐えしのばねばならぬ

それが
忍辱じゃ

(中略)

わしたちは
他人にめいわくを
かけなければ
生きられない
存在なのじゃ

はっきりと
そのことを
自覚できたとき

他人から
めいわくを
受けても
じっと耐えしのび

それを許す心を
もつことができる
ようになる

(中略)

じゃから
わしたちは
忍辱を実践し

他人を
いつくしむ心を
もたなくては
ならないのじゃよ

(中略)

六波羅蜜の
第四番目は
精進じゃ

精進とは
努力するという
意味だが
ただ努力をすれば
いいという
わけではない

正しい努力で
なければ
精進ではない

(中略)

正しい努力とは
智恵のある
努力を言うのじゃ

これに対し
まちがった努力とは
ただがむしゃらに
努力することじゃ

(中略)

金もうけのために
必死で努力する

いわば
馬車馬が
目の前に
にんじんを
ぶら下げられて
やみくもに
走っているような
努力・・・・

こんな努力は
精進とは言えん

二十九歳で故郷の
カピラ城を出て
修行僧となった
お釈迦さまは

三十五歳で
さとりを開かれる
までの六年間
毎日厳しい苦行をされた

しかも
その中心は
極端な断食行で
あった

お釈迦さまとともに
苦行をやっていた
五人の仲間たちは
口をそろえて

この男は
断食によって
死んでしまった

――と言ったほど
それはすごい
苦行であった

その苦行のさなか
お釈迦さまは
農夫のうたを
耳にした

琵琶の絃
きりり
しめれば
ぷつり切れ

さりとて
ゆるめりゃ
べろん
べろん

(中略)

修行中の
研ぎすまされた
精神の極みにあった
お釈迦さまは
このうたから一つの
真理を得られた

(中略)

釈迦族の
王子として
栄耀栄華を
極めることも
極端であれば

死とすれすれの
苦行もまた
極端である

このような
両極端に
固執していては
さとりは
開けない

両極端に
かたよらない道――

われは
中道をいく

そう決意された
のじゃよ

お釈迦さまは
この中道によって
さとりに到達
されたのじゃ

したがって
精進とは

この中道に
基づいたもので
なければ
ならんのじゃ

あまりにも
極端な努力は

この中道の精神に
反するから
精進とは認めない

(中略)

精進とは
欲望を
コントロールして

足るを知る心を
もったうえで
努力すること
なんじゃ

足るを知る
心を失うと

わしたちは
餓鬼になって
しまうぞ

餓鬼とは
何ごとにも
満足できずに
むさぼりの心を
もった存在なのじゃ

ゆったりと

かたよらずに

のんびりと
努力すること

それが
精進波羅蜜じゃ

(中略)

禅定とは
いわゆる
座禅のことじゃ

これはな
精神集中の
修行でもあるが

また
精神解放の
修行でもある

(中略)

禅の修行というと
なにか特別な教えが
あるにちがいないと
思いがちじゃが

それは
まちがった解釈で
日常の生活の中
にこそ禅がある

(中略)

乱れた心を統一し
安定するのには
特別な教えなど
なにもない

特別な方法が
あると思うと

それに
こだわってしまい
正しい禅定が
できなくなってしまう

(中略)

飯を食べ
茶を飲む
掃除をし
しごとをする

日常生活の
あたりまえのことを
あたりまえに
できるようになる
これが禅定なんじゃ

“日日是好日”
という
ことばがある
これはの

晴れの日には晴れを愛し
雨の日には雨を愛す
災難に遭う時には
災難を受け止め
つらい時には
そのつらさと向き合う

という意味なのじゃ
こういう心があれば
すべて好日なのじゃ

つまり
事実をありのままに
受け止めて
とらわれないという
姿勢がたいせつなのじゃ

つまり
“こだわるな”
“迷うな” と
教えているの
じゃな

また お釈迦さまの
説かれた“禅” は
“瞑想” と思ったほうが
よいじゃろうな

瞑想というのは
極端に言えば
心をぼうっと
させることで
あるからのう

取り立ててなにか
技術がいるわけ
でもない

(中略)

あまり
禅の技術を
とやかく説いては

真の禅定には
ならんからな

一日一回は
心をぼうっと
させる時間を
もつことじゃ

(中略)

さて いよいよ
六波羅蜜の最後は
智恵行じゃ

今まで話してきた
布施 持戒 忍辱
精進 禅定を
実践することで
はじめて智恵を
完成することができる

そして
その智恵に
支えられて
布施 持戒 忍辱
精進 禅定を
完成することができる

まあ
言ってみれば
これらは
車の両輪のような
ものじゃ

両輪の均衡が
とれてはじめて
車は前に
進んでいける

智恵が高まり
般若といわれる
もっと高い次元の
智恵となる

(中略)

人間はみな
智恵を
もっている

けれども
悲しいかな
その智恵は
ねむっておる
のじゃよ

(中略)

仏教とは
智恵の教え
なのじゃ

(中略)

智慧波羅蜜はな
世間でよく言う

役に立つとか
立たないとか
そういったものを
超越したものなんじゃ

もっと
あっけらかん
として

おおらかで
自由な智恵
なんじゃ

ものごとを
ありのままに
見つめることの
できる智恵
なんじゃよ

(中略)

頭を空っぽに
すれば
智恵が入る
ようになる

わしたちは
あれこれ先入観を
もっておる

その先入観に
しばられて
思い悩む

つまり先入観に
じゃまされている
わけじゃ

じゃから
苦しみや悩みを
克服するための

いい智恵が
浮かんでこないのじゃ

事が終わって
しまった後に
なって

あんがい
いい智恵が
浮かんでくる

それは
先入観がなくなる
からじゃろう

それが
わしらが
よくやる
後知恵という
ものじゃな

(中略)

わしたちは
いろいろな先入観に
じゃまされて

迷うから
いい智恵が
出てこないのじゃ

(中略)

智恵とは
“空” の教えなんじゃ

(中略)

空とはな

差別するな
こだわるなと
いうことじゃ

(中略)

世の中には
きれいだ
きたないだ
なんてものはない

善もなければ
悪もない

そう思う心が
差別なんじゃ

そんな差別の心を
捨てて無心になって
虫を見る

それが
空の教えなんじゃ

(中略)

空である存在を
わしたちの心が
さまざまに差別
しているのじゃ

『般若心経』
にはな

差別をするな
たとえ差別をしても
その差別に
こだわるなと
教えているんじゃ

(中略)

あまり
空だ 空だと
言っていると

こだわるなと
言っとるわしが
空にこだわることに
なるしな

ただ
これだけは
言っておくぞ

空の実践とは
中道を歩むと
いうことじゃ

こだわりを捨て
執着を離れ
あるがままに物事を
見る空の立場に
立つことなのじゃ

空の立場に立って
はじめて中道を
歩めるのじゃよ

空が
中道であり

中道が
空なのじゃ

わしが話してきた
六波羅蜜を
心がけて
ゆっくりと
修行にはげめば

きっと
彼岸に
行けるぞ」

六波羅蜜を学び、

真理を究め、

修行を実践して、

悟りを開きましょう!

(推薦図書)
『六波羅蜜のはなし』
(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)
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2024年11月15日

【 『一切皆苦』について 】

【 『一切皆苦』について 】

仏教教理を特徴づける根本教説である四法印の一つに『一切皆苦』があります。

『一切皆苦』の真意は何でしょうか?

これについて、

『わかりやすい 仏教用語辞典』(大法輪閣)

の中に、こう書いてあります。

「 “人生は苦である。この世のあらゆる存在も現象も、すべて苦の原因でないものはない”

などと言うと、恐らく現代の青年から総スカンを食って

“馬鹿言うな。こんな楽しい人生があるもんか。
うまいもの食って、好きな奴と一緒に暮らして、働きたい時に自分にあった仕事をすることができるこの世は、まったく楽しみに満ちてるじゃないか。
もっとも、自分の思い通りにならない時だけは必ずしもそうは思わんがね”

とでも言われかねない。

確かに、
腹がペコペコの時に、
うまいものを食べたり、
好きな相手と結婚したり、
待ち望んでいた子供が生まれたり、
職場で昇給・昇進したりした時には、
まさにこの世は喜びに満ちたものであって、
冗談にも苦しみとは感じないだろう。

“楽は苦のたね、苦は楽のたね” というので、
たとえ自分の思い通りにならない場合でも、
きっと将来、
今の苦しみが楽しみに変わってくれる、
と信じて努力していけば、
苦しみだって苦しみにはならない、
という理論も成りたつ。

問題なのは、
現在楽しみであると考えていることが本当に実現した時に、
それがいつまでも楽しみであり続けるかどうか、
ということなのである。

やっとお腹が一杯になって喜んでいる時に、
“さあもっと食え” と出されたら、
どんなうまいものでも苦しみのたねになるし、
理想の異性と結婚した喜びが、
いつまでも続いていれば、
世の中の夫婦がけんかわかれをするわけもないし、
生まれた子供が成長してその子に泣かされる親がいかに多いかを見ても、
同じことがいえる。

係長になったものは、
次に課長・部長・重役・社長と、
だんだんと欲望が大きくなり、
社長だって満足していないことは、
ご本人がよく知っているはずだ。

なぜそうなのだろうか。

それは、
この世のあらゆるものが、
永遠の存在ではないからである。

“今がいちばん可愛い頃だから、どうかこれ以上大きくならないように” といくら願ってみたところで、
子供はどんどん成長し、
憎まれ口をたたき、
学校の成績で心配をかけ、
さんざん親に反抗し、
しまいには、
雷族になって事故をおこして死んでしまうことにもなる。

幸福だと感じている人は、
“どうかこのままの状態が続きますように” と願い、
不幸だと感じている人は、
“早くこの苦しみがなくなりますように” と願う。

結局、
幸福も不幸も、
ともに永遠ではないかわりに、
このような相対的なものは、
結局のところ、
すべて人間を苦しめる原因になっていることに気がつく。

永遠でないものを永遠と錯覚することから離れなさいよ、
というのが一切皆苦を説いた釈尊の真意なのである。」

私たちは、

存在を固定不変と考え、

欲望や憎悪の対象として執着するので、

一切皆苦となります。

万物の無常・無我を知らないこと(無明)、

何ごとかの永続を願う我々の迷いの生は、

苦しみでしかありえません。

諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印を学び、

真理を究め、

修行を実践し、

悟りを開きましょう!

(参考図書)
『わかりやすい 仏教用語辞典』
(大法輪編集部編 大法輪閣)
↓↓↓
https://amzn.to/3UQFwvQ



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2024年11月14日

【四諦とは?】

【四諦とは?】

『四諦』とは何でしょうか?

大辞林に、こう書いてあります。

「四つの真理の意。
苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦の総称。
十二縁起と並ぶ仏教の根本教理。
四聖諦(ししょうたい)。」

新漢語林には、こう書いてあります。

「迷いとさとりの因果を説明する四つの真理。
苦(現世の苦悩)・集(肉体・財産への執着)・滅(安楽の境地)・道(実践修行)。」

旺文社 全訳古語辞典には、こう書いてあります。

「仏教の根本教理である苦・集・滅・道をいう。
人生は苦であるという苦諦、
苦は過去の煩悩(ぼんのう)・業(ごう)の集積の結果であるという集諦(じったい)、
煩悩を滅し苦から解脱(げだつ)することが涅槃(ねはん)(=悟り)の境地であるという滅諦、
悟りに達するために仏道を修行しなければならないという道諦。」

ブリタニカ国際大百科事典には、こう書いてあります。

「真理を4種の方面から考察したもの。
釈尊が最初の説法で説いた仏教の根本教説であるといわれる。
(1)苦諦(この現実世界は苦であるという真理)、
(2)集諦(じったい。苦の原因は迷妄と執着にあるという真理)、
(3)滅諦(迷妄を離れ、執着を断ち切ることが、悟りの境界にいたることであるという真理)、
(4)道諦(悟りの境界にいたる具体的な実践方法は、八正道であるという真理)の4種。」

現代社会+政治・経済用語集には、こう書いてあります。

「仏教の根本教理であり、中心的な教説。
いかなる実践を通じて解脱(げだつ)にいたるかを示す四つの真理(苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい))をいう。

苦諦(苦の真理)とは人生は生老病死(四苦)などの苦に満ちており、
これらの苦は自己の人生にとって避けられない、『人生は苦なり』と自覚することである。
集諦(原因の真理)とは、
これらの苦を集め起こす苦の原因が無知や渇愛(かつあい)が種々の煩悩(ぼんのう)を起こすことにあることを知ることである。

この無知や渇愛が滅し、
苦の束縛から解脱した状態を滅諦(苦の滅の真理)という。

この苦の滅にいたる実践的方法が道諦(道の真理)といわれ、
具体的に八正道によって示されている。」

倫理用語集には、こう書いてあります。

「仏陀が初転法輪で説いた内容で、仏教の根本教理。

いかなる実践を通じて解脱(げだつ)にいたるかを示す四つの真理(=苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい))をいう。

四聖諦(ししょうたい)、
苦集滅道(くしゅうめつどう)ともいう。

苦諦(苦の真理)とは、
人生は生老病死(四苦)などの苦に満ちており、
これらの苦は自己の人生にとって避けられない、『人生は苦なり』と自覚することである。

集諦(原因の真理)とは、
これら苦を集めおこす原因が、
無知(無明)から起こる種々の欲望(煩悩(ぼんのう))にあると知ることである。

滅諦(苦の滅の真理)とは、
原因である煩悩や、
さらにその原因である無明を滅却(めっきゃく)すれば、
苦しみもなくなるということである。

そして最後の道諦(道の真理)は、
煩悩を滅却するための具体的な実践方法を意味し、
八正道という八種の正しい修行方法によって示される。」

岩波 仏教辞典には、こう書いてあります。

「諦(satya)とは真理のこと。

四つの真理で、苦諦・集諦・滅諦・道諦の総称。

〈四聖諦〉ともいう。

釈尊が鹿野苑における最初の説法(初転法輪)において説いたとされる、仏教の根本教説。

〈苦諦〉は、迷いの生存は苦であるという真理。

〈集諦〉は、欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理。

〈滅諦〉は、欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理。

〈道諦〉は、苦滅にいたるためには八つの正しい修行方法(八正道)によらなければならないという真理。

四諦の教えは、
しばしば治病原理になぞらえられる。

すなわち、
苦諦は病状を知ること、
集諦は病因を知ること、
滅諦は回復すべき健康状態のことであり、
道諦は良薬であるとされる。」

『ブッダの教えがわかる本』(著者 服部祖承 大法輪閣)

には、こう書いてあります。

「ブッダ=お釈迦さまのお悟りになった『最高の真理』とは、
一体どのようなものだったのでしょう。

お釈迦さまは、
悟りへの道を、次の四つの真理としてまとめておられます。

その四つの真理のことを『四諦』(四聖諦とも)といいます。

つまり、
苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つのことです。

まず最初の苦諦ですが、
これはこの世のすべてが苦であるとする考え方です。

そして、
人生の基本的な苦として、
生・老・病・死の四苦をあげます。

ところで、
この四つの中で、
『生』がどうして苦なのでしょうか。

これは、
私たちがこの輪廻の世界に生まれることによって、
老と病が始まり、
やがて死を迎えることになるのですから、
生まれることこそ、
苦しみの根源であるといえるわけです。

また、
さらに次の四苦を加えて八苦とします。

愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦です。

愛別離苦とは、
愛する者と別れなければならないという苦しみです。

怨憎会苦とは、
その逆に怨み、憎んでいる者に会わなければならないという苦しみ。

求不得苦とは、
求めても、得られないという苦しみ。

そして最後の五陰盛苦とは、
自分に執着することからくる苦しみです。

初めの四苦と合わせると八苦となり、
これを私たちは『四苦八苦』と呼んでいます。

この言葉は、
私たちが平常からよく使っているのでご存知でしょう。

このように、
お釈迦さまは、この世の一切が『苦』であると説かれて、
第一の真理とされました。

次は集諦です。

集諦とは苦の『原因についての真理』のことです。

この世の一切のことが苦だとすると、
それには必ず原因があるはずです。

たとえば、
何か欲しいものがあって、
それが手に入らないときは苦しみになります。

しかし、
欲しいと思わなければ苦しむことはありません。

つまり、
物に執着があるから、
また欲があるから苦しまねばならないのです。

したがって、
お釈迦さまは、
執着するからよくない、
欲を持ってはいけないと結論づけられました。

これが『原因についての真理』です。

では、
その苦しみの原因をなくすためにはどうすればよいのでしょうか。

その原因になるものは、
私たちの執着や欲望ですから、
それを断ちさえすればよいことになります。

これが滅諦といわれる第三の真理です。

そして、
第四の真理は、
この執着や欲望を断つための方法についての真理です。

これを道諦といいます。

この方法として『八正道』を実践することが説かれます。」(52頁〜53頁)

釈尊の『教え』を学び、

真理を明らかにし、

実践修行して、

悟りを開きましょう!

(参考図書)
『ブッダの教えがわかる本』
(著者 服部祖承 大法輪閣)
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2024年11月13日

【逆境は成長のもと】

逆境は、

魂の成長の素因となります。

逆境が人を育てます。

これに関して、

『逆境は成功のもと』(著者 ジグ・ジグラー 訳者 幾島幸子 日経BP社)

の中に、こう書いてあります。

「十九世紀までは、
職人の技術は代々父から子へと教えられるのが当たり前だった。

手工業に必要な技は、
世代から世代へと受け継がれた。

そんな頃、
ある靴屋が九歳になる息子に、
靴屋になる技術を身につけさせようと訓練を始めた。

ところがある日、
作業台から落ちた千枚通しが、
息子の視力を奪ってしまった。

当時の医学の知識や技術では手の施しようがなく、
息子は傷ついた目ばかりかもう片方の目の視力も失ってしまった。

靴屋は息子を盲学校に入れた。

当時の盲学校では、
木を文字の形に刻んだ大きな積み木を使って読み方を教えていた。

積み木は手で扱いにくい不細工なものだったため、
文字を学ぶにはひどく時間がかかった。

靴屋の息子は文字を学ぶだけで満足せず、
もっと簡単に学べる方法があるはずだと考えた。

その後長い年月の末、
息子は紙に開けた小さな穴を使って読む、
目の不自由な人のための新しい文字を考案した。

その際道具に使われたのは、
彼を盲目にしたあの千枚通しだった。

この人の名はルイ・ブライユ。

点字法の考案者である。

大事なのは自分に何が起こったかではなく、
それにどう対処するかだ、
という言葉のとおりである。

私はレーガン元大統領が第一期目を振り返って語った言葉が大好きだ。

『私はホワイトハウスに来てからというもの、補聴器の世話になり、大腸を手術し、皮膚ガンを患い、前立腺も手術し、そのうえ狙撃された』。

ここで一呼吸おいた大統領は、
こう続けたのだ――

『でも、人生で今が最高だ』。

身に降りかかった不運を嘆くことより、
こうした態度が人間を前進させることに異論はないだろう。

『先の見通しが悪かったら、上を見ることだ。
きっと良く見えるはずだから』

というヘレン・ケラーの言葉を、
ぜひ試してみてほしい。

誰もがいつの日か、
生活水準ではなく生きる姿勢で、
富の大きさではなく心の広さで、
外見の立派さではなく素朴な善人であることによって評価される。」(207頁〜208頁)

逆境も失敗も、

人生で起こるすべての出来事は、

魂の成長のもととなります。

すべては、

『経験学習』

『体験学習』

です。

『艱難 汝を玉にす』

“Adversity makes a man wise.”
(逆境が人をつくる)

『憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の 力試さん』(熊沢蕃山)

『どんなことがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、雀躍だと、勇ましく潑剌と人生の一切に勇往邁進しよう。』(中村天風)

(参考図書)
『逆境は成功のもと』
(著者 ジグ・ジグラー 訳者 幾島幸子 日経BP)
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2024年11月12日

【菩薩とは?】

【菩薩とは?】

『菩薩』とは何でしょうか?

大辞林に、こう書いてあります。

「最高の悟りを開いて、
仏になろうと発心して、
修行に励む人。

初めは前世で修行者だった釈迦をさす名称であったが、
のちに大乗仏教では自己の悟りのみをめざす声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)に対し、
自利利他の両者を目指す大乗の修行者をいう。」

菩薩とは、

『菩提心を持つ者』

のことです。

『菩提心』について、

『菩薩を生きる――入菩薩行論――』(著者 シャーンティデーヴァ 翻訳者 寺西のぶ子 監修者 長澤廣青 バベルプレス)

の中に、こう書いてあります。

「思いやりのある寛大な心で、
他者の頭の痛みを、
和らげたいと願うだけでも、
その功徳は限りない。

されば、衆生一人ひとりの、
終わりなき苦痛を追い払うという願いが、
果てなき功徳をもたらすのは、
いうまでもない。

(中略)

他者の救いとなろうと考えるだけで、
仏陀を敬うよりも大きな価値があるならば、
衆生に幸福と利益をもたらす
実践についてはいうまでもない。

衆生は苦しみから解き放たれたいと願いながら、
苦しみそのものを追い求める。
喜びを願いながら、無知であるため、
敵と同じように喜びを滅ぼす。

けれども、喜びを持たぬ衆生を、
幸せで満たしてくれる者、
苦しみ悩む衆生の、
いっさいの苦悩を断ってくれる者、

無知の闇を追い払ってくれる者。
これほどの徳があるだろうか。
そのような友がいるだろうか。
これほどの功徳があるだろうか。

恩を返す者が
賞賛に値するのであれば、
求められずとも善を行なう、
菩薩については、いうまでもない。

さげすみを持って、
質素な食べ物をわずかな人に与える者が、
篤志家と称えられる。
一時の施しが、半日分の食事でしかなくとも。

されば、自らの願いの最高の成就となる、
至福の菩提の比類なき喜びを、
数限りない衆生に久しく与える者、
この者たちが篤志家たるのは、いうまでもない。

釈尊の後継者たる、寛容の心を持つ者に、
邪心を持って接すれば、
悪意を抱いた時間に応じて地獄に留まると、
釈迦牟尼は説く。

しかし、喜びに満ちた献身の心を抱けば、
力が充実し、豊かな結果がもたらされる。
厳しい苦境にあっても、菩薩は決して、
誤りをもたらさず、自然と徳が積まれる。

心にこの貴い宝石を生じる者に、
私は礼拝する。
敵にすら至福をもたらす、幸せの泉たる者に、
私は帰依する。」(19頁〜24頁)

「救世者の菩薩を喜び、
仏陀の後継者の十地を喜ぶ。

あらゆる衆生に幸せを与えんとする、
発心という海のように大きな善、
衆生に利益をもたらすあらゆる行動。
このようなものに、大きな喜びを見出す。

(中略)

生きとし生けるものすべての喜びに役立つため、
私は今、この身体を引き渡した。
殺そうと、見下そうと、打とうと、
好きなようなするがよい。

もてあそばれようと、
冷笑の的にされようと、
私の身体はすでに差し出したものだ。
何を気にすることがあるだろう。

衆生を傷つけない限り、
私に何をしても構わない。
彼らが私のことを思うたびに、
彼らに必ず利益がもたらされてほしい。

私に対して、
衆生が怒りや尊敬を感じるのなら、
それが常に、
彼らが善や願いを達成するもととならんことを。

私を面と向かって侮辱したり、
害を加えたりする者すべてが、
私を非難し、中傷したとしても、
悟りという幸運に恵まれんことを。

私は、よるべない者の庇護者に、
道行く者の案内人になりたい。
水を渡りたいと願う人々の、
小舟に、筏に、橋になりたい。

土地を求めてやまぬ者の島に、
光を求めてやまぬ者の灯火になりたい。
休む場所が要る者すべての寝台に、
使用人が要る者の下僕になりたい。

(中略)

地や天のように、
他のあらゆる力強い要素のように、
数限りない衆生にとって、
私はいつも、さまざまな食物の源、生命の大地でありたい。

生きとし生けるものすべてが、
苦しみをことごとく越えるまで、
空のように果てしなくどこまでも、
生きる糧でありたい。

過去のすべての仏陀が、
心の覚醒をもたらしたように、
菩薩の教えが、
一つひとつ学ばれるように、

私も衆生の利益のために、
菩提心を発し、
菩薩戒を一歩ずつ、
たゆまず学ぼう。

優れた知性を持ち、
喜びに輝いて菩提心を生じた者は、
それをさらに高めんと心を高揚させ、
賛美の言葉を唱える。

『今日、私の人生は実を結んだ。
人としての生をまっとうした。
今日、私は仏陀の種姓となり、
仏陀の子となり、後継者となった。

ゆえに、あらゆる意味で、
この位にふさわしい行いをしよう。
この高潔で非の打ちどころのない種姓を、
汚したり傷つけたりはしない。

なぜなら、私は、塵の山の中で、
貴い宝石を見つけた、盲人の人間のようなものだから。
そのような不思議な偶然から、
私の中に菩提心が生まれたから。

菩提心は、衆生の虐殺者である閻魔を消し去る、
涅槃への妙薬であり、
さまよう者を貧しさから救う、
宝の埋まった豊かな無尽蔵の鉱山である。

どんな病も必ず治す、
最高の薬であり、
生の道をさまよい疲れた人が、
憩う木である。

道を見失いさまよう者すべてを救う、
万人の橋であり、
煩悩から生じる苦悩を鎮める、
悟りの心という、昇る月である。

さまよう衆生を覆う無知の霧を消散させる、
力強い太陽であり、
聖なる教えという乳が撹拌されてできた、
こくのある、なめらかなバターである。

生きとし生けるものよ!豊かな充実感を味わいたいと願う、
輪廻の道を歩む旅人よ、
ほら目の前に、この上ない喜びがある。
終わりのない旅人よ、ここに充足の至福がある。

ゆえに私は、今日、すべての救済者のもとで、
衆生を呼び、菩提へと招く。
悟りの境地に達するまで、現世のあらゆる喜びへと招く。
天や阿修羅などの方々が、みな喜ばれんことを』」(50頁〜61頁)


私たちには、

真理を伝える義務があります。

若い芽を育てる義務があります。

菩提心を持ち、

菩薩道を歩みましょう!

『若い芽を 育てて築こう明るい未来』

(推薦図書)
『菩薩を生きる――入菩薩行論――』
(著者 シャーンティデーヴァ 翻訳者 寺西のぶ子 監修者 長澤廣青 バベルプレス)
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2024年11月11日

【解脱とは?】

【解脱とは?】

『解脱』とは何でしょうか?

大辞林に、こう書いてあります。

「煩悩の束縛から解放されて、安らかで自由な悟りの境地に達すること。
悟ること。涅槃(ねはん)。」

明鏡国語辞典には、こう書いてあります。

「この世の迷いや苦しみからのがれ、安らかで自由な境地に達すること。」

ブリタニカ国際大百科事典には、こう書いてあります。

「人間生活に伴うあらゆる苦悩や迷妄の束縛から開放されて、
完全に自由になることをいう。

もともとはウパニシャッドで説かれ、
インド哲学一般に継承されている観念であるが、
仏教では涅槃(ねはん)とともに究極の目標と考えられている。

『中阿含経(ちゅうあごんきょう)』で釈尊は

『あらゆる事象に執着せず、
すべてを捨て、
解脱したと思い込み、
みずから生存している身でありながら、
世間における痛苦や生存に伴う老・病・死、
そこから起る憂い・悲しみ・喜・怒・哀・楽などから離れるとともに、
さらに安らぎのある世界(安穏涅槃)を求めてそれを体得すれば、
そこにおいて自分は確かに解脱したのである』

と語っている。」

山川 世界史小辞典には、こう書いてあります。

「『あらゆる束縛とか苦悩や罪垢(ざいく)から解放された自由な境地』を意味する。

サンスクリット語の漢訳。

インドにおいて、
古くからカーマ(kama,愛欲)、
アルタ(artha,実利)、
ダルマ(dharma,法)と並んで人生において達成をめざすべき四大目的の一つとされ、
諸宗教、哲学諸派のいずれにおいても究極的到達の目標とされていた。

仏教においては、
煩悩(ぼんのう)の束縛から脱して迷いの苦しみから離れることが達成された、
修行実践の極致の境地の意味に用いられ、
涅槃(ねはん)の同義とされる。」

倫理用語集には、こう書いてあります。

「苦に満ちた輪廻(りんね)から解放され、
永遠の生命と安らぎを得ること。

インドの諸宗教の共通目標であり、
それぞれに解脱への方法が提示された。

ウパニシャッド哲学では、
梵我一如(ぼんがいちにょ)の真理を体得することで解脱が可能になるとされたが、
仏教では逆にブラフマンやアートマンを実体としてとらえることが煩悩(ぼんのう)、苦の原因であるとして、
無我を悟り煩悩を捨てることが解脱にいたる道とされた。

とはいえ、
輪廻と業(ごう)の世界観の上に立って、
悟りを開き解脱をめざすという点では両者は一致しており、
それはジャイナ教やヒンドゥー教にも共通する見解である。」


『わかりやすい仏教用語辞典』(大法輪閣)には、こう書いてあります。

「われわれ人間は、
仏教においてさまざまな名で呼ばれるが、
その一つに『凡夫』というのがある。

これは新しい訳語であって、
古くは『異生』といった。

個々バラバラに生まれ、
かつ死ぬもの、
ということである。

いかなる貴人も天才も、
この運命の外に立つことはできない。

『異生』は、
その為してきた『業』にひきずられて、
その一生にさまざまな業の報い(業報)を受ける。

人の一生は、
業の因と果との連続であるといえる。

ここにおいて一つの問題が生ずる。

それは、
業をなす人間が、
生存中に、すべてその果報を受けおわることはできないということである。

生前の善業にもかかわらず、
今生において、
ついにその善き果報を受けえなかったひともあるし、
また、その逆もある。

このところから、
業の因果を否定(撥無)する無因無果の思想もまた出てくるのである。

ここに業の思想はどうしても、
時間軸との関係において考えられなくてはならなくなる。

すなわち、
過去世・現在世・未来世という三世にわたって、
業の因果はめぐりめぐって尽きることがない、
という考え方がそれである。

この業の因果がめぐりめぐって、
人がその輪の中から抜け出られない、
という事実を『輪廻』という。

この『輪廻』から抜け出すことが『解脱』である。

これによって知られるように、
『解脱』の思想は『輪廻』の思想のあるところには必ずある。

決して仏教だけに限っていわれることではない。

たとえば、
ウパニシャッドの中にも『解脱』のことばを用いた哲人はいたし、
仏教に先立つ自由思想家、
例えば『六十大外道』の人々の中にも『解脱』と、
その理想境を表現したひとはいた。

仏教も、
このインド人の間で伝統的な、
『業』の『輪廻』と、
それからの『解脱』を考え出したのであった。

しかし、
このことは、
仏教の『解脱』に、
いささかの特色もない、
ということではない。

仏教の特色は、
まず、すべての人に、
仏となる可能性をみとめ、
そのための修行の方法を人によって細かく分けて説き、
その上で、
身体(身)と言葉(口)と心(意)の三つの業を浄めて修行に専念するところにある。

こうして『我もさとり、他も覚らせる』(自覚覚他)教えである以上、
真の『解脱』は、
当然、『仏に成ること』、
すなわち『成仏』でなくてはならない。

『成仏』はまた『涅槃』ともいう。

『涅槃』とは、
煩悩を断滅させ、
寂静のさとりの境地に渡ることをいうのであるから(滅度)、
当然、『解脱』をもその過程に含み、
それが不動のものとなった境地をいう。」

『解脱』は、

サンスクリット語で『モクシャ』といいます。

『モクシャ』について、

『ゆだねるということ(下)』(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)

の中に、こう書いてあります。

「『moksha:モクシャ』とは『自由(束縛のない状態)』という意味です。

このスートラがあなたの内面に鳴り響くようになれば、
こう宣言したことと同じになります。

『わたしは感情的な束縛から解放されています。
わたしの魂はメロドラマから自由になります。
憤り、不平、敵意、罪の意識も消えています。
うぬぼれも利己的な執着心もありません。
自分を哀れむこともなくなります。
自分で自分を笑えるようになり、
人生が愉快に思えています』

これらすべてのことが、
自由(モクシャ)の意味には含まれています。

感情の束縛から解放されずにいると、
エゴがスピリチュアルな体験に影を投げかけて、
最高の意思を果たす邪魔をします。

感情的な束縛から解放されると、
心理的にもスピリチュアルにも自由が獲得できます。」(83頁〜84頁)

人生の究極の目標は、

『解脱(モクシャ)』

です。

すなわち、

『悟りを開くこと』

です。

悟りを開いて、

『安心立命』

『涅槃寂静』

の境地に到達しましょう!



行こう

行こう

覚者の国へ

悟りを開いて

皆んなで一緒に行こう

悟りあれ

幸いあれ


(参考図書)
『わかりやすい仏教用語辞典』
(大法輪編集部編 大法輪閣)

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『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)

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2024年11月10日

【魂の成長】

【魂の成長】

私たちは、

時々、スピリチュアルな経験をする人間ではなくて、

時々、人間の経験をするスピリチュアルな存在です。

これが、正当な自己認識です。

私たちは、

不滅の意識体(魂・スピリット)です。

何度も生まれ変わって、

魂を進化・向上させています。

だから、

人生は、

『魂の成長がすべて』

と言っても過言ではありません。

要するに、

自己意識をどこまでも高めればいいんです。

『自己意識の進化と向上がすべて』

です。

なぜなら、

意識のみが宇宙の唯一の実在だからです。

仏教でいうところの『唯識』です。

『百尺竿頭一歩を進む』

『青は藍より出でて藍より青し』

(参考図書)
『魂の導き 本当のあなたが目覚めると、思いがスイスイ実現する!』
(著者 越智啓子 徳間書店)

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2024年11月09日

【左脳→右脳→全脳】

【左脳→右脳→全脳】

世の中に、

左脳(理性)が優れている人は沢山います。

しかし、

右脳(感性)が優れている人は少ない。

ましてや、

理性と感性の両方優れている人は、

ほとんどいません。

人間は、

理性と感性の両方が大切です。

つまり、

『全脳』です。

これについて、

『全脳力』(著者 七田眞 サンマーク出版)

の中に、こう書いてあります。

「人間には右脳と左脳という、
違った役割を果たすための脳があります。

しかし、
現代社会のシステムは、
偏った脳の使い方を強いるよう作られてしまいました。

現代社会における価値観は、
お金や成績など、
数値化できるものが中心になっています。

これは、
言い換えると “左脳の価値観” です。

しかし、
人間本来の幸せとは、
決して数値化できない “右脳の価値観” にあるのです。

だからと言って、
決して “左脳の価値観” が悪いわけではありません。

要はバランスをとることが重要なのです。

よく考えてみてください。

人間には本来、
左脳と右脳が同じ大きさで存在しています。

それなのに、
左脳だけを中心に使うのは、
非常に偏った使い方です。

学校では、
成績が重要視され、
その成績を上げるために要求される左脳的能力が重要視されています。

社会でも、
お金や会社の業績など、
ここでも左脳的思考を中心に、
すべての物事が決められています。

人間の身体には、
無駄なものなど何一つありません。

左右の脳が同じ大きさで存在しているのにも、
大きな理由があるのです。

人間が本来持っている能力を発揮するには、
“脳のバランス” をとることが、
最も大切です。

そのためには、
左脳を活かすために右脳を使い、
右脳を活かすために左脳を使うという、
全脳的な考え方や使い方への変革が必要になるのです。

全脳への変革を果たすことで、
人は誰でも本来持っている、
天から与えられた、
すばらしい才能を開花させることができるのです。」(2頁〜3頁)

理性だけではなく、

感性も磨きましょう。

左脳と右脳のバランスと調和が肝心です。

左脳人間から全脳人間へ進化しましょう。

私たちは、

幼い頃から科学教育を受けているので、

理知的・論理的に物事を考えます。

反面、

科学的に証明できない物事には懐疑的です。

しかし、

実は科学で解明できないことの中に、

真実があります。

たとえば、

良心や博愛といった幽玄微妙なものは、

科学で証明することはできませんが、

その存在を否定する人はいないでしょ?

感性を磨き、

直感力を身につけましょう。

『センス・オブ・ワンダー(大自然の不思議を感じ取る能力)』

が大事です。

『センス・オブ・ワンダー』を磨くためには、

大自然に親しむことが何よりです。

頻繁に、

自然に親しみましょう。

理性と感性のさらに上があります。

それは、

霊性です。

換言すれば、

インスピレーション(霊感)・直観力です。

直観を磨き、

霊性意識を煥発するためには、

何より瞑想が必須です。

瞑想を日課とし、

霊性心(スピリチュアリティ)を発現させましょう!

(推薦図書)
『全脳力』
(著者 七田眞 サンマーク出版)

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『センス・オブ・ワンダー』
(著者 レイチェル・カーソン 上遠恵子 新潮社)

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2024年11月08日

【輪廻とは?】

【輪廻とは?】

『輪廻』とは何でしょうか?

大辞林に、こう書いてあります。

「生あるものが死後、迷いの世界である三界・六道を次の世に向けて生と死とを繰り返すこと。
インド思想に広くみられる考えで、
仏教の基本的な概念。」

明鏡国語辞典には、こう書いてあります。

「回転する車輪がきわまりないように、衆生(しゅじょう)が死後、迷妄の世界である三界・六道の間で生死を繰り返すこと。
インドでカルマ(業)の思想とともに発達した考えで、仏教の基本概念。」

現代社会+政治・経済用語集には、こう書いてあります。

「生ける者は何度も何度も生死をくり返すというのが輪廻の思想。

ウパニシャッドでは、
生前に森林で敬虔(けいけん)な苦行を行い、
梵我一如の真理を得た者はこの輪廻から開放され、
永遠に神の道に安住することができると説かれている。

輪廻からの解放を解脱(げだつ)といい、
人が死後生死をくり返すか、
輪廻から解脱するかは、
生前における行為すなわち業(カルマ)によって決まるとされる。」

倫理用語集には、こう書いてあります。

「インド思想にひろく見られる、生きとし生ける者はみな、死後も別の生に生まれ変わり(転生(てんしょう))、
永遠に生死を繰り返すという思想。

回る車輪のように生死を繰り返し続けることから、輪廻(りんね)(サンサーラ)とよばれる。

バラモン教で説かれ、ジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教などのちの諸宗教に継承された。

生前の行為の積み重なりを業(ごう)(カルマ)といい、
この業が因(原因)となって、
その果(結果)として、
次にどのような生に生まれ変わるかが決定されると考えられた。

生前に善業を行った者は人間や神(天)に生まれかわり、
悪業を行った者は、より下等な動物に生まれかわるとされた。

最終的には、
この苦に満ちた輪廻から解放されること、
すなわち解脱(げだつ)が目指され、
ウパニシャッド哲学や仏教などでそれぞれにその方法が模索された。」


輪廻転生を信じましょう。

なぜなら、

人生が変わるからです。

『輪廻転生を信じると人生が変わる』(著者 山川紘矢 角川文庫)

の中に、こう書いてあります。

「『ほくが今生、日本に生まれてきた理由は、
【人は死なない、永遠の存在だ】
【輪廻転生がある】
ということを人々に伝えるためだ。
それが自分の使命だ』
と知ったときは衝撃でした。

その直感がきたのは、
ぼくが東京に戻って大蔵省の関税局の課長をしていた1985年のことです。

すでに『アウト・オン・ア・リム』の翻訳は終わっていました。

霞が関からそんなに遠くないアメリカ大使館の近くを歩いていたとき、
天から直撃を受けたように直感したのでした。

あまりに衝撃が強かったので、
そのとき、自分が歩いていた場所のこと、
自分の狼狽ぶりまでを鮮やかに覚えています。

輪廻転生があるということを人々に伝えるのは、危険なことでした。

『嫌だ!そんなことをしたら、みんなから笑われる。
友人を失ってしまう。
信頼も何もかも――』
と狼狽しました。

その後、
それは本当になりました。

友人たちから笑われ、
しかも仕事まで辞めることになったのです。

ぼくの人生もまた、
『アウト・オン・ア・リム』
だったのです。

あれから25年がたちます。

今、大きな安堵のため息とともに、
『あのとき、すでに大変な人生が始まっていたのだなあ』
と、自分の人生に起こった不思議な物語を思い返します。

まるで、
すべてが仕組まれてした夢の物語のようです。

天啓のような直感がぼくを直撃したあと、
ぼくの人生はすごいスピードで変わっていきました。

見えない世界から精霊が出てきて、
大変なことになってしまったのです。」

精神世界の巨匠である山川紘矢さんの著書を読むことにより、

人生が変わります。

まずは、

この本、

『輪廻転生を信じれば人生が変わる』(角川文庫)

を読んでみませんか?

おすすめの本です。

(推薦図書)
『輪廻転生を信じれば人生が変わる』
(著書 山川紘矢 角川文庫)

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2024年11月07日

【哲理を理解する】

【哲理を理解する】

私たちは、

物理法則・精神法則といった摂理の中で生きています。

だから、

『法』を理解することが肝心です。

『心の法則』

『スピリチュアル法則』

を学びましょう。

仏法を学んだり、

哲学を学んだり、

自己啓発書を読んだりして、

哲理(人生や世界の本質にかかわる深い道理)をきわめましょう!

(推薦図書)
『富と宇宙と心の法則』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク出版)

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原題
“The Seven Spiritual Lows of Success”
邦題
『富と成功をもたらす7つの法則』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 渡邊愛子 角川文庫)

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