『解脱』とは何でしょうか?
大辞林に、こう書いてあります。
「煩悩の束縛から解放されて、安らかで自由な悟りの境地に達すること。
悟ること。涅槃(ねはん)。」
明鏡国語辞典には、こう書いてあります。
「この世の迷いや苦しみからのがれ、安らかで自由な境地に達すること。」
ブリタニカ国際大百科事典には、こう書いてあります。
「人間生活に伴うあらゆる苦悩や迷妄の束縛から開放されて、
完全に自由になることをいう。
もともとはウパニシャッドで説かれ、
インド哲学一般に継承されている観念であるが、
仏教では涅槃(ねはん)とともに究極の目標と考えられている。
『中阿含経(ちゅうあごんきょう)』で釈尊は
『あらゆる事象に執着せず、
すべてを捨て、
解脱したと思い込み、
みずから生存している身でありながら、
世間における痛苦や生存に伴う老・病・死、
そこから起る憂い・悲しみ・喜・怒・哀・楽などから離れるとともに、
さらに安らぎのある世界(安穏涅槃)を求めてそれを体得すれば、
そこにおいて自分は確かに解脱したのである』
と語っている。」
山川 世界史小辞典には、こう書いてあります。
「『あらゆる束縛とか苦悩や罪垢(ざいく)から解放された自由な境地』を意味する。
サンスクリット語の漢訳。
インドにおいて、
古くからカーマ(kama,愛欲)、
アルタ(artha,実利)、
ダルマ(dharma,法)と並んで人生において達成をめざすべき四大目的の一つとされ、
諸宗教、哲学諸派のいずれにおいても究極的到達の目標とされていた。
仏教においては、
煩悩(ぼんのう)の束縛から脱して迷いの苦しみから離れることが達成された、
修行実践の極致の境地の意味に用いられ、
涅槃(ねはん)の同義とされる。」
倫理用語集には、こう書いてあります。
「苦に満ちた輪廻(りんね)から解放され、
永遠の生命と安らぎを得ること。
インドの諸宗教の共通目標であり、
それぞれに解脱への方法が提示された。
ウパニシャッド哲学では、
梵我一如(ぼんがいちにょ)の真理を体得することで解脱が可能になるとされたが、
仏教では逆にブラフマンやアートマンを実体としてとらえることが煩悩(ぼんのう)、苦の原因であるとして、
無我を悟り煩悩を捨てることが解脱にいたる道とされた。
とはいえ、
輪廻と業(ごう)の世界観の上に立って、
悟りを開き解脱をめざすという点では両者は一致しており、
それはジャイナ教やヒンドゥー教にも共通する見解である。」
『わかりやすい仏教用語辞典』(大法輪閣)には、こう書いてあります。
「われわれ人間は、
仏教においてさまざまな名で呼ばれるが、
その一つに『凡夫』というのがある。
これは新しい訳語であって、
古くは『異生』といった。
個々バラバラに生まれ、
かつ死ぬもの、
ということである。
いかなる貴人も天才も、
この運命の外に立つことはできない。
『異生』は、
その為してきた『業』にひきずられて、
その一生にさまざまな業の報い(業報)を受ける。
人の一生は、
業の因と果との連続であるといえる。
ここにおいて一つの問題が生ずる。
それは、
業をなす人間が、
生存中に、すべてその果報を受けおわることはできないということである。
生前の善業にもかかわらず、
今生において、
ついにその善き果報を受けえなかったひともあるし、
また、その逆もある。
このところから、
業の因果を否定(撥無)する無因無果の思想もまた出てくるのである。
ここに業の思想はどうしても、
時間軸との関係において考えられなくてはならなくなる。
すなわち、
過去世・現在世・未来世という三世にわたって、
業の因果はめぐりめぐって尽きることがない、
という考え方がそれである。
この業の因果がめぐりめぐって、
人がその輪の中から抜け出られない、
という事実を『輪廻』という。
この『輪廻』から抜け出すことが『解脱』である。
これによって知られるように、
『解脱』の思想は『輪廻』の思想のあるところには必ずある。
決して仏教だけに限っていわれることではない。
たとえば、
ウパニシャッドの中にも『解脱』のことばを用いた哲人はいたし、
仏教に先立つ自由思想家、
例えば『六十大外道』の人々の中にも『解脱』と、
その理想境を表現したひとはいた。
仏教も、
このインド人の間で伝統的な、
『業』の『輪廻』と、
それからの『解脱』を考え出したのであった。
しかし、
このことは、
仏教の『解脱』に、
いささかの特色もない、
ということではない。
仏教の特色は、
まず、すべての人に、
仏となる可能性をみとめ、
そのための修行の方法を人によって細かく分けて説き、
その上で、
身体(身)と言葉(口)と心(意)の三つの業を浄めて修行に専念するところにある。
こうして『我もさとり、他も覚らせる』(自覚覚他)教えである以上、
真の『解脱』は、
当然、『仏に成ること』、
すなわち『成仏』でなくてはならない。
『成仏』はまた『涅槃』ともいう。
『涅槃』とは、
煩悩を断滅させ、
寂静のさとりの境地に渡ることをいうのであるから(滅度)、
当然、『解脱』をもその過程に含み、
それが不動のものとなった境地をいう。」
『解脱』は、
サンスクリット語で『モクシャ』といいます。
『モクシャ』について、
『ゆだねるということ(下)』(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)
の中に、こう書いてあります。
「『moksha:モクシャ』とは『自由(束縛のない状態)』という意味です。
このスートラがあなたの内面に鳴り響くようになれば、
こう宣言したことと同じになります。
『わたしは感情的な束縛から解放されています。
わたしの魂はメロドラマから自由になります。
憤り、不平、敵意、罪の意識も消えています。
うぬぼれも利己的な執着心もありません。
自分を哀れむこともなくなります。
自分で自分を笑えるようになり、
人生が愉快に思えています』
これらすべてのことが、
自由(モクシャ)の意味には含まれています。
感情の束縛から解放されずにいると、
エゴがスピリチュアルな体験に影を投げかけて、
最高の意思を果たす邪魔をします。
感情的な束縛から解放されると、
心理的にもスピリチュアルにも自由が獲得できます。」(83頁〜84頁)
人生の究極の目標は、
『解脱(モクシャ)』
です。
すなわち、
『悟りを開くこと』
です。
悟りを開いて、
『安心立命』
『涅槃寂静』
の境地に到達しましょう️
行こう
行こう
覚者の国へ
悟りを開いて
皆んなで一緒に行こう
悟りあれ
幸いあれ
(参考図書)
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『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)
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