2020年03月31日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 新居宿〜舞阪宿)
新居宿から舞阪宿へ向かいます。江戸時代は、渡し船で一里の距離でしたが、現在は、陸路で約6.6Kmの道のりになります。
舞阪宿の、西の入り口は北雁木常夜燈辺りかとおもわれます。
新居宿と舞阪宿の間には、西浜名橋、中浜名橋、弁天神社、が有ります。
西浜名橋、中浜名橋、弁天橋は浜名湖を渡る橋です。浜名湖は元々、淡水湖で、新居と舞阪も陸続きで、海面より湖面が高く海水が流れ込むことは有りませんでした。しかし、明応地震の地盤沈下で、海水が流れ込むようになり、宝永地震の津波などで、湖と海を隔てていた陸地が決壊し汽水湖となりました。決壊した場所を今切と呼ばれるようになったとの事です。江戸時代以前は渡し船で、渡っており今切の渡しと言われていました。現在は三つの橋によって陸路で行き来出来るようになっています。
新居宿を出て、国道203号をしばらく進むと西浜名橋、を渡ることになります。西浜名橋から少し進み中浜名橋を渡ると弁天神社に差し掛かります。
弁天島にある弁天神社ですが、昔弁天島は砂洲が続き天橋立の様な景色だったそうで、その美しさに誘われ天女が舞い降りたという天女伝説が残っている処です。橋立の丹後地方にも天女伝説が有りますが、丹後地方の話が元になっているのでしょうか?宝永地震の跡ここに弁天神社が建立されたとの事です。境内には正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑も有ります。弁天神社の先には弁天橋が有り、渡ると間もなく、舞阪宿に入ります。
舞阪宿は、江戸から30番目の宿場で、今切の渡しが控える宿場と言う事から新居宿同様、重要視されていました。
舞阪宿の中には、北雁木跡、本雁木跡、南雁木跡、西町常夜燈、旧脇本陣茗荷屋、舞阪本陣跡、仲町常夜燈、舞阪一里塚、新町秋葉常夜燈、見附石垣など、沢山の史跡が有ります。
弁天橋を渡り間もなく、北雁木跡があります。雁木(がんぎ、地元ではがんげ)とは階段状の船着き場を言うそうです。北雁木では、大名や幕府公用役人が使っていました。近くには北雁木常夜燈も有ります。復元されているのは、この北雁木だけとの事です。
北雁木の先に、本雁木跡と本雁木常夜燈が有ります。本雁木では、一般の武家や庶民が使用していたという事です。
街道を離れ南に行くと、南雁木です、ここは荷物用ですが庶民も利用していた様です。
街道に戻ると西町常夜燈に差し掛かります。この常夜燈は文化年間舞阪宿に大火事が有り、その復興を願って建てられたものだそうです。
その先に、旧脇本陣茗荷屋がります。脇本陣茗荷屋の建物は天保年間に建てられたものを修復・復元したもので、現在一般公開されているそうです。その向かいには本陣跡の碑が立っています。
脇本陣、本陣、を過ぎて少し行くと仲町常夜燈が、その先にも新町秋葉常夜燈が有ります。舞阪宿には結構常夜燈があります、文化年間の大火事で火防せ、や秋葉信仰が高まり常夜燈が設けられたという事です。秋葉常夜燈の側には舞阪一里塚とその碑もあります。
秋葉常夜燈を過ぎると見付石垣に差し掛かります。どうやら、此処が東の入り口の様です。
さて、舞阪宿で頂かなければならない物は?やはり、鰻となりますが、舞阪は漁師街でもあります。冬の牡蠣や、秋の真鯛、活きた車海老をそのまま揚げた「活き車海老天丼」などがおすすめだそうです。
この先は、浜松宿になります。道のりは二里三十丁(約12.1Km)になります。
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