2021年02月16日
意外と正確悪いらしいね。。。
青木さやかさんの好評連載「47歳、おんな、今日のところは『……』として」ーー。青木さんが、47歳の今だからこそ綴れるエッセイは、母との関係についてふれた「大嫌いだった母が遺した、手紙の中身」、ギャンブル依存の頃を赤裸々に告白した「パチンコがやめられない。借金がかさんだ日々」が話題になりました。第12回は「自分を愛せないわたしは、娘を大切にするのが難しい」です。
◆冬休みっていつまでだっけ?
「冬休みって、いつまでかわかりますか?」
12月のある日、出演中の舞台、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターの楽屋で、娘の同級生のママのみほちゃんに電話した。
「始業式、知らない人いたんだ!」
「あ、みほちゃん知ってた?」
「ちょっと〜」
ママ友は笑って、冬休みがいつからいつまでで、ついでに宿題はこんな感じで、ついでにコロナ対策として学校はこうなっているから、ということまで教えてくれた。
「さすが、みほちゃん」
「はは。褒めてくれてありがとう」
「すごいねえ」
「ほとんどの人、知ってるから!」
「あ、そうでしたか」
わたしのだらしなさは、ママ友たちはわかっていて、時に注意を挟みながらも惜しみなく情報を教えてくれる。
「いま、パブリックシアターだよね?」
「すごい、わたしの仕事まで。いよいよすごいわ」
「聞いたよ!『ママ、舞台やる』って。この前バス停で会ったとき」
娘は、わたしの仕事を友だちのママに自慢するみたいだ。わたしには言わないけれど。
「バス停で会ったとき思ったけど背、伸びたよね〜」
「うん」
「もうさ、女子だね。男の子は子どもっぽいよ」
「可愛いじゃない」
「ママを守る隊だって言ってるし」
「わぁ、最高。彼女できたら大変だ」
「厳しく見るよ、私は! 彼女を!」
「わぁ、もしうちの子が彼女になったら、わたし、みほちゃんに口聞いてもらえないわ!」
そうかもよ〜なんて笑って電話を切った。
◆選んでいない人間関係
娘が幼稚園に入る時には、すでにうちは娘と2人暮らしだった。娘のパパや、パパ方の親戚、わたしの実家など、頼るところはあるが、今日明日を助けてくれるのは、やはりママ友たちだった。
たまたま同じ時期に母になり、たまたま同じ地域に住み、たまたま同じ学校で出会った。娘を中心に知り合っている人たちなので、突き詰めれば、わたしの意志ではない部分で知り合っている人たちでもある。
メディアから流れてくる「ママ友」というものは、わたしに、あまりいい印象を与えなかった。おそろしい世界が広がっているのかもしれない、と思った。
もちろん育ってきた環境も仕事も年齢も違う。わたしが選んだ友人ではない。だから、一つの問題が起きたときの捉え方や対処の仕方はそれぞれで、度肝を抜かれることもあった。わたしとは違うな、と思うこともあった。
だけど、子どもを育てていく過程で、わたしは学んだ。
「個性」「自己肯定」「共生」
幼稚園や学校で、そして娘の同級生と接することで実感した。わたし自身、みんな違ってみんないい、ということを学び、生き直しているような貴重な時間だった。
親になって気づいたことがある。自分を大切にしていないわたしには、自分の一番大切な娘を、大切にすることがとても難しいのだ。
わたしは、わたしを、いつも傷つける。
娘を愛して受け入れるには、まずは自分自身を愛して受け入れるのが先だと気づいた。そこに気づけたのは、そして、それにチャレンジしようと思えたのは、ママ友という存在が大きい。悩みを吐露する相手というよりは、同志のように、自分と子どもと心と、いろんなものと向き合っている姿をみせてくれた。
たまたま知り合ったママ友たちは、誰だって初めての経験をしている母親として、もがいて笑って泣いて立ち上がる姿をみせてくれた。3人目の子のママともなると、「猛者」のようで、腹が据わっている風格さえ漂った。まわりにさまざまな同志がいることは、勇気になった。
みんな、色々、あるわけで。多分。
多くを語ってきたわけではない。だから想像に過ぎないけど。
娘に「みんなそれぞれだからね」と伝えていきたいわたしが、誰かを否定する生き方は、もうしたくないなと思う。たとえ自分と考え方が違っても。たとえ、自分を否定されたとしても。
◆みんな違ってみんないい
「ママ、冬休みの日にちわかった?」
「みほちゃんに聞きました」
「みほちゃんは間違いないから、大丈夫だね」
この10歳は、何様なんだろう。
「ママ、今週スケートいくから」
「決定ですか?」
「決定」
「ちょっと待ってよ」
「決めてきたから、学校で」
「ちょっと待ってよ、ママ忙しいから、わからない、予定、いま」
「舞台終わったら、どっか連れてくって言ってた」
「言ってたね」
「おつかれさまでした」
「はい、ありがとうございます」
「舞台よかった!」
「嬉しい、どこが?」
「瀬戸康史くんが、かっこよすぎた!」
「そうだよね」
「スケートね」
「ママの感想は?」
「スケート行ったとき教える」
こうしてくれたら、こうしてあげる。
この良くない癖は、わたしの口癖だったかもなぁ、と反省。
「スケートいつにするかってLINEして。ママ、すぐ忘れるから」
友だちのママにLINEをしろと急かされる。
「いつもありがとうって言うんだよ、ママ」
「なに、わかってるよ」
「私たちをいつも助けてくれるんだから」
「知っていますから」
「しっかりしてね」
何様だろう。
確かにわたしに何かの情報を聞いてくるママ友は、1人もいない。
「みんな違ってみんないい」
いやいや。だらしないわたしに付き合ってくれるママ友に、足を向けて眠れません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fac321c290ae853bb0aacb6f24e25d543f284f2d?page=3
わからないけど、娘を大切にするのが難しいって感じている時点で結構大切にできているんじゃないかなぁと想像します。
よく知らないけど、大丈夫じゃないかな。
親がだらしないくらいの方が子供はしっかりするし、実際しっかりしてるし。
もうあんまり親や自分を責めなくてもいいんじゃないかなあ。
親の足りない部分を子供が
カバーしてくれる。
2人家族だからこそだね。
みんな違ってみんないい。
ほんとその通り!
そして子供はよく見てる!
青木さんの「だらしなさ」をご自身もママ友たちも理解してサポートしてくれるのですから、恵まれてると思いますよ。
子育ての悩みや大変さや楽しさを、1人で抱え込んでしまわないことが大切だと思います。
私も毒親育ちだったので反面教師にして育児しています。
親に否定された記憶ばかりで褒められた記憶がないので、自分をほんの少しも好きになれないまま育ちましたね。
だけど子どもはお腹にいた頃から自然と愛せました。自分を好きでいてくれる子どものお陰で少しずつ自信がつけれていっています。
これからも子どもへ恩返ししながら大切に育てていきます。
時々この方の記事に出会い、いつも文章の上手さに引き込まれ、不器用だけどなんか人間らしい思いに感動する。
今回も最後まで読んだらなんでかなー、泣きそうになりました。私にも子供はいるけど、きっと考え方や今までの生き方も違う。でもなんか感動する。
さやかさんは、アダルトチルドレンだったわけですよね。家庭内でお母さんに甘える事無く、自己肯定感が低く育ってしまわれた。でもご自分で自覚がお有りで、この時点で回復に向かわれお子さんに対しても、健全に接しようと努力しておられる。今の世の中、この様な親御さんは非常に多い。かくいう私もアダルトチルドレンで、臨床心理士のカウンセラーを受けました。その先生が仰るには、子どもというものは、生まれて普通に育つだけで、親孝行を完結させているそうです。子供は親の所有物では無い、
子育てとは、子供だけでは無く、親も育てていくものだとつくづく思いました。
自分でそう思ってたり
自覚があるから大丈夫だと思う。
自分はちゃんと出来てる
娘が大事で可愛くてずっと一緒!とか過剰な感じよりお互いよさそうだし
娘さんともママ友ともいい関係築けてそうだし。
周りの人がカバーしてくれるってことは
青木さんだらしない以外はちゃんとした人なんじゃないかなと
そうじゃなきゃ、面倒みようとも思わないもんね。
そのお宅のその人たちの良い関係でいいんじゃないかな。
あまりにも完璧なママよりは、ぬけているママの方がきっとみんな付き合いやすいと思いますよ。人生全般にそうですか、子育てしてる時も楽しい時も嫌になる時も誰だってあります。子供がかわいくてたまらない時も憎たらしくてたまらない時もあります。みんなそうだから。しとかりとした娘さんに育っていて素晴らしいと思います!
これ読んでて、
青木さんとわたしってにてるなって思いました。すごくよくわかるから。
でも、決定的に違ってるのは、
青木さんにはママ友がいること。
友達がいるなら大丈夫です。
私は仲良しのママ友なんていないから、
学校で何が起きてるのかも、全く知りません。
ママ友付き合いは大変なので、いないことを寂しいとは思わないけど、
学校で何かが起きてるのに知らないというのは、ちょっとマイナスかなと思います。
もちろん、重要なことは学校から連絡ありますが、そこまでじゃないけど、他のみんなは当然知ってるようなことです。
子供もにたようなタイプなので、子供からの情報も入りません。
ま、なんとかなってるからいいけど。
この文章の主旨からは外れてますね、、
◆冬休みっていつまでだっけ?
「冬休みって、いつまでかわかりますか?」
12月のある日、出演中の舞台、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターの楽屋で、娘の同級生のママのみほちゃんに電話した。
「始業式、知らない人いたんだ!」
「あ、みほちゃん知ってた?」
「ちょっと〜」
ママ友は笑って、冬休みがいつからいつまでで、ついでに宿題はこんな感じで、ついでにコロナ対策として学校はこうなっているから、ということまで教えてくれた。
「さすが、みほちゃん」
「はは。褒めてくれてありがとう」
「すごいねえ」
「ほとんどの人、知ってるから!」
「あ、そうでしたか」
わたしのだらしなさは、ママ友たちはわかっていて、時に注意を挟みながらも惜しみなく情報を教えてくれる。
「いま、パブリックシアターだよね?」
「すごい、わたしの仕事まで。いよいよすごいわ」
「聞いたよ!『ママ、舞台やる』って。この前バス停で会ったとき」
娘は、わたしの仕事を友だちのママに自慢するみたいだ。わたしには言わないけれど。
「バス停で会ったとき思ったけど背、伸びたよね〜」
「うん」
「もうさ、女子だね。男の子は子どもっぽいよ」
「可愛いじゃない」
「ママを守る隊だって言ってるし」
「わぁ、最高。彼女できたら大変だ」
「厳しく見るよ、私は! 彼女を!」
「わぁ、もしうちの子が彼女になったら、わたし、みほちゃんに口聞いてもらえないわ!」
そうかもよ〜なんて笑って電話を切った。
◆選んでいない人間関係
娘が幼稚園に入る時には、すでにうちは娘と2人暮らしだった。娘のパパや、パパ方の親戚、わたしの実家など、頼るところはあるが、今日明日を助けてくれるのは、やはりママ友たちだった。
たまたま同じ時期に母になり、たまたま同じ地域に住み、たまたま同じ学校で出会った。娘を中心に知り合っている人たちなので、突き詰めれば、わたしの意志ではない部分で知り合っている人たちでもある。
メディアから流れてくる「ママ友」というものは、わたしに、あまりいい印象を与えなかった。おそろしい世界が広がっているのかもしれない、と思った。
もちろん育ってきた環境も仕事も年齢も違う。わたしが選んだ友人ではない。だから、一つの問題が起きたときの捉え方や対処の仕方はそれぞれで、度肝を抜かれることもあった。わたしとは違うな、と思うこともあった。
だけど、子どもを育てていく過程で、わたしは学んだ。
「個性」「自己肯定」「共生」
幼稚園や学校で、そして娘の同級生と接することで実感した。わたし自身、みんな違ってみんないい、ということを学び、生き直しているような貴重な時間だった。
親になって気づいたことがある。自分を大切にしていないわたしには、自分の一番大切な娘を、大切にすることがとても難しいのだ。
わたしは、わたしを、いつも傷つける。
娘を愛して受け入れるには、まずは自分自身を愛して受け入れるのが先だと気づいた。そこに気づけたのは、そして、それにチャレンジしようと思えたのは、ママ友という存在が大きい。悩みを吐露する相手というよりは、同志のように、自分と子どもと心と、いろんなものと向き合っている姿をみせてくれた。
たまたま知り合ったママ友たちは、誰だって初めての経験をしている母親として、もがいて笑って泣いて立ち上がる姿をみせてくれた。3人目の子のママともなると、「猛者」のようで、腹が据わっている風格さえ漂った。まわりにさまざまな同志がいることは、勇気になった。
みんな、色々、あるわけで。多分。
多くを語ってきたわけではない。だから想像に過ぎないけど。
娘に「みんなそれぞれだからね」と伝えていきたいわたしが、誰かを否定する生き方は、もうしたくないなと思う。たとえ自分と考え方が違っても。たとえ、自分を否定されたとしても。
◆みんな違ってみんないい
「ママ、冬休みの日にちわかった?」
「みほちゃんに聞きました」
「みほちゃんは間違いないから、大丈夫だね」
この10歳は、何様なんだろう。
「ママ、今週スケートいくから」
「決定ですか?」
「決定」
「ちょっと待ってよ」
「決めてきたから、学校で」
「ちょっと待ってよ、ママ忙しいから、わからない、予定、いま」
「舞台終わったら、どっか連れてくって言ってた」
「言ってたね」
「おつかれさまでした」
「はい、ありがとうございます」
「舞台よかった!」
「嬉しい、どこが?」
「瀬戸康史くんが、かっこよすぎた!」
「そうだよね」
「スケートね」
「ママの感想は?」
「スケート行ったとき教える」
こうしてくれたら、こうしてあげる。
この良くない癖は、わたしの口癖だったかもなぁ、と反省。
「スケートいつにするかってLINEして。ママ、すぐ忘れるから」
友だちのママにLINEをしろと急かされる。
「いつもありがとうって言うんだよ、ママ」
「なに、わかってるよ」
「私たちをいつも助けてくれるんだから」
「知っていますから」
「しっかりしてね」
何様だろう。
確かにわたしに何かの情報を聞いてくるママ友は、1人もいない。
「みんな違ってみんないい」
いやいや。だらしないわたしに付き合ってくれるママ友に、足を向けて眠れません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fac321c290ae853bb0aacb6f24e25d543f284f2d?page=3
わからないけど、娘を大切にするのが難しいって感じている時点で結構大切にできているんじゃないかなぁと想像します。
よく知らないけど、大丈夫じゃないかな。
親がだらしないくらいの方が子供はしっかりするし、実際しっかりしてるし。
もうあんまり親や自分を責めなくてもいいんじゃないかなあ。
親の足りない部分を子供が
カバーしてくれる。
2人家族だからこそだね。
みんな違ってみんないい。
ほんとその通り!
そして子供はよく見てる!
青木さんの「だらしなさ」をご自身もママ友たちも理解してサポートしてくれるのですから、恵まれてると思いますよ。
子育ての悩みや大変さや楽しさを、1人で抱え込んでしまわないことが大切だと思います。
私も毒親育ちだったので反面教師にして育児しています。
親に否定された記憶ばかりで褒められた記憶がないので、自分をほんの少しも好きになれないまま育ちましたね。
だけど子どもはお腹にいた頃から自然と愛せました。自分を好きでいてくれる子どものお陰で少しずつ自信がつけれていっています。
これからも子どもへ恩返ししながら大切に育てていきます。
時々この方の記事に出会い、いつも文章の上手さに引き込まれ、不器用だけどなんか人間らしい思いに感動する。
今回も最後まで読んだらなんでかなー、泣きそうになりました。私にも子供はいるけど、きっと考え方や今までの生き方も違う。でもなんか感動する。
さやかさんは、アダルトチルドレンだったわけですよね。家庭内でお母さんに甘える事無く、自己肯定感が低く育ってしまわれた。でもご自分で自覚がお有りで、この時点で回復に向かわれお子さんに対しても、健全に接しようと努力しておられる。今の世の中、この様な親御さんは非常に多い。かくいう私もアダルトチルドレンで、臨床心理士のカウンセラーを受けました。その先生が仰るには、子どもというものは、生まれて普通に育つだけで、親孝行を完結させているそうです。子供は親の所有物では無い、
子育てとは、子供だけでは無く、親も育てていくものだとつくづく思いました。
自分でそう思ってたり
自覚があるから大丈夫だと思う。
自分はちゃんと出来てる
娘が大事で可愛くてずっと一緒!とか過剰な感じよりお互いよさそうだし
娘さんともママ友ともいい関係築けてそうだし。
周りの人がカバーしてくれるってことは
青木さんだらしない以外はちゃんとした人なんじゃないかなと
そうじゃなきゃ、面倒みようとも思わないもんね。
そのお宅のその人たちの良い関係でいいんじゃないかな。
あまりにも完璧なママよりは、ぬけているママの方がきっとみんな付き合いやすいと思いますよ。人生全般にそうですか、子育てしてる時も楽しい時も嫌になる時も誰だってあります。子供がかわいくてたまらない時も憎たらしくてたまらない時もあります。みんなそうだから。しとかりとした娘さんに育っていて素晴らしいと思います!
これ読んでて、
青木さんとわたしってにてるなって思いました。すごくよくわかるから。
でも、決定的に違ってるのは、
青木さんにはママ友がいること。
友達がいるなら大丈夫です。
私は仲良しのママ友なんていないから、
学校で何が起きてるのかも、全く知りません。
ママ友付き合いは大変なので、いないことを寂しいとは思わないけど、
学校で何かが起きてるのに知らないというのは、ちょっとマイナスかなと思います。
もちろん、重要なことは学校から連絡ありますが、そこまでじゃないけど、他のみんなは当然知ってるようなことです。
子供もにたようなタイプなので、子供からの情報も入りません。
ま、なんとかなってるからいいけど。
この文章の主旨からは外れてますね、、
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