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2014年07月10日
小さな歴史。
エルトゥールル号の遭難 〜生命の光から〜
和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。
びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。
台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。
午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。「何か大変なことが起こらなければいいが」
灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。
このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。
ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。
船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。
「あなたのお国はどこですか」
「・・・・・・」
言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。
遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。
一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。
「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」 一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。
このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
次のような後日物語がある。
イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
以上、エルトゥールル号の話は111年前の真実で、16年前のイラン・イラク戦争時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。決して、多くに知られてはいない真実あなたはどう思いましたか?
辛いニュースが多い世の中にほんの少しやさしさを取り戻せる、この『小さな歴史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・
ここまでなら美談で終わるのですが、残念がら話はここで終わりません。
実は、後日談でとても残念な事態が起きます。
時代がさらに下って、平成8(1996)年のことです。
新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンします。 トルコ政府は、これを大いに喜び、日本とトルコの友情のためにと、 柏崎市にトルコ共和国の建国の父ケマル・パシャの像を寄贈してくれます。
実にありがたく、また名誉であり、うれしいことです。 トルコ村は、テーマパークの広場の中心に、高さ5メートルのケマル像を堂々と飾ります。
ところが平成11(1999)年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻します。 トルコ村は資金繰りが悪化。 平成4(2002)年には、柏崎市がトルコ村を買い取るのだけれど、平成6(2004)年には、トルコ村は倒産してしまいます。
心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋市長に伝えます。 ところが、社民党系の会田洋(あいだひろし)市長は再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、 ブルボン(支援を申し出た製菓会社)の計画も無視します。
あげくに、地元のラブホテル業者にテーマパークを払い下げてしまった。 その結果・・・ ここに、柏崎トルコ友好協会が柏崎市長会田洋に出した平成19年10月15日付の 「厳重な抗義と早急な善処についての要望書」と題する書面があります。 原文はPDFで見ることができます。
http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/files/071015_k-turky.pdf
この要望書にもありますが、平成6年のトルコ村倒産以降、平成19年のこの文書提出時点まで、 日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、 「像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態」にあった。
誰が見ても、これは親日的なトルコ政府や、トルコ国民にとって屈辱的行為です。 そこで、柏崎トルコ友好協会は、
(1) 「アタチュルク像」の尊厳を保持出来る条件の場所に速やかに移動せよ。 (2) そのために必要な協議の場を設けよ。 (3) 善処後の結果を在日トルコ大使館並びに当友好協会に文書をもって報告せよ。
と書面をもって問合せを行います。 ところが、この書面を受け取った柏崎市会田市長は、これを握りつぶし、なんの返答もしない。 「柏崎トルコ友好協会」は、平成20年1月にも「放置されたアタチュルク像の対処に関する誠意ある回答についての催告」という書面を送付します。 (クリックするとその書面を読むことができます)。
ところが、この催告書に対しても、会田洋柏崎市長は、まるで無視。
この件では、トルコ大使館も激怒し、 「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、 外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出しています。
これについても、会田市長は議会に知らせることもなく、まったく無視。 ちなみにこの社民党・会田洋市長の愛読書は司馬遼太郎の「坂の上の雲」で、 市長としてのスローガンは<「ガンバロウ!糠け 柏崎>なのだそうです。なにを頑張るんだか・・・・
平成21年になって、柏崎市は、市のHPに、次の記事を掲載します(いまはもう消されています)。
「アタチュルク像の再建に向けて努力しています」 旧柏崎トルコ文化村にあるアタチュルク像ついては、在日トルコ共和国大使館の理解を得て、 平成18年に土地及び他の物件と共に民間会社に売却したものです。
会社も利用計画の中でこの像の活用を意図し、実際にその用途に供しておりました。 残念ながら新潟県中越沖地震で被害を受けたため取り外し、施設内で保管されているものであります。
市としては、会社から無償譲渡してもらい、しかるべき場所へ建立をするべく会社側と交渉をしているところですが、 他の案件で裁判になっていることからなかなか折り合えない状況となっております。 このことは、在日トルコ共和国大使館及び外務省に対して経過を説明し理解をいただいているところであります。
今後もしかるべき場所への再建をめざし、引き続き粘り強く会社側と交渉を続けてまいります。 また、必要に応じて在日トルコ共和国大使館や外務省と連絡を取りながら進めてまいりたいと考えております。 (2009年2月20日(金曜日) 9時3分)
トルコ大使館の激怒が「在日トルコ共和国大使館の理解を得て」?! 像を倒したままにして粗末なブルーシートで覆うことが、「施設内で保管」?!
うまいこと言いかえるものです。 まるでどこかの国のプロパガンタです。
ちなみに「ケマル・アタテュルク像」の寄贈に際し、ケマル・アタテュルクは本来トルコ建国の父であり、 トルコの人々は、彼の凛とした軍装を好むけれど、トルコ大使館は、武装を嫌う日本に最大限に配慮して、 非軍服姿の像を寄贈してくれている。 非軍服姿の「ケマル・アタテュルク像」というのは、それだけでもものすごく貴重な像なのです。
結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、今年3月18日、 東京のお台場「船の科学館」に移設されて修復するとともに一般公開され、今年5月中旬、 修復終了とともに、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されることになりました。 (日本財団=財団法人日本船舶振興会、会長笹川陽平氏。笹川良一氏の三男)
とりあえずは、ほっと一安心です。
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それは誰が決めるのか
強い者と 戦う時は
ただただ ひたすら 自分を信じればいい
弱い者に真実を語る時は 少しだけ気をつけろ
裏目裏目に 愛が転がる
誰かの弱さを ひき上げたいなどど
うぬぼれた己れの 恥を知ったなら
夕暮れが青春を まっさかさまに ずり堕ちて行く前に
事実を どてっ腹で 受けとめろ
長渕 剛 『 JAPAN 』(1991,東芝EMI株式会社)
「JAPAN」(詞・曲:長渕剛)より一部抜粋。
その人のためと思って力になっても,次第に相手の依存度が高くなり、そのうち負担になってもの別れに終わっ てしまう。 逆に、ひどい仕打ちを受けることもある。
その人は実際「弱い者」だったのかもしれない。
けれど,自分は「強い者」だったのだろうか。
「ひき上げたい」と思った時点で、自分の心の位置は、その人の高さにないということに、ひとは気づいていなけ ればいけない。
ところが相手がそのわりに感謝をしない。ろくなお礼も言ってくれない。そんな時,人間はどう思う?
「あんなに世話をしてやったのに...」
「あんなにつくしてやったのに...」と思う。
そしてその後はぐち(愚痴)が出る。
こうなると、世話になった方にも言い分がある。
「少しぐらい世話をしたからといって恩に着せるなら、してくれない方がいい」 なんてことになる。
人間関係がまずくなるのは大体において、この「のに」と「ぐち」
の出る時だ。
相田みつを『にんげんだもの』(文化出版局)より一部抜粋。
人の為 と書いて
いつわり と読むんだねえ
相田みつを『おかげさん』(ダイヤモンド社)より一部抜粋。
ひき上げるだけの強さ、最後まで投げ出さずにつき合う覚悟がない限り、簡単に「人のため」で行動してはいけな い。
あるフリースクールの先生の言葉が強く心に残る。
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ケネディ大統領が尊敬した政治家
■1.Uesugi Yozan, who?■
1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネデ ィは、日本人記者団からこんな質問を受けた。「あなたが、日 本で最も尊敬する政治家はだれですか」
ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」
おそらく日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人は いなかっただろう。鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直し に成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても、 学ぶべき所が多い。戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、 青少年に敬愛されてきた人物である。
彼が詠んだ『成せば成る 成さねば成らぬなにごとも。ならぬは人の成さぬなりけり』 は有名です。
上杉鷹山とは、どのような人物なのだろうか。そしてなぜケ ネディは鷹山を尊敬していたのだろうか。
■2.破綻していた藩財政■
上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二 男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子 となった。
上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康 により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに 3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名 断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされて しまった。
収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲 して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちま ち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半 分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は 11万両と2年分近くに達していた。ちょうど、現代の日本の ような深刻な財政破綻におちいっていた。
収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、 かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少してい た。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる 物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥って いた。
■3.民の父母■
受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母
鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた 歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、 人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底した ものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、 次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代 々の家訓となる。
・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきも のにはこれなく候
・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこ れなく候
・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民に はこれなく候
藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、 「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。 しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民 の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、 [1,p153]
・ 自ら助ける、すなわち「自助」
・ 近隣社会が互いに助け合う「互助」
・ 藩政府が手を貸す「扶助」
■4.武士たちの「自助」と「互助」■
「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的 に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、 紅花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を 作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れ る。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。
鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てるこ とを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあ ったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この 平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、 「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したの である。
やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、 自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。 家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを 覚えた。
米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大 修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せず に、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、 三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。
もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。 橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩 主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋 を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍の くせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武 士たちは作業にうちこんだ。
やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに 集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえ たちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗って は渡れぬ。」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は 言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに 一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践 しはじめたのを何よりも喜んだのである。
■5.農民たちの「自助」と「互助」■
「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単 位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。特に、孤児、 孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。 一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か 村が救援すべきことを定めた。
貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思 いをしていた。そこで鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、 沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉 は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生 き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一 つである。
さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料 理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、 自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70 歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与え た。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増 えていたという。
■6.天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助■
藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われ た。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。 翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落 ち込んだ。
鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。
・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合 5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁 止。
・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ
鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥と した。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助 けた。
全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、 わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。
近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙 台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされて いるが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓 死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、 他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。
江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢 藩出身のものは一人もいなかった、という。
米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として 3度も表彰を受けている。
■7.自助・互助の学校建設■
鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来 にわたって継続されなければならない。そのための人材を育て る学校がぜひ必要だと考えた。しかし、とてもそれだけの資金 はない。
そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募 金を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れて まで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでな く、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、こ れらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、 武士も庶民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自 助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。
■8.アジアのアルカデヤ(桃源郷)■
イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本 を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のよう な印象記を残している。
南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉 場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕し たというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、と うもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、 きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊 かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)で ある。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕 作している人びとの所有するところのものである。・・・・・・ 美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に 囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡し ても豊かで美しい農村である。[4]
イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住 民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知って いたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳か ら55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・ 互助努力だったのである。
美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々 の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人 を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹 山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。
■9.ケネディの問いかけ■
And so my fellow Americans,
Ask not what your country can do for you.
Ask what you can do for your country.
それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。
国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、
あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。
ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節である。国民がみ な国家に頼ろうとしたら、国家はもたない。それは社会主義国 家の失敗や、福祉国家の行詰りで歴史的にも証明されている。 前号で紹介した現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のた めの政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国か らの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまったものだ。
国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それ ぞれ国家のために、お互いのために何かをしよう、という自助 と互助の精神が不可欠である。それがあってこそ、国が成り立 ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。ケネ ディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が、豊かで美し い国造りにつながることを実証した政治家であったからであろ う。
しかし、我が国の戦後教育は、鷹山公をことさら無視してき た。それは「扶助」のみを訴える戦後の社会主義的風潮からは、 「自助・互助」とのバランスをとる鷹山の姿勢は受け入れがた いものがあったからであろう。
財政再建も、また教育や政治の改革も、「自助・互助」の精 神の復活が鍵である。それを教えてくれている人物は、我々自 身の歴史のすぐ手の届くところにいるのである。
Japan On the Globe(130) 国際派日本人養成講座よ
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100人の村のお話
『ある学校の先生が生徒に伝えた話です。』
もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。
その村には・・・
57人のアジア人
21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人
8人のアフリカ人がいます
52人が女性です
48人が男性です
70人が有色人種で
30人が白人
70人がキリスト教以外の人で
30人がキリスト教
89人が異性愛者で
11人が同性愛者
6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍
80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
50人は栄養失調に苦しみ
1人が瀕死の状態にあり
1人はいま、生まれようとしています
1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています
もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、
相手をあるがままに受け入れること、自分と違う人を理解すること、
そして、そういう事実を知るための教育がいかに必要かは火をみるよりあきらかです。
また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。
もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・・
あなたは今生き残ることのできないであろう100万人の人達より恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・・
あなたは世界の5億人の人達より恵まれています。
もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら・・・
あなたは世界の30億人の人達より恵まれています。
もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら・・・
あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれています。
もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら・・・
あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人です。
もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・
それはとても稀なことです。
もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうけるでしょう。
なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて、その上あなたはまったく文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。
昔の人がこう言いました。
わが身から出るものはいずれ我が身に戻り来る、と。
お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。
誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう。
K.Leipold 作 ・ なかのひろみ 訳
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『メイク・ア・ウィッシュ』
「メイク・ア・ウィッシュ」とは難病に苦しむ子供達の夢を実現するボランティア団体です。この活動が始まったのはアメリカで1980年のことです。
クリスという、7歳の男の子がいた。警察官になるのが夢だったが、白血病にかかって、学校にも行けなくなった。クリスの夢を聞いた地元の警察官たちは、クリスのために、ほんものそっくりの小さな制服とヘルメットとバッジを用意した。そして、クリスを名誉警察官に任命した。さっそうと制服に身を包んだクリスは、規則にしたがって宣誓し、駐車違反の取締りをした。ヘリコップターに乗って、空からの監視もした。ミニチュアのバイクもプレゼントしてもらって、大喜びだった。
それからわずか五日後、クリスは亡くなった。 警察は、一日だけでも仲間だったクリスの死を悲しんで、名誉警察官のための葬儀をおこなった。クリスの夢の実現にかかわった人たちは、考えた。ほかにも、夢をもちながら、病気と闘っている子供たちが大勢いる。その子たちの夢もかなえてあげたい。クリスが大喜びしたように、その子たちも、とびっきりの笑顔で生きることの幸せを感じてくれるにちがいない。こうしてメイク・ア・ウィッシュの運動が始まった。
今ではメイク・ア・ウィッシュの事務所はアメリカの80ヶ所を始め世界中に支部がある。日本では1992年に発足し、現在まで200人の子供たちの夢をかなえた。
メイク・ア・ウィッシュ日本事務所が行った活動の一つ「太郎くんは背番号1 」・・・ 太郎君は、もうすぐ一年生というときに、神経芽細胞腫という病気で入院した。 太郎君は病院内にある院内学級「がんばるーむ」に毎朝誰よりも早く出かける。 気分の悪い日だって腕に針を刺したまま、注射のビンをさげたスタンドを押していく。 ぐあいの悪いときだって、酸素吸入の機械を引っぱっていく。
太郎君のお母さんは太郎君になにかワクワクすることをさせてあげたいと考えた。 お母さんがメイク・ア・ウィッシュに連絡すると、おばさんたちが太郎くんの病室にやってきた。「太郎くんの夢は、なーに?、太郎君の夢がかなうお手伝いをするから教えて」 太郎くんはずっと前からこっそり思っていたことを言ってみた。太郎くんはダイエーホークスの秋山選手のファンだった。 「ぼくねーぼく、ダイエーの選手と野球がしたい」お母さんは予想もしていなかった言葉にビックリ。だって、病気の太郎くんは、みんなのように運動ができない。メイク・ア・ウィッシュのおばさんたちは、すぐにダイエーホークスに連絡した。 「ゲーム開始の始球式で太郎くんに投げてもらいましょう。その前に秋山選手とキャッチボールをするのはどうでしょう」話は決まった。
始球式まで1ヵ月ちょっと。病院から許可が出て家に帰れたときは、お父さんとキャッチボールの練習をした。でも、足が痛い。病気がくやしくて涙がでそうになる。ちょっぴり不安になってきた。院内学級「がんばるーむ」の仲間も励ましてくれた。
始球式の日がきた。車でドーム球場のそばのシーホークホテルに向う。ホテルの部屋についたら大きなプレゼントが太郎くんを待っていた。ダイエーホークスのユニホームだ。背番号は1番。王監督のサイン入りのバットを貰った。城島選手のサイン入りのボールも貰った。 でも、始球式までの1時間太郎くんはぐったりしていた。
「時間ですよ」係りの人に案内されてマウンドに出る。下から見上げるドーム球場はとてつもなく大きい。太郎くんと秋山選手のキャッチボールが始まった。足の痛みなんかウソみたいに消えた。秋山選手とツーショットの記念写真も撮った。
「ピッチャー富永太郎くん、背番号1」場内アナウンスが、太郎くんの名前を高らかにつげる。「がんばれよ」秋山選手の声がする。「がんばれよ」「がんばれよ」つぎつぎにダイエーの選手が声をかけてくれる。まるで太郎くんがチームの一員になったみたいに。
マウンドに立ってキャッチャー城島選手のミットをじっと見つめる。大きく振りかぶって投げた。まっすぐ伸びたボールをキャッチャーの城島選手が拾った。試合開始のアナウンスとワーという歓声がマウンドを下りる太郎くんの背中で聞こえる。
やったぞ。体の力がいっぺんに抜けた。夢がかなった、夢を見事にかなえた太郎くんの姿はテレビで放映されインタビューも受けた。
株式会社 騒人社 「夢はいのち」「太郎くんの背番号1」から
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メーク・ア・ウィッシュは企業や個人からの寄付、マラソン大会、コンサート等の独自のイベントからの収益、支援会員の会費、使用済みのプリペイドカードと書き損じのハガキなどの協力から運営資金を得ています。
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ヤンキース松井選手の「人間性とベトナムでの里親」
松井選手のニューヨークでの人気が上昇している。松井の「謙虚」で「礼儀正しい」姿勢や、プレーヤーとして「基本に忠実」なところが注目されニューヨークの地元新聞がこぞって松井選手を褒めちぎり始めた。
6月29日のニューヨークタイムズは「日本のスターだというのに、いつも静かに会釈をしてクラブハウスに入ってくる。普段の生活でも周囲の人を楽しませようとしているようだ」と、松井の礼儀正しさ、謙虚さに焦点を当て分析している。
ニューヨーク・ポスト紙は「松井に見習え」と言う見出しの記事を掲載「松井の才能の秘密は基本練習にある」と伝えた。
日本文化を紹介するニューヨークの非営利団体ジャパンソサエティに5月初め「ニューヨーク・ニューズデー紙」の記者から「コンプレイン(complaint)」は日本語でどういうのかとの問い合わせがあった。職員の佐々玲子さんは「苦情」だと答えた。そして出来上がった記事は「ミスター・ナイス・ガイ」と題され「なぜなら、松井はけっして苦情を言わないからだ。日本語にも“クジョウ”と言うコンプレインを意味する単語があるが、松井には無縁だろう」と指摘されていた。
日本のマスコミは日本人大リーガーを絶えず取り囲みチームメートに煙たがられることもある。「毎日ロッカールームの前が騒々しい。何様のつもりなんだ」と、嫌みを言うチームメートもいる。しかし松井の場合、その人柄のせいでチームメートからの評判も上々だ。チームメートのジーター選手は「松井は常にチームメートに気を使い、皆から好かれている。英語はまだ、あまりうまくないが、積極的にコミュニケーションを取ろうとしている。もうすっかりヤンキースの一員だ」と語る。
松井の専属通訳・カーロン氏も「日本のトッププレーヤーだったのに、決してお高くとまっていない。いい意味でのブルーカラー・タイプのプレーヤーだよ」と松井の人柄を絶賛する。
ニューヨーク総領事の西田さんも「入団発表のとき同席して松井選手は応対が丁寧で思いやりのある人との印象を持ったがニューヨークの人たちからも同じ評価を受けている。地元紙の記者からも好感を持たれている。日米関係は相互刺激が大切と考えるが、松井選手はその意味からも重要な役割を果たしている」と松井選手を高く評価している。
サインを求める子供達に、いつも笑顔で応え、どんなに不振なときでも、イヤな顔ひとつせずインタービューに応えてきた松井の人間性が、ニューヨーカーたちの心を打った。「礼儀正しさのせいで、ゴジラのようには見えないが、彼はやはりモンスターだ」と言う言葉が聞かれる。
また松井選手は隠れた善行を行っている。ベトナムの子供達を里親として支えている。
松井選手の父親、昌夫さんが3年前ベトナムの小学校で野球を教えたのが“里親”のキッカケだった。ベトナムでは優秀で勉強する意欲があっても、貧困など家庭の事情で勉強を断念せざるを得ない子供が多い。松井選手は、そんな状況を父親から聞き、援助を決めた。
松井選手が里親になっている子供たちは現在、中学生4人、高校生6人の計10人。家庭月収は約1,600円から3,200円。松井選手は里子一人に対し、月額13,000円から16,000円を援助。子供達はこの援助で家事や労働をしないで学校に通うことが出来る。そのかわり、成績が落ちたら、翌年は奨学金がストップされる。松井選手の実家には年一度子供たちからお礼の手紙が届く。子供たちは松井選手がプロ野球の選手であることも大リーグで活躍していることも、松井選手の顔、性格も何も知らない。しかし里子たちは海を越えた善意に対し感謝の気持ちを持ち里親の健康、幸運、成功を心から祈っている。
松井選手は6月にはアメリカン・リーグの月間最優秀選手に選ばれ、7月15日シカゴで開催された第74回オールスターにも出場しヒットを打った。このまま快進撃を続け松井選手が2003年の新人王を獲得するよう心から応援しませんか。
参考:サンケイ新聞、サンデー毎日
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2014年07月09日
「ありがとう、ありがとう」
一人のお母さんから、とても大切なことを教えられた経験があります。 そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、知的障害を起こしてしまいました。次に生まれた弟が二歳のときです。 ようやく口がきけるようになったその弟がお兄ちゃんに向かって、こう言いました。
「お兄ちゃんなんてバカじゃないか」
お母さんは、はっとしました。それだけは言ってほしくなかった言葉だったからです。そのとき、お母さんは、いったんは弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。 ―――弟にお兄ちゃんをいたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。
その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。 そして一年たち、二年たち・・・しかし、相変わらず弟は、「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。 お母さんはなんべんも諦めかけ、叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました。しかし、もう少し、もう少し・・・と、根気よくノートをつけ続けました。
弟が幼稚園に入った年の七夕の日、偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。人があまりたくさん来たために興奮したのか、お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。
みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、そういう子であることを知っていましたから、言い出しかねていました。 そのとき、弟が飛び出してきて、お兄ちゃんに向かって言いました。 「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。ぼく、痛いって言わないよ」 お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。
その晩、お母さんはノートに書きました。 「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」 ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。
人間が本当に感動したときの言葉は、こういうものです。
やがて弟は小学校に入学しました。入学式の日、教室で初めて席が決められました。ところが弟の隣に、小児マヒで左腕が不自由な子が座りました。 お母さんの心は動揺しました。家ではお兄ちゃん、学校ではこの友だちでは、幼い子に精神的負担が大きすぎるのではないかと思ったからです。
その夜、ご主人と朝まで相談しました。家を引っ越そうか、弟を転校させようかとまで考えたそうです。 結局、しばらく様子を見てから決めようということになりました。
学校で最初の体育の様子を見てから決めようということになりました。 学校で最初の体育の時間のことです。受持ちの先生は、手の不自由な子が体操着に着替えるのを放っておきました。手伝うのは簡単ですが、それより、一人でやらせたほうがその子のためになると考えたからです。
その子は生まれて初めて、やっと右手だけで体操着に着替えましたが、そのとき、体育の時間はすでに三十分も過ぎていました。 二度目の体育の時間のときも、先生は放っておきました。すると、この前は三十分もかかったのに、この日はわずかな休み時間のあいだにちゃんと着替えて、校庭にみんなと一緒に並んでいたのです。
どうしたのかなと思い、次の体育の時間の前、先生は柱の陰からそっと、その子の様子をうかがいました。 すると、どうでしょう。前の時間が終わるや、あの弟が、まず自分の服を大急ぎで着替えてから、手の不自由な隣の席の子の着替えを手伝いはじめたのです。 手が動かない子に体操着の袖を通してやるのは、お母さんでもけっこうむずかしいものです。それを、小学校に入ったばかりの子が一生懸命手伝ってやって、二人ともちゃんと着替えてから、そろって校庭に駆け出していったのです。
そのとき、先生は、よほどこの弟をほめてやろうと思いましたが、ほめたら、「先生からほめられたからやるんだ」というようになり、かえって自発性をこわす結果になると考え、心を鬼にして黙っていました。 それからもずっと、手の不自由な子が体育の時間に遅れたことはありませんでした。
そして、偶然ながら、また七夕の日の出来事です。授業参観をかねた初めての父母会が開かれました。 それより前、先生は子どもたちに、短冊に願いごとを書かせ、教室に持ち込んだ笹に下げさせておきました。それを、お母さんが集まったところで、先生は一枚一枚、読んでいきました。
「おもちゃがほしい」、「おこづかいをもっとほしい」、「じてんしゃをかってほしい」・・・。 そんないかにも子どもらしい願いごとが続きます。それを先生はずっと読んでいくうちに、こんな言葉に出会いました。
「かみさま、ぼくのとなりの子のうでを、はやくなおしてあげてくださいね」 言うまでもなく、あの弟が書いたものでした。先生はその一途な願いごとを読むと、もう我慢ができなくなって、体育の時間のことを、お母さんたちに話して聞かせました。
小児マヒの子のお母さんは、我が子が教室でどんなに不自由しているだろうと思うと気がひけて、教室に入ることもできず、廊下からそっとなかの様子をうかがっていました。 しかし、先生のその話を聞いたとたん、廊下から教室に飛び込んできて、床に座り込み、この弟の首にしがみつき、涙を流し、頬ずりしながら絶叫しました。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・・」 その声がいつまでも学校中に響きました。
「本当に感動したときの言葉」鈴木 健二 著 講談社文庫より
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プールを歩いて渡った少女
読売新聞の「窓」という欄に掲載されたお話です。 広島市の女子高校生のA子さんは,小児マヒが原因で足が悪い女の子でした。 A子さんが通う高校では、毎年7月のプール解禁日に、クラス対抗百メートル水泳リレー大会をしています。男女二名ずつがそれぞれ25メートル泳ぐ競技です。 A子さんのクラスでこの大会の出場選手を決めていた時、女子一名がどうしても決まりませんでした。
早く帰りたいクラスのボスは「A子はこの三年間、体育祭、水泳大会に一度も出ていない。最後の三年目なんだから、お前が参加しろ」といじわるなことを言い出しました。A子さんは誰かが味方すると思ったけれど、女生徒は何か言えば自分が泳がされると思い、みんな口をつぐんでいます。男子生徒もボスのグループに憎まれたくないから、何も言いませんでした。そして、結局泳げないA子さんが選手になったのです。
彼女は家に帰り、お母さんに泣きながら訴えました。するとお母さんは「お前は来春就職して、その会社で何かできない仕事を言われたら、また泣いて私に相談するの?そしてお母さんがそのたびに会社に行って、うちの子にこんな仕事をさせないでくださいって言いに行くの?」そう言ってすごく怒り、 A子さんを突き放しました。
A子さんは部屋で泣きはらし、25メートルを歩いて渡る決心をし、そのことをお母さんに告げに行きました。するとお母さんは仏間で「A子を強い子に育ててください」と、必死に仏壇に向かって祈っていました。
水泳大会の日、水中を歩くA子さんを見て、まわりから笑い声やひやかしの声が響きました。彼女がやっとプールの中ほどまで進んだその時、一人の男の人が背広を着たままでプールに飛び込み、A子さんの隣のコースを一緒に歩き始めたのです。高校の校長先生でした。「何分かかってもいい、先生が一緒に歩いてあげるから、ゴールまで歩きなさい。恥ずかしいことじゃない、自分の足で歩きなさい」そういって励ましてくれたのです。
一瞬にしてひやかしや笑い声は消え、みんなが声を出して彼女を応援し始めました。長い時間をかけて彼女が25メートルを歩き終わった時、友達も先生も、そしてあのボスのグループもみんな泣いていました。
読売新聞社記者、大谷昭宏氏の話
『夢の卵の孵し方・育てかた』 仲田勝久著、致知出版社より
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世界一の両親
ある女の人が学生の頃に強姦されました。 男性不信になった彼女はずっと男性を避けていましたが、会社勤めをしているうちにそんな彼女に 熱烈にアタックしてくる人がいました。
その男性の優しさや「こんな自分でも愛してくれるんだ」という気持ちから、彼女も彼と交際を始めました。 そして交際を重ねて二年、ずっと清い交際を続けてきた彼が彼女をホテルに誘いました。
彼女は「大好きな人とできるのだから怖くない」と自分に言い聞かせましたが、やはりベッドの上で パニックを起こしてしまったそうです。 その時、彼は彼女が泣きながら切れ切れに語る辛かった過去を辛抱強く穏やかに聞き、最後に 泣き伏してしまった彼女に「ずっと大変な事を一人で抱えてきたんだね」と頭を撫でたそうです。
そして彼女の頭を一晩中撫で続けながら、彼女に語りかけていたそうです。 「これからはずっと俺が守るから。もう怖い思いはさせないから」 「焦る事は無いよ、ゆっくりと分かり合おう」 「君はとてもキレイだよ、ちっとも汚れてなんかいないよ」
「ごめんなさい」と繰り返す彼女に、彼は一晩中優しく語り掛け 「いつか、君が僕との子供が欲しいと思う時まで、心で深く分かり合っていこうよ。 僕が欲しいのは君の体じゃなくて君自身だよ」 と言い、その後彼女と結婚するまでの五年間、おでこにキスくらいまでの清い交際を続けました。
そして結婚してからも焦る事無く、 ようやく初夜を迎えることができたのは結婚後二年経ってからだったそうです。 そして、私と弟が生まれました。
弟が二十歳になるのを待って、母が初めて子供二人に語ってくれた話でした。 その話を聞いたとき、母の苦しみや父の愛情、そしてそれに母がどれだけ癒されたのか、今ここに 自分の生がある事のありがたさを知って、ボロボロと泣きました。
さらにその後、父とその件について話した事があったのですが、ホテルでの一件の後 父は結婚してから母を一人にする事のないように自営業を始めるため、五年間貯金をしたそうです。 開業資金、結婚資金が貯まって、母にプロポーズをした時も「一生子供が作れなくてもいい」 と思っていたそうです。
実際、振り返ってみても父と母はいつも一緒にいた所しか思い出せません。 そんな両親も今はこの世にはいません。 二年前に母がすい臓ガンで、昨年父が脳卒中でこの世を去りました。 母の命日に位牌を抱いたまま冷たくなっていた父を見て、弟と二人号泣しました。
「お父さん、本当にお母さんのことが大好きだったんだね」と大の大人が葬式で わぁわぁ泣きました。 法事まで母を一人にできなくて同じ日に亡くなったんでしょうか。
私たちを叱る時、精一杯厳しくしようとして、出来なくて、目に涙を浮かべながら 一生懸命大きな声を出していた父と、大きくなって「恥ずかしいよ」と文句を言っても 私たちの頭を良く撫でてくれた母。 本当に最高の両親でした。
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いのちをいただく
坂本さんは、食肉加工センターに勤めています。 牛を殺して、お肉にする仕事です。 坂本さんはこの仕事がずっといやでした。
牛を殺す人がいなければ、牛の肉はだれも食べられません。 だから、大切な仕事だということは分かっています。 でも、殺される牛と目が合うたびに、仕事がいやになるのです。 「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事をしていました。
坂本さんの子どもは、小学3年生です。しのぶ君という男の子です。 ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。 これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、 その日は用事があってどうしても行けませんでした。 そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。
いよいよ、参観日がやってきました。 「しのぶは、ちゃんと手を挙げて 発表できるやろうか?」 坂本さんは、期待と少しの心配を抱きながら、小学校の門をくぐりました。 授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。 先生が子どもたち一人一人に「お父さん、お母さんの 仕事を知っていますか?」 「どんな仕事ですか?」と尋ねていました。 しのぶ君の番になりました。
坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事について あまり話したことがありませんでした。 何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、小さい声で言いました。 「肉屋です。普通の肉屋です」 坂本さんは「そうかぁ」とつぶやきました。
坂本さんが家で新聞を読んでいるとしのぶ君が帰ってきました。 「お父さんが仕事ばせんと、みんなが肉ば食べれんとやね」 何で急にそんなことを言い出すのだろうと 坂本さんが不思議に思って聞き返すと、 しのぶ君は学校の帰り際に、担任の先生に呼び止められて こう言われたというのです。
「坂本、何でお父さんの仕事ば普通の肉屋て言うたとや?」 「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことがあるばってん、 血のいっぱいついてからカッコわるかもん…」 「坂本、おまえのお父さんが仕事ばせんと、先生も、坂本も、校長先生も、 会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。 すごか仕事ぞ」
しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に、 「お父さんの仕事はすごかとやね!」と言いました。 その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し仕事を 続けようかなと思いました。
ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが 事務所で休んでいると、一台のトラックが 食肉加工センターの門をくぐってきました。 荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。 坂本さんが「明日の牛ばいねぇ…」と思って見ていると、 助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。 そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。
坂本さんは「危なかねぇ…」と思って見ていましたが、 しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに近づいてみました。 すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。 「みいちゃん、ごめんねぇ。 みいちゃん、ごめんねぇ…」 「みいちゃんが肉にならんと お正月が来んて、じいちゃんの言わすけん、
みいちゃんば売らんと みんなが暮らせんけん。 ごめんねぇ。 みいちゃん、ごめんねぇ…」 そう言いながら、一生懸命に牛のお腹をさすっていました。 坂本さんは「見なきゃよかった」と思いました。 トラックの運転席から女の子のおじいちゃんが降りてきて、 坂本さんに頭を下げました。
「坂本さん、みいちゃんは、この子と一緒に育ちました。 だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。 ばってん、みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、 クリスマスプレゼントも買ってやれんとです。 明日は、どうぞ、 よろしくお願いします」 坂本さんは、「この仕事はやめよう。もうできん」と思いました。 そして思いついたのが、明日の仕事を休むことでした。
坂本さんは、家に帰り、みいちゃんと女の子のことを しのぶ君に話しました。 「お父さんは、みいちゃんを殺すことはできんけん、 明日は仕事を休もうと思っとる…」 そう言うと、しのぶ君は「ふ〜ん…」と言って しばらく黙った後、テレビに目を移しました。 その夜、いつものように坂本さんは、しのぶ君と一緒に お風呂に入りました。
しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。 「お父さん、やっぱりお父さんが してやった方がよかよ。 心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。 お父さんがしてやんなっせ」坂本さんは黙って聞いていましたが、 それでも決心は変わりませんでした。
朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを待っていました。 「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。 その直後、玄関がまた開いて 「お父さん、今日は行かなんよ!わかった?」 としのぶ君が叫んでいます。
坂本さんは思わず、「おう、わかった」と答えてしまいました。 その声を聞くとしのぶ君は「行ってきまーす!」 と走って学校に向かいました。 「あ〜あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」とお母さん。 坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事へと出かけました。
会社に着いても気が重くてしかたがありませんでした。 少し早く着いたのでみいちゃんをそっと見に行きました。 牛舎に入ると、みいちゃんは、他の牛がするように角を下げて、 坂本さんを威嚇するようなポーズをとりました。
坂本さんは迷いましたが、そっと手を出すと、 最初は威嚇していたみいちゃんも、 しだいに坂本さんの手をくんくんと嗅ぐようになりました。 坂本さんが、「みいちゃん、ごめんよう。 みいちゃんが肉にならんと、みんなが困るけん。ごめんよう…」と言うと、 みいちゃんは、坂本さんに首をこすり付けてきました。
それから、坂本さんは、女の子がしていたようにお腹をさすりながら、 「みいちゃん、じっとしとけよ。 動いたら急所をはずすけん、 そしたら余計苦しかけん、 じっとしとけよ。じっとしとけよ」 と言い聞かせました。
牛を殺し解体する、その時が来ました。 坂本さんが、「じっとしとけよ、 みいちゃんじっとしとけよ」 と言うと、みいちゃんは、ちょっとも動きませんでした。 その時、みいちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ちてきました。 坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。
そして、坂本さんが、ピストルのような道具を頭に当てると、 みいちゃんは崩れるように倒れ、少しも動くことはありませんでした。 普通は、牛が何かを察して頭を振るので、 急所から少しずれることがよくあり、倒れた後に大暴れするそうです。
次の日、おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、 坂本さんにしみじみとこう言いました。 「坂本さんありがとうございました。 昨日、あの肉は少しもらって帰って、みんなで食べました。 孫は泣いて食べませんでしたが、
『みいちゃんのおかげでみんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。 みいちゃんにありがとうと言うて食べてやらな、 みいちゃんがかわいそうかろ?食べてやんなっせ。』 って言うたら、孫は泣きながら、 『みいちゃんいただきます。おいしかぁ、おいしかぁ。』 て言うて食べました。ありがとうございました」 坂本さんは、もう少しこの仕事を続けようと思いました。
ある学校で、保護者の一人から「給食費を払っているのに、 『いただきます』と 子どもに言わせるのはおかしい」 というクレームがあった、との話を聞いたことがあります。
「なんという常識のない保護者なんだ!」と片付けるのは簡単です。 でも、もしもこの保護者が、この話を知っていたとしたら、 どうだったでしょう?
現在の食生活は、「命をいただく」というイメージから ずいぶん遠くなってきています。 そしてその結果、食べ物が粗末に扱われて、日本での一年間の食べ残し食品は、 発展途上国での、何と3300万人分の年間食料に相当するといいます。 私たちは奪われた命の意味も考えずに、毎日肉を食べています。 動物は、みんな自分の食べ物を自分で獲って生きているのに、 人間だけが、自分で直接手を汚すこともなく、 坂本さんのような方々の思いも知らないまま、肉を食べています。
動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、 自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、 そう願って生きているんだと私は思います。
命をいただくことに対しての「思い」。 お肉を食べて「あ〜、美味しい。ありがとう」 お野菜を食べて「あ〜、美味しい。ありがとう」 そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?
お肉を食べて「うぇ〜、マズッ!」 お野菜を食べて うぇ〜、マズッ!」 そこに生まれる思いはどんな思いでしょう? 食べ物をいただくとき、そこに尊い命があったことを忘れずに、 その命を敬い、感謝の言葉をかけてあげられる人に育ちましょう。
今日もまた、食べられることへの感謝の言葉、 「ありがとうございます。感謝します。いただきます」 食べているときの「美味しい!」という言葉。 そして食べ終わった後の、「あ〜、美味しかった ありがとうございます。ご馳走さまでした」 という「食べられたこと」への感謝の言葉をかけてあげましょう。 もちろん、食べ残しをせずに。
食べ物が、あなたの体を作ります。 あなたの体に姿を変えて、あなたの中で生き続けます。 そして、体の中からあなたを精いっぱい応援してくれています。 あなたができる最高の恩返しは、たくさんの生き物たちから 命のバトンを託されたあなたの命を、いっぱいに輝かせること。 喜びに満ちた人生を過ごすこと。
それが、あなたと共に生きている たくさんの命たちが、いちばん喜ぶことなんです。
みんなの分まで、命いっぱいに輝きましょう!
出典:西日本新聞社「いのちをいただく」
著者 内田美智子 諸江和美
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