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2014年07月10日

小さな歴史。








エルトゥールル号の遭難 〜生命の光から〜

和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。

午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。「何か大変なことが起こらなければいいが」

灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。

ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。

「息子よ、起きなさい」懐かしい母が耳元で囁いているようだった。

「お母さん」という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。

「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。

「あなたのお国はどこですか」

「・・・・・・」

言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」

傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。

「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。

遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

「一人でも多く救ってあげたい」

しかし、大多数は動かなかった。

一人の男が叫ぶ。

「息があるぞ!」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。

「死ぬな!」

「元気を出せ!」

「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。

このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」

「どうしよう!」 一人の婦人が言う。

「にわとりが残っている」

「でも、これを食べてしまったら・・・・・」

「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

以上、エルトゥールル号の話は111年前の真実で、16年前のイラン・イラク戦争時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。決して、多くに知られてはいない真実あなたはどう思いましたか?

辛いニュースが多い世の中にほんの少しやさしさを取り戻せる、この『小さな歴史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・



ここまでなら美談で終わるのですが、残念がら話はここで終わりません。
実は、後日談でとても残念な事態が起きます。
時代がさらに下って、平成8(1996)年のことです。

新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンします。 トルコ政府は、これを大いに喜び、日本とトルコの友情のためにと、 柏崎市にトルコ共和国の建国の父ケマル・パシャの像を寄贈してくれます。

実にありがたく、また名誉であり、うれしいことです。 トルコ村は、テーマパークの広場の中心に、高さ5メートルのケマル像を堂々と飾ります。

ところが平成11(1999)年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻します。 トルコ村は資金繰りが悪化。 平成4(2002)年には、柏崎市がトルコ村を買い取るのだけれど、平成6(2004)年には、トルコ村は倒産してしまいます。

心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋市長に伝えます。 ところが、社民党系の会田洋(あいだひろし)市長は再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、 ブルボン(支援を申し出た製菓会社)の計画も無視します。

あげくに、地元のラブホテル業者にテーマパークを払い下げてしまった。 その結果・・・ ここに、柏崎トルコ友好協会が柏崎市長会田洋に出した平成19年10月15日付の 「厳重な抗義と早急な善処についての要望書」と題する書面があります。 原文はPDFで見ることができます。

http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/files/071015_k-turky.pdf

この要望書にもありますが、平成6年のトルコ村倒産以降、平成19年のこの文書提出時点まで、 日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、 「像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態」にあった。

誰が見ても、これは親日的なトルコ政府や、トルコ国民にとって屈辱的行為です。 そこで、柏崎トルコ友好協会は、

(1) 「アタチュルク像」の尊厳を保持出来る条件の場所に速やかに移動せよ。 (2) そのために必要な協議の場を設けよ。 (3) 善処後の結果を在日トルコ大使館並びに当友好協会に文書をもって報告せよ。

と書面をもって問合せを行います。 ところが、この書面を受け取った柏崎市会田市長は、これを握りつぶし、なんの返答もしない。 「柏崎トルコ友好協会」は、平成20年1月にも「放置されたアタチュルク像の対処に関する誠意ある回答についての催告」という書面を送付します。 (クリックするとその書面を読むことができます)。

ところが、この催告書に対しても、会田洋柏崎市長は、まるで無視。

この件では、トルコ大使館も激怒し、 「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、 外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出しています。

これについても、会田市長は議会に知らせることもなく、まったく無視。 ちなみにこの社民党・会田洋市長の愛読書は司馬遼太郎の「坂の上の雲」で、 市長としてのスローガンは<「ガンバロウ!糠け 柏崎>なのだそうです。なにを頑張るんだか・・・・

平成21年になって、柏崎市は、市のHPに、次の記事を掲載します(いまはもう消されています)。

「アタチュルク像の再建に向けて努力しています」 旧柏崎トルコ文化村にあるアタチュルク像ついては、在日トルコ共和国大使館の理解を得て、 平成18年に土地及び他の物件と共に民間会社に売却したものです。

会社も利用計画の中でこの像の活用を意図し、実際にその用途に供しておりました。 残念ながら新潟県中越沖地震で被害を受けたため取り外し、施設内で保管されているものであります。

市としては、会社から無償譲渡してもらい、しかるべき場所へ建立をするべく会社側と交渉をしているところですが、 他の案件で裁判になっていることからなかなか折り合えない状況となっております。 このことは、在日トルコ共和国大使館及び外務省に対して経過を説明し理解をいただいているところであります。

今後もしかるべき場所への再建をめざし、引き続き粘り強く会社側と交渉を続けてまいります。 また、必要に応じて在日トルコ共和国大使館や外務省と連絡を取りながら進めてまいりたいと考えております。 (2009年2月20日(金曜日) 9時3分)

トルコ大使館の激怒が「在日トルコ共和国大使館の理解を得て」?! 像を倒したままにして粗末なブルーシートで覆うことが、「施設内で保管」?!

うまいこと言いかえるものです。 まるでどこかの国のプロパガンタです。

ちなみに「ケマル・アタテュルク像」の寄贈に際し、ケマル・アタテュルクは本来トルコ建国の父であり、 トルコの人々は、彼の凛とした軍装を好むけれど、トルコ大使館は、武装を嫌う日本に最大限に配慮して、 非軍服姿の像を寄贈してくれている。 非軍服姿の「ケマル・アタテュルク像」というのは、それだけでもものすごく貴重な像なのです。

結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、今年3月18日、 東京のお台場「船の科学館」に移設されて修復するとともに一般公開され、今年5月中旬、 修復終了とともに、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されることになりました。 (日本財団=財団法人日本船舶振興会、会長笹川陽平氏。笹川良一氏の三男)

とりあえずは、ほっと一安心です。
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