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2020年05月17日
【行動力に「カンシン」する。】
【026】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「カンシン」していることがあるんです。それは行動力です。
本当に世の中の方々は行動をしていてすごいなと思います。
「これをやったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなでそれを行い。
「あっちにいったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなで行動をする。
だから世の中には「固定点差し上げます」的なところに人が集まるのでしょうね。
今はYouTubeがいいんだぞ!と言われれば「ワー」って一斉にみんなで始めますし、
早起きがいいんだぞ!と言われれば「よし、やってみよう!」ってみんなが早起きを始める。
これを始めてみたので皆さんも一緒にやりませんか?と声を上げると、
「俺もやりたい」「私もやりたい」とみんなでやり始めてみる。
「〇〇ダイエットがいいみたい」とその時その時に、
手を替え品を替えて次から次へと新しいモノが現れてくる。
本当に「寒心」してしまいます。
もちろん、
自分たちで思考して判断をした結果、
行動をしているのだと思うのですが、どうも「寒心」してしまうのです。
〇〇の法則で人生は変わる!とか、
〇〇に行動すれば人生は変わる!とか。
色々と「人生は変わる!」的なことによく出会いますが、
人生は変わる。のではなく、
人生を変える。がいいと思います。
人生は変わる。は、自分の力ではなく、なにか変えてくれるモノに期待しているということです。
多くの人は、人生は変わると思っていますが、人生は変わらないのです。
そうではなくて、人生を変えるのです!自分がです。
この違いは微妙ではありますが、かなりの「差」です。
何が美しくて
何が賢くて
何が正しくて、
何がよくて、
何がかっこよくて
何が知的で
何がを自分で考えて判断する。
そうやって、
考えて考えて、教養と品格を身につけてこそ自分の人生なんだと思うのです。
教養と言うと、
雑学的な広く浅くといったイメージを思い浮かべる方々が多くいらっしゃると思いますが、
この教養=リベラルアーツという言葉は、
色々な学問を学ぶ際に必要となる土台、大元となる考え方です。
人間がもつ基本となる考え方をいろんな角度から学んでいく学問。
そして、この学びの中心的な学問が哲学であると私は思っています。
リベラルアーツ = 自由な思考の基礎
言語に関わる三学
・文法学・論理学・修辞学
数学に関する四学
・幾何学・算術・天文学・音楽
こんなことを書いていたら、
今、ふっと頭に浮かんできたことがあります。
スティーブ・ジョブズの伝説的スピーチで語られた、
「Connecting the dots」=「点と点をつなぐ」が浮かんできました。
スピーチ内容は割愛させていただきますが、
過去が将来、身を結ぶということです。
よく未来を変えよう。とか、
成功したければ失敗しろなんて言われますが、
そうではなく、
未来にばかり目を向けていてもダメですし、
成功しない人は失敗が続くだけなんです。
未来を見ているのではなく、
過去に目を向けなくてはいけません。
そして、
ただ向けるのではなく、過去を変えるのです。
では過去を変えるとはどういうことか?
過去とは、あなたにとってものすごく具体的なモノ、
その具体的な失敗を具体のままに保存しているからそのままの現在があるんです。
具体的な具体をそのまま保存しておくのではなく、
自分の経験してきたことを抽象化しなくてはいけません。
具体的な過去の事例を、それがどういったことだったのか、
なんで失敗したのか?
何を見落としていたんだろう?
どのような偏った味方をしていたのか?
どういう想定外があったのか?
こういった多面的視点で過去を捉えて、その本質を抽出して受け止める。
具体例とかはどうでもよくて、そこから何を学んだかなんです。
その学んで受け止めたことをいくつ持っているか。
そして、その受け止めたことがいつか生かされていくんです。
敷衍(ふえん)するという言葉があります。
これは抽象化から具体にすることです。これは割とできる方が多くいらっしゃいますが、
逆に具体的なことを上に上げていくことができないのです。
これはエッセンスで上げて上げていくしかありません。
あなたの過去を変えることによって、
当然現在が変わりますし、未来が変わっていくんです。
他人と過去は変えられないとよく言われますが、
過去は変えれます!あなたの思考力で。
思考力が全てなんです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」というのも、
歴史から学べるかどうか、結局は自分の思考力が全てです。
常に抽象的世界観に触れていると、抽象化できるようになり具体を抽象へ上げることができる。
だから成功者と言われる人たちは教養を学ぶんです。
経営者やトップリーダーに求められる力は、抽象思考力です。
具体的な学びばかりを入れていると、抽象化することが難しくなってしまいます。
だから、あなたの周りには抽象的世界観を持った人が必要なんです。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「カンシン」していることがあるんです。それは行動力です。
本当に世の中の方々は行動をしていてすごいなと思います。
「これをやったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなでそれを行い。
「あっちにいったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなで行動をする。
だから世の中には「固定点差し上げます」的なところに人が集まるのでしょうね。
今はYouTubeがいいんだぞ!と言われれば「ワー」って一斉にみんなで始めますし、
早起きがいいんだぞ!と言われれば「よし、やってみよう!」ってみんなが早起きを始める。
これを始めてみたので皆さんも一緒にやりませんか?と声を上げると、
「俺もやりたい」「私もやりたい」とみんなでやり始めてみる。
「〇〇ダイエットがいいみたい」とその時その時に、
手を替え品を替えて次から次へと新しいモノが現れてくる。
本当に「寒心」してしまいます。
もちろん、
自分たちで思考して判断をした結果、
行動をしているのだと思うのですが、どうも「寒心」してしまうのです。
〇〇の法則で人生は変わる!とか、
〇〇に行動すれば人生は変わる!とか。
色々と「人生は変わる!」的なことによく出会いますが、
人生は変わる。のではなく、
人生を変える。がいいと思います。
人生は変わる。は、自分の力ではなく、なにか変えてくれるモノに期待しているということです。
多くの人は、人生は変わると思っていますが、人生は変わらないのです。
そうではなくて、人生を変えるのです!自分がです。
この違いは微妙ではありますが、かなりの「差」です。
何が美しくて
何が賢くて
何が正しくて、
何がよくて、
何がかっこよくて
何が知的で
何がを自分で考えて判断する。
そうやって、
考えて考えて、教養と品格を身につけてこそ自分の人生なんだと思うのです。
教養と言うと、
雑学的な広く浅くといったイメージを思い浮かべる方々が多くいらっしゃると思いますが、
この教養=リベラルアーツという言葉は、
色々な学問を学ぶ際に必要となる土台、大元となる考え方です。
人間がもつ基本となる考え方をいろんな角度から学んでいく学問。
そして、この学びの中心的な学問が哲学であると私は思っています。
リベラルアーツ = 自由な思考の基礎
言語に関わる三学
・文法学・論理学・修辞学
数学に関する四学
・幾何学・算術・天文学・音楽
こんなことを書いていたら、
今、ふっと頭に浮かんできたことがあります。
スティーブ・ジョブズの伝説的スピーチで語られた、
「Connecting the dots」=「点と点をつなぐ」が浮かんできました。
スピーチ内容は割愛させていただきますが、
過去が将来、身を結ぶということです。
よく未来を変えよう。とか、
成功したければ失敗しろなんて言われますが、
そうではなく、
未来にばかり目を向けていてもダメですし、
成功しない人は失敗が続くだけなんです。
未来を見ているのではなく、
過去に目を向けなくてはいけません。
そして、
ただ向けるのではなく、過去を変えるのです。
では過去を変えるとはどういうことか?
過去とは、あなたにとってものすごく具体的なモノ、
その具体的な失敗を具体のままに保存しているからそのままの現在があるんです。
具体的な具体をそのまま保存しておくのではなく、
自分の経験してきたことを抽象化しなくてはいけません。
具体的な過去の事例を、それがどういったことだったのか、
なんで失敗したのか?
何を見落としていたんだろう?
どのような偏った味方をしていたのか?
どういう想定外があったのか?
こういった多面的視点で過去を捉えて、その本質を抽出して受け止める。
具体例とかはどうでもよくて、そこから何を学んだかなんです。
その学んで受け止めたことをいくつ持っているか。
そして、その受け止めたことがいつか生かされていくんです。
敷衍(ふえん)するという言葉があります。
これは抽象化から具体にすることです。これは割とできる方が多くいらっしゃいますが、
逆に具体的なことを上に上げていくことができないのです。
これはエッセンスで上げて上げていくしかありません。
あなたの過去を変えることによって、
当然現在が変わりますし、未来が変わっていくんです。
他人と過去は変えられないとよく言われますが、
過去は変えれます!あなたの思考力で。
思考力が全てなんです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」というのも、
歴史から学べるかどうか、結局は自分の思考力が全てです。
常に抽象的世界観に触れていると、抽象化できるようになり具体を抽象へ上げることができる。
だから成功者と言われる人たちは教養を学ぶんです。
経営者やトップリーダーに求められる力は、抽象思考力です。
具体的な学びばかりを入れていると、抽象化することが難しくなってしまいます。
だから、あなたの周りには抽象的世界観を持った人が必要なんです。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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2020年05月16日
【ただの快楽である「知る」は必要か?!】
【025】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
あなたは、「知る」という言葉をどのように捉えていらっしゃいますか?
知らなかったことを知ること。だと思った方が多いのではないでしょうか。
当たり前のような感じですね。
何かわからないことがあって、
それについて調べて、「ああ〜、そういうことか!」という「知る」はあまり意味がありません。これは、あなたの頭の中に開いていた穴を埋めた程度でしかないからです。
そうではなくて、
あなたが今までに、避けていた触れてこなかったジャンルにあえて触れてみるとか、
苦手そうな人にあえて会ってみるなどを試みた時に、初めて出会える「知る」を知るということです。
人間は、快楽を求めて痛みを避けるわけですよね。
快楽とは、既知の領域であり、痛みとは未知の領域です。
既知の領域で知るを経験しても快楽で終わってしまう。
しかし
未知の領域に踏み込んで、痛みの中から知るを経験すれば、
それはあなたの世界を広げることへとつながります。
例えば、
何かの本を読んでいるとして、
その本の文章から「知らない」ことに出会い知識を得たとしても、
それはただの快楽止まりで先はありません。
なんのために目的で本を読もうと思ったのかにもよりますが、
趣味程度の目的で本んを読むのであれば、快楽を得るでいいでしょう。
学び程度の目的であっても、快楽を得ることでいいと思います。
しかし、もしあなたが「勉強」を目的とするために本を読んでいるのであれば、
快楽を得る本ではなく、痛みを得る本でしか「勉強」には繋がらないのです。
勉強とはあなたが今までに体験したことのない、
経験を超えたものを「知る」という未知の領域について追求することなんです。
自ら今まで触れてこなかった未経験地へと足を運び、周りも何もわからない世界で、
手探りの中、やっと初めて「知る」と出会った時に、
こんなの「知らなかったー」を知ることで得た知識というのは、ものすごく価値のあるものです。そして、
もっともっと知ろうとして、知識の追求が始まっていきます。
知識の追求によって、
今までにはなかった「知らない領域」が一気にあなたの目の前に、山のように現れてくる。
このように痛みに触れることで、
「知らなかった領域」を知ることができるのです。
今まで知らなかった領域、こんな世界があったんだということに気づかされるわけです。
この気づきこそが、
あなたの視野を広げること・世界が広がるということに繋がっていき、
この経験を機に「知る」という連鎖が始まるのです。
もし今後、本を読む機会があるのでしたら、
すぐに理解ができるような本を読むのではなく、
理解をすることが難しい本を読むことをお勧めいたします。
それは、
領域・世界が広がっていくからです。
難しければ難しいほど良いのではないでしょうか。
今見えている世界より、
見えていない世界は広い。
見えていない世界には価値があります。
愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
あなたは、「知る」という言葉をどのように捉えていらっしゃいますか?
知らなかったことを知ること。だと思った方が多いのではないでしょうか。
当たり前のような感じですね。
何かわからないことがあって、
それについて調べて、「ああ〜、そういうことか!」という「知る」はあまり意味がありません。これは、あなたの頭の中に開いていた穴を埋めた程度でしかないからです。
そうではなくて、
あなたが今までに、避けていた触れてこなかったジャンルにあえて触れてみるとか、
苦手そうな人にあえて会ってみるなどを試みた時に、初めて出会える「知る」を知るということです。
人間は、快楽を求めて痛みを避けるわけですよね。
快楽とは、既知の領域であり、痛みとは未知の領域です。
既知の領域で知るを経験しても快楽で終わってしまう。
しかし
未知の領域に踏み込んで、痛みの中から知るを経験すれば、
それはあなたの世界を広げることへとつながります。
例えば、
何かの本を読んでいるとして、
その本の文章から「知らない」ことに出会い知識を得たとしても、
それはただの快楽止まりで先はありません。
なんのために目的で本を読もうと思ったのかにもよりますが、
趣味程度の目的で本んを読むのであれば、快楽を得るでいいでしょう。
学び程度の目的であっても、快楽を得ることでいいと思います。
しかし、もしあなたが「勉強」を目的とするために本を読んでいるのであれば、
快楽を得る本ではなく、痛みを得る本でしか「勉強」には繋がらないのです。
勉強とはあなたが今までに体験したことのない、
経験を超えたものを「知る」という未知の領域について追求することなんです。
自ら今まで触れてこなかった未経験地へと足を運び、周りも何もわからない世界で、
手探りの中、やっと初めて「知る」と出会った時に、
こんなの「知らなかったー」を知ることで得た知識というのは、ものすごく価値のあるものです。そして、
もっともっと知ろうとして、知識の追求が始まっていきます。
知識の追求によって、
今までにはなかった「知らない領域」が一気にあなたの目の前に、山のように現れてくる。
このように痛みに触れることで、
「知らなかった領域」を知ることができるのです。
今まで知らなかった領域、こんな世界があったんだということに気づかされるわけです。
この気づきこそが、
あなたの視野を広げること・世界が広がるということに繋がっていき、
この経験を機に「知る」という連鎖が始まるのです。
もし今後、本を読む機会があるのでしたら、
すぐに理解ができるような本を読むのではなく、
理解をすることが難しい本を読むことをお勧めいたします。
それは、
領域・世界が広がっていくからです。
難しければ難しいほど良いのではないでしょうか。
今見えている世界より、
見えていない世界は広い。
見えていない世界には価値があります。
愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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2020年05月15日
【貼り付いた想像】
【024】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
いきなりですが、想像してください。
「犬がいます」
〜想像中〜
想像していただけましたでしょうか?
このことについては、後ほどお伝えさせていただきますが、
世の中にはたくさんの「言葉」があります。
そして、普段は何気なく使っている「言葉」。
この「言葉」をあなたはどのように考えていらっしゃいますか?
言葉とは、
共通認識?全ての人に同じ?全ての人の解釈は一緒?
どうでしょうか。
スイスの言語学者 : フェルディナン・ド・ソシュール は、
「言葉は、世界に先立つ」といっています。
私たちは、シニフィアンとシニフィエと言う言葉の差異のフィルターを通してしか
世界を認識・思考することはできない。
哲学者が求め続けきた「真理」「私の生き方」と言った概念も、
全てその時々の「言葉の秩序つけ次第」で変わってしまう。
※シニフィアンとシニフィエについては、また後日お伝えいたします。
「言葉」というのは、何一つとして固定的なモノなどないのです。
秩序づけ次第で、どうにでもなってしまうのですから。
しかし、
これまでに散々お伝えしてきた内容となってしまいますが、
私たち人間は「言葉」を介してしかモノゴトを認識できない生き物です。
だから、言葉を使う。
言葉を使うしかないということです。
まあ、ごくごく単純な話しなんですが。
だからこそ考えなくてはいけない視点があります。
それは、
「私たちは、言葉によって世界をどう見せられているのか?」
という構造的な視点です。
例えば、
このように考える方は、多くいらっしゃると思います。
「私たちは、世界をどう見ているのか?」
といった視点、これは主観的な視点です。
または、
「私たちの世界は、どうなっているのか?」
といった視点、これは客観的な視点ということです。
主観的・客観的・構造的視点には大きく違いがありますし、
そもそも、客観的視点なんてないのです。
この客観的視点についても、また後日お伝えさせていただきます。
他の事例を挙げると、
悩みとか、問題・課題に対して、
「何があなたを苦しめていたのか?」
という視点で見るのではなく、
「あなたを苦しめていた言葉の性質(構造)はどうなっているのか?」
という視点で捉え、問いを行なって言語化しない限り、
あなたの悩み・問題・課題は一向に解決しないのです。
私は日々、
クライアント様と常にこの視点で問いを立て、共に解決していくことをしています。
私がお伝えしたかったことは、
「どのように秩序つけされた世界に私たちは生きているのか」
という視点が重要であるということです。
さて、ずっと引っ張ってしまいましたが、
冒頭で想像していただいたことに触れていきましょう!
もう一度お伝えしますね。
「犬がいます」
を想像してくださいね。
〜想像中〜
※スクロールストップ
頭の中に犬が想像できましたか?
ゆっくりとスクロールしてください。
「緑色の犬が」
どうですか?
あなたの想像された犬とドンピシャでしたか?
多分、多くの皆様が想像されたのは、
「白い犬」「黒い犬」「茶色い犬」だったのではないでしょうか。
「緑色の犬」を想像された方がいらっしゃいましたら、
芸術的な分野に進まれることをお勧めいたします。(笑)
さて、
これも、「犬」という言葉に貼り付いた皆さんの勝手な想像です。
今回の事例は特に複雑な想像ではありませんでしたが、
「言葉」というものに貼り付いている想像は、みなが違うということです。
だから、私たち人間というのは、
相手のことを知るために、知りたいと思う相手とは、
しっかりと言葉を交えた「会話」をすることが必要なんです。
解釈が決して一致しないとわかっているからこそ、
相手のことを理解するまで、理解なんてできないけど、「会話」をするんです。
この「会話」が人間にとってとても大事なことなんだと思っています。
自分にとっては何気ない言葉でも、受け取り方次第では傷付けてつけてしまうこともあります。
会話をせず、自分勝手な解釈だけを受け入れているから、相手のことがわからない。
人に近づけなくなってしまう。
そうではなく、
ああ〜、この人はこういう風に言葉を使う人なんだな。って、
構造的な視点で見てあげることにより、
完全な理解はできないにしても、受け入れることはできるのだと考えています。
多様性を受け入れよう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
いきなりですが、想像してください。
「犬がいます」
〜想像中〜
想像していただけましたでしょうか?
このことについては、後ほどお伝えさせていただきますが、
世の中にはたくさんの「言葉」があります。
そして、普段は何気なく使っている「言葉」。
この「言葉」をあなたはどのように考えていらっしゃいますか?
言葉とは、
共通認識?全ての人に同じ?全ての人の解釈は一緒?
どうでしょうか。
スイスの言語学者 : フェルディナン・ド・ソシュール は、
「言葉は、世界に先立つ」といっています。
私たちは、シニフィアンとシニフィエと言う言葉の差異のフィルターを通してしか
世界を認識・思考することはできない。
哲学者が求め続けきた「真理」「私の生き方」と言った概念も、
全てその時々の「言葉の秩序つけ次第」で変わってしまう。
※シニフィアンとシニフィエについては、また後日お伝えいたします。
「言葉」というのは、何一つとして固定的なモノなどないのです。
秩序づけ次第で、どうにでもなってしまうのですから。
しかし、
これまでに散々お伝えしてきた内容となってしまいますが、
私たち人間は「言葉」を介してしかモノゴトを認識できない生き物です。
だから、言葉を使う。
言葉を使うしかないということです。
まあ、ごくごく単純な話しなんですが。
だからこそ考えなくてはいけない視点があります。
それは、
「私たちは、言葉によって世界をどう見せられているのか?」
という構造的な視点です。
例えば、
このように考える方は、多くいらっしゃると思います。
「私たちは、世界をどう見ているのか?」
といった視点、これは主観的な視点です。
または、
「私たちの世界は、どうなっているのか?」
といった視点、これは客観的な視点ということです。
主観的・客観的・構造的視点には大きく違いがありますし、
そもそも、客観的視点なんてないのです。
この客観的視点についても、また後日お伝えさせていただきます。
他の事例を挙げると、
悩みとか、問題・課題に対して、
「何があなたを苦しめていたのか?」
という視点で見るのではなく、
「あなたを苦しめていた言葉の性質(構造)はどうなっているのか?」
という視点で捉え、問いを行なって言語化しない限り、
あなたの悩み・問題・課題は一向に解決しないのです。
私は日々、
クライアント様と常にこの視点で問いを立て、共に解決していくことをしています。
私がお伝えしたかったことは、
「どのように秩序つけされた世界に私たちは生きているのか」
という視点が重要であるということです。
さて、ずっと引っ張ってしまいましたが、
冒頭で想像していただいたことに触れていきましょう!
もう一度お伝えしますね。
「犬がいます」
を想像してくださいね。
〜想像中〜
※スクロールストップ
頭の中に犬が想像できましたか?
ゆっくりとスクロールしてください。
「緑色の犬が」
どうですか?
あなたの想像された犬とドンピシャでしたか?
多分、多くの皆様が想像されたのは、
「白い犬」「黒い犬」「茶色い犬」だったのではないでしょうか。
「緑色の犬」を想像された方がいらっしゃいましたら、
芸術的な分野に進まれることをお勧めいたします。(笑)
さて、
これも、「犬」という言葉に貼り付いた皆さんの勝手な想像です。
今回の事例は特に複雑な想像ではありませんでしたが、
「言葉」というものに貼り付いている想像は、みなが違うということです。
だから、私たち人間というのは、
相手のことを知るために、知りたいと思う相手とは、
しっかりと言葉を交えた「会話」をすることが必要なんです。
解釈が決して一致しないとわかっているからこそ、
相手のことを理解するまで、理解なんてできないけど、「会話」をするんです。
この「会話」が人間にとってとても大事なことなんだと思っています。
自分にとっては何気ない言葉でも、受け取り方次第では傷付けてつけてしまうこともあります。
会話をせず、自分勝手な解釈だけを受け入れているから、相手のことがわからない。
人に近づけなくなってしまう。
そうではなく、
ああ〜、この人はこういう風に言葉を使う人なんだな。って、
構造的な視点で見てあげることにより、
完全な理解はできないにしても、受け入れることはできるのだと考えています。
多様性を受け入れよう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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2020年05月14日
【「理解した!」この感覚が一番まずい!!】
【023】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私たちが生きていく過程で、一番まずいなーと思ってしまうのは、
「理解した!」
という感覚です。
あなたが何か新しいことにチャレンジするとしましょう。思考して思考して向き合っています。
ちょっとうまくできたなと、
うまくいったなって「理解した!」と思った瞬間が一番まずいのです。
そもそも、「理解した!」と思った瞬間に思考は停止し、
その時点からあなたの成長は止まってしまうのです。
例えば、
何か調子よく続けていることやうまくいっていること、
あとは、ギャンブルとか勝負事をやっている方だと、調子よく勝ち続けている時に、
「理解した!」
って思った瞬間から、今まで調子が良かったことが悪くなっていったりすることがあるんです。
基本的に私たち人間は、「理解」ということはできないのです。
そしてこの「理解」というのは段階があります。
今回は詳しくお伝えはいたしませんが、
やはり人は固定点欲しさに、「理解した」つもりになっているだけなんですが、
「理解した!」と断定的に思ってしまった瞬間に停止が始まってしまうということです。
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とか。
このような感覚は、なくした方がいいということです。
自分自身が、
「理解した!」と勝手に思っていたことが、
間違っていたりするから勝手に落ち込んでしまいますし、
「わかった!」なんて勝手に思ってしまうから、
全然できない自分を責めてしまうのです。
だから何度も繰り返しになりますが、
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とかはやめておいた方がいいのです。
とは言っても、
やはり何かを進めていく中で、チャレンジしていく中で何かが欲しいですよね。
そんな時は、
「信じる」
という言葉を重視した考え方を持っているといいと思います。
今まで行なってきたことを「信じる」。
思考して思考してチャレンジしてきた自分を「信じる」ということですね。
「相手のことを理解した」とか
「自分のことを理解した」とかではなくて、
「相手ことを信じる」
「自分のことを信じる」。
「〜を理解した!」ではなくて
「〜を理解したことを信じる」という感じです。
要するに、
「信じる」という言葉は、自分次第の言葉だからです。
もちろんですが、
そう簡単に信じれない人もいると思います。
でも人間というのは何か、
「信じてる」から生きているんだと思います。
逆に考えてみましょう。
なぜ多くの人は
「理解した」とか「わかった」とか「できた」と思いたいのでしょうか?
それは、
固定点が欲しいからです。
どうしても何か掴みたい「答え」みたいなものが欲しい人の考え方なんですね。
進んでいった先にのゴールみたいなものが。
でも安心してください!
この世界に人生に「答え」や「ゴール」なんていうものはないのですから。
宙ぶらりんな不安定の中を、
もがいてもがいて、もがいていくのが人生なんですよ。
老子の言葉
”道の道とすべきは常の道にあらず、本当の道は、不変の道ではない。
万物は常に変化し続ける。
これが宇宙の本質である。ものごとはすべて変化の中で捉えなければならない”
だからこの先、
「信じる」っていう言葉があればそれでいいでしょう。
そして、結果として
何か裏切られようが、
失敗しようが関係がないってことです。
「信じる」があれば前に進めます!
あなたの可能性を信じています!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私たちが生きていく過程で、一番まずいなーと思ってしまうのは、
「理解した!」
という感覚です。
あなたが何か新しいことにチャレンジするとしましょう。思考して思考して向き合っています。
ちょっとうまくできたなと、
うまくいったなって「理解した!」と思った瞬間が一番まずいのです。
そもそも、「理解した!」と思った瞬間に思考は停止し、
その時点からあなたの成長は止まってしまうのです。
例えば、
何か調子よく続けていることやうまくいっていること、
あとは、ギャンブルとか勝負事をやっている方だと、調子よく勝ち続けている時に、
「理解した!」
って思った瞬間から、今まで調子が良かったことが悪くなっていったりすることがあるんです。
基本的に私たち人間は、「理解」ということはできないのです。
そしてこの「理解」というのは段階があります。
今回は詳しくお伝えはいたしませんが、
やはり人は固定点欲しさに、「理解した」つもりになっているだけなんですが、
「理解した!」と断定的に思ってしまった瞬間に停止が始まってしまうということです。
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とか。
このような感覚は、なくした方がいいということです。
自分自身が、
「理解した!」と勝手に思っていたことが、
間違っていたりするから勝手に落ち込んでしまいますし、
「わかった!」なんて勝手に思ってしまうから、
全然できない自分を責めてしまうのです。
だから何度も繰り返しになりますが、
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とかはやめておいた方がいいのです。
とは言っても、
やはり何かを進めていく中で、チャレンジしていく中で何かが欲しいですよね。
そんな時は、
「信じる」
という言葉を重視した考え方を持っているといいと思います。
今まで行なってきたことを「信じる」。
思考して思考してチャレンジしてきた自分を「信じる」ということですね。
「相手のことを理解した」とか
「自分のことを理解した」とかではなくて、
「相手ことを信じる」
「自分のことを信じる」。
「〜を理解した!」ではなくて
「〜を理解したことを信じる」という感じです。
要するに、
「信じる」という言葉は、自分次第の言葉だからです。
もちろんですが、
そう簡単に信じれない人もいると思います。
でも人間というのは何か、
「信じてる」から生きているんだと思います。
逆に考えてみましょう。
なぜ多くの人は
「理解した」とか「わかった」とか「できた」と思いたいのでしょうか?
それは、
固定点が欲しいからです。
どうしても何か掴みたい「答え」みたいなものが欲しい人の考え方なんですね。
進んでいった先にのゴールみたいなものが。
でも安心してください!
この世界に人生に「答え」や「ゴール」なんていうものはないのですから。
宙ぶらりんな不安定の中を、
もがいてもがいて、もがいていくのが人生なんですよ。
老子の言葉
”道の道とすべきは常の道にあらず、本当の道は、不変の道ではない。
万物は常に変化し続ける。
これが宇宙の本質である。ものごとはすべて変化の中で捉えなければならない”
だからこの先、
「信じる」っていう言葉があればそれでいいでしょう。
そして、結果として
何か裏切られようが、
失敗しようが関係がないってことです。
「信じる」があれば前に進めます!
あなたの可能性を信じています!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月13日
【言葉と感情を切り離した時に、本当の思考が始まる】
【022】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「何をしたらいいですか?」
「何をしていいかわからない?」
最近よく質問されます。
私は、
「できることをやるしかない」とトートロジーを交えた返答をしています。
今あなたの
目の前にいる人、近くにいる人に対して、不足しているモノを補ってあげればいいのです。
難しく考えずに、すごくシンプルに簡単に考えればいいです。
例えば、
笑顔が不足していたら、笑わせてあげるとか、
食べ物が不足していたら、分けてあげるとか、
言葉が不足していたら、教えてあげるとか。
とにかく、
コツコツとできることの積み重ねをしていくことで、
また、次の「不足」を見つけることができるのです。
世の中は全て、均整でできていますから、
何かが不足すれば、そこを補ってあげることによって成り立ちます。
バランスよく保たれたシーソーのようなモノですね。
このバランスが崩れていってしまうから、おかしなことが起こっていくのです。
人は必ずどこかのポジションを任せられています。
あなたもきっとどこかのポジションです。
そして、
各自ができることは無数にあるはずなのですが、
その時にあなたを邪魔するものがあるんです。
それが、
「感情」です。
言葉には必ず、感情が張り付いてしまっています。
外向・内向 、 高い・低い 、 上位・下位 、 抽象・具体 、
広い・狭い 、 良い・悪い 、 不安・安心 、 必要・不要 、
自然・人工 、 金持・貧乏 、 年配・若い 、 幸せ・不幸 、
大人・子供 、 正常・異常 、 多数・少数 、 単体・複合 、
文系・理系 、 利口・馬鹿 、 太い・細い 、 頭脳・肉体 、
早い・遅い 、 得意・苦手 、 好き・嫌い 、 長い・短い 、
書き出すときりがなく無数に存在するので、このくらいにしておきますが、
あなたはどの言葉をどのように捉えましたでしょうか?
どんな感情が張り付いていますか。
あなたの当てはまる「ポジション」はありましたか?
1つ1つの言葉の解釈は、一人一人様々で違った捉え方をします。
どちらが良い、悪いと言うことは本来ないのですが、
人間は勝手に無意識的に優劣をつけてしまう。
優劣など人間の勝手な意味付けでしかない。
どれも欠けてはならない必要とされるポジションです。もちろん中間点もあります。
状況・時間・場所などによっても捉え方が変化をしていくことでしょう。
各自がそれぞれのポジションを担うことで、
バランスが何かしらの影響を受けて崩れそうな時には、
必ず何かが修正を行い、バランスを保ってくれるようになっているのです。
偏りがバランスを崩してしまう。
世の中は「不」に対して、誰かがそれを補うことで成り立ちますが、
また、次から次へと新たなる「不」が登場するのです。
その度に、補うことを考えていく。
この時に、
1つ1つの言葉から感情という厄介なものが切り離されると、
本当の人間としての思考が始まるのです。
あなたのポジションは、すでに振り分けられています。
あなたのできることをコツコツと行なっていきましょう!
いきなり難しいことをしようとしなくて、大丈夫ですから。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「何をしたらいいですか?」
「何をしていいかわからない?」
最近よく質問されます。
私は、
「できることをやるしかない」とトートロジーを交えた返答をしています。
今あなたの
目の前にいる人、近くにいる人に対して、不足しているモノを補ってあげればいいのです。
難しく考えずに、すごくシンプルに簡単に考えればいいです。
例えば、
笑顔が不足していたら、笑わせてあげるとか、
食べ物が不足していたら、分けてあげるとか、
言葉が不足していたら、教えてあげるとか。
とにかく、
コツコツとできることの積み重ねをしていくことで、
また、次の「不足」を見つけることができるのです。
世の中は全て、均整でできていますから、
何かが不足すれば、そこを補ってあげることによって成り立ちます。
バランスよく保たれたシーソーのようなモノですね。
このバランスが崩れていってしまうから、おかしなことが起こっていくのです。
人は必ずどこかのポジションを任せられています。
あなたもきっとどこかのポジションです。
そして、
各自ができることは無数にあるはずなのですが、
その時にあなたを邪魔するものがあるんです。
それが、
「感情」です。
言葉には必ず、感情が張り付いてしまっています。
外向・内向 、 高い・低い 、 上位・下位 、 抽象・具体 、
広い・狭い 、 良い・悪い 、 不安・安心 、 必要・不要 、
自然・人工 、 金持・貧乏 、 年配・若い 、 幸せ・不幸 、
大人・子供 、 正常・異常 、 多数・少数 、 単体・複合 、
文系・理系 、 利口・馬鹿 、 太い・細い 、 頭脳・肉体 、
早い・遅い 、 得意・苦手 、 好き・嫌い 、 長い・短い 、
書き出すときりがなく無数に存在するので、このくらいにしておきますが、
あなたはどの言葉をどのように捉えましたでしょうか?
どんな感情が張り付いていますか。
あなたの当てはまる「ポジション」はありましたか?
1つ1つの言葉の解釈は、一人一人様々で違った捉え方をします。
どちらが良い、悪いと言うことは本来ないのですが、
人間は勝手に無意識的に優劣をつけてしまう。
優劣など人間の勝手な意味付けでしかない。
どれも欠けてはならない必要とされるポジションです。もちろん中間点もあります。
状況・時間・場所などによっても捉え方が変化をしていくことでしょう。
各自がそれぞれのポジションを担うことで、
バランスが何かしらの影響を受けて崩れそうな時には、
必ず何かが修正を行い、バランスを保ってくれるようになっているのです。
偏りがバランスを崩してしまう。
世の中は「不」に対して、誰かがそれを補うことで成り立ちますが、
また、次から次へと新たなる「不」が登場するのです。
その度に、補うことを考えていく。
この時に、
1つ1つの言葉から感情という厄介なものが切り離されると、
本当の人間としての思考が始まるのです。
あなたのポジションは、すでに振り分けられています。
あなたのできることをコツコツと行なっていきましょう!
いきなり難しいことをしようとしなくて、大丈夫ですから。
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2020年05月12日
【食い尽くすのではなく、切り離せ!】
【021】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
世の中には、色々な作品や表現されたもので溢れていますね。
そして、その作品もあなたの選びたい放題です。
その選びたい放題の作品を
あなたは、
作品をそのまま素直に作品として見ますか?
それとも、
作者を経由してから作品を見ますか?
1つ1つの作品には、必ず作者という人がいます。
多くの人は、
作者を経由してから作品に到着する人の方が多のではないかと思います。
「ああーこの人の書いている文章が、好きだな」
「ああーこの人の作る作品が、いいよな」
「ああーこの人の作る料理が、美味しいよね」って。
もちろん「この作品いいなー」と思い、調べてから作者に到着するケースもありますね。
どちらにしても、
私たちは、作品を体験した後に考える事があるんです。
考えてしまう事と言った方が伝わりやすいでしょうか。
それは、”作者が”「何を伝えたかったのか」です。
そうやって、”作者が”について考えてしまうんですね。
映画を見た後、本を読んだ後、そのほか色々と体験をした後に、
「あの作者は、きっと〇〇を伝えたかったんだよ」とか言って、勝手に評論会までしてしまい
作者の伝えたかったことの答え探しを始めるのです。
終いには作者に直接答えを聞いてみたりして。
[作者=作品]と言う考え方ですね。
しかし、
フランスの哲学者、ロラン・バルトは、全く意味のない事だと説いたのです。
「作者の死」でお馴染みの文芸評論家です。
誰かが生み出した思考(作品)を解読するとき、
表現した人(作者)ではなく、
表現されたもの(作品)だけを解読すると言う考え方。
「作者」と「作品」を切り離して作品は作品とみなすことが大事。であるのだということです。
しかし、なぜだか私たちは、作者=作品という関係性が切り離せないのです。
ものすごく親密な関係だと思い込んでいる。
作者というのは、
その「作品」の解釈を決定するコトができる存在ではなく、
「作者」の中にある思想や思考、考え方やイメージや想いなどを、
まずは頭の中で言葉へと変換し、
そこから、文章であったり、絵であったり、映像であったりと色々なカタチとして具現化するコトで、わたしたちの元へと届けてくれる存在なのです。
そして、
その先にある「作品」についての解釈は、受け手側の思考に委ねられるはずなのです。
大切なのは、この委ねるという自由度が必要なのではないかと考えています。
事実とは、その人の解釈でしかないのですから。
作品に作者という人間がベタっと張り付いた状態で受け手側へと届いてしまう、
つまり、作者の意図を重視する作品論ではなく、
作品の受け手側が自身の自由な解釈で受け取ることのできる視点の解釈論とする事で、
自分自身の作者に対する勝手な先入観を排除し、作品自体を記号と捉えることにより、
本来の表現や現象が持っている「隠された意味」が分かってくるのではないかと考えます。
ロラン・バルトは「作者」と「作品」を切り離して見ることが大切だと言いました。
提唱したのは
「あるテクストにオリジナルはなく、無数のテクストからの引用で成り立っている」
という考え方です。
「作品」というのは、
作者自身が、これまでに学んできた、あるいは身につけてきた、
あらゆる「言葉」の規定を受けて作られたモノですので、
これまでの文化や歴史、先人たちの思想や想いが、
作者という人間を通じて表現され現在の私たちへと届けられているのです。
ですから、そこにはやはり「隠された意味」があるわけですね。
しかし残念なことに、
世の中には、受け手側を「食い尽くす」ような自由度のない一方通行的な作品や表現なども、
本当に沢山、出回ってしまっているのが現状です。
結論、
作者にしても、受け手側にしても、
「作品」と「作者」を切り離して捉えることができるようになった方が、
「作品」そのものを純粋に「気持ちが良く」味わえるのではないかと思います。
そして、
人それぞれに思考し、解釈された意味を持っていくことが大切だと思っております。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
世の中には、色々な作品や表現されたもので溢れていますね。
そして、その作品もあなたの選びたい放題です。
その選びたい放題の作品を
あなたは、
作品をそのまま素直に作品として見ますか?
それとも、
作者を経由してから作品を見ますか?
1つ1つの作品には、必ず作者という人がいます。
多くの人は、
作者を経由してから作品に到着する人の方が多のではないかと思います。
「ああーこの人の書いている文章が、好きだな」
「ああーこの人の作る作品が、いいよな」
「ああーこの人の作る料理が、美味しいよね」って。
もちろん「この作品いいなー」と思い、調べてから作者に到着するケースもありますね。
どちらにしても、
私たちは、作品を体験した後に考える事があるんです。
考えてしまう事と言った方が伝わりやすいでしょうか。
それは、”作者が”「何を伝えたかったのか」です。
そうやって、”作者が”について考えてしまうんですね。
映画を見た後、本を読んだ後、そのほか色々と体験をした後に、
「あの作者は、きっと〇〇を伝えたかったんだよ」とか言って、勝手に評論会までしてしまい
作者の伝えたかったことの答え探しを始めるのです。
終いには作者に直接答えを聞いてみたりして。
[作者=作品]と言う考え方ですね。
しかし、
フランスの哲学者、ロラン・バルトは、全く意味のない事だと説いたのです。
「作者の死」でお馴染みの文芸評論家です。
誰かが生み出した思考(作品)を解読するとき、
表現した人(作者)ではなく、
表現されたもの(作品)だけを解読すると言う考え方。
「作者」と「作品」を切り離して作品は作品とみなすことが大事。であるのだということです。
しかし、なぜだか私たちは、作者=作品という関係性が切り離せないのです。
ものすごく親密な関係だと思い込んでいる。
作者というのは、
その「作品」の解釈を決定するコトができる存在ではなく、
「作者」の中にある思想や思考、考え方やイメージや想いなどを、
まずは頭の中で言葉へと変換し、
そこから、文章であったり、絵であったり、映像であったりと色々なカタチとして具現化するコトで、わたしたちの元へと届けてくれる存在なのです。
そして、
その先にある「作品」についての解釈は、受け手側の思考に委ねられるはずなのです。
大切なのは、この委ねるという自由度が必要なのではないかと考えています。
事実とは、その人の解釈でしかないのですから。
作品に作者という人間がベタっと張り付いた状態で受け手側へと届いてしまう、
つまり、作者の意図を重視する作品論ではなく、
作品の受け手側が自身の自由な解釈で受け取ることのできる視点の解釈論とする事で、
自分自身の作者に対する勝手な先入観を排除し、作品自体を記号と捉えることにより、
本来の表現や現象が持っている「隠された意味」が分かってくるのではないかと考えます。
ロラン・バルトは「作者」と「作品」を切り離して見ることが大切だと言いました。
提唱したのは
「あるテクストにオリジナルはなく、無数のテクストからの引用で成り立っている」
という考え方です。
「作品」というのは、
作者自身が、これまでに学んできた、あるいは身につけてきた、
あらゆる「言葉」の規定を受けて作られたモノですので、
これまでの文化や歴史、先人たちの思想や想いが、
作者という人間を通じて表現され現在の私たちへと届けられているのです。
ですから、そこにはやはり「隠された意味」があるわけですね。
しかし残念なことに、
世の中には、受け手側を「食い尽くす」ような自由度のない一方通行的な作品や表現なども、
本当に沢山、出回ってしまっているのが現状です。
結論、
作者にしても、受け手側にしても、
「作品」と「作者」を切り離して捉えることができるようになった方が、
「作品」そのものを純粋に「気持ちが良く」味わえるのではないかと思います。
そして、
人それぞれに思考し、解釈された意味を持っていくことが大切だと思っております。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月11日
【改めて自己紹介】
【020】
おはようございます!
小島です。
連続投稿20回目となるキリが悪い回ですが、
【 改めて自己紹介 】
をさせていただきます。
みなさんがよく抱えていらっしゃる悩みや問題・課題の大元は、
「言えない勝手な思い込みを抱えている」
と定義つけています。
人間って本当に「言えない勝手な思い込み」を作ってしまうんです。
「こんなこと言っちゃいけないんじゃないかな?」
「こんなこと言ったら怒られる?」
「こんなこと言ったら嫌われる?」
「こんなこと言ったら恥ずかしい」
「こんなこと言ったらどう思われるかな?」
「こんなこと言ったら・・・」のオンパレード。
また「言う」といった行為を、勇気が必要なコトだと勝手に思ってしまっている。
全ては「言えない勝手な思い込み」だけなんですけど。
だから、いつまで経っても「思い込みを抱えている」すっきりとしない状態のままとなってしまう。
ではなぜそうなってしまうのか?
それは、
先ほどから幾度と登場している「思い込み」が全てをセーブしているからです。
ではこの「思い込み」とは何か。
思い込みとは、あなたの「考え方への執着」です。
前回の投稿の【自分への執着】とも被ってしまいますが、
自分が正しいということの根拠みたいなモノですね。
この絶対的な自分の「考え方への執着」が実は自分自身を苦しめているんです。
“人間の全ての行動基盤は「考え方」、「考え方」があなたを形成している”
いやいや、でも友人とか恋人とか先輩や親や兄弟と言った、あなたにも話ができる相手の人がいますよね。
でもこのような人たちに対しても、
あなたが伝えられない、
あなたが見えていない「壁」みたいなものがあるんです。
その壁とは、
「罪悪感」です。
この「罪悪感」がまたまた厄介な存在で、
あなたは意識していないのに勝手に抱え込んでしまっているんです。
先ほどの「こんなこと言ったら・・・」です、
「迷惑かな」とか
「めんどくさいかな」とか
「本当はこんなこと聞きたくないよな」とか勝手に。
だから、知らず知らずにあなたの言いたいことに制御がかかってしまい、
言いたいことの半分も言えない状態で会話が終わってしまう。
そしてあとで、
ふと気がつくと「あれ?なんか言いたいコトの半分も結局言えてなかったな」なんて思っても、
相手が親しきそして、近しい人たちだからこそ、
「まあいいっか」と自分の中で割り切ってしまうのです。
こうやって、結局「言えない勝手な思い込みを抱えている」状態のまま、
何かに取り掛かったり、何かを始めようとしても、大元の引っ掛かりが取れていないので、
なんかうまく進めない現状の繰り返しとなってしまうのです。
これは、
個人的な悩み・問題・課題や
ビジネス的な悩み・問題・課題にも共通しています。
自分が、自分を自由にさせていない状態で、自分を構築してしまっている。
ここで必要な考え方は、
フランスの哲学者 : ジャック・デリダ の「脱構築」です。
階層的二項対立の優劣逆転の考え方。
詳しい内容は省きますが、
「善」と「悪」という二項対立の勝手な思い込みによる優劣を逆転させる。
悩み・問題・課題に対して、大元の概念を変えれば、その悩み・問題・課題が消える。
今のあなたには「脱構築」が必要なんです。
ここで気がつきましたが、
すっかりいつもと同じようにツラツラと書き込んでしまい、
本日のテーマ
【改めて自己紹介】を
すっ飛ばしてしまいました。が、
私の自己紹介としては、
本日、お伝えさせていただいた内容の
「言えない勝手な思い込みを抱えている」クライアント様に対して、
整頭師(せいずし)という立場から、
クライアント様の頭の中と日々共に向き合いながら、
個人や企業としての悩みや問題・課題の解決や、
考え方をプロデュースする
「特有性(ブランディング)構築」
「実現未来(ビジョン)設定」の確立をさせるお手伝いを行なっております。
※[整頭師 : 整体師は体を整え、整頭師は脳内を整える]
クライアント様からはよく、
「この話がこんな風になるとは思っていなかった」
とか
「この言葉をこんな風に認識したの初めてだわ」
なんて言われます。
でもこれって、単にその人の頭の中の考え方が偏って固まってしまっていただけなんです。
それを少しほぐしただけのことなんですよ。
本当にだたお話を伺っているだけ、少しだけ大元に目が向くようにしているだけなんです。
ビジネスというあなたに都合の良い割り切った関係性を利用して、
あなたの「言えない勝手な思い込み」を打ち明けることで「脱構築」する!
あなたに今必要なのはこれですよ!
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
連続投稿20回目となるキリが悪い回ですが、
【 改めて自己紹介 】
をさせていただきます。
みなさんがよく抱えていらっしゃる悩みや問題・課題の大元は、
「言えない勝手な思い込みを抱えている」
と定義つけています。
人間って本当に「言えない勝手な思い込み」を作ってしまうんです。
「こんなこと言っちゃいけないんじゃないかな?」
「こんなこと言ったら怒られる?」
「こんなこと言ったら嫌われる?」
「こんなこと言ったら恥ずかしい」
「こんなこと言ったらどう思われるかな?」
「こんなこと言ったら・・・」のオンパレード。
また「言う」といった行為を、勇気が必要なコトだと勝手に思ってしまっている。
全ては「言えない勝手な思い込み」だけなんですけど。
だから、いつまで経っても「思い込みを抱えている」すっきりとしない状態のままとなってしまう。
ではなぜそうなってしまうのか?
それは、
先ほどから幾度と登場している「思い込み」が全てをセーブしているからです。
ではこの「思い込み」とは何か。
思い込みとは、あなたの「考え方への執着」です。
前回の投稿の【自分への執着】とも被ってしまいますが、
自分が正しいということの根拠みたいなモノですね。
この絶対的な自分の「考え方への執着」が実は自分自身を苦しめているんです。
“人間の全ての行動基盤は「考え方」、「考え方」があなたを形成している”
いやいや、でも友人とか恋人とか先輩や親や兄弟と言った、あなたにも話ができる相手の人がいますよね。
でもこのような人たちに対しても、
あなたが伝えられない、
あなたが見えていない「壁」みたいなものがあるんです。
その壁とは、
「罪悪感」です。
この「罪悪感」がまたまた厄介な存在で、
あなたは意識していないのに勝手に抱え込んでしまっているんです。
先ほどの「こんなこと言ったら・・・」です、
「迷惑かな」とか
「めんどくさいかな」とか
「本当はこんなこと聞きたくないよな」とか勝手に。
だから、知らず知らずにあなたの言いたいことに制御がかかってしまい、
言いたいことの半分も言えない状態で会話が終わってしまう。
そしてあとで、
ふと気がつくと「あれ?なんか言いたいコトの半分も結局言えてなかったな」なんて思っても、
相手が親しきそして、近しい人たちだからこそ、
「まあいいっか」と自分の中で割り切ってしまうのです。
こうやって、結局「言えない勝手な思い込みを抱えている」状態のまま、
何かに取り掛かったり、何かを始めようとしても、大元の引っ掛かりが取れていないので、
なんかうまく進めない現状の繰り返しとなってしまうのです。
これは、
個人的な悩み・問題・課題や
ビジネス的な悩み・問題・課題にも共通しています。
自分が、自分を自由にさせていない状態で、自分を構築してしまっている。
ここで必要な考え方は、
フランスの哲学者 : ジャック・デリダ の「脱構築」です。
階層的二項対立の優劣逆転の考え方。
詳しい内容は省きますが、
「善」と「悪」という二項対立の勝手な思い込みによる優劣を逆転させる。
悩み・問題・課題に対して、大元の概念を変えれば、その悩み・問題・課題が消える。
今のあなたには「脱構築」が必要なんです。
ここで気がつきましたが、
すっかりいつもと同じようにツラツラと書き込んでしまい、
本日のテーマ
【改めて自己紹介】を
すっ飛ばしてしまいました。が、
私の自己紹介としては、
本日、お伝えさせていただいた内容の
「言えない勝手な思い込みを抱えている」クライアント様に対して、
整頭師(せいずし)という立場から、
クライアント様の頭の中と日々共に向き合いながら、
個人や企業としての悩みや問題・課題の解決や、
考え方をプロデュースする
「特有性(ブランディング)構築」
「実現未来(ビジョン)設定」の確立をさせるお手伝いを行なっております。
※[整頭師 : 整体師は体を整え、整頭師は脳内を整える]
クライアント様からはよく、
「この話がこんな風になるとは思っていなかった」
とか
「この言葉をこんな風に認識したの初めてだわ」
なんて言われます。
でもこれって、単にその人の頭の中の考え方が偏って固まってしまっていただけなんです。
それを少しほぐしただけのことなんですよ。
本当にだたお話を伺っているだけ、少しだけ大元に目が向くようにしているだけなんです。
ビジネスというあなたに都合の良い割り切った関係性を利用して、
あなたの「言えない勝手な思い込み」を打ち明けることで「脱構築」する!
あなたに今必要なのはこれですよ!
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月10日
【自分への執着】
【019】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
質問からスタートします。
あなたは、
信号が青に変わるまで待ちますか?
それとも赤信号で渡りますか?
状況としては、
自分以外に誰もいない、車も来ていなくて安全が確認できる無人の交差点。
目の前の信号機の色は赤。あなたはこの目の前の横断歩道を渡ろうとしています。
考えていただきありがとうございます。
この質問に対して、正解とか不正解などもちろんありません。
私がお伝えしておきたいことは、
フランスの哲学者 : ミシェル・フーコーの
「パノプティコン」の話です。
“自分が自分を監視している”
「パノプティコン」とは、全展望監視システムのこと。
人間は自分の中にふたつの役割を引き受けていて、
「監視者」の役割が、もう一人の自分「囚人」に目を光らせている状態。
一人の人間の中に
「監視役=権力を使う者」と
「囚人=権力に服従する者」という構造となっています。
今回は、
信号が青に変わるまで待つ。方にスポットを当てたいと思いますが、
特徴的な人としては、真面目な人です。
真面目な人ほど、自分以外の周りの人にどう見られるかよりも、
「自分で定めた自分であること」を重視します。
その定めを守り通すことで、「自分の中の何か」を保つように、
信号が青に変わるまでは、絶対に渡らない。
わかりやすく言うと「自分への執着」が非常に強いのです。
この「自分への執着」が強ければ強いほど、周りの状況が見えていない状態です。
「自分」がどう考えたとか、
「自分」はこう思ったとか、
「自分」「自分」「自分」、、、
「自分の考えや意見を述べることって大事!」って。
もちろんとても大事なことです。
ここでお伝えしたいのは、
どのような視点からモノゴトを捉えているのかという「視点軸」です。
「自分への執着」が強いのは、視点軸が必ず「自分」にあると言うこと。
いつもの視点軸から少し位置を移してみようと試みても、
自分の中にいる監視者がそれを絶対に許してはくれない。キラリと目を光らせているのです。
でも実は真面目な人は、そうやって監視されていることが楽だったりもするし、
固定されている感じが好きだったりもするので、視点軸を移さないのです。
例えば、
何かを考える時、何かを伝える時、
または、
何かに悩んでいる時、
その悩んでしまっている「自分」のままの視点から解決しようとしているので、
悩んでしまっている「自分」が「自ぶん」へと変化した程度になるだけなんです。
結局は「自分」から離れていない、離れることができていない、
周りからすれば、何も変わっていませんよってことになるのです。
出発の視点軸が「自分」「私」「俺」では解決ができない、ダメだってことなんですけど、
このダメだってことがわかっているけれど、どこかで認められない「自分」がいるんでしょうね。
やっぱり拘ってしまうのです。「自分」に。
やはり、この「執着」がとても厄介な存在です。
こうなると多くの方々はこの「執着」をどうにか克服しようと必死になってしまう。
そう、「自分」のためにですね。
ここで1つご提案をさせていただくと、
厄介な「執着」が存在するのであれば、「自分」という視点軸から抜け出せないのであれば、
それを思いっきり利用して監視者と楽しんじゃいましょう!というご提案です。
大好きな「自分への執着」が思う存分発揮できる
「空想的な場所」
を自分で作ってしまえばいいんです。
そこではとにかく「自分」「自分」自分」。思いっきり自分!
認めてください!褒めてください!私こう感じます!俺こう思いました!っていう場所。
自分がダサく輝ける場所
「自分への執着を自覚した上で、最大限の研ぎ澄まされた自分を吐き出せる場所」
こんな場所を1つだけ持っておく。
楽しそうですね。
その場所は、SNSなのかコミニティなのかどこでもなんでもいいと思います。
そうやって自覚できる場所があるからこそ、
思いっきり発揮できる場所があるからこそ、
普段は、自分という軸から視点を移して切り離した状態で
モノゴトを捉えていくことができるのです。
普段時は、常に構造を捉えて思考し、
周りの人間をどう読んで、どう使って、状況をどう動かしていくか、
そのために、
今の自分は、どんな立ち位置でいることがいいのか・何を考えたことにするのか・そのために必要な設定は・悪役に回るべきか・様々な場面において疲れ果てるほどに周りに目を配り、
「J I B U N N 」を捏造し、演じるのです。
いつものJIBUNNは構造視点を持ち、
真面目な自分は、実存視点で思いっきり「空想的な場所」で謳歌させる。
こんな切り替えをする考え方を1つ持っておくこともいいと思います。
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
質問からスタートします。
あなたは、
信号が青に変わるまで待ちますか?
それとも赤信号で渡りますか?
状況としては、
自分以外に誰もいない、車も来ていなくて安全が確認できる無人の交差点。
目の前の信号機の色は赤。あなたはこの目の前の横断歩道を渡ろうとしています。
考えていただきありがとうございます。
この質問に対して、正解とか不正解などもちろんありません。
私がお伝えしておきたいことは、
フランスの哲学者 : ミシェル・フーコーの
「パノプティコン」の話です。
“自分が自分を監視している”
「パノプティコン」とは、全展望監視システムのこと。
人間は自分の中にふたつの役割を引き受けていて、
「監視者」の役割が、もう一人の自分「囚人」に目を光らせている状態。
一人の人間の中に
「監視役=権力を使う者」と
「囚人=権力に服従する者」という構造となっています。
今回は、
信号が青に変わるまで待つ。方にスポットを当てたいと思いますが、
特徴的な人としては、真面目な人です。
真面目な人ほど、自分以外の周りの人にどう見られるかよりも、
「自分で定めた自分であること」を重視します。
その定めを守り通すことで、「自分の中の何か」を保つように、
信号が青に変わるまでは、絶対に渡らない。
わかりやすく言うと「自分への執着」が非常に強いのです。
この「自分への執着」が強ければ強いほど、周りの状況が見えていない状態です。
「自分」がどう考えたとか、
「自分」はこう思ったとか、
「自分」「自分」「自分」、、、
「自分の考えや意見を述べることって大事!」って。
もちろんとても大事なことです。
ここでお伝えしたいのは、
どのような視点からモノゴトを捉えているのかという「視点軸」です。
「自分への執着」が強いのは、視点軸が必ず「自分」にあると言うこと。
いつもの視点軸から少し位置を移してみようと試みても、
自分の中にいる監視者がそれを絶対に許してはくれない。キラリと目を光らせているのです。
でも実は真面目な人は、そうやって監視されていることが楽だったりもするし、
固定されている感じが好きだったりもするので、視点軸を移さないのです。
例えば、
何かを考える時、何かを伝える時、
または、
何かに悩んでいる時、
その悩んでしまっている「自分」のままの視点から解決しようとしているので、
悩んでしまっている「自分」が「自ぶん」へと変化した程度になるだけなんです。
結局は「自分」から離れていない、離れることができていない、
周りからすれば、何も変わっていませんよってことになるのです。
出発の視点軸が「自分」「私」「俺」では解決ができない、ダメだってことなんですけど、
このダメだってことがわかっているけれど、どこかで認められない「自分」がいるんでしょうね。
やっぱり拘ってしまうのです。「自分」に。
やはり、この「執着」がとても厄介な存在です。
こうなると多くの方々はこの「執着」をどうにか克服しようと必死になってしまう。
そう、「自分」のためにですね。
ここで1つご提案をさせていただくと、
厄介な「執着」が存在するのであれば、「自分」という視点軸から抜け出せないのであれば、
それを思いっきり利用して監視者と楽しんじゃいましょう!というご提案です。
大好きな「自分への執着」が思う存分発揮できる
「空想的な場所」
を自分で作ってしまえばいいんです。
そこではとにかく「自分」「自分」自分」。思いっきり自分!
認めてください!褒めてください!私こう感じます!俺こう思いました!っていう場所。
自分がダサく輝ける場所
「自分への執着を自覚した上で、最大限の研ぎ澄まされた自分を吐き出せる場所」
こんな場所を1つだけ持っておく。
楽しそうですね。
その場所は、SNSなのかコミニティなのかどこでもなんでもいいと思います。
そうやって自覚できる場所があるからこそ、
思いっきり発揮できる場所があるからこそ、
普段は、自分という軸から視点を移して切り離した状態で
モノゴトを捉えていくことができるのです。
普段時は、常に構造を捉えて思考し、
周りの人間をどう読んで、どう使って、状況をどう動かしていくか、
そのために、
今の自分は、どんな立ち位置でいることがいいのか・何を考えたことにするのか・そのために必要な設定は・悪役に回るべきか・様々な場面において疲れ果てるほどに周りに目を配り、
「J I B U N N 」を捏造し、演じるのです。
いつものJIBUNNは構造視点を持ち、
真面目な自分は、実存視点で思いっきり「空想的な場所」で謳歌させる。
こんな切り替えをする考え方を1つ持っておくこともいいと思います。
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月09日
【より俯瞰してプロデュース!合理性はロボットに任せる?!】
【018】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
本日は少し難しい話からさせていただきますが、
あなたにとって、とても大事な話ですのでどうぞ最後までお読みください。
「即自存在」
何かがそれ自体において存在していること。
「対自存在」
自分に対して自分が向かっているというあり方。
フランスの哲学者 : ジャンポール・サルトル
サルトルは、「即自存在」・「対自存在」という言葉を以下のように表現しています。
「即自存在」
人間以外のモノ。
モノ自体が「なぜ存在するのか?」などと感じてはいないし、何も考えていない。
ただ、それ自体がそこにあるだけ。
「対自存在」
私たち人間のこと。
私たち人間は、
自分の「意識」というモノを持っているので「即自存在」という概念が成り立たないのです。
いくら自分自身に「なぜ存在するのか?」と問いかけても、答えらしきコトを見つけられずに、
「無意味」だと思ってしまうのです。
「即自存在」と「対自存在」そして、私たちが存在しているこの世界では、
モノ(事物)と私(自意識)とあともう1つの存在で構成されているのですが、
そのもう1つの存在とはいったいなんでしょうか?
それは、
他人の存在です。
サルトルは、この「他人の存在」から見られた対象としての私のことを「対他存在」と表現しました。
この他人という存在は、私が見ている対象でありながら、私のことを見ている主観でもあるのです。
そして、こうした「対他存在」をつくり出すのは他人の「まなざし」だと言ったのです。
「対他存在」
主体としての対自が他者にとっての客体として現れるような存在のあり方。
私たちは、決して他人の意識の中へと入り込むことができないことはお分かりだと思いますが、
この「対他存在」とは他人のものであり、
この視点からは自分が自分のものではなくなってしまうのです。
他人が存在し、そして他人が自由に想像する限り、
私たちは他人によって「他有化」されるわけです。
そして私たちがここで考えていかなくてはいけないことは、
何も感じず、何も考えずに「即自存在」としていきていくのではなく、
「対自存在」として私の意識が創り出す自分、にだけ焦点を合わせることでもなく、
他人視点から認識される「対他存在」としての私をいかにして演出し感じさせ、
自分の思った通りの存在へと他人の意識を近ずけることができるのか。
ということに自分の意識を置くことが重要なんです。
要するに、
自分も他人も乗り越えた視点、構造をメタ認知して超越した高視点で、
私という存在を捉えていくことが必要なことです。
もし、これまでに自分に対する他人の評価が、自分が思い描いているようなコトとなっていないのであれば、それ自体を否定・批判するのではなく、
「他人に対して何が自分の存在をそのように思わせてしまっているのか」
「他人に対して何が自分の存在の評価基準として、印象をもたらせてしまっているのか」を
一段次元高く俯瞰して構造的に捉えるのです。
そうです、
このような視点こそ「プロデューサー視点」ということです!
あなた自身が自分のプロデューサーとなり、自分を思い通りのままに演出していく。
これこそがいわゆる「自己プロデュース」というのです。
他人に対して「自分」という存在をどのような見方をさせて、どのような世界観を他人に語らせるのか。ここに視点を当てる以外はないのですね。
そして最後に、
私が、自己プロデュースに大事なことだと思っているのは、
いかにして「人間的であるか!」です。
これからは「より人間的」な人間が求められる時代です。
今までの常に合理性を求め、追求してきた時代というのはロボットに任せて、
より人間的な人間が価値がある時代となるのです。
そして、この人間的時代のキーワードが、
「スマートクリエイティブ」です。
スマートクリエイティブとは
多才で、多様な分野に旺盛な好奇心を示し、
それでいて専門性と創造力を併せ持った人のこと。
「何かを知っている人」ではなく、
「何も知らなかったとしても、最適解をその場で導ける人」です。
つまり
「Information(インフォメーション)」よりも
「Intelligence(インテリジェンス)」が必要だということです。
高次元の高視点 =「神目線」で自分という存在をプロデュースしていきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
本日は少し難しい話からさせていただきますが、
あなたにとって、とても大事な話ですのでどうぞ最後までお読みください。
「即自存在」
何かがそれ自体において存在していること。
「対自存在」
自分に対して自分が向かっているというあり方。
フランスの哲学者 : ジャンポール・サルトル
サルトルは、「即自存在」・「対自存在」という言葉を以下のように表現しています。
「即自存在」
人間以外のモノ。
モノ自体が「なぜ存在するのか?」などと感じてはいないし、何も考えていない。
ただ、それ自体がそこにあるだけ。
「対自存在」
私たち人間のこと。
私たち人間は、
自分の「意識」というモノを持っているので「即自存在」という概念が成り立たないのです。
いくら自分自身に「なぜ存在するのか?」と問いかけても、答えらしきコトを見つけられずに、
「無意味」だと思ってしまうのです。
「即自存在」と「対自存在」そして、私たちが存在しているこの世界では、
モノ(事物)と私(自意識)とあともう1つの存在で構成されているのですが、
そのもう1つの存在とはいったいなんでしょうか?
それは、
他人の存在です。
サルトルは、この「他人の存在」から見られた対象としての私のことを「対他存在」と表現しました。
この他人という存在は、私が見ている対象でありながら、私のことを見ている主観でもあるのです。
そして、こうした「対他存在」をつくり出すのは他人の「まなざし」だと言ったのです。
「対他存在」
主体としての対自が他者にとっての客体として現れるような存在のあり方。
私たちは、決して他人の意識の中へと入り込むことができないことはお分かりだと思いますが、
この「対他存在」とは他人のものであり、
この視点からは自分が自分のものではなくなってしまうのです。
他人が存在し、そして他人が自由に想像する限り、
私たちは他人によって「他有化」されるわけです。
そして私たちがここで考えていかなくてはいけないことは、
何も感じず、何も考えずに「即自存在」としていきていくのではなく、
「対自存在」として私の意識が創り出す自分、にだけ焦点を合わせることでもなく、
他人視点から認識される「対他存在」としての私をいかにして演出し感じさせ、
自分の思った通りの存在へと他人の意識を近ずけることができるのか。
ということに自分の意識を置くことが重要なんです。
要するに、
自分も他人も乗り越えた視点、構造をメタ認知して超越した高視点で、
私という存在を捉えていくことが必要なことです。
もし、これまでに自分に対する他人の評価が、自分が思い描いているようなコトとなっていないのであれば、それ自体を否定・批判するのではなく、
「他人に対して何が自分の存在をそのように思わせてしまっているのか」
「他人に対して何が自分の存在の評価基準として、印象をもたらせてしまっているのか」を
一段次元高く俯瞰して構造的に捉えるのです。
そうです、
このような視点こそ「プロデューサー視点」ということです!
あなた自身が自分のプロデューサーとなり、自分を思い通りのままに演出していく。
これこそがいわゆる「自己プロデュース」というのです。
他人に対して「自分」という存在をどのような見方をさせて、どのような世界観を他人に語らせるのか。ここに視点を当てる以外はないのですね。
そして最後に、
私が、自己プロデュースに大事なことだと思っているのは、
いかにして「人間的であるか!」です。
これからは「より人間的」な人間が求められる時代です。
今までの常に合理性を求め、追求してきた時代というのはロボットに任せて、
より人間的な人間が価値がある時代となるのです。
そして、この人間的時代のキーワードが、
「スマートクリエイティブ」です。
スマートクリエイティブとは
多才で、多様な分野に旺盛な好奇心を示し、
それでいて専門性と創造力を併せ持った人のこと。
「何かを知っている人」ではなく、
「何も知らなかったとしても、最適解をその場で導ける人」です。
つまり
「Information(インフォメーション)」よりも
「Intelligence(インテリジェンス)」が必要だということです。
高次元の高視点 =「神目線」で自分という存在をプロデュースしていきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月08日
【爪痕から始まる「言葉の悟る微妙な感覚」とは?】
【017】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回の投稿で、
人間は自ら過剰を作り出し、破壊をすることで快楽を得るというお話をさせていただきました。
フランスの哲学者:ジョルジュ・バタイユ
「美しさは凌辱することに快感を覚える」と言っています。
人間というのは、より美しいものを破壊したいと言う欲望があるようです。
初めから「醜いもの」は汚しようがないので、
「ただ醜いもの」だったのか、
それとも、
「元々は美しいもの」だったのか、
相対する2つのタイプによってまったく捉え方が違ったモノへとなっていくのです。
どちらが、どのような捉え方となるのか?
それは、
「ただ醜いもの」のタイプには「ない」
「元々は美しいもの」のタイプには「ある」
ものというように分類ができるということです。
どういうことかをもっと掘り下げます。
それは、「破壊の爪痕」があるのかないのかです。
この「破壊の爪痕」が重要で、ここには物語が成り立つんです。
元々美しかったものを崩したという「物語」に人は魅せられ、そこに快楽を求めてしまうのです。
より強い破壊を感じ取ってしまう。
頭の中で今の醜さをもう一度「美しいもの」へと戻し、
そしてさらにもう一度「醜いもの」へと変化させることで、
より大きな破壊へとはこび、快楽を得ようとする。
そう、わざと自ら「崩す」ことに美しさを見出して快楽を得るのです。
日本には「崩しの美学」なんて言葉もありますよね。
これまでに言われていることは、
“あえて基本を守らない手法でコトを行なっていくこと”
と言った意味で捉えられていると思うのですが、
私は、
「美しいもの」をあえて自らの手で崩し、再び捉え直し再生させる途中に「美しさ」がある。
このような表現なのではないかと、捉えています。
日本の言葉というのは、本当におくゆかしいもので、
「捉え方を規制して、導いていく」と、
「相手に委ねる」ことの絶妙なバランスの上に成り立っています。
「言葉の悟る微妙な感覚」このことが非常に美しく感じるのです。
例えば、
「相手に委ねる」と言っても、完全に手放しにするのではなく、
相手が勝手に想像するように導いてあげる。
あえて、こちら側の主張もせず、
あたかも自分でたどり着いたかのように演出してあげるのです。
全てが「あえて」
あえて、言わず
あえて、わかりにくく
あえて、捉えさせず
あえて、足らずにさせる
「違和感の演出」とでもいいましょうか。
期待と裏切りが、人間を取り込み、そして夢中にさせていくのですね。
人間は言葉の世界に生きています。
ですから決して言葉の世界から出ることはできません。
だからこそ、言葉を取り扱う者には重大な責任が伴うのです。
言葉の世界で生きているという自覚が必要ですね。
では、
言葉の世界の外側とは何か?
それは「本能」の世界です。
人間は、この「本能の世界」からものすごく影響を受けます。
影響を受け続ける「言葉の世界」で生きる私たちは、
「本能」とどう向き合って共存し生きていくのか。
これからますます、
「言葉のセンス」を磨いていくことが重要な時代だと思っています。
自分自身の「言葉」をしっかりと持ちながらいきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回の投稿で、
人間は自ら過剰を作り出し、破壊をすることで快楽を得るというお話をさせていただきました。
フランスの哲学者:ジョルジュ・バタイユ
「美しさは凌辱することに快感を覚える」と言っています。
人間というのは、より美しいものを破壊したいと言う欲望があるようです。
初めから「醜いもの」は汚しようがないので、
「ただ醜いもの」だったのか、
それとも、
「元々は美しいもの」だったのか、
相対する2つのタイプによってまったく捉え方が違ったモノへとなっていくのです。
どちらが、どのような捉え方となるのか?
それは、
「ただ醜いもの」のタイプには「ない」
「元々は美しいもの」のタイプには「ある」
ものというように分類ができるということです。
どういうことかをもっと掘り下げます。
それは、「破壊の爪痕」があるのかないのかです。
この「破壊の爪痕」が重要で、ここには物語が成り立つんです。
元々美しかったものを崩したという「物語」に人は魅せられ、そこに快楽を求めてしまうのです。
より強い破壊を感じ取ってしまう。
頭の中で今の醜さをもう一度「美しいもの」へと戻し、
そしてさらにもう一度「醜いもの」へと変化させることで、
より大きな破壊へとはこび、快楽を得ようとする。
そう、わざと自ら「崩す」ことに美しさを見出して快楽を得るのです。
日本には「崩しの美学」なんて言葉もありますよね。
これまでに言われていることは、
“あえて基本を守らない手法でコトを行なっていくこと”
と言った意味で捉えられていると思うのですが、
私は、
「美しいもの」をあえて自らの手で崩し、再び捉え直し再生させる途中に「美しさ」がある。
このような表現なのではないかと、捉えています。
日本の言葉というのは、本当におくゆかしいもので、
「捉え方を規制して、導いていく」と、
「相手に委ねる」ことの絶妙なバランスの上に成り立っています。
「言葉の悟る微妙な感覚」このことが非常に美しく感じるのです。
例えば、
「相手に委ねる」と言っても、完全に手放しにするのではなく、
相手が勝手に想像するように導いてあげる。
あえて、こちら側の主張もせず、
あたかも自分でたどり着いたかのように演出してあげるのです。
全てが「あえて」
あえて、言わず
あえて、わかりにくく
あえて、捉えさせず
あえて、足らずにさせる
「違和感の演出」とでもいいましょうか。
期待と裏切りが、人間を取り込み、そして夢中にさせていくのですね。
人間は言葉の世界に生きています。
ですから決して言葉の世界から出ることはできません。
だからこそ、言葉を取り扱う者には重大な責任が伴うのです。
言葉の世界で生きているという自覚が必要ですね。
では、
言葉の世界の外側とは何か?
それは「本能」の世界です。
人間は、この「本能の世界」からものすごく影響を受けます。
影響を受け続ける「言葉の世界」で生きる私たちは、
「本能」とどう向き合って共存し生きていくのか。
これからますます、
「言葉のセンス」を磨いていくことが重要な時代だと思っています。
自分自身の「言葉」をしっかりと持ちながらいきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!