「信仰」や「祈り」は、宗教的な事柄であるために、神秘的なこととして考えられることが多いようです。
確かに、神秘的な側面が強いですが、違う側面から見てみることも重要でしょう。
脳科学といった分野から、「信仰」「祈り」を再認識することは、興味深いことと思われます。
「信仰者にとって、祈るための時間は、本来なら一日のうちで最も厳粛で大切なひとときであることでしょう。にもかかわらず、「ルーティン化」という脳の性質によって、祈りの時間が「惰性で行う、ただの習慣」に堕してしまいがちなのです。そして、歯磨きのようなたんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまうのではないでしょうか」(中野信子『脳科学からみた「祈り」』潮出版社 61頁〜62頁)
信仰をはじめた時は、新鮮な気持ちで「祈り」がなされるでしょうが、慣れてくると新鮮さがなくなり、ダラダラした「祈り」になるようです。
こうなってしまうのは、脳の性質のようですね。「ルーティン化」する性質が関係しているようです。
そうなってしまうものと考えておけばよいですね。
脳の性質がそうであるからといって、惰性で叶いもしない祈りをしても仕方がありませんから、脳の性質を理解した上で、さまざまな工夫をしなければなりません。
とりあえず信仰しておけばよいというものではありませんね。
何かにつけて工夫もなく「信心、信心」といっている単なる信仰は、信仰ですらなくなるということですね。
日々、新しいものを取り入れるという姿勢で「信仰」「祈り」を行うべきでしょう。
変化がないと脳は反応しないようですから、時折、自分の「信仰」「祈り」を見つめ直すという癖をつけておきたいですね。
自分自身の「信仰」「祈り」が惰性になっていないかどうか、単なる習慣になっていないかどうか、どこに変化を入れればよいかどうか等々、自分で練り直しをするしかないですね。
「信仰」「祈り」をすることによって、境涯が上がっていくという側面がありますが、そもそも、「信仰」「祈り」をする前の境涯が決定的に重要ですね。
どうにか、惰性の「祈り」を脱し、然るべき「祈り」を為すことができれば、然るべき宗教的境地が得られます。
この宗教的な境地について、アメリカの大学で研究があったようですね。
「ペンシルベニア大のアンドリュー・ニューバーグのグループの研究に、「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
実験では、被験者の脳の「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚」であることを実際に報告しています。具体的には「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ」という表現で、その感覚の説明を試みています」(同書 73頁〜74頁)
まさに法華経的な境地ですね。
繋がっている感覚、包まれている感覚、広がっていく感覚、一体感といったものがあるようです。
法華経は、宇宙大の広がりを感じさせる経典であり、広がりを強調しながら、分断ではなく、結合を志向しているようです。
法華経を読むと分かりますが、時間にしても空間にしても膨大な単位の数字を出し、結局、数えることが不可能であることを表現しています。
時間といっても、始まりもなければ終わりもないという永遠性で表現し、空間といっても、果てがない、突き当りがない、どこまでも広がっていくような感じで表現しています。
法華経は、区切りや分断を拒否しているかのようです。
自他との境がなく、自分という存在は、有情である他者と繋がっているだけでなく、世界、宇宙という非情とも繋がっていることを目指しているようです。
よって、法華経を信仰する人は、このような法華経的感覚を感じ取るのでしょうね。
妙楽大師の言葉に「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」という言葉がありますが、この言葉など、自分が宇宙大の広がりの中で存在していることを適切に表現しています。
また、「祈り」といっても、何を祈るの?というところが重要でしょう。
何を祈っているかでその人の境涯が分かるわけですが、何に注目しているかどうかは、「運」とも関係しているようです。
「京都大学の藤井聡教授が、心理学的アプローチから「運」の正体に迫った「他人に配慮できる人は運がよい」という論文を発表しました。これは、「認知的焦点化理論」というものを用いた研究です。
「認知的焦点化理論」とは、かんたんに言えば、「人が心の奥底で何に焦点を当てているか?」によって、その人の運のよし悪しまでが決まってくる、という考え方です。
藤井教授の研究で、「利己的な傾向を持つ人々の方が、そうでない人々よりも、主観的な幸福感が低い」ということが明らかになりました。利己的な人ほど、自分は幸福ではないと思ったり、周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い、という結果が示されたのです」(同書 93頁〜94頁)
先程、触れたように、自分と他者とが繋がっているとの感覚、世界、宇宙との一体感という観点からすれば、利己的という態度は、ありえない態度といえるでしょう。
なぜ、区切りを設け、分断して、そして、自分だけ良ければよいと考えるのか。
法華経の次元からすると不可思議に思えますね。
利己的で自分だけ良ければよいと考え、その通り行動し、それなりに幸福感を得れば、それはそれでいいのでしょうが、実際の研究では、幸福感が低く、それだけでなく、不幸感が強いということです。
やはり、この世の中は法華経が説くような世の中であり、法華経通りでない場合、それなりの境涯になってしまうようですね。
法華経を何度も確認しながら、法華経通りの所作をもって、「運」のある人生を生きていきたいものですね。
2013年06月16日
能「隅田川」
能の名作のひとつである「隅田川」の詞章は、素晴らしいものです。
作者は、観世元雅ということですが、なかなかの人物ですね。
他の能の詞章の場合、ものによっては、くどく感じられるものもありますが、「隅田川」の詞章には、全くの無駄がなく、くどさなどありません。
何度、読んでも、また、音読しても心地よいという特徴がありますね。
内容も、『伊勢物語』を土台にしているだけあって、雅な感じ、麗しい感じがあります。
文学的にも優れた詞章といえるでしょう。
『伊勢物語』第九段に出てくる業平の和歌を引用していますが、趣のある和歌ですね。
シテは、物狂ですが、今の言葉の感覚では、病気なのかと思ってしまいますけれども、病気とは関係がないようですね。
「物狂はすでにふれたように病気ではありませんが、ある一つのことを思いつめて他を省みない。精神が異常に集中している状態です」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 161頁)
一点集中の状態が、物狂というわけですね。
「物狂は病気ではないことはすでにふれた通りですが、それは物に狂うさまを見せる芸でもありました。物狂がなにかに集中するように、芸もまたなにかにとりつかれている状態でもあるからです」(同書 162頁)
また、物狂が芸でもあったということですね。
「隅田川」の詞章で気になるところをあげてみましょう。
もとよりも、契り仮なる一つ世の、契り仮なる一つ世の、そのうちをだに添ひもせで
親子の縁というものは、その時かぎりの、現世かぎりのものである、と謡っています。
その一回かぎりの親子の縁ですら、一緒にいられないとは、何と悲しいことよ、と謡い、悲しさがよく表れています。
「子を失った母の悲しみは他人にははかり知れない、そのはかり知ることができない深さを、能はきわめて鮮明に描いていることです。その目に見えない心の絶叫は抑えに抑えた表現によってかえって鮮明になるのです」(同書 165頁)
仰々しくないところが能の良さであろうと思います。
しかし、現今の能は、江戸時代からの伝統を引き継いでいるようで、謡いそのものが、あまりにもゆっくりです。
観阿弥、世阿弥、観世元雅の室町時代の頃の謡のスピードは、現在の半分程度であったようです。
「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)
例えば、狂言が現在のスピードの二倍に延びてしまったら、面白くもなんともないでしょう。
なぜ、ゆっくり過ぎる演じ方になるのかといぶかしく感じられるでしょう。
現在の「隅田川」の上演時間は約80分ですが、詞章の分量からすれば、半分の約40分が妥当のような気がします。
そうしますと、いい意味での緊張感も出るように思います。
江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大事にしてもらいたいと思いますね。
正直なところ、眠たくなるだけです。
せっかく素晴らしい詞章があるわけですから、その素晴らしさを引き出すべきでしょう。
あまりにもゆっくり過ぎる謡いは素晴らしい詞章を壊す所作と思いますね。
狂言で演じられているスピードを参考にすべきでしょうね。
狂言は、ゆっくりとはいえ、程よい感じのスピードであり、絶妙な演じ方といえるでしょう。
その上で、世阿弥、観世元雅の芸論に基づき、素晴らしい能を見せていただきたいものです。
「世阿弥は、能を本来現実では見ることができないもの、見えないものを見るものだと考えていた。梅若丸の亡霊はもとより芸そのものまで。能は目だけではなく精神の見るもの、そう思っていた。だから声だけの方がいいのです。
しかし元雅はそうは思わなかった。世阿弥のいうとおり、能は見えないものを見せるものに違いないとしても、それを形にしてみせることこそ能の本質だと思っていたのでしょう。そこにこそ、奇蹟が現実になる瞬間の面白さがある」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 171頁〜172頁)
とはいえ、いつまでもゆっくり過ぎる謡いによる能を見せられることになるでしょうね。
新しい人が出てこない限り、変化はないでしょう。
能の翻案といった演劇もひとつの可能性として考えられるでしょう。
歌舞伎にその一端が感じられますが、やはり、歌舞伎は歌舞伎であり、翻案というよりも、違う作品になっていますね。
能の詞章を活かす演劇が出てきてもよいように思います。
作者は、観世元雅ということですが、なかなかの人物ですね。
他の能の詞章の場合、ものによっては、くどく感じられるものもありますが、「隅田川」の詞章には、全くの無駄がなく、くどさなどありません。
何度、読んでも、また、音読しても心地よいという特徴がありますね。
内容も、『伊勢物語』を土台にしているだけあって、雅な感じ、麗しい感じがあります。
文学的にも優れた詞章といえるでしょう。
『伊勢物語』第九段に出てくる業平の和歌を引用していますが、趣のある和歌ですね。
名にし負はば、いざ言問はん都鳥、我が思ふ人はありやなしやと
シテは、物狂ですが、今の言葉の感覚では、病気なのかと思ってしまいますけれども、病気とは関係がないようですね。
「物狂はすでにふれたように病気ではありませんが、ある一つのことを思いつめて他を省みない。精神が異常に集中している状態です」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 161頁)
一点集中の状態が、物狂というわけですね。
「物狂は病気ではないことはすでにふれた通りですが、それは物に狂うさまを見せる芸でもありました。物狂がなにかに集中するように、芸もまたなにかにとりつかれている状態でもあるからです」(同書 162頁)
また、物狂が芸でもあったということですね。
「隅田川」の詞章で気になるところをあげてみましょう。
もとよりも、契り仮なる一つ世の、契り仮なる一つ世の、そのうちをだに添ひもせで
親子の縁というものは、その時かぎりの、現世かぎりのものである、と謡っています。
その一回かぎりの親子の縁ですら、一緒にいられないとは、何と悲しいことよ、と謡い、悲しさがよく表れています。
「子を失った母の悲しみは他人にははかり知れない、そのはかり知ることができない深さを、能はきわめて鮮明に描いていることです。その目に見えない心の絶叫は抑えに抑えた表現によってかえって鮮明になるのです」(同書 165頁)
仰々しくないところが能の良さであろうと思います。
しかし、現今の能は、江戸時代からの伝統を引き継いでいるようで、謡いそのものが、あまりにもゆっくりです。
観阿弥、世阿弥、観世元雅の室町時代の頃の謡のスピードは、現在の半分程度であったようです。
「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)
例えば、狂言が現在のスピードの二倍に延びてしまったら、面白くもなんともないでしょう。
なぜ、ゆっくり過ぎる演じ方になるのかといぶかしく感じられるでしょう。
現在の「隅田川」の上演時間は約80分ですが、詞章の分量からすれば、半分の約40分が妥当のような気がします。
そうしますと、いい意味での緊張感も出るように思います。
江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大事にしてもらいたいと思いますね。
正直なところ、眠たくなるだけです。
せっかく素晴らしい詞章があるわけですから、その素晴らしさを引き出すべきでしょう。
あまりにもゆっくり過ぎる謡いは素晴らしい詞章を壊す所作と思いますね。
狂言で演じられているスピードを参考にすべきでしょうね。
狂言は、ゆっくりとはいえ、程よい感じのスピードであり、絶妙な演じ方といえるでしょう。
その上で、世阿弥、観世元雅の芸論に基づき、素晴らしい能を見せていただきたいものです。
「世阿弥は、能を本来現実では見ることができないもの、見えないものを見るものだと考えていた。梅若丸の亡霊はもとより芸そのものまで。能は目だけではなく精神の見るもの、そう思っていた。だから声だけの方がいいのです。
しかし元雅はそうは思わなかった。世阿弥のいうとおり、能は見えないものを見せるものに違いないとしても、それを形にしてみせることこそ能の本質だと思っていたのでしょう。そこにこそ、奇蹟が現実になる瞬間の面白さがある」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 171頁〜172頁)
とはいえ、いつまでもゆっくり過ぎる謡いによる能を見せられることになるでしょうね。
新しい人が出てこない限り、変化はないでしょう。
能の翻案といった演劇もひとつの可能性として考えられるでしょう。
歌舞伎にその一端が感じられますが、やはり、歌舞伎は歌舞伎であり、翻案というよりも、違う作品になっていますね。
能の詞章を活かす演劇が出てきてもよいように思います。