2017年02月28日
鬼石蔓子?(終)
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「阿古蛇形兜緋糸威中札二枚胴具足」。
「島津義弘」が関ヶ原の合戦のとき、身につけていたとされる
大鎧につけられた名前です。
当時としても時代遅れ、他の大名達は鎖帷子に陣羽織、頭には烏帽子
という軽装が主流でしたが、義弘だけは鎌倉武将以来のスタイルを崩し
ませんでした。よく観ると、兜の前立てに狐の装飾品が付いているのが
わかると思います。
慶長の役、泗川の戦いのとき、押し寄せる明の大軍の方に向かい赤と白の2匹の
狐が走って行くのを見て、「吉兆である」と勝利を確信したといわれています。
以来、義弘は稲荷信仰を強く持つようになり、兜の前立ても狐に変えました。
秀吉の気まぐれから始まった慶長の役は、従軍した各大名の軍勢に多くの死者を
もたらしました。
現地の冬の寒さ、食料の確保がうまく行かずに足軽身分の多くの者達が、凍死・餓死
したなか、島津軍からは殆ど出なかったといわれています。
「島津義弘」の人柄でしょうが、身分の上下にかかわらず、同じ舘で寝て同じ飯を食べ
夜には車座になってみんなと一緒に酒を飲んだと伝えられています。
帰国も関ヶ原の戦いに行ったりと、波乱万丈の人生を過ごし、隠居後は「加治木」に住み
85際の天寿をまっとうしました。
当時薩摩には「殉死禁止令」が出されていたにも関わらず、13名の家臣が腹を切り、
冥土までもお供をしました。
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