2017年01月17日
薩英戦争開戦の砲台跡(天保山公園)
「撃てー」天保山の砲台隊長・鎌田市兵衛の合図で号砲が響き、錦江湾を震わせました。ついにイギリス艦隊との戦いが開始されました。
1863年(文久3年)7月2日(太陽暦8月15日)正午に始まった砲撃戦は、薩摩の必死の戦いでイギリス側にも大きな損害を与えましたが、わずか3時間あまりで城下は壊滅的な打撃を受け、英国艦隊の最新式アームストロング砲の威力を思い知らされたのです。
天保山砲台は、島津家27代藩主・斉興が対外情勢に備えて着手、1850年(嘉永3年)に竣工しました。さらに、後を継いだ斉彬も藩の沿岸各所に砲台を築造、大砲を集成館で造らせ、海防に備えました。
天保山で行われた城下志全体の連合訓練を斉彬、自らが開兵するほど、熱心に取り組んだと伝えられています。
薩英戦争で海外の先進技術に目覚めた薩摩藩は、その後、イギリスへの留学生派遣を行うなど、西洋技術の吸収につとめました。当時の砲台のうち、天保山と祇園之州、対岸の大隅半島にも砲台跡があります。
薩英戦争の原因を作ったのは俗にいう生麦事件です。今の横浜に生麦村という所があり、参勤交代で通りかかった薩摩藩の大名行列の前を馬に乗ったまま横切ろうとした4名の英国人達を、無礼討ちで斬り殺した事に端を発します。
ちなみに、その時の行列は島津家29代当主、忠義とその父で後見人久光のものでした。
1863年(文久3年)7月2日(太陽暦8月15日)正午に始まった砲撃戦は、薩摩の必死の戦いでイギリス側にも大きな損害を与えましたが、わずか3時間あまりで城下は壊滅的な打撃を受け、英国艦隊の最新式アームストロング砲の威力を思い知らされたのです。
天保山砲台は、島津家27代藩主・斉興が対外情勢に備えて着手、1850年(嘉永3年)に竣工しました。さらに、後を継いだ斉彬も藩の沿岸各所に砲台を築造、大砲を集成館で造らせ、海防に備えました。
天保山で行われた城下志全体の連合訓練を斉彬、自らが開兵するほど、熱心に取り組んだと伝えられています。
薩英戦争で海外の先進技術に目覚めた薩摩藩は、その後、イギリスへの留学生派遣を行うなど、西洋技術の吸収につとめました。当時の砲台のうち、天保山と祇園之州、対岸の大隅半島にも砲台跡があります。
薩英戦争の原因を作ったのは俗にいう生麦事件です。今の横浜に生麦村という所があり、参勤交代で通りかかった薩摩藩の大名行列の前を馬に乗ったまま横切ろうとした4名の英国人達を、無礼討ちで斬り殺した事に端を発します。
ちなみに、その時の行列は島津家29代当主、忠義とその父で後見人久光のものでした。
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