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2024年12月10日
「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」の物語りです(^_-)-☆ #正論パンチ
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「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」
12/10(火) 7:04配信
この12月に事件発生から109年目を迎える「三毛別事件」。凶悪熊を討ち取り、その被害を食い止めたハンターの知られざる足跡を『神々の復讐』(講談社刊)の著者中山茂大氏が追った。
前編記事『「胎児を含めた8人が喰い殺された」最恐ヒグマ「三毛別事件」…「稀代の凶悪熊」を討ち取った伝説のハンター「山本兵吉」の知られざる事実』より続く。

地元の名家に「わらじを脱ぐ」
小平町会議員の瀧川司氏によれば、兵吉の本籍「鬼鹿村五十二番地」には、かつて「住吉」という人が経営する旅館があったという。
「かつてニシン漁が盛んだったころは、道南から多くの「ヤン衆」(ニシン漁目当てに出稼ぎにくる漁師)が鬼鹿にやって来た。住吉は旅館業など、手広く商売をする地元の名家だった。おそらく兵吉一家も「ヤン衆」とともに、ニシン漁に沸く鬼鹿村を目指したのだろう。そして住吉家に「わらじを脱いだ」のではないか」(瀧川氏)
「住吉」とは、前編の新聞記事にある慈善家「住吉為右衛門」のことだろう。「わらじを脱ぐ」とは本来「旅を終える」意味だが、北海道では特に「開拓地に入植する」ことを意味する。上記新聞記事の通り、卯之吉は明治二十一年には鬼鹿村に居住し、すでに長く暮らしていたと思われる。おそらく卯之吉が明治の早い時期に山形県南村山郡から北海道を目指し、ニシン漁で活況を呈する鬼鹿村に「わらじを脱いだ」のではないだろうか。
戸籍を辿っていくと、明治三十一年四月二十一日に「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」から、「高島郡稲穂町十七番地」へ転住。さらに明治三十二年六月三日に、再び「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」へ再転入している。「高島郡稲穂町」とは現在の小樽市稲穂で、JR小樽駅前の一等地である。わずか一年ほどの転住に、どのような背景があったのかはわからない。
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サバサキ包丁でヒグマを殺す
明治四十三年七月一日、兵吉は谷下ふよと入籍した。谷下ふよは石川県能美郡中海村の出身で、明治六年六月二十六日生まれ。兵吉との婚姻当時は四十二歳で、長女しげ(当時十五歳)、次女ふじ(同三歳)、長男藤作(同一歳)の三人の連れ子があった。
明治四十四年七月に、兵吉との間に二男、徳太郎を生んだが、大正四年五月五日、鬼鹿村字オンネ沢番外地で死去した。享年四十七歳だった(初山別にある山本家の墓誌には「俗名フユ 行年二十五才」とあり「大正三年五月五日」に死去したことになっている。しかしそれだと長女しげを十歳時に生んだことになり、辻褄が合わない)。戸籍には兵吉が再婚した記録はない。しかし鬼鹿市街地には弟、兵作一家が暮らしていたので、母ムメが同居して子供たちの面倒をみていたのかもしれない。
ここまで兵吉の来歴を見ても、熊撃ち猟師に関係する記述は見当たらない。彼はどこで鉄砲の技量を身につけたのだろうか。
木村によれば、兵吉は若い頃、南樺太(サハリン)に渡っていたという。南樺太は、もともとアイヌ、オロッコなどの先住民や、日本人、ロシア人が居住する雑居地で、明治八年の「千島樺太交換条約」によりロシア領となって以降も、日本人の漁業権が認められていた。兵吉が樺太に渡ることも難しくはなかっただろう。
「サバサキでヒグマを刺し殺した」とあるが、「サバサキ」とは文字通り鯖をさばくのに使う鋭利な包丁である。漁夫として樺太に渡り、そこで鉄砲の技術を学んだのかもしれない。というのは、鬼鹿村に戻った兵吉は、明確に猟師の道を選んでおり、それは、妻ふよに関する記載にある「オンネの沢」つまり鬼鹿市街地から二キロも内陸の「田代集落」に居住していることが証明している。
以下の新聞記事は、その示唆を与えてくれるので、少し長いが抄訳してみよう。
「札幌県下天塩国留萌郡鬼鹿村は鰊漁場にして、毎年その季節には松前郡福島村辺より出稼ぎし、六月末ころはみな帰村し、跡に残って越年するのはわずか二三十戸に過ぎない僻村だが、(中略)一夜、同村字田崎沢口の菓子渡世某方で、十時ごろなにやら突然、仏間の背後を押破る音がしたので、その家の主人は定めて馬の畑に入り来たのだろうから追い出せと職人某に命じたので、職人は直ぐさま縄を用意し外に出ると、なんぞはからん馬と思ったのは一頭の大熊で、それと見るやいなや矢庭にその職人を引き捕え肩に引担いで、どこともなく逃去った。この時職人は必死に助けを呼んだが起き出る者もなく、そのまま熊の餌食となったのは、たいそう憐れなことであった。(中略)翌朝、早速猟夫人足とも十人余りを頼み、そそくさと分けて探したところ、彼の熊は職人某の死体を半身土中に掘り埋め、余りの半身をメリメリ喰らっているのを認めたので、一同砲先を揃へて打放ちたるその弾、あやまたず、いずれもみな的中し、さすがの大熊ももろく打ち倒したので、衆人打ち集まり、熊の腹を割いてみると、かねて田沢奥(※「田代沢奥」のことだろう)に炭焼を渡世とする老父があったが、この老父も喰われたと見え、その腹中に衣類の細片になったもの、その他、結髪をシナ(木皮)で結んだままのもの等あったので、初めて右老父も害されたことを知った」(『函館新聞』明治十八年十月二日)
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金に固執しないヒグマ猟師

この事件は、「和島屋定吉羆騒動」として地元で長く語り継がれ、現場近くの竹園寺に今も碑が建っている。別の資料では、「和島屋は急いで子供を連れ、市街地の住吉(住吉旅館のことか)の家に転がり込み救いを求めた」(『小平百話 記憶の中の物語』鈴木トミエ 平成十二年)とあり、ここでも住吉が出てくる。
それはともかく上記記事から得られる事実がいくつかある。ひとつは、当時の鬼鹿村が、ニシン漁期以外は寒村にすぎなかったこと。そして「田代沢奥」、つまり「オンネの沢」で人喰い熊事件が起きたことである。
前出の卯之吉についての新聞記事は、発行日が「明治二十一年十二月十四日」なので、山本家はすでに鬼鹿村に越年、つまり定住していた。従って「和島屋定吉羆騒動」を間近で目撃した可能性が高い。また田代集落では、明治二十四年と三十四年にも人喰い熊事件が起きている。そのような山奥の、人喰い熊が出没するような集落に、わざわざ移り住んだのは、兵吉が猟師として身を立てることを決意していたからに違いない。
「あの当時「漁師」ではなく「猟師」をやるのは「金はいらない」と言っているようなもの。よほどの変わり者だったのではないか」(前出、瀧川氏)
樺太という辺境を目指した兵吉は、ここでも儲かる「ヤン衆」を尻目に山を目指した。みなとは違う道をあえて進む「反骨精神」のようなものを感じずにはいられない。三毛別事件後も、兵吉は「鬼鹿村字オンネ沢番外地」に居住していたと思われる。上述の通り、「オンネの沢」が人喰い熊事件が続発する危険地帯であることは別稿で述べたが、ヒグマのエサ場となる条件を兼ね備えた地域でもあり、熊撃ち猟師にとっては格好の狩り場であった。また後に述べるように、六線沢集落にも、山を越えて半日でたどり着ける距離であった。
なおネット情報に、「三毛別事件」の後、兵吉が六線沢集落に移住したとの記述があるが、戸籍上では確認できなかった。
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酒癖の悪さで疎まれる

小説『羆嵐』の結びでは、山本兵吉こと山岡銀四郎が、太平洋戦争末期の頃に脳溢血で倒れ半身不随となり、弟夫婦に預けられていた息子が戻って妻帯したとある。しかし原戸籍によれば、兵吉は昭和十六年八月、つまり開戦前に「苫前郡初山別村字初山別原野七線番外地」に転出している。明治三十二年の転入から数えれば、四十二年間、鬼鹿村に居住したことになるが、不思議なことに兵吉についての地元古老の記憶や回顧録はまったく残っていない。
ニシン漁が主産業であったためにマタギの話題は登りにくかったのか、瀧川氏の言うように「よほどの変わり者」だったためか、あるいは市街地から離れた「オンネの沢」に引き移ったためかもしれない。
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いずれにしても、彼の酒癖の悪さが、良くも悪くも彼の人生に影響を与えたように筆者には思える。「ヤン衆」に疎まれ、その結果、猟師の道を選び、また同じ理由で、鬼鹿市街地に住めなくなって「オンネの沢」に転居したのではないだろうか。
初山別に転住したことについては、兵吉の次女ふじが初山別に嫁いでいたこと、二男徳太郎が一時期、初山別の夫婦に養子に出されていたことなどから、土地勘があったものと思われる。初山別では、長男藤作と同居した。藤作は海岸から数キロも離れた「原野七線番外地」、後の千代田地区で農業を営んでいたといい、ここでもあえて海から離れた場所に住居を定めている。ほどなく徳太郎も移り住んで「山本鉄工所」を開業した。
二人の息子と数多くの孫に囲まれた兵吉の晩年は、賑やかで平穏なものだったろう。昭和二十五年十一月十一日、兵吉は藤作ら親族に看取られて永眠した。享年九十二歳。江戸、明治、大正、昭和と近代日本の激動期を駆け抜けた生涯であった。
後編記事『ヒグマに襲われた数名の死体が…「もう少し早く知らせてもらっていたら」「三毛別事件」凶悪熊を討ち取った「伝説のハンター」の悔恨』へ続く。
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<代表的なコメント>
★吉村昭氏の苫前事件を扱った「羆嵐」や、ハンターを描いた「熊撃ち」を読むと、羆の賢さや獰猛さがよく分かる。
北海道で、熊撃ちのハンターが自治体からの依頼を拒否していて、「警察にやらせろ」という声がある。羆は、ハンターの中でも最も優秀な人が仕留められる。一般の警察官ではどうにもならない。
★「熊を殺さないで」とか熊がいない都会から地方に抗議の電話をかけるくらい時間に余裕がある人は、時間があるんだったらwikipediaを読むなりして三毛別羆事件のことを知ってもらいたいですね
★秋田のスーパー熊立てこもり事件で市役所に可哀想だから山に返してやれとクレームの電話入れてる奴らは、三毛別羆事件をwikiでしっかりと読んでから電話するかどうか考えてほしい
★シラフの時は子供にも優しい気立てのいいおじいちゃんだったという話もあるな。だからといって酒癖の悪さの免罪符にはならないが。
⇒クマちゃんのかわいいところと最強・最凶・最恐のとろことあわせもっていなければならないね!こっちにも理由があるけど、あっちにも理由があるだろうからね!同じ地球に生まれたものどうし仲良くしたいけどネ(^_-)-☆
⇒今日は以上で~~す。ほなまた!
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「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」
12/10(火) 7:04配信
この12月に事件発生から109年目を迎える「三毛別事件」。凶悪熊を討ち取り、その被害を食い止めたハンターの知られざる足跡を『神々の復讐』(講談社刊)の著者中山茂大氏が追った。
前編記事『「胎児を含めた8人が喰い殺された」最恐ヒグマ「三毛別事件」…「稀代の凶悪熊」を討ち取った伝説のハンター「山本兵吉」の知られざる事実』より続く。

地元の名家に「わらじを脱ぐ」
小平町会議員の瀧川司氏によれば、兵吉の本籍「鬼鹿村五十二番地」には、かつて「住吉」という人が経営する旅館があったという。
「かつてニシン漁が盛んだったころは、道南から多くの「ヤン衆」(ニシン漁目当てに出稼ぎにくる漁師)が鬼鹿にやって来た。住吉は旅館業など、手広く商売をする地元の名家だった。おそらく兵吉一家も「ヤン衆」とともに、ニシン漁に沸く鬼鹿村を目指したのだろう。そして住吉家に「わらじを脱いだ」のではないか」(瀧川氏)
「住吉」とは、前編の新聞記事にある慈善家「住吉為右衛門」のことだろう。「わらじを脱ぐ」とは本来「旅を終える」意味だが、北海道では特に「開拓地に入植する」ことを意味する。上記新聞記事の通り、卯之吉は明治二十一年には鬼鹿村に居住し、すでに長く暮らしていたと思われる。おそらく卯之吉が明治の早い時期に山形県南村山郡から北海道を目指し、ニシン漁で活況を呈する鬼鹿村に「わらじを脱いだ」のではないだろうか。
戸籍を辿っていくと、明治三十一年四月二十一日に「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」から、「高島郡稲穂町十七番地」へ転住。さらに明治三十二年六月三日に、再び「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」へ再転入している。「高島郡稲穂町」とは現在の小樽市稲穂で、JR小樽駅前の一等地である。わずか一年ほどの転住に、どのような背景があったのかはわからない。
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サバサキ包丁でヒグマを殺す
明治四十三年七月一日、兵吉は谷下ふよと入籍した。谷下ふよは石川県能美郡中海村の出身で、明治六年六月二十六日生まれ。兵吉との婚姻当時は四十二歳で、長女しげ(当時十五歳)、次女ふじ(同三歳)、長男藤作(同一歳)の三人の連れ子があった。
明治四十四年七月に、兵吉との間に二男、徳太郎を生んだが、大正四年五月五日、鬼鹿村字オンネ沢番外地で死去した。享年四十七歳だった(初山別にある山本家の墓誌には「俗名フユ 行年二十五才」とあり「大正三年五月五日」に死去したことになっている。しかしそれだと長女しげを十歳時に生んだことになり、辻褄が合わない)。戸籍には兵吉が再婚した記録はない。しかし鬼鹿市街地には弟、兵作一家が暮らしていたので、母ムメが同居して子供たちの面倒をみていたのかもしれない。
ここまで兵吉の来歴を見ても、熊撃ち猟師に関係する記述は見当たらない。彼はどこで鉄砲の技量を身につけたのだろうか。
木村によれば、兵吉は若い頃、南樺太(サハリン)に渡っていたという。南樺太は、もともとアイヌ、オロッコなどの先住民や、日本人、ロシア人が居住する雑居地で、明治八年の「千島樺太交換条約」によりロシア領となって以降も、日本人の漁業権が認められていた。兵吉が樺太に渡ることも難しくはなかっただろう。
「サバサキでヒグマを刺し殺した」とあるが、「サバサキ」とは文字通り鯖をさばくのに使う鋭利な包丁である。漁夫として樺太に渡り、そこで鉄砲の技術を学んだのかもしれない。というのは、鬼鹿村に戻った兵吉は、明確に猟師の道を選んでおり、それは、妻ふよに関する記載にある「オンネの沢」つまり鬼鹿市街地から二キロも内陸の「田代集落」に居住していることが証明している。
以下の新聞記事は、その示唆を与えてくれるので、少し長いが抄訳してみよう。
「札幌県下天塩国留萌郡鬼鹿村は鰊漁場にして、毎年その季節には松前郡福島村辺より出稼ぎし、六月末ころはみな帰村し、跡に残って越年するのはわずか二三十戸に過ぎない僻村だが、(中略)一夜、同村字田崎沢口の菓子渡世某方で、十時ごろなにやら突然、仏間の背後を押破る音がしたので、その家の主人は定めて馬の畑に入り来たのだろうから追い出せと職人某に命じたので、職人は直ぐさま縄を用意し外に出ると、なんぞはからん馬と思ったのは一頭の大熊で、それと見るやいなや矢庭にその職人を引き捕え肩に引担いで、どこともなく逃去った。この時職人は必死に助けを呼んだが起き出る者もなく、そのまま熊の餌食となったのは、たいそう憐れなことであった。(中略)翌朝、早速猟夫人足とも十人余りを頼み、そそくさと分けて探したところ、彼の熊は職人某の死体を半身土中に掘り埋め、余りの半身をメリメリ喰らっているのを認めたので、一同砲先を揃へて打放ちたるその弾、あやまたず、いずれもみな的中し、さすがの大熊ももろく打ち倒したので、衆人打ち集まり、熊の腹を割いてみると、かねて田沢奥(※「田代沢奥」のことだろう)に炭焼を渡世とする老父があったが、この老父も喰われたと見え、その腹中に衣類の細片になったもの、その他、結髪をシナ(木皮)で結んだままのもの等あったので、初めて右老父も害されたことを知った」(『函館新聞』明治十八年十月二日)
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金に固執しないヒグマ猟師

この事件は、「和島屋定吉羆騒動」として地元で長く語り継がれ、現場近くの竹園寺に今も碑が建っている。別の資料では、「和島屋は急いで子供を連れ、市街地の住吉(住吉旅館のことか)の家に転がり込み救いを求めた」(『小平百話 記憶の中の物語』鈴木トミエ 平成十二年)とあり、ここでも住吉が出てくる。
それはともかく上記記事から得られる事実がいくつかある。ひとつは、当時の鬼鹿村が、ニシン漁期以外は寒村にすぎなかったこと。そして「田代沢奥」、つまり「オンネの沢」で人喰い熊事件が起きたことである。
前出の卯之吉についての新聞記事は、発行日が「明治二十一年十二月十四日」なので、山本家はすでに鬼鹿村に越年、つまり定住していた。従って「和島屋定吉羆騒動」を間近で目撃した可能性が高い。また田代集落では、明治二十四年と三十四年にも人喰い熊事件が起きている。そのような山奥の、人喰い熊が出没するような集落に、わざわざ移り住んだのは、兵吉が猟師として身を立てることを決意していたからに違いない。
「あの当時「漁師」ではなく「猟師」をやるのは「金はいらない」と言っているようなもの。よほどの変わり者だったのではないか」(前出、瀧川氏)
樺太という辺境を目指した兵吉は、ここでも儲かる「ヤン衆」を尻目に山を目指した。みなとは違う道をあえて進む「反骨精神」のようなものを感じずにはいられない。三毛別事件後も、兵吉は「鬼鹿村字オンネ沢番外地」に居住していたと思われる。上述の通り、「オンネの沢」が人喰い熊事件が続発する危険地帯であることは別稿で述べたが、ヒグマのエサ場となる条件を兼ね備えた地域でもあり、熊撃ち猟師にとっては格好の狩り場であった。また後に述べるように、六線沢集落にも、山を越えて半日でたどり着ける距離であった。
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★「熊を殺さないで」とか熊がいない都会から地方に抗議の電話をかけるくらい時間に余裕がある人は、時間があるんだったらwikipediaを読むなりして三毛別羆事件のことを知ってもらいたいですね
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