「雨の日は二人で雨音に歌わせた」と、雨音からインスプレーションをうけた尾崎豊にしかかけない独創的な詞が印象的な名曲である。
この曲はアルバム『バース』における『忘れな草』(普通の愛と壊れゆく愛が語られる)の再来といもいえる。
普遍的なラブストーリーを詩に表しているように聞こえてしまうが、決してそうではなく、尾崎の憧れである心のやすらぎと、それが叶えられない苦しみが根底にありそれらをラブソング風にオブラートに包みこんでいる曲である。
ただそれだけでなく「見つめていると息もも止まりそうさ」
例えば「そうさ今夜また君にあえそうさ」は希望的な意味ではなく、逆の意味に聞こえてしまう。
「今夜またどこかで安らかに夢見るの」
今夜安らぐのは現実ではなく、夢の中、という歌詞は、夢の中でしか安らげない心を示しているのないだろうか。
『風の迷路』にも「さあもう深く眠ろう、真実よ安らかに」とあるが、ころころの尾崎は憧れであるのは心の安らぎであり、それを夢の中に求める詩が見受けられることほ見逃してはならない。
「今夜」や「昨夜」「夢見るの」など、夜と夢に安らぎを尾崎は象徴させている。
2節目に「グラスに滲んだ涙を飲み干して」
ある。これは「ふとした瞬間に自然に出てくる悲しさ、涙」に尾崎かさらされていることを暗に示している断片である。
尾崎の多くの曲の中で「優しさ」という言葉わはキーワードになるが、この曲では唯一、「優しさだけじゃ二人を包めないから信じているとだけ答えてよ」と書かれている。
尾崎にとっての「優しさ」はとても重い意味を持つが、裏切りを日常的に感じてしまう尾崎にとって「信じる」こともまた、同じぐらい重いことであるのと考えれば、優しさがかるんじられて歌われているわけではないと言えるだろう。
この『ロンリーローズ』はバースツアーでは演奏されなかったことになっているが、それは誤りである。音源が残っている。(ただし、バンドとしての正式な演奏ではなかったのかもしれない、尾崎のギターソロと、1番目の歌詞の途中で演奏からだ。即興でやってのか、それとも元々演奏予定だったのを中途半端にやめたのかは不明である)ライブバージョンの『ロンリーローズ』を聞けばこの曲が忘れな草と同じように破滅的な愛や、自己の性(サガ)をうたっているのは明らかである。
「やさしさだけじゃ二人をつつめないから」
の後の
「しんじて
「自由になれた心はまるで」
この詞は聞き流してしまいそうだが、
尾崎の願望が現れた詞であり、心の葛藤から生まれた部分で見過ごせなく、この曲のでももっとも胸につきささる詞の一つである。
「自由になれた心」
とは前向きで明るい言葉であるが、歌い方は声かすれ気味で弱々しい。逆の意味と、叶えられない願望の意味が込められていると感じざるを得ない。明るい意味の言葉が逆の意味、シュチュエーションを示し、表現しているのである。
その後につづく「」
歌っているときだけ、「自由」になれた心なのだろうか。
「雨音に打たれて安らかに夢見るの」
キーワード「安らか」
心の安らぎを求めていた尾崎の心情がこの曲にもやはりあふれている。
私は雨が降る日にふと、この曲を思い出して、胸が押しつぶされそうになる。
この曲のタイトル「ロンリーローズ」(孤独な薔薇)は詩に薔薇も、孤独もまったク登場しない。もし、この曲が単純なラブソングであるならばこのようなタイトルはつけないであろう。時に尾崎いや、すべてのアーティスは身近に見かけたものにインスプーレションを受け、タイトルなどをつけるので、そのようにつけたタイトルであれば、私の検証も検討ちがいになるが、もし意味があるタイトルだとすれば、一見華やかな薔薇でえるが、トゲをもち誰も寄せ付けない心をもつ孤独な尾崎自身を表したタイトルなのかもしれない。
この曲が『忘れな草』のように尾崎の破滅的な性分を歌ったことに近いと述べたが、くしくも忘れな草も植物をタイトルにし、『ロンリーローズ』もまた植物をタイトルに含めるという点で模尾崎の作品のイメージが近い一つの証に思うのだがどうであろうか。(植物がタイトルに入っているのはした曲はこの2曲のみである)
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