「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」
この印象的なサビのフレーズは短く、簡素な言葉にもかかわらず、難解である。このサビの「勝つ」意味をどうとらえるべきか。
単純に言葉を尻だけを、とらえては「清く正しく、何か他者という自分の意思をもって勝ち続けて清く正しく生きていかなければ」
と誤解してしまいがちだ(例えば最近テレビCM「YOU CAN」でこの曲のサビを歌われていて、このCMからはそのようなニュアンスで使われている)。
このフレーズを理解するには、尾崎の腎性と、他の詩を照らしあわし考察が必要なのである。
しかし、この曲は普遍的でありながら、実はもっと尾崎豊のパーソナルに深く根差した部分にあると思う。尾崎豊の曲には、尾崎豊のパーソナリティが他のだれでもなく、「尾崎豊」個人の体験や、経験、パーソナリティが落とし込まれている。
尾崎豊の曲には英語のタイトルもつけられており、この『僕が僕であるために』には
「My song」というタイトルが付けられている。言いえて妙というか、この曲の核心をついたタイトルである。
その中でも、ファーストアルバムは10代の時に作成された曲であり、後年の曲よりも、もっと深い尾崎豊の根本にある原点のようなものが感じられる。
とくにその中にあっても、最後を飾る「僕が僕であるために」は尾崎豊がこの曲にもっていた意味合いは押して図るものがある。
まず最初に言えるのは、タイトル英訳タイトル「MY SONG」とはいったもので、この曲をつくった10代の尾崎自身の半生、歩んできた道、パーソナルな自己告白なのである。
「こころすれ違う哀し生き様」いきずらい尾崎豊自身、小学生の時尾崎はいじめをうけていた。
「イケメンだから」というせ
歌うために生まれてきた(「うたっているときだけは精神が安らぐ」「自分を救うために歌う」)からこそ「僕は歌い続けている」といっている
タイトルである「僕が僕であるために」に続く
「勝ち続ける」意味である。
十代の尾崎が反逆のカリスマという間違ったレッテルからみれば、「他人に勝つ」という意味にとらえがちですが、僕は違うと思います。晩年の尾崎豊が戦っていたのは社会でも他人でも学校でもなければ、自分自身の精神との葛藤でした。もっともこの曲を書いた10代は晩年とは状況が違いますが、もっと潜在的にそれをかんじとっていた節がみえます。すなわち、「勝ち続ける」という意味は尾崎自身の精神の葛藤なんだと思います。他人ではなく、自分自身の抱えているもう一人の自分との。後期の曲の歌詞、尾崎が歩んでいった破滅への道、生き様とリンクさせて考えるといろいろ見えてくる気がする。
※『NOTES 僕の知らない僕』P247に「僕は僕自身に勝ち続ける」という記述あり。もっともこの記述は1986年ノートの一節であるのでこの曲との連動性は不明だが、尾崎の思考を読み解くヒントの一つともいえる。
原詩の冒頭には発表された『僕が僕であるために』にはない一節がある
「君の肩だきよせ やさしく くちづけても さみしさをかんじてしまう
夢はいつでも雨ざらし心の傷もいえぬまま」
この一節をみると尾崎の曲というのは尾崎の心の傷そのものなのである。
この曲がかかれたデビューアルバムからラストアルバム『放熱の証』まで一貫しているといえよう。
これが尾崎豊の曲の本質である。
(反抗や、社会へのメッセージを発するはむしろイメージ戦略でこの部分を故意にかくしていたのではないかとすらおもえてしまう)
2番で「君が君であるために」と歌っていますが、これも第三者リスナーという意味もありますが、
自分自身を「君」と置き換え、自分から自分へのメッセージのようにも取れると思いますが、
どうでしょうか。そうすると聞こえも全く違ってきますし、しっくりきます。
俯瞰して第三者の視点で自分に語りかけているのです。
(この方法は「酔いどれ」の中で「弱いやつだねお前ってやつは」と自分を「おまえ」と語りかけている
のと同じだと仮定します。)
尾崎豊をプロデュースしていた須藤氏の著書『尾崎豊覚書』の中で覚せい剤に手を染めた尾崎に対して「僕が僕であるために」と歌ったのは君自身じゃないかというような記述がありますが、まさにその意味は
自分自身に負けてしまった尾崎豊を叱咤激励することを「自分自身であるために自分自身に勝たなきゃならない」という意味でつかわているとおもいます。
そして最後の何気ない一説が泣けます。
「僕は〜歌い続けてる」
かれはインタビューの中で、「歌を歌っているとき自分の傷ついた心が救われたような気がした」
というい趣旨のことを語っていたことがあります。見城氏の言葉を借りれば「自分を救うために歌っていた
」ということでしょう。美しい歌を奏でれば奏でるほど彼の心は傷ついていたから、奏でることができた
と考えるとなんと哀しいことでしょう。
最期の「バースツアー」MCの中でも「どんなこんなにも負けず歌い続けることを誓います」といっている。
この曲もつ底知れないさみしさを感じる時、涙無くしては聞けない一曲だと思います。
尾崎豊の
「僕が僕であるために」
の歌詞の意味について。
「僕が僕であるために
勝ち続けなきゃならない」
ずっと意味が分かりませんでした。
「何に勝ち続けるのか」という点で、文字通りに受け取ると
社会は生き残るサバイバルなので、自分を保つために他者などの外的な要因から何からも勝たなければならにというような意味かな?とおもいましたが、なにかふに落ちません。
しかし後年のもう一人の自分に苦しみ、境界性人格障害ともいえる
ような精神不安定な状態や、躁鬱をわずらっていたような周りの証言や、
晩年の歌詞や尾崎が残したノートなどを見て、答えが見つかりました。
後年の「僕のしらない僕」での告白のように、
「僕が僕である」とはもう一人の人格に負けないように
「僕が僕に勝ち続けなければならない」(もう一人の自分の中の別人格に)という意味だということです。
それが「僕で僕であるために」必要なことだと暗に歌っているのではないか
ということです。
尾崎豊の僕か僕度あるめに
の意味を正確に理解することは非常に難しい曲です。またその部分も非常に難解です。なぜなら短いフレーズに並べられた言葉通りに受け止めると誤解が生じるからです。ではどうやってよみとくか、一つはその曲の前後から。しかしそれだけでも意味はわかりにくい。そこで、同じアルバムに収録された似たフレーズを持つ曲と、その原詩(尾崎の書き溜めたノートの本に収録)から読み解きます。
決定的なヒントは『傷つけた人々へ』の原詩のからよみとれるとおもいます。
『僕が僕がであるために』
誰がいけないと言うわけでもないけど
人は皆わがままだ
人を傷つけることに目を伏せるけど 優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく
『傷つけた人々へ』
愛という言葉なくても
一人で生きてくわけじゃない
小さなプライドなんかで傷つけあってもきっと君に優しさ戻るだろう
『傷つけた人々へ』の原詩
ひとはせつなに生きることに、おわれながら傷つけあうことを恐れれば
あのとき口にした真実とは逆へ向かってしまうことだってあるのかもしれない
これらから、
「優しさ」と「傷ついていく」は間逆なことですが、「優しさ口にすれば」したとしても「傷をつける」つもりではないつまり、「真実とは逆へ向かってしまうことだってあるのかもしれない」
というニュアンスのことだと私は推測します。
そしてそれは「ひとはせつなに生きることに、おわれながら傷つけあうことを恐れれば」=「傷つけることに目をふせるけど」から起きることだということではないでしようか。
またこの曲に類似の曲としては以外かもしれないが『街路樹』が挙げられる。
メロディではなく、歌詞の内容的に尾崎自身を歌っているという点で。
またこの曲のある種のこたえはアルバム放熱の証『太陽の瞳』に示されている。必聴である。
収録アルバム、ライブ演奏など
『17歳の地図』
『』
youtube動画
『僕が僕であるために』尾崎豊真実の解説
https://www.youtube.com/watch?v=mu5O9jutoWY
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