2019年02月20日
2月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
1790年2月20日は、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(神聖ローマ皇帝位1765-90。オーストリア大公位1780-90。ハンガリー王位1780-90。ボヘミア王位1780-90)の没年月日です。
18世紀のヨーロッパで流行していた、いわゆる啓蒙思想(リュミエール、エンライトメント)は、これまでの旧体制を打破するための改革精神に結びついていきました。そして、プロイセン王フリードリヒ2世("大王"。位1740-86)やハプスブルク家(ハプスブルク・ロートリンゲン家)のマリア・テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80。ハンガリー王位1740-80。ボヘミア王位1743-80)、当時のロシアの女帝エカチェリーナ2世(帝位1762-96)など、当時の後進国とされた国家の君主たちはこの啓蒙思想の立場に立ち、"上からの改革"を行って自国の近代化、強国化を目指していきました。これを啓蒙専制主義といい、彼らを啓蒙専制君主といいます。
18世紀において、先の3君主に続いて啓蒙専制君主と呼ばれた人物がいます。啓蒙思想の立場に立って改革を急進的に行った神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝で、フランツ1世(帝位1745-65)を父に、マリア・テレジアを母に、マリー・アントワネット(1755-93)を妹に、レオポルト(1747-92)を弟にそれぞれ持つ、長男のヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・アントン・ミヒャエル・アダム(1741-90)という人物で、父フランツ1世の死後、神聖ローマ皇帝として即位した、ヨーゼフ2世のことです。
1765年に神聖ローマ皇帝に即位したヨーゼフ2世は、これまで摂政を務めていた母マリア・テレジアの死去(1780)にともない、オーストリア大公(公位1780-90)、ハンガリー王(王位1780-90)、ボヘミア王(王位1780-90)に即位、母の後を継ぎました。これにて実質的なヨーゼフ2世の親政が始まりました。自身が崇拝する啓蒙専制君主フリードリヒ2世の諸改革を理想に掲げ、フリードリヒ2世、マリア・テレジア、エカチェリーナ2世に次ぐ"第4の啓蒙専制君主"として、希望に燃えました。
ヨーゼフ2世はフリードリヒ大王の諸改革(フリードリヒ内政)に倣った、理想の啓蒙専制改革に遂に着手することになりました。これまで心の中で温めていた、夢の諸改革を大いに企画しながらも、なかなか着手できなかったヨーゼフの志は、親政が始まった途端、いっきに発動しました(それまでは母マリア・テレジアの保守反動政策に遮られていました)。
プロイセン王フリードリヒ2世が発した言葉、「君主は国家第一の下僕(しもべ)」はヨーゼフ2世の精神そのものでした。国家のために努力を惜しまず、国王が国家第一の下僕となって国力増大を目指すのがヨーゼフ2世の理想の君主像でした。こうした君主の存在が、国民生活を向上させると考えたのです。しかしヨーゼフの意気込みは、まるで青二才の若者が、若気の至りで過激に物事を考えるかのようでありました。それゆえ改革に対する意欲は充分に感じられ、急進的であったのです。
まずは宗教改革です。マリア・テレジアは生前、啓蒙専制改革の一環としてイエズス会の活動禁止令を出していました(1773)。主権国家体制を王権でもって整える中で、教皇に忠誠を誓い、国境を越えて自由に布教を続けるイエズス会の存在は国家にとって近代化の妨げとなっていましたので、同会の活動禁止と財産没収を行いました。しかしマリアは敬虔なカトリック信者でしたので、徹底しませんでした。しかしヨーゼフは母と同じ敬虔なカトリック信者でありながら、1781年3月に国家の教会への優越権を発し、10月末に宗教寛容令を発しました。これにより、カトリック信者と同等の権利を非カトリック教徒や異教徒に保証し、新旧両教徒の反乱を抑え、ユダヤ人の解放を促しました。これは商業の奨励にユダヤ人や新教徒の力が必要だったためでもありました。しかも翌1782年1月には修道院の財産没収も行い、6月にはウィーンにて宗教委員会を発足して、教会の検閲を禁止し、検閲権は国家にあるとしました。また同様に結婚や教育における教会の優先権を取り上げました。
1782年3月、ローマ教皇ピウス6世(位1775-99)がウィーンを訪れましたが、ヨーゼフ2世はオーストリア司教の権限は国家が管理し、ローマ教皇権が入る余地はないことを主張しました。
国民生活の向上を考えたヨーゼフ2世は宗教改革を施す傍ら、農奴制廃止令を発布しました(1781.1)。プロイセンでもフリードリヒ2世が行いましたが、地主貴族階級であるユンカーによって農奴制が強化されていきましたので(グーツヘルシャフト。農場領主制度)、結果的にユンカーの反対で失敗しましたが、ヨーゼフ2世はこれを断行しました。大土地所有者によって酷使されている農民を解放し、農民は君主が管理するものとしたのです。農民を保護するのは地主ではなく君主であり、農民が自由に活動できるようになれば、自作農となって税収が見込まれ、商業は活発化し、人口も増え、国家増強となることを目指したものでありました。1781年9月には領主裁判権の規制を行い、司法権の独立は国家の裁判所にあることを決めました。また、農民の営業権、居住・移転・職業選択・結婚の自由権・荘園内での賦役の廃止も保障されました。しかもヨーゼフ2世は農民の生活を知るために、皇帝自ら畑仕事を行ったといわれております(その画像はこちらとこちら。Wikipediaより)。これが農民から"人民皇帝"と親しまれたゆえんです。
さらなる改革は法改正の着手です。まず法の下の平等を行い、聖職者も貴族も同等の平等権が与えられました。また1787年に発布された拷問の禁止、死刑の禁止、残酷な刑罰の禁止、囚人の労働の廃止、さらには婚外子と嫡出子の平等権や相続権の均等化などにも着手しました。財政改革としては税制の大改革を行い(1784)、宮廷において租税規制委員会を発足させて、納税率の平等化を行いました。貧民救済改革としては、学校や病院の建設も積極的に行いました。
マリア・テレジアとの共同統治時代においても、宮廷の倹約政策を行いましたが、親政になってからは一段と強化しました。多くの儀式や祝行事を廃止し、宮廷のみ使用されていたプラーター公園やアウガルテン公園を開放して国民に癒やしと安らぎを与えました。また葬儀簡素令を発布して埋葬の簡素化を図り、共同墓地への埋葬を促しました。
外交では、バイエルン問題以降(ヴィッテルスバハ家がつとめるバイエルンの選帝侯位継承問題。ヨーゼフ2世が侯位継承に介入し、プロイセンら相手に戦争にまで発展した問題)、プロイセンを含むドイツ諸邦は、オーストリアの領土拡大に警戒していました。この問題から発展したバイエルン継承戦争(1778-79)では、ハプスブルク・ロートリンゲン家の支配下にありましたチェック(チェコ)人のベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918。正確には東部のモラヴィアなど他の諸邦も含めて"ボヘミア王冠領"と呼ぶ)の領内が戦場となりましたが、マリア・テレジアの説得もあって本格的な戦闘は行われず、シュレジェンのチェシン(現ポーランド。ドイツ語ではテッシェン)で講和となりましたが(1799.5)、中欧・東欧での緊張状態はいまだぬぐえずにいました。それでもヨーゼフ2世は領土拡大に野心を保ち続けました。
同じくハプスブルク・ロートリンゲン家の支配下にあったハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)について、ヨーゼフ2世は大胆な改革を実施しようとしました。その内容とは、オーストリアの体制下にハンガリーを組み込むことでした。司法や行政、軍隊などはオーストリア式を採用させ、ハンガリー内にドイツ語を強制し、州区分の再編成行い、ヨーゼフの治世でオーストリア国内で発した前述の諸改革をハンガリーにも持ち込むことを決めたのです。この強制策は皇帝の完全な中央集権国家体制でした。ハンガリーは言うまでもなくドイツ人ではなくマジャール人の居住区であり、またオーストリア・ハプスブルク家への抵抗心や独立心がボヘミア以上に強く、こうした中央集権的な統治を嫌いました。マリア・テレジアがハンガリー王だった時代は、マジャール人の心情を理解し、またハンガリーの情勢も知り尽くしていましたので大きな混乱がありませんでしたが、ヨーゼフ2世はハンガリーの精神については気にもとめず、改革の実施に踏み切りました。1784年頃に始められたこの高圧的な強制策はハンガリー以外にも、ボヘミアやオーストリア領ネーデルラント(ベルギーおよびルクセンブルク)にも同様の強制を行いました。
このようにヨーゼフ2世の諸改革は矢継ぎ早に行われていきました。ヨーゼフの単独統治以後、彼の国民生活の向上させるために施した啓蒙改革は「ヨーゼフ主義(Josephinism)」と呼ばれました。しかし改革に抵抗勢力が生まれるのは時および場所に関わりなく自然なものであり、ヨーゼフの改革も例外ではありませんでした。彼の急激に施した多くの改革は徐々に歪みが生じていくのでした。
宗教寛容令に対しては、新教徒やユダヤ人の活動の自由化により、商業活性化には一定の利益を上げましたが、カトリック系教会の猛烈な抵抗がおこり、優先権の復活をうったえました。カトリック教徒の反乱も消えず、ユダヤ人も含めた公民権上の同等は予想以上に賛同を得られませんでした。
農奴制廃止令については、プロイセンのフリードリヒ2世でも成功しなかった改革でしたが、プロイセンと同様、地主貴族階級からの猛烈な反発を招きました。このため地主貴族との妥協が図られ(1875年以降)、農奴の賦役廃止は中止となりました。ヨーゼフ2世は2つの改革に対して中止しなかったものの、強い反発はその後も残り、ヨーゼフ2世への支持が急落しました。
また拷問のl禁止、死刑の禁止など刑法関連の諸改革についてはイギリスの刑務所改革家のジョン・ハワード(1726-90)からの強い非難がありました。倹約令については、宮廷内の保守派に非難されました。葬儀簡素化においても、あの宮廷音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)が没した際の葬儀が簡略化され(1791)、ザンクト・マルクス墓地(ウィーン郊外)で共同埋葬されたために、遺体が特定できませんでした。
そしてハンガリー、ボヘミアなど非ドイツ人居住域などへの強制策も当然ながら猛烈な反抗がおこりました。特にマジャール人居住域であるハンガリー王国の抵抗が激しくなりましたので、ヨーゼフ2世は軍隊を出動して屈服させる手段に出ました(1788-89)。しかしハンガリー側は徹底抗戦したため、この政策は断念せざるを得ませんでした。バイエルン問題に端を発した周辺諸国との外交問題に関しては、オーストリア拡大策に警戒する周辺諸国のプロイセンやドイツ諸領邦が動き始め、プロイセン主導でハノーファー、ザクセンら十数諸国らが対墺同盟(君侯同盟)を結成し(1785.6)、オーストリアに強く牽制しました。フリードリヒ2世が結成した同盟でしたが、彼は君侯同盟だけでなく、かつての七年戦争(1756-63)の敵国だったフランスやロシアに対しても関係修復に尽力し、プロイセンの国力維持に努めました。これが、フリードリヒ2世の最後の外交策でした(フリードリヒ2世死去。1786)。ヨーゼフ2世は、憧れていたプロイセン大王にも不快を露にされてしまいました。
こうして、ヨーゼフ2世が単独統治をしたわずか数年もの間に施していった諸改革は、多くの反発を受けて、その多くは頓挫してしまう結果となっていきます。ヨーゼフ2世自身も体の不調をうったえるようになり、徐々に体力も失われていきました。そしてヨーゼフ2世は、後々の帝位継承者となる甥のフランツ(1768-1835)の妃としてドイツ南西部のヴュルテンベルク家からエリーザベト・ヴィルヘルミーネ(1767-90)を呼び寄せ、皇帝自ら教育係として彼女を世話し、かつヨーゼフの心の拠り所としていました。1788年にエリーザベトはフランツと結婚したが、1790年2月18日にエリーザベトが長女出産翌日に急逝し、長女も夭逝しました。心の拠り所だった大公妃が若くして亡くなったことで、ヨーゼフは悲嘆に暮れ、生きる気力を失い、革命挫折の失意の中で、エリーザベトが亡くなった2日後の1790年2月20日、49歳で没しました(ヨーゼフ2世死去。1790.2.20)。
性急に人々の意識に入り込んださまざまな改革は、1790年のヨーゼフ2世の死でもって終わりました。国民生活の向上を目的とした諸改革の結末を待たずして、ヨーゼフは失意の内に没しました。ヨーゼフは子を残さずに没したために、ヨーゼフの弟でフランツの父であるレオポルト(ラベル233。1747-92)が神聖ローマ皇帝レオポルト2世として即位しますが(帝位1790-92。オーストリア大公位1790-92。ハンガリー王位1790-92。ボヘミア王位1790-92。トスカナ大公位1765-92)、彼は兄にはなかった冷静な判断で、兄の実施した諸改革の後片付けを行い、そのほとんどは廃止されました(ただし宗教寛容令は撤回しなかったとされます)。なおレオポルト2世は即位してわずか3年で急逝、その後フランツが最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世として即位するのでした(神聖ローマ皇帝位1792-1806。オーストリア皇帝位1804-35。オーストリア大公位1792-1835。ハンガリー王位1792-1835、ボヘミア王位1792-1835)。
ヨーゼフ2世はウィーンのカプツィーナ教会の地下にある納骨堂に埋葬されました。その中でも、彼の治世で行われた倹約政策により、ひときわ質素で地味だったのが、ヨーゼフ2世の棺でした。自ら選んだ墓碑銘は"善良たる意志にもかかわらず、何事にも成功しなかった人、ここに眠る"でありました。
引用文献『世界史の目 第234話』より
18世紀のヨーロッパで流行していた、いわゆる啓蒙思想(リュミエール、エンライトメント)は、これまでの旧体制を打破するための改革精神に結びついていきました。そして、プロイセン王フリードリヒ2世("大王"。位1740-86)やハプスブルク家(ハプスブルク・ロートリンゲン家)のマリア・テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80。ハンガリー王位1740-80。ボヘミア王位1743-80)、当時のロシアの女帝エカチェリーナ2世(帝位1762-96)など、当時の後進国とされた国家の君主たちはこの啓蒙思想の立場に立ち、"上からの改革"を行って自国の近代化、強国化を目指していきました。これを啓蒙専制主義といい、彼らを啓蒙専制君主といいます。
18世紀において、先の3君主に続いて啓蒙専制君主と呼ばれた人物がいます。啓蒙思想の立場に立って改革を急進的に行った神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝で、フランツ1世(帝位1745-65)を父に、マリア・テレジアを母に、マリー・アントワネット(1755-93)を妹に、レオポルト(1747-92)を弟にそれぞれ持つ、長男のヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・アントン・ミヒャエル・アダム(1741-90)という人物で、父フランツ1世の死後、神聖ローマ皇帝として即位した、ヨーゼフ2世のことです。
1765年に神聖ローマ皇帝に即位したヨーゼフ2世は、これまで摂政を務めていた母マリア・テレジアの死去(1780)にともない、オーストリア大公(公位1780-90)、ハンガリー王(王位1780-90)、ボヘミア王(王位1780-90)に即位、母の後を継ぎました。これにて実質的なヨーゼフ2世の親政が始まりました。自身が崇拝する啓蒙専制君主フリードリヒ2世の諸改革を理想に掲げ、フリードリヒ2世、マリア・テレジア、エカチェリーナ2世に次ぐ"第4の啓蒙専制君主"として、希望に燃えました。
ヨーゼフ2世はフリードリヒ大王の諸改革(フリードリヒ内政)に倣った、理想の啓蒙専制改革に遂に着手することになりました。これまで心の中で温めていた、夢の諸改革を大いに企画しながらも、なかなか着手できなかったヨーゼフの志は、親政が始まった途端、いっきに発動しました(それまでは母マリア・テレジアの保守反動政策に遮られていました)。
プロイセン王フリードリヒ2世が発した言葉、「君主は国家第一の下僕(しもべ)」はヨーゼフ2世の精神そのものでした。国家のために努力を惜しまず、国王が国家第一の下僕となって国力増大を目指すのがヨーゼフ2世の理想の君主像でした。こうした君主の存在が、国民生活を向上させると考えたのです。しかしヨーゼフの意気込みは、まるで青二才の若者が、若気の至りで過激に物事を考えるかのようでありました。それゆえ改革に対する意欲は充分に感じられ、急進的であったのです。
まずは宗教改革です。マリア・テレジアは生前、啓蒙専制改革の一環としてイエズス会の活動禁止令を出していました(1773)。主権国家体制を王権でもって整える中で、教皇に忠誠を誓い、国境を越えて自由に布教を続けるイエズス会の存在は国家にとって近代化の妨げとなっていましたので、同会の活動禁止と財産没収を行いました。しかしマリアは敬虔なカトリック信者でしたので、徹底しませんでした。しかしヨーゼフは母と同じ敬虔なカトリック信者でありながら、1781年3月に国家の教会への優越権を発し、10月末に宗教寛容令を発しました。これにより、カトリック信者と同等の権利を非カトリック教徒や異教徒に保証し、新旧両教徒の反乱を抑え、ユダヤ人の解放を促しました。これは商業の奨励にユダヤ人や新教徒の力が必要だったためでもありました。しかも翌1782年1月には修道院の財産没収も行い、6月にはウィーンにて宗教委員会を発足して、教会の検閲を禁止し、検閲権は国家にあるとしました。また同様に結婚や教育における教会の優先権を取り上げました。
1782年3月、ローマ教皇ピウス6世(位1775-99)がウィーンを訪れましたが、ヨーゼフ2世はオーストリア司教の権限は国家が管理し、ローマ教皇権が入る余地はないことを主張しました。
国民生活の向上を考えたヨーゼフ2世は宗教改革を施す傍ら、農奴制廃止令を発布しました(1781.1)。プロイセンでもフリードリヒ2世が行いましたが、地主貴族階級であるユンカーによって農奴制が強化されていきましたので(グーツヘルシャフト。農場領主制度)、結果的にユンカーの反対で失敗しましたが、ヨーゼフ2世はこれを断行しました。大土地所有者によって酷使されている農民を解放し、農民は君主が管理するものとしたのです。農民を保護するのは地主ではなく君主であり、農民が自由に活動できるようになれば、自作農となって税収が見込まれ、商業は活発化し、人口も増え、国家増強となることを目指したものでありました。1781年9月には領主裁判権の規制を行い、司法権の独立は国家の裁判所にあることを決めました。また、農民の営業権、居住・移転・職業選択・結婚の自由権・荘園内での賦役の廃止も保障されました。しかもヨーゼフ2世は農民の生活を知るために、皇帝自ら畑仕事を行ったといわれております(その画像はこちらとこちら。Wikipediaより)。これが農民から"人民皇帝"と親しまれたゆえんです。
さらなる改革は法改正の着手です。まず法の下の平等を行い、聖職者も貴族も同等の平等権が与えられました。また1787年に発布された拷問の禁止、死刑の禁止、残酷な刑罰の禁止、囚人の労働の廃止、さらには婚外子と嫡出子の平等権や相続権の均等化などにも着手しました。財政改革としては税制の大改革を行い(1784)、宮廷において租税規制委員会を発足させて、納税率の平等化を行いました。貧民救済改革としては、学校や病院の建設も積極的に行いました。
マリア・テレジアとの共同統治時代においても、宮廷の倹約政策を行いましたが、親政になってからは一段と強化しました。多くの儀式や祝行事を廃止し、宮廷のみ使用されていたプラーター公園やアウガルテン公園を開放して国民に癒やしと安らぎを与えました。また葬儀簡素令を発布して埋葬の簡素化を図り、共同墓地への埋葬を促しました。
外交では、バイエルン問題以降(ヴィッテルスバハ家がつとめるバイエルンの選帝侯位継承問題。ヨーゼフ2世が侯位継承に介入し、プロイセンら相手に戦争にまで発展した問題)、プロイセンを含むドイツ諸邦は、オーストリアの領土拡大に警戒していました。この問題から発展したバイエルン継承戦争(1778-79)では、ハプスブルク・ロートリンゲン家の支配下にありましたチェック(チェコ)人のベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918。正確には東部のモラヴィアなど他の諸邦も含めて"ボヘミア王冠領"と呼ぶ)の領内が戦場となりましたが、マリア・テレジアの説得もあって本格的な戦闘は行われず、シュレジェンのチェシン(現ポーランド。ドイツ語ではテッシェン)で講和となりましたが(1799.5)、中欧・東欧での緊張状態はいまだぬぐえずにいました。それでもヨーゼフ2世は領土拡大に野心を保ち続けました。
同じくハプスブルク・ロートリンゲン家の支配下にあったハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)について、ヨーゼフ2世は大胆な改革を実施しようとしました。その内容とは、オーストリアの体制下にハンガリーを組み込むことでした。司法や行政、軍隊などはオーストリア式を採用させ、ハンガリー内にドイツ語を強制し、州区分の再編成行い、ヨーゼフの治世でオーストリア国内で発した前述の諸改革をハンガリーにも持ち込むことを決めたのです。この強制策は皇帝の完全な中央集権国家体制でした。ハンガリーは言うまでもなくドイツ人ではなくマジャール人の居住区であり、またオーストリア・ハプスブルク家への抵抗心や独立心がボヘミア以上に強く、こうした中央集権的な統治を嫌いました。マリア・テレジアがハンガリー王だった時代は、マジャール人の心情を理解し、またハンガリーの情勢も知り尽くしていましたので大きな混乱がありませんでしたが、ヨーゼフ2世はハンガリーの精神については気にもとめず、改革の実施に踏み切りました。1784年頃に始められたこの高圧的な強制策はハンガリー以外にも、ボヘミアやオーストリア領ネーデルラント(ベルギーおよびルクセンブルク)にも同様の強制を行いました。
このようにヨーゼフ2世の諸改革は矢継ぎ早に行われていきました。ヨーゼフの単独統治以後、彼の国民生活の向上させるために施した啓蒙改革は「ヨーゼフ主義(Josephinism)」と呼ばれました。しかし改革に抵抗勢力が生まれるのは時および場所に関わりなく自然なものであり、ヨーゼフの改革も例外ではありませんでした。彼の急激に施した多くの改革は徐々に歪みが生じていくのでした。
宗教寛容令に対しては、新教徒やユダヤ人の活動の自由化により、商業活性化には一定の利益を上げましたが、カトリック系教会の猛烈な抵抗がおこり、優先権の復活をうったえました。カトリック教徒の反乱も消えず、ユダヤ人も含めた公民権上の同等は予想以上に賛同を得られませんでした。
農奴制廃止令については、プロイセンのフリードリヒ2世でも成功しなかった改革でしたが、プロイセンと同様、地主貴族階級からの猛烈な反発を招きました。このため地主貴族との妥協が図られ(1875年以降)、農奴の賦役廃止は中止となりました。ヨーゼフ2世は2つの改革に対して中止しなかったものの、強い反発はその後も残り、ヨーゼフ2世への支持が急落しました。
また拷問のl禁止、死刑の禁止など刑法関連の諸改革についてはイギリスの刑務所改革家のジョン・ハワード(1726-90)からの強い非難がありました。倹約令については、宮廷内の保守派に非難されました。葬儀簡素化においても、あの宮廷音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)が没した際の葬儀が簡略化され(1791)、ザンクト・マルクス墓地(ウィーン郊外)で共同埋葬されたために、遺体が特定できませんでした。
そしてハンガリー、ボヘミアなど非ドイツ人居住域などへの強制策も当然ながら猛烈な反抗がおこりました。特にマジャール人居住域であるハンガリー王国の抵抗が激しくなりましたので、ヨーゼフ2世は軍隊を出動して屈服させる手段に出ました(1788-89)。しかしハンガリー側は徹底抗戦したため、この政策は断念せざるを得ませんでした。バイエルン問題に端を発した周辺諸国との外交問題に関しては、オーストリア拡大策に警戒する周辺諸国のプロイセンやドイツ諸領邦が動き始め、プロイセン主導でハノーファー、ザクセンら十数諸国らが対墺同盟(君侯同盟)を結成し(1785.6)、オーストリアに強く牽制しました。フリードリヒ2世が結成した同盟でしたが、彼は君侯同盟だけでなく、かつての七年戦争(1756-63)の敵国だったフランスやロシアに対しても関係修復に尽力し、プロイセンの国力維持に努めました。これが、フリードリヒ2世の最後の外交策でした(フリードリヒ2世死去。1786)。ヨーゼフ2世は、憧れていたプロイセン大王にも不快を露にされてしまいました。
こうして、ヨーゼフ2世が単独統治をしたわずか数年もの間に施していった諸改革は、多くの反発を受けて、その多くは頓挫してしまう結果となっていきます。ヨーゼフ2世自身も体の不調をうったえるようになり、徐々に体力も失われていきました。そしてヨーゼフ2世は、後々の帝位継承者となる甥のフランツ(1768-1835)の妃としてドイツ南西部のヴュルテンベルク家からエリーザベト・ヴィルヘルミーネ(1767-90)を呼び寄せ、皇帝自ら教育係として彼女を世話し、かつヨーゼフの心の拠り所としていました。1788年にエリーザベトはフランツと結婚したが、1790年2月18日にエリーザベトが長女出産翌日に急逝し、長女も夭逝しました。心の拠り所だった大公妃が若くして亡くなったことで、ヨーゼフは悲嘆に暮れ、生きる気力を失い、革命挫折の失意の中で、エリーザベトが亡くなった2日後の1790年2月20日、49歳で没しました(ヨーゼフ2世死去。1790.2.20)。
性急に人々の意識に入り込んださまざまな改革は、1790年のヨーゼフ2世の死でもって終わりました。国民生活の向上を目的とした諸改革の結末を待たずして、ヨーゼフは失意の内に没しました。ヨーゼフは子を残さずに没したために、ヨーゼフの弟でフランツの父であるレオポルト(ラベル233。1747-92)が神聖ローマ皇帝レオポルト2世として即位しますが(帝位1790-92。オーストリア大公位1790-92。ハンガリー王位1790-92。ボヘミア王位1790-92。トスカナ大公位1765-92)、彼は兄にはなかった冷静な判断で、兄の実施した諸改革の後片付けを行い、そのほとんどは廃止されました(ただし宗教寛容令は撤回しなかったとされます)。なおレオポルト2世は即位してわずか3年で急逝、その後フランツが最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世として即位するのでした(神聖ローマ皇帝位1792-1806。オーストリア皇帝位1804-35。オーストリア大公位1792-1835。ハンガリー王位1792-1835、ボヘミア王位1792-1835)。
ヨーゼフ2世はウィーンのカプツィーナ教会の地下にある納骨堂に埋葬されました。その中でも、彼の治世で行われた倹約政策により、ひときわ質素で地味だったのが、ヨーゼフ2世の棺でした。自ら選んだ墓碑銘は"善良たる意志にもかかわらず、何事にも成功しなかった人、ここに眠る"でありました。
引用文献『世界史の目 第234話』より
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