2019年01月26日
1月26日は何に陽(ひ)が当たったか?
1699年1月26日はカルロヴィッツ条約の調印の日です。オスマン帝国(1299-1922)の歴史における運命のわかれ道となりました。
オスマン帝国は常にオーストリア(大)公国(1278-1918)のハプスブルク家との間には、ハンガリー問題で揺れていました。ハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)は16世紀、王国からトランシルヴァニア公国(1571-1711)が自立し(その後はオスマン帝国の保護下へ)、王国の北部・西部(全体の3分の1)をオーストリア・ハプスブルク家がハプスブルク家領ハンガリー(1526-1867)として、中央部・南部(全体の3分の2)をオスマン帝国がオスマン帝国領ハンガリー(1541-1699)としてそれぞれ支配し、ハンガリー王位はハプスブルク家が世襲する状態で、ハンガリー王国は分裂状態でした。オーストリア・ハプスブルク家においても1648年の屈辱的なウェストファリア条約を締結して以後、かつての帝国的立場からは後退していました。
神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝レオポルト1世(帝位1658-1705)はハプスブルク家のオーストリア大公であり(公位1658-1705)、ハンガリー王位(王位1655-1705)も兼ねていました。彼の治世でのハンガリー対策は一貫して、反ハプスブルクを掲げるハンガリーのルター派貴族テケリ・イムレ(1657-1705)に対する問題解決でした。領地を没収され、ルター派などプロテスタントを弾圧するレオポルトのハンガリー行政に反抗するテケリ・イムレはフランスを味方に1678年に武装蜂起し、反乱を起こしました。これにオスマン帝国が軍隊を使わし支援、レオポルト1世はハンガリーへの高圧策を緩和する動きを見せましたが、オスマン帝国軍に支援されたテケリ・イムレの勢力はなおも抵抗を続けました。
この情勢をみたオスマン帝国の大宰相・カラ・ムスタファ・パシャ(任1676-83)は、オーストリアを制圧する好機と判断して、1683年7月13日つまり、1529年の第一次ウィーン包囲以来、およそ150年ぶりにオーストリアに侵攻、首都ウィーンを包囲しました。これが第二次ウィーン包囲(1683.7.13-9.12)です。
しかしオーストリア軍だけでなくこれを支援したポーランド軍やドイツ諸邦軍の堅い防衛と抵抗により、包囲は2ヶ月で解かれ、オスマン帝国軍は敗走することになってしまいました。1571年のレパントでの敗戦以来、およそ110年間においてヨーロッパ軍に大敗したことのなかったオスマン帝国が、軍事面においてにヨーロッパの軍より劣勢に転じた瞬間でした。
失態したカラ・ムスタファ・パシャはベオグラードで軍の立て直しを図りましたが、敗戦責任を負わせようとした反政府派が時のオスマン皇帝メフメト4世(位1648-87)へ讒言したことで、カラ・ムスタファ・パシャはメフメト4世に見限られ、イスタンブルへの帰還を許されず、勅命により12月末にベオグラードにて処刑されてしまいました(1683)。
第二次ウィーン包囲の失敗はヨーロッパのキリスト教勢力の奮起を促すものとなりました。ローマ教皇インノケンティウス11世(位1676-89)は神聖ローマ帝国(ドイツ諸邦)、ポーランド、ヴェネツィアらと"神聖同盟"を結成して(1684。のちロシアも加入。なお、1815年に結成されたウィーン体制期の神聖同盟とは別)、オスマン帝国と激戦を展開しました。この激戦はハンガリーやトランシルヴァニア、そしてバルカン半島が戦場となる大戦争となっていきました。このオスマン帝国が激戦を交わした、第二次ウィーン包囲から発展した神聖同盟を中心とするヨーロッパ連合軍との実に16年におよぶ戦争を大トルコ戦争(1683-99)と呼びます。この戦争でオスマン帝国はいっきに後退し、唯一オスマン帝国が頼りにしていたハンガリーのテケリ・イムレの軍も失敗が続き、ハンガリーを含むオスマン帝国の東ヨーロッパ諸領が次々と神聖同盟軍によって制圧されていきました。
1695年、オスマン皇帝メフメト4世の子ムスタファ2世(1664-1703)が即位しました(位1695-1703)。この治世では大宰相エルマス・メフメト・パシャ(位1695-97)のもと、続行する大トルコ戦争を決着すべく、オスマン帝国のハンガリー奪還を敢行、神聖同盟軍との大トルコ戦争の決戦がドナウ川支流のティサ川東岸にて行われました(現セルビア、ゼンタ近郊での戦闘なので"ゼンタの戦い"と呼ばれます。1697.9)。しかし敵軍はオーストリアの名将プリンツ・オイゲン(1663-1736)の奇襲戦略で1万のオスマン軍がティサ川にて溺死、大宰相エルマス・メフメト・パシャも殺され、あわせて3万のオスマン兵士が戦死するという惨敗ぶりでした。結局オスマン帝国は、第二次ウィーン包囲をきっかけとして、相次ぐヨーロッパ軍と連戦連敗を重ねていき、かつての脅威は完全に消え失せました。
ムスタファ2世はキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャ(1644-1702)を召集して大宰相に任じ(任1697-1702)、大トルコ戦争におけるヨーロッパ諸国との和平にむけた交渉を任せました。そして1699年、ドナウ河畔のカルロヴィッツ(現セルビアのスレムスキ・カルロヴツィ)で国際会議としては初の円卓会議であるカルロヴィッツ会議が開催されました。円卓会議は、立場が優位であろうと劣位であろうと、これらの序列を定めない平等な会議を行うことを意味しました。参加国はオスマン帝国、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアで、ロシアは不参加でした。
カルロヴィッツ会議において、オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間で交渉が行われました。結果、陽の当たった1699年1月26日において講和条約が調印されました。これがカルロヴィッツ条約です。この講和は歴史的に見て重要な意味を持つものとなりました。
条約締結の内容は、
対ロシアとは翌1700年、単独でイスタンブル会議を開催しました。この会議で締結されたイスタンブル条約でオスマン帝国はドン川河口のアゾフを放出、ロシアに割譲しました。
これにて大トルコ戦争は終結しました。カルロヴィッツ条約の締結は、オスマン帝国の大敗北を意味しました。帝国史上初めての、キリスト教勢力のヨーロッパ諸国に対する、大幅な領土割譲でありました。オスマン帝国のヨーロッパでの勢力が後退する一方で、ウェストファリア条約以来後退を余儀なくされていたハプスブルク家のオーストリアが、中欧における勢力を回復、大国再興のきっかけにつながったのです。イスタンブルで講和したロシアにとっても、不凍港を求めて南下政策へと前進する契機にもなりました。
カルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国の勢力衰退が表面化となり、国際的に示されることとなりました。国内では軍隊イェニチェリの反乱が起こるなど政情不安に陥りました。騒動の原因をつくった大宰相キョプリュリュ・ヒュセイン・パシャは結局ハンガリー放棄の責任をとる形となり辞任、皇帝のムスタファ2世も同じく退位、幽閉処分となりました。
宮廷の劣化から始まった国力の衰退によって、オスマン帝国は国際的地位も下降線をたどっていき、その後ヨーロッパ列強の介入に苦しむことになります。17世紀に大きな転換期を迎えて以後も混乱を重ねていき、かつての強力な勢力を誇った時代に戻ることは二度とありませんでした。
オスマン帝国は常にオーストリア(大)公国(1278-1918)のハプスブルク家との間には、ハンガリー問題で揺れていました。ハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)は16世紀、王国からトランシルヴァニア公国(1571-1711)が自立し(その後はオスマン帝国の保護下へ)、王国の北部・西部(全体の3分の1)をオーストリア・ハプスブルク家がハプスブルク家領ハンガリー(1526-1867)として、中央部・南部(全体の3分の2)をオスマン帝国がオスマン帝国領ハンガリー(1541-1699)としてそれぞれ支配し、ハンガリー王位はハプスブルク家が世襲する状態で、ハンガリー王国は分裂状態でした。オーストリア・ハプスブルク家においても1648年の屈辱的なウェストファリア条約を締結して以後、かつての帝国的立場からは後退していました。
神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝レオポルト1世(帝位1658-1705)はハプスブルク家のオーストリア大公であり(公位1658-1705)、ハンガリー王位(王位1655-1705)も兼ねていました。彼の治世でのハンガリー対策は一貫して、反ハプスブルクを掲げるハンガリーのルター派貴族テケリ・イムレ(1657-1705)に対する問題解決でした。領地を没収され、ルター派などプロテスタントを弾圧するレオポルトのハンガリー行政に反抗するテケリ・イムレはフランスを味方に1678年に武装蜂起し、反乱を起こしました。これにオスマン帝国が軍隊を使わし支援、レオポルト1世はハンガリーへの高圧策を緩和する動きを見せましたが、オスマン帝国軍に支援されたテケリ・イムレの勢力はなおも抵抗を続けました。
この情勢をみたオスマン帝国の大宰相・カラ・ムスタファ・パシャ(任1676-83)は、オーストリアを制圧する好機と判断して、1683年7月13日つまり、1529年の第一次ウィーン包囲以来、およそ150年ぶりにオーストリアに侵攻、首都ウィーンを包囲しました。これが第二次ウィーン包囲(1683.7.13-9.12)です。
しかしオーストリア軍だけでなくこれを支援したポーランド軍やドイツ諸邦軍の堅い防衛と抵抗により、包囲は2ヶ月で解かれ、オスマン帝国軍は敗走することになってしまいました。1571年のレパントでの敗戦以来、およそ110年間においてヨーロッパ軍に大敗したことのなかったオスマン帝国が、軍事面においてにヨーロッパの軍より劣勢に転じた瞬間でした。
失態したカラ・ムスタファ・パシャはベオグラードで軍の立て直しを図りましたが、敗戦責任を負わせようとした反政府派が時のオスマン皇帝メフメト4世(位1648-87)へ讒言したことで、カラ・ムスタファ・パシャはメフメト4世に見限られ、イスタンブルへの帰還を許されず、勅命により12月末にベオグラードにて処刑されてしまいました(1683)。
第二次ウィーン包囲の失敗はヨーロッパのキリスト教勢力の奮起を促すものとなりました。ローマ教皇インノケンティウス11世(位1676-89)は神聖ローマ帝国(ドイツ諸邦)、ポーランド、ヴェネツィアらと"神聖同盟"を結成して(1684。のちロシアも加入。なお、1815年に結成されたウィーン体制期の神聖同盟とは別)、オスマン帝国と激戦を展開しました。この激戦はハンガリーやトランシルヴァニア、そしてバルカン半島が戦場となる大戦争となっていきました。このオスマン帝国が激戦を交わした、第二次ウィーン包囲から発展した神聖同盟を中心とするヨーロッパ連合軍との実に16年におよぶ戦争を大トルコ戦争(1683-99)と呼びます。この戦争でオスマン帝国はいっきに後退し、唯一オスマン帝国が頼りにしていたハンガリーのテケリ・イムレの軍も失敗が続き、ハンガリーを含むオスマン帝国の東ヨーロッパ諸領が次々と神聖同盟軍によって制圧されていきました。
1695年、オスマン皇帝メフメト4世の子ムスタファ2世(1664-1703)が即位しました(位1695-1703)。この治世では大宰相エルマス・メフメト・パシャ(位1695-97)のもと、続行する大トルコ戦争を決着すべく、オスマン帝国のハンガリー奪還を敢行、神聖同盟軍との大トルコ戦争の決戦がドナウ川支流のティサ川東岸にて行われました(現セルビア、ゼンタ近郊での戦闘なので"ゼンタの戦い"と呼ばれます。1697.9)。しかし敵軍はオーストリアの名将プリンツ・オイゲン(1663-1736)の奇襲戦略で1万のオスマン軍がティサ川にて溺死、大宰相エルマス・メフメト・パシャも殺され、あわせて3万のオスマン兵士が戦死するという惨敗ぶりでした。結局オスマン帝国は、第二次ウィーン包囲をきっかけとして、相次ぐヨーロッパ軍と連戦連敗を重ねていき、かつての脅威は完全に消え失せました。
ムスタファ2世はキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャ(1644-1702)を召集して大宰相に任じ(任1697-1702)、大トルコ戦争におけるヨーロッパ諸国との和平にむけた交渉を任せました。そして1699年、ドナウ河畔のカルロヴィッツ(現セルビアのスレムスキ・カルロヴツィ)で国際会議としては初の円卓会議であるカルロヴィッツ会議が開催されました。円卓会議は、立場が優位であろうと劣位であろうと、これらの序列を定めない平等な会議を行うことを意味しました。参加国はオスマン帝国、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアで、ロシアは不参加でした。
カルロヴィッツ会議において、オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間で交渉が行われました。結果、陽の当たった1699年1月26日において講和条約が調印されました。これがカルロヴィッツ条約です。この講和は歴史的に見て重要な意味を持つものとなりました。
条約締結の内容は、
- オーストリアとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はオスマン帝国領ハンガリーや、保護下に置いていたトランシルヴァニアをはじめ、クロアチア東部(スラヴォニア)などを放出。オーストリア領となる。
- ポーランドとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はウクライナ西部のポジリア(ポドリア)を放出。ポーランド領となる。
- ヴェネツィアとオスマン帝国間・・・オスマン帝国はダルマツィア(クロアチアのアドリア海沿岸部)の大部分を放出、ヴェネツィア領となる。
対ロシアとは翌1700年、単独でイスタンブル会議を開催しました。この会議で締結されたイスタンブル条約でオスマン帝国はドン川河口のアゾフを放出、ロシアに割譲しました。
これにて大トルコ戦争は終結しました。カルロヴィッツ条約の締結は、オスマン帝国の大敗北を意味しました。帝国史上初めての、キリスト教勢力のヨーロッパ諸国に対する、大幅な領土割譲でありました。オスマン帝国のヨーロッパでの勢力が後退する一方で、ウェストファリア条約以来後退を余儀なくされていたハプスブルク家のオーストリアが、中欧における勢力を回復、大国再興のきっかけにつながったのです。イスタンブルで講和したロシアにとっても、不凍港を求めて南下政策へと前進する契機にもなりました。
カルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国の勢力衰退が表面化となり、国際的に示されることとなりました。国内では軍隊イェニチェリの反乱が起こるなど政情不安に陥りました。騒動の原因をつくった大宰相キョプリュリュ・ヒュセイン・パシャは結局ハンガリー放棄の責任をとる形となり辞任、皇帝のムスタファ2世も同じく退位、幽閉処分となりました。
宮廷の劣化から始まった国力の衰退によって、オスマン帝国は国際的地位も下降線をたどっていき、その後ヨーロッパ列強の介入に苦しむことになります。17世紀に大きな転換期を迎えて以後も混乱を重ねていき、かつての強力な勢力を誇った時代に戻ることは二度とありませんでした。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史