2019年01月25日
1月25日は何に陽(ひ)が当たったか?
1077年1月25日は、"カノッサの屈辱"と呼ばれる歴史的出来事が起こった日です。
封建制度下の中世ヨーロッパ世界では、キリスト教の精神が国王・諸侯(貴族)から下層民にまで溶け込んだことで、教会の権威はますます高まり、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長といった聖職者の階層制度(ヒエラルキー)が確立しました。政治的にも支配権を兼ね備えるようになり、農奴などに十分の一税を課すなど、教会の領主化も進んでいきました。
さらに教会は、聖職叙任権(領主的存在となった司教や修道院長の任命権)や聖職罷免権を教皇が持つといった、公会議で決めた信仰・慣習・規律などを絶対的なものとしました。しかしこれはあくまでも内輪だけの形式理念であり、現状では多くの教会は世俗権力者の支配にあったのです。荘園領主は領内に教会・修道院を建て、領主自身が修道院長や司祭を任命して自身の支配下においている現状でした。その典型的なのが神聖ローマ帝国(962-1806)という、当時のドイツ地方にあった大封建国家であった。
神聖ローマ帝国の教会は帝国教会として、神聖ローマ皇帝の直接支配制度であった。ここは諸侯勢力が強く、皇帝権を維持するためには聖職叙任権や罷免権といった教会の権威を皇帝が握らねばならないというのが当然とみなされていました。しかし、領主の聖職売買(シモニア。司教や修道院職といった聖職とそれに伴う世俗財産の売買行為)がおこり、教会の世俗化・腐敗化がすすんでいきました。聖職売買は10〜11世紀には日常的に行われていくようになりました。
この事態を悲観した修道院は、聖職売買や聖職者の妻帯といった、教会の腐敗と世俗化を自浄し、教皇が頂点に立ち、聖職者の権威をもとに戻そうとする教会刷新運動を起こしていきました。イタリア人ベネディクトゥス(480?-547)の「祈り、働け」を戒律としたモンテ・カシノ修道院、フランスで荒れ地開墾を推進したシトー派修道会、教会の財産所有を否定したフランチェスコ修道会やスペイン人ドミニコが南フランスに建設したドミニコ修道会など、修道院の教会刷新運動は盛り上がっていきました。その中で、11〜12世紀にかけて、刷新運動が最も盛んだったのが、フランス南東部にあるクリュニー修道院でした。ロマネスク様式の修道院で、刷新運動の中心的な存在でした。さらに教皇レオ9世(位1049-54)は、刷新運動の改革者らと教皇庁の改革をはかり、1059年教皇の選出する際、皇帝の介入を受け入れないことを決定しました。このため、神聖ローマ帝国の帝室に動揺が走りました。当時神聖ローマ帝国は皇帝ハインリヒ4世(位1056-1106)が幼少の頃であり(即位した1056年、彼はまだ6歳)、強い諸侯勢力から皇帝権を維持するために、皇帝が教会の権威を握るという意味では、大きな打撃となったのです。
1073年、教皇にグレゴリウス7世(位1073-85)が選出された。彼は腐敗した高位聖職者を退かせ、教皇自ら高位聖職者を任命し、強い宗教支配体制を築こうとしていました。また1075年、彼は教皇権の絶対権威、世俗権に対する優越権を宣言しました(「教皇教書」)。この宣言により、ローマ教皇グレゴリウス7世と、教会のあらゆる政策を国策と考える神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との対立は決定的となりました。1076年、ハインリヒはミラノの大司教任命を行う予定でした。この叙任権による闘争が大きな事件へとつながっていくのです。
教皇グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世に書簡を送り、ミラノの大司教を皇帝が任命することへの憤りを伝え、叙任権を教皇に返却するように皇帝に求めました。これに対し皇帝はウォルムスでのドイツ司教会議で教皇の廃位を決め、教皇に宣告しました。ところが教皇はこれをものともせず、教皇の最後の切り札、"破門"を皇帝に投げかけたのです。
皇帝が破門を受けるということは、臣下は君主に対する忠誠の義務がなくなるわけで、これまで皇帝によって任命されていたドイツの司教は当然の事ながら動揺し、神聖ローマ帝国は死に等しいほど大混乱に陥りました。そもそも神聖ローマ帝国は諸侯の選挙によって皇帝が選ばれる選挙王制であり、強い勢力を持った世俗諸侯は、破門された皇帝の廃位をめぐって、各地で反乱を起こしていくようになりました。グレゴリウス7世側につく地方の領主も増え、皇帝はいよいよ劣勢に立たされました。さらに不運は続き、ドイツ諸侯は集会を開いて、破門から1年後の1077年2月までに国王が破門を解かれない限り、帝位を廃することを決定したのです。
1076年末、皇帝ハインリヒ4世は決意し、ローマに赴きました。そして1077年1月25日、トスカナ女伯マティルダ(マティルデ・ディ・カノッサ。トスカナ辺境伯位1076-1115)の仲介により、カノッサ城に滞在していた教皇グレゴリウス7世に破門を解いてもらうよう、雪中の城門で3日間、裸足になり断食を続け、謝罪しました。よって破門は解かれたのです。これが歴史上有名な事件、「カノッサの屈辱」です。そのときの模様を伝える有名な絵画がこちらで(Wikipediaより)、左がクリュニー修道院長、中央にハインリヒ4世、右にマティルダ女伯が描かれています。
破門を解かれ、皇帝の勢力が回復したことによって、皇帝に反抗していた諸侯の大義がなくなり、結局皇帝によって反対派諸侯は抑圧されました。逆に劣勢に立たされたグレゴリウス7世は再度破門を通告しましたが、皇帝はこれにそむいてローマ出兵し、グレゴリウスを追放しました。結局この聖職者の叙任権闘争で始まった皇帝と教皇の対立は、グレゴリウス7世死後も続きましたが、皇帝ハインリヒ4世の息子、ハインリヒ5世(位1106-25)が教皇カリストゥス2世(位1119-24)間によるヴォルムス協約(1122)により、司教選挙に皇帝参加が認められ、叙任権は教皇が容認するとし、ようやく叙任権闘争は終結したのでした。
『世界史の目 第10話』より
封建制度下の中世ヨーロッパ世界では、キリスト教の精神が国王・諸侯(貴族)から下層民にまで溶け込んだことで、教会の権威はますます高まり、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長といった聖職者の階層制度(ヒエラルキー)が確立しました。政治的にも支配権を兼ね備えるようになり、農奴などに十分の一税を課すなど、教会の領主化も進んでいきました。
さらに教会は、聖職叙任権(領主的存在となった司教や修道院長の任命権)や聖職罷免権を教皇が持つといった、公会議で決めた信仰・慣習・規律などを絶対的なものとしました。しかしこれはあくまでも内輪だけの形式理念であり、現状では多くの教会は世俗権力者の支配にあったのです。荘園領主は領内に教会・修道院を建て、領主自身が修道院長や司祭を任命して自身の支配下においている現状でした。その典型的なのが神聖ローマ帝国(962-1806)という、当時のドイツ地方にあった大封建国家であった。
神聖ローマ帝国の教会は帝国教会として、神聖ローマ皇帝の直接支配制度であった。ここは諸侯勢力が強く、皇帝権を維持するためには聖職叙任権や罷免権といった教会の権威を皇帝が握らねばならないというのが当然とみなされていました。しかし、領主の聖職売買(シモニア。司教や修道院職といった聖職とそれに伴う世俗財産の売買行為)がおこり、教会の世俗化・腐敗化がすすんでいきました。聖職売買は10〜11世紀には日常的に行われていくようになりました。
この事態を悲観した修道院は、聖職売買や聖職者の妻帯といった、教会の腐敗と世俗化を自浄し、教皇が頂点に立ち、聖職者の権威をもとに戻そうとする教会刷新運動を起こしていきました。イタリア人ベネディクトゥス(480?-547)の「祈り、働け」を戒律としたモンテ・カシノ修道院、フランスで荒れ地開墾を推進したシトー派修道会、教会の財産所有を否定したフランチェスコ修道会やスペイン人ドミニコが南フランスに建設したドミニコ修道会など、修道院の教会刷新運動は盛り上がっていきました。その中で、11〜12世紀にかけて、刷新運動が最も盛んだったのが、フランス南東部にあるクリュニー修道院でした。ロマネスク様式の修道院で、刷新運動の中心的な存在でした。さらに教皇レオ9世(位1049-54)は、刷新運動の改革者らと教皇庁の改革をはかり、1059年教皇の選出する際、皇帝の介入を受け入れないことを決定しました。このため、神聖ローマ帝国の帝室に動揺が走りました。当時神聖ローマ帝国は皇帝ハインリヒ4世(位1056-1106)が幼少の頃であり(即位した1056年、彼はまだ6歳)、強い諸侯勢力から皇帝権を維持するために、皇帝が教会の権威を握るという意味では、大きな打撃となったのです。
1073年、教皇にグレゴリウス7世(位1073-85)が選出された。彼は腐敗した高位聖職者を退かせ、教皇自ら高位聖職者を任命し、強い宗教支配体制を築こうとしていました。また1075年、彼は教皇権の絶対権威、世俗権に対する優越権を宣言しました(「教皇教書」)。この宣言により、ローマ教皇グレゴリウス7世と、教会のあらゆる政策を国策と考える神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との対立は決定的となりました。1076年、ハインリヒはミラノの大司教任命を行う予定でした。この叙任権による闘争が大きな事件へとつながっていくのです。
教皇グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世に書簡を送り、ミラノの大司教を皇帝が任命することへの憤りを伝え、叙任権を教皇に返却するように皇帝に求めました。これに対し皇帝はウォルムスでのドイツ司教会議で教皇の廃位を決め、教皇に宣告しました。ところが教皇はこれをものともせず、教皇の最後の切り札、"破門"を皇帝に投げかけたのです。
皇帝が破門を受けるということは、臣下は君主に対する忠誠の義務がなくなるわけで、これまで皇帝によって任命されていたドイツの司教は当然の事ながら動揺し、神聖ローマ帝国は死に等しいほど大混乱に陥りました。そもそも神聖ローマ帝国は諸侯の選挙によって皇帝が選ばれる選挙王制であり、強い勢力を持った世俗諸侯は、破門された皇帝の廃位をめぐって、各地で反乱を起こしていくようになりました。グレゴリウス7世側につく地方の領主も増え、皇帝はいよいよ劣勢に立たされました。さらに不運は続き、ドイツ諸侯は集会を開いて、破門から1年後の1077年2月までに国王が破門を解かれない限り、帝位を廃することを決定したのです。
1076年末、皇帝ハインリヒ4世は決意し、ローマに赴きました。そして1077年1月25日、トスカナ女伯マティルダ(マティルデ・ディ・カノッサ。トスカナ辺境伯位1076-1115)の仲介により、カノッサ城に滞在していた教皇グレゴリウス7世に破門を解いてもらうよう、雪中の城門で3日間、裸足になり断食を続け、謝罪しました。よって破門は解かれたのです。これが歴史上有名な事件、「カノッサの屈辱」です。そのときの模様を伝える有名な絵画がこちらで(Wikipediaより)、左がクリュニー修道院長、中央にハインリヒ4世、右にマティルダ女伯が描かれています。
破門を解かれ、皇帝の勢力が回復したことによって、皇帝に反抗していた諸侯の大義がなくなり、結局皇帝によって反対派諸侯は抑圧されました。逆に劣勢に立たされたグレゴリウス7世は再度破門を通告しましたが、皇帝はこれにそむいてローマ出兵し、グレゴリウスを追放しました。結局この聖職者の叙任権闘争で始まった皇帝と教皇の対立は、グレゴリウス7世死後も続きましたが、皇帝ハインリヒ4世の息子、ハインリヒ5世(位1106-25)が教皇カリストゥス2世(位1119-24)間によるヴォルムス協約(1122)により、司教選挙に皇帝参加が認められ、叙任権は教皇が容認するとし、ようやく叙任権闘争は終結したのでした。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史