2018年12月28日
12月28日は何に陽(ひ)が当たったか?
1885年12月28日は、本国イギリスが領有するインド帝国(1858-1947)の知識人層において、インド総督の承認をもとに、インド国民会議(National Congress)が結成された日です。
1877年、イギリス・ヴィクトリア女王(位1837-1901)がイギリス領インドにおいてインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国としてイギリスの植民地としての完全支配がはかられます。それ以降、インドはイギリス資本で開発が促進され、労働者の激増に加えて、英語による近代教育を施した知識人の増加など、近代化が進んで親英インド人も増えましたが、こうした発展から得た収益は本国イギリスのものであり、インド人の生活は停滞しておりました。
やがて、綿工業などにみられるインド本来の産業が活性化しましたが、これは民族資本の成長によるものです。民族資本とは、土着民族が形成した資本で、外国資本と対抗してつくられた資本です。労働者は待遇改善を主張し、農民は茶などのプランテーションの発達による酷使で不満を訴え、また地主の土地集中によって貧窮化しました。知識人にいたっては、官吏・ジャーナリスト・教育者などとして活躍していましたが、真理を追究することによって、民族意識(ナショナリズム)にめざめ、植民地支配下におかれていた立場を見直し、イギリスの統治に対する批判と、民族主義にもとづく解放を目的とした啓蒙運動がおこされるようになっていきました。
本国イギリスはインドのこうした動きを見て、1885年、ボンベイ(現ムンバイ)でインド人による国民会議(National Congress)を開催させて、インド人懐柔策として彼らの不満を反らせるように仕向け、対英協調を求めました。インド総督のもと、親英的な知識人や地主などが集まり、元裁判所判事で教師のバネルジー(バナジー。1848-1925)、元教師で藩王国の首相も務めた下院議員ナオロジー(1825-1917)、宗教団体ブラフモ・サマージの活動家パール(1858-1932)らが出席し、当初はイギリスとの協調に重点を置いて、穏健に進みました。
しかし、ナショナリズムの高揚と拍車のかかった植民地支配が進行すると、反英精神からくる民族独立を主張し始め、政党化して国民会議派(コングレス党)が誕生することになりました。特にナオロジーは、インドの貧窮化は、インドの"富"がイギリスへ"流出"しているためだと説明し、イギリスからの解放を求めました。また元新聞発行者ティラク(1856-1920)は、派内の急進的存在となり、急進化したパールや、"ヴェーダに帰れ"というスローガンをもとに設立されたヒンドゥー教徒の改革運動組織アーリヤ・サマージ(設立者ダヤーナンド・サラスヴァティ。1824-83)の指導者だったラーラー・ラージパット・ラーイ(1865-1928)らも立ち上がって、共に反帝・反英を強力に主張していきました。特にラーイの協力は、国民会議派の活動を、ヒンドゥー教徒の支持によって一層強化させていきました。
これによりインド総督カーゾン(任1859-1925)は、1905年、反英運動の激しいベンガル行政区において、イスラム・ヒンドゥー両教徒の居住地域を、東西、宗教的に強制分割し、宗教的対立から反英運動を反らせ、さらに地租増収を定めました(ベンガル分割令。カーゾン法)。しかしこうした分割統治は効力があるわけがなく、分割反対運動(1905-08)がティラク、パール、ラーイら急進派らによって激化し、かえって反英闘争は促進され、独立運動の気運を高める結果となってしまいました。また折しも日本がロシア相手に日露戦争(1904-05)で勝利した影響が、大国イギリスに立ち向かうインド国民会議派へ好都合に動いていきました。
国民会議派は議長バネルジーをはじめ穏健派が中心であり、ベナーレス(ヴァーラーナシー)での大会(1905)までは常に穏健派による推進が続いたが、翌1906年、国民会議派はティラクら急進派が中心となり、同年に開催されたカルカッタ大会でイギリスに対する四大決議(四大綱領)を通過させました。その4つとは、@英貨排斥(ボイコット)Aスワデーシー(インド国産品愛用)Bスワラージ(インドの自治、そして独立)C民族教育(植民地奴隷の意識付けの廃止)であり、実践的な内容が打ち立てられました。これにより穏健派と急進派との間に対立が生じ始めました。翌1907年末のスーラト大会では、穏健派が巻き返しをはかろうとして急進派との対立が表面化し、会場でサンダルが投げつけられるといった不名誉な事件も起こるなどして両派は完全に分裂、またイギリスも急進派には弾圧を、穏健派には懐柔をはかり、ナショナリズムの鎮静化を期待しました。ティラクは逮捕・投獄されましたが(1908-14)、ラーイは本格的な海外活動(1913-1920。1915年には訪日も)を始めて独立運動に支持を取り付けました。一方穏健派のバネルジーは1918年、穏健派メンバーを率いて国民会議派を脱退、1921年政界を引退しました。
こうしてインドでの国民会議派は、その後はひとまず穏健派が主導となり、さらに第二段階を迎えていきます。
引用文献『世界史の目 第54話』より
1877年、イギリス・ヴィクトリア女王(位1837-1901)がイギリス領インドにおいてインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国としてイギリスの植民地としての完全支配がはかられます。それ以降、インドはイギリス資本で開発が促進され、労働者の激増に加えて、英語による近代教育を施した知識人の増加など、近代化が進んで親英インド人も増えましたが、こうした発展から得た収益は本国イギリスのものであり、インド人の生活は停滞しておりました。
やがて、綿工業などにみられるインド本来の産業が活性化しましたが、これは民族資本の成長によるものです。民族資本とは、土着民族が形成した資本で、外国資本と対抗してつくられた資本です。労働者は待遇改善を主張し、農民は茶などのプランテーションの発達による酷使で不満を訴え、また地主の土地集中によって貧窮化しました。知識人にいたっては、官吏・ジャーナリスト・教育者などとして活躍していましたが、真理を追究することによって、民族意識(ナショナリズム)にめざめ、植民地支配下におかれていた立場を見直し、イギリスの統治に対する批判と、民族主義にもとづく解放を目的とした啓蒙運動がおこされるようになっていきました。
本国イギリスはインドのこうした動きを見て、1885年、ボンベイ(現ムンバイ)でインド人による国民会議(National Congress)を開催させて、インド人懐柔策として彼らの不満を反らせるように仕向け、対英協調を求めました。インド総督のもと、親英的な知識人や地主などが集まり、元裁判所判事で教師のバネルジー(バナジー。1848-1925)、元教師で藩王国の首相も務めた下院議員ナオロジー(1825-1917)、宗教団体ブラフモ・サマージの活動家パール(1858-1932)らが出席し、当初はイギリスとの協調に重点を置いて、穏健に進みました。
しかし、ナショナリズムの高揚と拍車のかかった植民地支配が進行すると、反英精神からくる民族独立を主張し始め、政党化して国民会議派(コングレス党)が誕生することになりました。特にナオロジーは、インドの貧窮化は、インドの"富"がイギリスへ"流出"しているためだと説明し、イギリスからの解放を求めました。また元新聞発行者ティラク(1856-1920)は、派内の急進的存在となり、急進化したパールや、"ヴェーダに帰れ"というスローガンをもとに設立されたヒンドゥー教徒の改革運動組織アーリヤ・サマージ(設立者ダヤーナンド・サラスヴァティ。1824-83)の指導者だったラーラー・ラージパット・ラーイ(1865-1928)らも立ち上がって、共に反帝・反英を強力に主張していきました。特にラーイの協力は、国民会議派の活動を、ヒンドゥー教徒の支持によって一層強化させていきました。
これによりインド総督カーゾン(任1859-1925)は、1905年、反英運動の激しいベンガル行政区において、イスラム・ヒンドゥー両教徒の居住地域を、東西、宗教的に強制分割し、宗教的対立から反英運動を反らせ、さらに地租増収を定めました(ベンガル分割令。カーゾン法)。しかしこうした分割統治は効力があるわけがなく、分割反対運動(1905-08)がティラク、パール、ラーイら急進派らによって激化し、かえって反英闘争は促進され、独立運動の気運を高める結果となってしまいました。また折しも日本がロシア相手に日露戦争(1904-05)で勝利した影響が、大国イギリスに立ち向かうインド国民会議派へ好都合に動いていきました。
国民会議派は議長バネルジーをはじめ穏健派が中心であり、ベナーレス(ヴァーラーナシー)での大会(1905)までは常に穏健派による推進が続いたが、翌1906年、国民会議派はティラクら急進派が中心となり、同年に開催されたカルカッタ大会でイギリスに対する四大決議(四大綱領)を通過させました。その4つとは、@英貨排斥(ボイコット)Aスワデーシー(インド国産品愛用)Bスワラージ(インドの自治、そして独立)C民族教育(植民地奴隷の意識付けの廃止)であり、実践的な内容が打ち立てられました。これにより穏健派と急進派との間に対立が生じ始めました。翌1907年末のスーラト大会では、穏健派が巻き返しをはかろうとして急進派との対立が表面化し、会場でサンダルが投げつけられるといった不名誉な事件も起こるなどして両派は完全に分裂、またイギリスも急進派には弾圧を、穏健派には懐柔をはかり、ナショナリズムの鎮静化を期待しました。ティラクは逮捕・投獄されましたが(1908-14)、ラーイは本格的な海外活動(1913-1920。1915年には訪日も)を始めて独立運動に支持を取り付けました。一方穏健派のバネルジーは1918年、穏健派メンバーを率いて国民会議派を脱退、1921年政界を引退しました。
こうしてインドでの国民会議派は、その後はひとまず穏健派が主導となり、さらに第二段階を迎えていきます。
引用文献『世界史の目 第54話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史