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2018年12月27日

12月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 683年12月27日は、中国、王朝(618-907)の第3代皇帝、高宗(こうそう。李治。619-683)の没年月日です。

 高宗は第2代皇帝で、貞観の治といわれる善政を現出した太宗(たいそう。李世民。位626-649)の第9子で、鮮卑(せんぴ)民族の拓跋一族(たくばつ)出身である外戚の長孫氏(ちょうそん。後に述べる名臣と呼ばれた長孫無忌、またその妹は太宗の皇后で知られる)の奨めもあって高宗が太宗の後を継ぐことになりました(位649-683)。

 百済(?-660)、高句麗(?-668)の滅亡に尽力、663年の白村江での戦勝、西突厥(582-741)征討など、外敵への対策は盤石で、高宗の治世において、唐の最大版図を現出しました。内政においても前半は貞観の治を受け継ぎ、長孫無忌(ちょうそんむき。?-659)や、初唐の書家であり名臣の褚遂良(ちょすいりょう。596-658"ちょ"は'ころもへん'に'者')の活躍もあって安定した治世を現出できました。

 しかし、676年、唐との同盟を破棄し、唐と戦争を展開していた新羅(B.C.57-A.D.935)が、朝鮮半島を統一したことで唐の朝鮮半島経営を諦めざるを得ませんでした。また宮中でも高宗が政治を顧みずに、側室蕭淑妃(しょうしゅくひ。?-655)への恋に溺れてしまい、当時の高宗の正室である王皇后(?-655)は仲を引き裂くため、父太宗の後宮だった武氏を再び高宗の後宮に入れてしまいました。この女性は武照(ぶしょう。624-705)といいます。結果、高宗の恋心は蕭淑妃から王皇后に舞い戻ると思いきや、武照に移っていったのです。これにより武氏の勢力は強まっていきました。武氏は長孫氏の排斥をおこなって長孫無忌を失脚させ、褚遂良を左遷させて中央の行政権を掌握し、王皇后は廃后されて蕭淑妃とともに処刑され、代わりに武照の立后が果たされ、武照は皇后となりました。彼女こそのちの武則天、世に言う則天武后(そくてんぶごう)です。

 高宗は自身の過ちを憂いながら、660年以後から晩年にかけては自身の病魔との戦いに専心したため、唐はほとんど武氏の行政になりかわりました。高宗は失意の内に683年12月27日に没しました。治世の前半は長孫氏、後半は武氏によって国家が運営されたことで、高宗は唐の最大版図を築きながらも、主導権を握ることはない、"名許り(なばかり)皇帝"と印象づけられてしまいました。

 高宗の死後、武則天による垂簾政治が始まり、大きな騒動となっていくのでした。

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