2018年07月10日
7月10日は何に陽(ひ)が当たったか?
645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)は、飛鳥時代の豪族、蘇我入鹿(そがのいるか)が斬殺された日です。
大臣(おおおみ)とは姓(かばね)の1つである"臣(おみ)"のなかでも最有力者が任じられ、大王(おおきみ)の補佐と行政を担当する地位で、蘇我一族は大臣を世襲し、蘇我馬子(うまこ)時代に全盛期を築き、敏達天皇(びんたつてんのう)、用明天皇(ようめいてんのう)、崇峻天皇(すしゅんてんのう)、推古天皇(すいこてんのう)の各代に仕える一方、他の豪族を退け、皇位をも巧みにコントロールしていき、権力を恣にして専横をふるいました。
推古天皇時代では、皇室と豪族の権力均衡を保ち続けた聖徳太子(しょうとくたいし。574-622。厩戸皇子)の存在がありましたが、622年に聖徳太子が没し、勢力均衡をはかる者がいなくなりました。626年には蘇我馬子が没しますが、蘇我一族の存在は皇室をしのぐ勢力にまで高まってきており、大臣となった馬子の子、蘇我蝦夷(えみし)は父と同様に専横を振るいました。
628年4月に推古天皇が後継者を残さずして没したため、次期皇位後継者であった田村皇子(たむらのみこ)と、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)の名が挙がりました。上宮王家(しょうぐうおうけ。聖徳太子の一族)である太子も大兄王も蘇我氏の血を引いており、太子の祖母は蘇我稲目(いなめ。馬子の父)であり、馬子の妹でした。大兄王にしても蝦夷の妹を母に持っているため、本来なら次期皇位は山背大兄王が引き継ぐのが蘇我氏にとって好都合なはずでしたが、蘇我一族にとっては、勢力均衡の立場で執政した聖徳太子の姿勢を引き継ごうとする山背大兄王が皇位につく方が嫌でした。よって蘇我蝦夷は山背大兄王の支持派を退かせ、ついに田村皇子を舒明天皇(じょめいてんのう)として即位させることに成功しました。
641年に舒明天皇が没し、皇后であった寶皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇(こうぎょくてんのう)として即位しました。政治や民を取り仕切る蘇我蝦夷は、皇族をよそに勢力をさらに強めていき、上宮王家の一族を強制して自身の墓所を作らせるなどの横暴を働きます。果ては、大臣の職を子の蘇我入鹿に譲り、自身を大王と僭称するようにもなったとされています。蘇我氏の専横が顕在化すると、皇室では天皇中心の行政改革が叫ばれるようになり、推古天皇時代の安定した政治体制を望むようになりました。こうして、皇室と蘇我氏は対立の様相を呈し、緊張関係に包まれました。
すると蘇我一族は次期皇位継承者として舒明天皇と皇極天皇の第一皇子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ。生没年不詳)を推します。一方で対立候補として挙がるのが、上宮王家の山背大兄王でした。彼も有力後継者の一人でした。入鹿は、対立候補の山背大兄王側を攻め落とし、斑鳩寺に逃げ込んだ大兄王と一族を自殺に追い込んで上宮王家を滅亡させました。『日本書紀』によると、山背大兄王を滅ぼした入鹿の行為に際し、父の蘇我蝦夷は、入鹿に対して怒り、"近く一族の最期が来るであろう"と嘆いたとされています。
一方で、祭祀を管理していた連(むらじ。姓の1つ。大王とは祖先が異なり、神祇や軍事に関わる)を司る中臣氏(なかとみ)から出た中臣鎌足(なかとみのかまたり。614-669。中臣鎌子とも。のち藤原鎌足)は、蘇我氏打倒をかかげて、軽皇子(かるのみこ。596-654。皇極天皇の弟)を擁立し、舒明天皇と皇極天皇の第二皇子である、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。のちの天智天皇。626-672)と協力、蘇我氏を裏切った蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ。入鹿の従兄弟。?-649)を仲間に引き入れました。
陽の当たった645年7月10日、朝鮮(当時は高句麗、新羅、百済の三国時代)より使者が来日し、その儀式が朝廷の正殿(大極殿)で行われ、大臣である蘇我入鹿も出席しました。鎌足らはこれを好機とみました。儀式が始まり、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を皇極天皇の御前で読み上げている最中、共に陰に隠れていた鎌足と中大兄皇子は刺客と放とうとしました。この時、刺客は緊張のあまり足がすくんで出られず、刺客が現れないことに焦った石川麻呂は体と読み声が震え、緊張のあまり発汗しはじめました。不審に思った入鹿が石川麻呂に「なにを震えているのだ?」と問いかけます。石川麻呂は「畏れ多い帝の御前であるからです」と返した途端、鎌足に叱咤された刺客と共に、鎌足自身も中大兄皇子も入鹿の前に現れ出ました。そして、皇極天皇の御前で入鹿を斬殺しました(このクーデタを"乙巳の変"といいます。いっしのへん)。この時入鹿は、皇極天皇の御前にひれ伏し助命を求め、中大兄皇子の謀反を責めさせようとしましたが、中大兄皇子は、蘇我入鹿こそ皇位の簒奪者であるとうったえました。皇極天皇はその場から退きました。
入鹿の死を知った父蝦夷は、その翌日、入鹿の死を見届けた後、自身の屋敷に火を放ち、自殺を遂げました。有力者の死で蘇我氏の没落は決定的となりました。またその翌日、皇極天皇は退位して弟の軽皇子に皇位を継がせ、軽皇子は孝徳天皇(こうとくてんのう)となりました。孝徳天皇は、蘇我氏を打倒し皇太子となった中大兄皇子や新たに設置した内臣(うちつおみ。政府の要職)に任じられた中臣鎌足らとともに、世に言う、"大化の改新"を推進していくことになるのです。
参考文献はwikipedia他より。
大臣(おおおみ)とは姓(かばね)の1つである"臣(おみ)"のなかでも最有力者が任じられ、大王(おおきみ)の補佐と行政を担当する地位で、蘇我一族は大臣を世襲し、蘇我馬子(うまこ)時代に全盛期を築き、敏達天皇(びんたつてんのう)、用明天皇(ようめいてんのう)、崇峻天皇(すしゅんてんのう)、推古天皇(すいこてんのう)の各代に仕える一方、他の豪族を退け、皇位をも巧みにコントロールしていき、権力を恣にして専横をふるいました。
推古天皇時代では、皇室と豪族の権力均衡を保ち続けた聖徳太子(しょうとくたいし。574-622。厩戸皇子)の存在がありましたが、622年に聖徳太子が没し、勢力均衡をはかる者がいなくなりました。626年には蘇我馬子が没しますが、蘇我一族の存在は皇室をしのぐ勢力にまで高まってきており、大臣となった馬子の子、蘇我蝦夷(えみし)は父と同様に専横を振るいました。
628年4月に推古天皇が後継者を残さずして没したため、次期皇位後継者であった田村皇子(たむらのみこ)と、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)の名が挙がりました。上宮王家(しょうぐうおうけ。聖徳太子の一族)である太子も大兄王も蘇我氏の血を引いており、太子の祖母は蘇我稲目(いなめ。馬子の父)であり、馬子の妹でした。大兄王にしても蝦夷の妹を母に持っているため、本来なら次期皇位は山背大兄王が引き継ぐのが蘇我氏にとって好都合なはずでしたが、蘇我一族にとっては、勢力均衡の立場で執政した聖徳太子の姿勢を引き継ごうとする山背大兄王が皇位につく方が嫌でした。よって蘇我蝦夷は山背大兄王の支持派を退かせ、ついに田村皇子を舒明天皇(じょめいてんのう)として即位させることに成功しました。
641年に舒明天皇が没し、皇后であった寶皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇(こうぎょくてんのう)として即位しました。政治や民を取り仕切る蘇我蝦夷は、皇族をよそに勢力をさらに強めていき、上宮王家の一族を強制して自身の墓所を作らせるなどの横暴を働きます。果ては、大臣の職を子の蘇我入鹿に譲り、自身を大王と僭称するようにもなったとされています。蘇我氏の専横が顕在化すると、皇室では天皇中心の行政改革が叫ばれるようになり、推古天皇時代の安定した政治体制を望むようになりました。こうして、皇室と蘇我氏は対立の様相を呈し、緊張関係に包まれました。
すると蘇我一族は次期皇位継承者として舒明天皇と皇極天皇の第一皇子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ。生没年不詳)を推します。一方で対立候補として挙がるのが、上宮王家の山背大兄王でした。彼も有力後継者の一人でした。入鹿は、対立候補の山背大兄王側を攻め落とし、斑鳩寺に逃げ込んだ大兄王と一族を自殺に追い込んで上宮王家を滅亡させました。『日本書紀』によると、山背大兄王を滅ぼした入鹿の行為に際し、父の蘇我蝦夷は、入鹿に対して怒り、"近く一族の最期が来るであろう"と嘆いたとされています。
一方で、祭祀を管理していた連(むらじ。姓の1つ。大王とは祖先が異なり、神祇や軍事に関わる)を司る中臣氏(なかとみ)から出た中臣鎌足(なかとみのかまたり。614-669。中臣鎌子とも。のち藤原鎌足)は、蘇我氏打倒をかかげて、軽皇子(かるのみこ。596-654。皇極天皇の弟)を擁立し、舒明天皇と皇極天皇の第二皇子である、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。のちの天智天皇。626-672)と協力、蘇我氏を裏切った蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ。入鹿の従兄弟。?-649)を仲間に引き入れました。
陽の当たった645年7月10日、朝鮮(当時は高句麗、新羅、百済の三国時代)より使者が来日し、その儀式が朝廷の正殿(大極殿)で行われ、大臣である蘇我入鹿も出席しました。鎌足らはこれを好機とみました。儀式が始まり、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を皇極天皇の御前で読み上げている最中、共に陰に隠れていた鎌足と中大兄皇子は刺客と放とうとしました。この時、刺客は緊張のあまり足がすくんで出られず、刺客が現れないことに焦った石川麻呂は体と読み声が震え、緊張のあまり発汗しはじめました。不審に思った入鹿が石川麻呂に「なにを震えているのだ?」と問いかけます。石川麻呂は「畏れ多い帝の御前であるからです」と返した途端、鎌足に叱咤された刺客と共に、鎌足自身も中大兄皇子も入鹿の前に現れ出ました。そして、皇極天皇の御前で入鹿を斬殺しました(このクーデタを"乙巳の変"といいます。いっしのへん)。この時入鹿は、皇極天皇の御前にひれ伏し助命を求め、中大兄皇子の謀反を責めさせようとしましたが、中大兄皇子は、蘇我入鹿こそ皇位の簒奪者であるとうったえました。皇極天皇はその場から退きました。
入鹿の死を知った父蝦夷は、その翌日、入鹿の死を見届けた後、自身の屋敷に火を放ち、自殺を遂げました。有力者の死で蘇我氏の没落は決定的となりました。またその翌日、皇極天皇は退位して弟の軽皇子に皇位を継がせ、軽皇子は孝徳天皇(こうとくてんのう)となりました。孝徳天皇は、蘇我氏を打倒し皇太子となった中大兄皇子や新たに設置した内臣(うちつおみ。政府の要職)に任じられた中臣鎌足らとともに、世に言う、"大化の改新"を推進していくことになるのです。
参考文献はwikipedia他より。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史