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2018年12月16日

中国の歴史 唐王朝 第三弾

こんばんは。

更新が遅くなりましたが、唐王朝の第三弾です。

前回は、玄宗李隆基が即位されたところまででした。玄宗といえば楊貴妃を寵愛したことで有名ですが、楊貴妃を見い出す前は太宗の貞観の治を手本とし、「開元の治」と呼ばれる安定した政治を行いました。
しかし、天下泰平の世が続くと、玄宗は政治に関心をあまり持たなくなっていました。そんな中、最も寵愛を受けていた武恵妃が死去してしまったことにより、玄宗は新たに寵愛に足る美女を探すようになりました。そしてついに息子の寿王の妃、楊玉環(のちの楊貴妃)を見出し、息子から奪う形で召しだしました。それからは、寵愛は一気に彼女に集中しすぐに貴妃という立場まで昇り詰めたのです。
玄宗はさらに政治に無関心になり、宰相の李林甫が変わって政治を掌握しています。李林甫が死んだ後は、楊貴妃の親族楊国忠と塞外の胡出身の安禄山が実権を握ろうと対立しました。二人は玄宗に気に入られようとお互いに譲りませんでしたが、楊国忠が「安禄山が謀反を企てている」と玄宗に密告したため、安禄山は乱を起こし、長安に軍を差し向けます。玄宗は、軍事力では安禄山に勝てないと思い、すぐに長安を後にし蜀の地に向かいました。亡命の途中、兵士たちはこの今の状況をつくった原因が楊国忠だとし、楊国忠を殺害、その親族の楊貴妃も死罪にするよう玄宗に迫りました。玄宗は、それをおさめることができず、楊貴妃に死を賜うしかありませんでした。

そんな混乱の中、皇太子だった李享は宦官の後押しもあり、長安にて玄宗の同意を得ないまま皇位継承を宣言しました。(粛宗(李享)が宦官に擁立された事実は、以後の唐朝皇帝の擁立に宦官が関与する慣例を生んだと言われています。)玄宗も事後報告でしたが、これを承諾するしかなく自らは上皇となりました。

一方、安禄山は洛陽にて燕を建国し、自らを皇帝と名乗っていました。しかし、失明や顔のできもののせいで周りの人間に対し粗暴になっていたことも重なり、息子安慶緒に殺されてしまいます。
燕の第二代皇帝になった安慶緒もまた、もともと乱暴で人柄もよくなかったため、配下はついてこず、安禄山の腹心史思明によって殺されてしまいました。そして史思明は、第三代皇帝を名乗り、唐に対する反乱を起こし続けました。この乱のことを「安史の乱」と呼びます。

粛宗(李享)の時代に、なんとか長安や洛陽を奪還し、粛宗は10月、玄宗は同12月にそれぞれ長安に帰還できましたが、史思明たち残党は残っていて安史の乱は制圧できませんでした。しかも、朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官たちに掌握されており、自らの政治力を発揮することはできなかったのです。
さらに、皇后と李輔国が政権を争いはじめたころから粛宗は、病床につくことが多かったといいます。
そして、玄宗が死去した13日後に粛宗も安史の乱の終結を見ないまま、死去してしまいました。

次いで、皇帝になったのは粛宗の長男の李俶でした。このころからすでに宦官の政治介入がひどくなり、宦官が政治を掌握する時代に突入していきます。結局代宗李俶も、宦官に実権を握られたまま54歳で死去することになります。
その後に継いだ李适は、即位後は積極的に唐の財政再建に尽力し、両税法の改革などを行いました。しかし、節度使の抑制を行おうとして失敗し長安を追われてしまい、逆に節度使の権力を強め、唐が弱体化する原因を作ってしまいました。

その後は、主に宦官による政治が度重なり、内乱などもあり結局朱全忠により、約300年、23代まで続いた唐の時代は907年に終わりを告げました。

この唐の時代のドラマは特に前半の時代のものが多いので、後半は省略いたしました。
主に、wikipediaより、抜粋させていただきました。

また、ドラマの紹介をいたしますのでドラマで気になることがあれば、こちらを参考にしてみてくださいね。

中国ドラマがたくさん見られるVODは、ビデオマーケットです。



また、スカパーのチャンネル銀河でもたくさん見られます。



タグ:唐王朝
posted by おりん at 16:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 余談

2018年12月13日

中国の歴史 唐王朝 第二弾 高宗〜周〜唐の再建

こんにちは。

前回は、太宗李世民が崩御したところまでの話でしたが、少し元に戻ってお話ししたいと思います。
李世民時代の妃で武才人という妃がいたのですが、この武才人は子どものころから父に高等教育を受け、とても優れた才女でした。
この時代は、天文などを見て占う占術師の存在が重要な役割を果たしていたようで、「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」というお告げのようなものがあり、民の間で噂になりました。
武才人の才を目の当たりにしていた太宗は「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」の意味だと思い込み、武才人を自分から遠ざけるようになりました。
すると、その息子李治(のちの高宗)が武才人の才能と美しさに魅せられ、惚れこむようになります。武才人が仕向けたというのが後の説となっていますが…。

そんな李治でしたが、皇太子という立場もあり妃はもちろんいました。皇帝になると王氏が皇后にたてられましたが、寵愛は蕭淑妃が独占状態でした。そんな状況を脱するため、王皇后は李治がお気に入りの出家していた武氏を入宮させるように李治に提案します。李治は喜んで、昭儀という五番目の位の妃に封じます。その後は武氏は寵愛を一挙に受けることになります。
すると、王皇后と蕭淑妃は争っていたにもかかわらず武氏を排除しようと画策しますが、結局武氏の方が一枚上手で、二人は罪をきせられ、極刑に処せられました。一説には、武氏が自分の子どもを自分で殺し、その罪を王皇后にきせたといわれています。武氏により、鞭で打たれた後に手足を切断され、酒に投げ込まれたとも伝えられていて、武則天の悪女のストーリーの一部ともなっています。
その後、武氏は李治の皇后としてたてられています。

さて、三代皇帝になった高宗李治でしたが、もともと病気がちだったため即位して間もなくは、叔父の長孫無忌が、晩年は武皇后が政治をの実権を握っていました。
けれど、白村江の戦や高句麗滅亡などの功績もあり、一時は唐の最大版図を獲得したりしました。
そして李治も一時は、武后の廃立を計画もしましたが失敗し、晩年は病床につき、最後まで武后に権力を掌握され続け、55歳で死去しました。

第四代の皇帝には李治と武后との間に生まれた中宗李顕がたてられましたが、母の武皇太后に対抗しようと韋后と協力し親政を図り、失敗。わずか54日で廃位されました。その後、代わって同母兄弟の睿宗李旦が即位しましたが、これもまた武氏の傀儡政治であり、実権を握ることはありませんでした。

690年、ついに武氏は自ら帝位につきました。睿宗は皇太子に降格され、武姓を与えられています。国号も「周」に変えられました。ここから705年までの15年間は「周」の時代になりますが、一代で終わったため、歴史的には「唐王朝」の一部として見られています。
武則天は、歴史上は負のイメージで悪女と呼ばれていますが、彼女の治世は民衆の乱は一切なく、また人材登用能力が長けていたこともあり、安定していたようです。
しかし、彼女が病床につくようになると唐復活の機運が高まります。武則天の愛人だった張兄弟が実権を握ると、宰相・張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に譲位を迫りました。
こうして、「周」の治世は終わり、再び「唐」の時代が始まります。
中宗が復位すると韋皇后は従兄の韋温とともに朝政を掌握しました。そしてついに、自身の即位を目的とし、安楽公主とともに中宗を毒殺します。しかし、間もなくして睿宗とその息子李隆基(のちの玄宗)が政変を起こし、睿宗が復位します。
睿宗の治世は長くはなく、2年で息子の李隆基に譲位し太上皇帝と称しました。

7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼びます。

次回は、玄宗の時代から 第三弾へ続く



タグ:唐王朝
posted by おりん at 14:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 余談

2018年12月12日

中国の歴史 唐王朝 第一弾 建国から太宗の時代

こんばんは。

中国の歴史ドラマを観ていると、唐王朝時代のものがたくさんあります。
子どものころ学校で習った中国の歴史では、遣唐使を派遣していたことくらいしか覚えていません。

ドラマを観る上で、歴史を知っているとさらに面白くなるので、少し歴史に触れたいと思います。
(この後、唐王朝時代のドラマについてご紹介したいので…)

唐の時代は、日本でいうと飛鳥時代から平安時代にかけての王朝です。

以前にご紹介しました「蘭陵王」の時代は、中国の南北朝時代といい、「蘭陵王」は北部の北周と北斉の戦いを描いたものでした。
その時、南部には陳という国があり、真ん中に小さい領土の後梁という国がありました。「蘭陵王」最後は、北周が北斉を滅ぼし、楊堅が頭角を現してくるという結末だったのですが、結局、その楊堅が北周の皇帝から禅譲させ、皇帝になり隋を建国します。そして、後梁、陳も制圧し、司馬炎の建国した西晋滅亡以来約300年にわたり乱れ続けてきた中国全土を統一することに成功しました。
その時、楊堅は北周の宇文家一族は皆殺しにしています。

楊堅の跡を継いだのが、次男の楊広(煬帝)でした。もともとは、長男の楊勇が太子でしたが、煬帝の策略により廃太子され、煬帝が第2代皇帝となります。
この煬帝ですが、中国史で代表される暴君であり、即位前まで倹約生活をしていたのですが、即位後からは豹変し酒色に溺れる日々。さらに、三度の高句麗遠征失敗と残酷な刑の執行などが重なり、反乱が相次ぎました。また、先帝の寵妃宣華夫人を無理やり自分の妃にしたなどの逸話もあります。

そんな乱れた世の中、隋の大臣だった李淵が挙兵し、618年5月、煬帝が殺されたことを知ると、恭帝から禅譲を受けて唐を建国します。
李淵の妻は、北周時代の武帝(宇文邕:「蘭陵王」に出てきた)の姪であり、隋王朝を倒したことは、復讐を果たしたことにもなります。
そして、この頃、各地で武将たちが皇帝を名乗りまさに群雄割拠の様相でした。
その後、李淵の次男李世民の著しい活躍により626年までに大部分を平定するに至りました。
その戦功を見ていた配下たちは、李世民を皇太子にしたいと考え策動するようになりました。そして、それを知った皇太子李健成と弟の李元吉は世民を暗殺しようと画策しました。さらにその情報を入手した李世民は、玄武門の変にて兄弟二人を殺害し、高祖李淵に譲位を迫り、第二代皇帝太宗李世民が誕生しました。

皇帝になった李世民は、長孫氏を皇后にたてました。長孫皇后は、李世民の腹心長孫無忌の妹で13歳で李世民の妻になり3男4女をもうけ、李世民から最も愛された皇后です。36歳で病により死去しますが李世民はその後皇后を立てないほどでした。
太宗李世民の時代に行われた政治は貞観の治と呼ばれ、中国史上最も国内が治まった時代と言われるほど、理想的な時代でした。
また、妃嬪も煬帝の娘や後に則天武后になる武才人などたくさんいます。
この時代は、皇后の次に正一品の貴妃、淑妃、徳妃、賢妃という四人の妃がいて正二品に昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛、正三品から五品に婕、、美人、才人、正六品から八品に宝林、御女、采女という妃たちがいました。(ドラマではよく出て来る呼び名なので頭い入れとくと上下関係がわかりやすいです。)
太宗の時代は、とても理想的な時代だったのですが、晩年は立太子問題で頭を悩ましたようです。長男の李承乾が皇太子としてたてられていたのですが、兄弟たちが皇太子の座を狙い、また太宗も弟の李泰を偏愛していたため、謀反を起こし廃されました。李泰も朋党を組んだとして不適格とされ、結局長孫皇后の三男の李治が皇太子とされました。
そして、649年の太宗の死去に伴い即位しました。

第二弾へ続く

タグ:唐王朝
posted by おりん at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 余談

2018年11月30日

蘭陵王の主題歌を歌う五月天(MAYDAY)

先日、「蘭陵王」の紹介をいたしましたが、その主題歌を歌う五月天(MAYDAY)の良さを知っていただきたく、少し紹介したいと思います。

五月天(MAYDAY)は、台湾出身の5人組のグループで、台湾では相当人気のあるバンドです。日本でいう、GLAYみたいな感じ。そのGLAYとも親交があり、コラボして曲を出していたり、お互いのライブに顔を出したりしています。

GLAYとコラボしている曲は「Dancin’ Dancin’ feat.TERU(GLAY)」という曲で、こちらのアルバムに収録されています。

さらに、flumpoolともコラボしています。興味のある方はぜひ一度聞いてみてください。You Tubeでも調べられます。

flumpoolとのコラボ曲は「OAOA]や「Belief 〜春を待つ君へ〜 feat.flumpool」です。

そして、やっぱり「蘭陵王」の主題歌「入陣曲」のかっこよさは、半端ないです。

オープニングの始まりは、蜷川実花さんの世界とのコラボも素敵で一気に魅了されてしまいました。このドラマの良さをますます引き立てる曲となっております。

ドラマを見るときは、音楽の良し悪しもかなり関係してくるとわたしは思っています。

わたしの中で、主題歌は最重要ポイントなので、このドラマはその点でも最高でした。

本日は余談でしたが、MAYDAYをより多くの方に知ってもらえると嬉しいです。

武道館のコンサートもほとんどが台湾からのファンだったので、もっと日本のファンがコンサートに来てくれるといいなぁ。と思います。


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タグ:Mayday
posted by おりん at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 余談
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