2016年01月27日
★けさ、長寿温泉のひば風呂で、自分の「系譜」を考える! クラクラッ! ひば風呂、最高!
《★八戸ぐらし!》
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◆【ドドドドドン!MEMO】――★「社会的自殺」?
よくわからないが、しかし、不気味なことばが僕のうちを浮遊している。
けさ、インプレッサで一走り、長寿温泉の朝風呂に行った。
入浴客は少なかった。
ちょうど、早朝派と午前派の入れ替わりの時間帯だったのかもしれない。
湯けむりの奥から、今、帰ったばかりの「ご隠居さん」たちのくぐもった世間話が聞こえてくるようだった。
中央に2つある湯船のうち、まず、入口側の湯船に入った。
やわらかな温めの湯で僕にピッタリだった。
たぶん半循環(半掛け流し)なのだろう。
それから、奥のひば風呂に全身を沈めた。
こちらは100%掛け流し。
実は、昨晩、夏目漱石に関する書物を読んでいたら、クラクラッとめまいを覚えるような表現に出くわした。
〈東京と松山の距離は、「時代」と彼の存在の核との距離、あるいは社会的な役割として彼が引き受けた英文学者・英語教師という職業と彼の本来の自己との距離である。〉
これは、漱石が東京高等師範学校を辞任して四国の松山中学校の英語教師になる際の、その心の動きに関する、若き江藤淳の仮説だ。
図示すると――
○東京……………(距離)…→松山
○時代……………(距離)…→存在の核
○社会的な役割…(距離)…→本来の自己
〈漱石は、距離的に遠い場所に赴くことによって、それだけ深く自己の内面に下降し、荒廃の底から「生」の根源の力をさぐりあてたいという暗黙の衝動を充たそうとした(後略)〉(江藤淳『夏目漱石小伝』から)
読んでいるうちに、急に松山の道後温泉の湯壺にカラダを沈めたくなったのだが、しかし、もちろん、道後温泉には行けない。
で、代わりに、長寿温泉ということになった。
ひば風呂につづいて、隣の水風呂に入っているとき、2階から降りてきた客があった。
展望露天風呂でもあるのかと期待したが、「サウナと水風呂がある」ということだった。
再び、ひば風呂にもどり、外部から差し込む明るい光と見上げつづけた。
昨晩の「クラクラッ」だが、いろいろなものが混じったクラクラだった。
ひとつは、道後温泉の湯壺に身を浸して、本来の自己に出会いたいという文学青年的な(*^_^*)衝動だった。
もうひとつは、正反対の、どうにもならない諦め・幻滅・自棄・絶望の感情だった。
江藤淳の思考の背後には、〈フローベルは社会的に自殺することで社会的な「私」をその作中に作り出した〉という先輩、小林秀雄の「私小説論」のようなものがある。
またまたその背後には、たとえば以前、僕がネット上で靖国女子大生ten-winたちと議論したような芭蕉の「脱回転運動論」のようなものがある。
さらにたどれば、1000年前の伊勢物語「みをえうなきものに思いなして京にはあらじ……」につながっていく。
こういう「系譜」に結局、自分も縛られてきたんや……という「クラクラッ」だった。
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