光触寺(こうそくじ)は、神奈川県鎌倉市十二所に所在する時宗の寺院で、山号は岩蔵山、院号を長春院という。創建は弘安元年(1278年)で、開山は作阿上人、開基は一遍上人と伝えられている。本尊は阿弥陀三尊で、中尊の阿弥陀如来像は頬焼阿弥陀(ほおやきあみだ)として知られる。
鎌倉三十三観音霊場第7番、鎌倉二十四地蔵霊場第5番、鎌倉六阿弥陀第6番札所。藤沢市清浄光寺末。
歴史
光触寺に伝わる鎌倉時代中後期の絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる素行不良の僧が盗みの容疑をかけられ、頬に「くつわの水つき」によって焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言った。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っており、修復を21度試みてもかなわなかったという。
その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したので、由縁により寺院は火印堂(かなやきどう)と呼ばれたと伝えられる。この縁起は、絵図と同じく鎌倉時代中後期に成立した無住道暁の仏教説話集『沙石集 巻第二ノ三』に、細部の異同はありながら「弥陀ノ利益事」として同様の説話が載っている。
岩蔵寺と当寺についての直接の資料は前述の絵巻物を除いて残っておらず明らかでないが、弘安元年(1278年)に現在地へと移ったとされ、その後第3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名。一遍を開基に迎え、寺号の岩蔵を山号とし、光触寺へと改称したという。江戸初期には藤澤山(藤沢山)とも称した。
寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 – 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 – 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には、33代住持の大純により中興されている。現存の本堂が安政6年3月(1859年4月)上棟とする。堂は37代住持広道の任期において1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折に傾斜したが、翌1924年(大正13年)には修復されている。
所在地情報
所在地
神奈川県鎌倉市十二所793
交通
鎌倉駅東口より京浜急行バス、鎌倉霊園正門前太刀洗・金沢八景駅行バスに乗り停留所「十二所」下車徒歩約2分
位置 北緯35度19分12.8秒 東経139度34分51.7秒
山号 岩藏山
院号 長春院
宗派 時宗
本尊 阿弥陀三尊
創建年 弘安元年(1278年)
開山 作阿
開基 一遍
中興年
元禄年間(1688年 – 1704年)
安政年間(1854年 – 1860年)
中興
含了(元禄)
大純(安政)
正式名 岩藏山長春院光觸寺
別称 頬焼阿弥陀、火印堂
札所等
鎌倉三十三観音霊場第7番
鎌倉二十四地蔵霊場第5番
鎌倉六阿弥陀第6番
文化財
木造阿弥陀如来及両脇侍立像 3軀(国の重要文化財)
紙本淡彩頬焼阿弥陀縁起 2巻(国の重要文化財)
絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(市指定文化財)
紙本著色頬焼阿弥陀縁起絵巻模本 2巻(市指定文化財)