b.青春っていうと、おかあさん、昭和20年に卒業したんすね、女学校、
a.家のおっ母さん、80過ぎて10分前のこと平気で忘れるようになったけど、昔の記憶は実にしっかりしてて、ちなみにどんな卒業式かって聞いたら、「人数分の防空壕がないので早く自宅へもどりなさい」、これが先生から生徒へのはなむけのコトバだったそうだ、
b.卒業証書は、
a.頼んでた印刷屋が空襲で焼けて無くなってしまった、それに一年繰り上げの卒業、
b.じゃあ卒業アルバムとかも、
a.製本前に空襲で焼けてしまって、かろうじて残った写真だけ綴じることなくバラでもらったそうだ、
b.たしかに、このころ東京でも空襲が繰り返されてますね、しかし、よく助かったもんだ、
b.爆撃機の轟音も覚えてるそうだ、独特のおなかに響くような音で、母のお姉さんは戦闘機の機銃掃射にあって、パイロットの顔までハッキリ見えたとか・・・ただ、どこかノンキなところもあって、勤労動員の仕事、疲れてくると、空襲警報鳴らないかなあって、クラスメイトとささやいたり、そのころはほとんど毎日どこがで空襲があったから、もう慣れっこになってたようで、
b.勤労動員って、どんな仕事してたんすか、
a.兵隊さんのおふんどし縫ったり、中国・雲南省の地図を折ったり、現在のNECで事務の仕事を手伝ったり、でも、若い男子学生はもっときつい肉体労働だったらしい、
b.で、空襲警報が鳴ると、
a.仕事さぼれるんでウキウキして、しまいに防空頭巾もかぶらず肩からぶら下げて、警報解除のサイレンが鳴るまで近くの芝公園に避難する、最後は防空壕にも入らなかったそうだ、真っ暗で狭苦しいから、
防空頭巾
現在の芝公園
b.ちょっとその感覚わかりづらいっす、だって、そんなさなか、3月10日の大空襲で下町中心に10万人以上死んでるんすよ、同じ東京の都心部で、
a.遠くの夜空が炎で真っ赤だったって話してるけど、平時の感覚とずいぶんかけ離れてるよなあ、もう危険に対して麻痺しちゃってるのか、あるいは戦時下のラジオから正確な情報が得られなかったせいか・・・ちなみに通ってた三輪田高等女学校、現在の三輪田学園も翌月14日には空襲で全焼してるし、はたから見るとぎりぎりの所で生き残ってるように見えるんだけど、本人たちは意外にノンキというか、
b.学校焼けたころは疎開してたんすか、
a.3月末に卒業して、すぐさま御殿場に疎開、
b.で、終戦まもない9月にはもう、家族で東京にもどってるのか、不思議と鉄道が走ってるんだ、東京駅の駅舎も大破せず残ってるし、ということは人の住む家をねらったのか、恐ろしい、
焦土と化した東京
a.東京駅に降り立ったら、細い木がひょろひょろ生えてるだけで、地平線しか見えなかった、すごいショックだったと、
b.いろんな青春があるんすねえ、
a.戦中戦後は食べ物が不足して、いつもおなか空いてたそうだ、
b.空襲と空腹の青春か、今の繁栄が信じられないっす、