で、ガダルカナル島から生きて帰って、その後は、
沖縄戦へ向かう予定やったけど、出発直前、ガダルカナルでもらったマラリアが発病して、けっきょく向かうことができず、
もし沖縄戦に向かってたら、そこで人生が終わってた可能性も、
たしかに、沖縄のはるか手前で、戦艦大和といっしょに沈んでたかもしれんし、たとえ沖縄にたどり着いても、生きて帰れたかどうか、
じゃあ、その後は富士山の裾野(すその)、現在の御殿場市にあった陸軍施設で終戦をむかえたと、
現在の陸上自衛隊・東富士演習場のあたりやと思うけど、母たち家族も、東京からそこへ疎開していて、その後、安全を確認して鉄道で東京駅へ降り立ったときは、行きしと風景は激変、地平線ばかりとなった一面の焼け野原に浮かぶ遠くの富士山ばかりが目立ったそうや、
卒業アルバムや卒業証書も東京大空襲で焼けて、女学校の卒業式も無く、
敵国言語ということで英語の授業は禁止され、ついには授業すべても無くなり、軍需工場で働く日々、
日本とは対照的に、開戦前からすでに、日本語にくわしい語学情報将校を養成していたアメリカ
(埋め込みでは再生できないので、YouTubeのサイトへ行って21分からご覧ください)。
そうして終戦を迎えるわけですけど、軍人だったオジサンは、その後どうなったんすか、
もともと絵の才能があったんで、新宿歌舞伎町で、アメリカ兵を相手に似顔絵を描くという、なんとも皮肉な仕事で、戦後の第一歩を踏み出して、
いわゆる占領軍、進駐軍(シンチュウグン)ってやつですか、
最初のほうは紳士的な軍人が多かったけど、だんだん質が低下していって、レイプされる婦女子も多く、母も一度追っかけられて、民家に逃げ込んだそうで、米兵が、家のお婆さんに「むすめ、むすめ」って叫んでたそうや、
で、オジサンは、ずっと歌舞伎町で似顔絵描きの仕事を、
いや、つぎに電気屋を始めたんやけど、軍人やってたころの部下がたくさん集まってきて、断るわけにもいかず、全員雇った結果、店はつぶれてしまい、けっきょく、たったひとりで鍵関係の仕事を立ち上げることに、
じっさい、会ったことはあるんすか、
たった一度だけ、小学4年の夏休みに、オジサンとこで 1〜2週間すごすことがあって、子供さんが居ないことも手伝って、それはそれは大事にしてくれて・・・初対面のオッチャンが、なんでこんなに良くしてくれるんか、うれしいというよりは、不思議な気分で・・・近所のプールで水泳を教わったり、将棋やプラモ、夏祭り、鍵の仕事に同行して、自家用車で箱根から伊豆へ泊りがけでドライブして、伊豆の海岸では海水浴と、短期間にいろんな経験が詰め込まれて、目が回るほど・・・今にして思うと、優しさの中にも、軍人らしい厳格な一面もあったような、
会ったのはそれが一度きりってことは、オジサンの戦争体験は、直接聞いたというより、
そう、物心ついた高校生くらいになって、話し好きな母親を通して知ることになるんやけど、戦後も、戦友の遺骨収集のために、ガダルカナル島へ何度かおとずれたそうで、同じように遺骨収集に来たアメリカのオジサンたちとも仲良くなったり、老境に入ってからは、ようやく戦争の傷も癒えたのか、巨大な戦艦大和のプラモをつくったり、
そういえば、いま住んでる家の鍵もオジサンが選んだとか、
父親が凝り性(こりしょう)なもんで、ここはこうあそこはこうと、家を建てるときにあれこれアイデアをしぼって、鍵もそのオジサンに頼んで、いちばんええやつを送ってもらったそうで・・・なもんで、今も鍵を開け閉め(あけしめ)するたんびに、ふとオジサンのことを思い出すんや、
【現代版アヘン戦争】
中国が米国に麻薬「フェンタニル」を蔓延させ、
薬物過剰摂取の死者数が過去最多の10万人越え
https://rapt-plusalpha.com/43334/
PENTAX K-5 II s + HD PENTAX-DA 20-40mm F2.8-4 ED Limited DC WR(jpeg.撮って出し)