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2017年11月15日
鈴木涼美「好きを仕事に」で生まれるブラックな過重労働は「悪」と断罪できるのか
文春オンライン より好きなことを始めれば やめられない。 好きなんだから しょうがない。 しかし 美味しいものも 毎日たくさん食べれば 飽きるように 好きなことだって それだけやっていれば 飽きる。 飽きたら 少し別のことをする。 でもまた 元の好きなことを 始める。 好きだから またやりたくなる。 これが自然で健康的なわけだが これが仕事に 当てはめられるかというと 簡単ではない。 簡単ではないが 「飽きたらやめる」か 「飽きても続ける」かは 健康か不健康(肉体的・精神的共に)の 分岐点ではありそうだ。 しかし 仕事を 「飽きたらやめる」ことは 世の中は奨励してないし 親も先生も それを良いこととは教えていない。 つまり 「飽きたらやめる」 ことには あらかじめ 「罪悪感」 が設定されている。 その罪悪感に どの程度反応するか また 反応しないのかは 当然個人差があるわけだが その個人差を作る要素の一つには 「自己評価」 ということが 関係する。 つまり 自分に自信のある人は 休みたいときに 休むのに抵抗はないが 自信のない人や 劣等感の強い人は 休むことに罪悪感を感じたり 一生懸命にやっても 足りない感じがしたり 休むと不安になって 仕事をしてる方が 安心だったりして 結果として休めない。 でも本人は 休まないことを 自分で決めたつもりでいる。 実際には 過労に至る道筋は もっと多様で複雑な場合も多いから あまりこの場では 原因を むやみに断定するような言い方は 避けるべきだと思うが 嫌なこと、嫌な時に 「やりたくない」は わがままと考えるより 健康管理の目安と考える方が有益だ。 それでも やらなければいけない時はあるのだが それはある種の異常な事態で 異常な事態を正常な状態だと思って働らくと 幾多の災難に見舞われるが 異常な状態を異常な状態だと思って働らく分には まだ歯止めが効いて 災難は多少少ない。鈴木涼美「好きを仕事に」で生まれるブラックな過重労働は「悪」と断罪できるのか
NHK女性記者の過労死報道から1ヶ月。君たちはどう稼ぐか
「そうだ、鈴木さん、あの方ご存知だったんじゃないですか?」
先日、 久しぶりに 私が新聞記者時代に大変お世話になった 取材先の広報の方と お話しする機会があった。 私が密かに憧れていた その課長も今は広報を離れ、 本流のエリートコースを大驀進中なのだが、 お世話になった頃には 明かされていなかった私の黒歴史 (文春砲とかAVとか) は気に留めてくださっていたようで、 「会社にいても会社を辞めても話題の中心ですね」 と若干皮肉られつつ、 「そうだ、鈴木さん、 あの方ご存知だったんじゃないですか?」 と話題を振られた。 彼があの方、 と指したのは先月、 過重労働によって亡くなっていたことが 幾度も報道されたNHKの女性記者のことである。 2013年に亡くなった時の年齢は31歳で、 現在34歳の私とは年齢も大変近く、 ほぼ同時期に都政報道の担当をしていたことから、 その取材先の課長も 「うちの部下も鈴木さんと似たような時期に お世話になっていたようで」と、 私とその女性記者が仕事仲間だったのでは と心配していたようだ。 ちょうど電通新入社員の 過労自殺などが 大きく報道された後というタイミングもあって NHK過労死報道への人々の関心は高かった。 ブラック企業などについて テレビや週刊誌もいつにも増して 特集を組んでいる。過重労働の被害者になっている「私」は想像しにくい
あいにく、 私は利害関係のない プライベートの友達は女の子だけ、 仕事上の利害あるお付き合いは ほぼ男の子だけ、 というゲンキンで薄情な人間のため、 亡くなった佐戸未和さんとは 直接的な知り合いではない。 しかし年齢と担当の取材先が似通っている 元同業者の死が 労災認定されていたことは、 私にとっても少なからず気になる報道だったし、 周囲の人間も 記事を見て私を連想した人はいたようで、 ある人は 「君も死んでいたかもしれない、 記者なんて辞めて良かったのかも」 というような内容のメールをよこした。 確かに 私がのうのうと生きていて 別の人が亡くなったということに 必然性などないのかもしれないが、 仮に私がそのまま新聞記者として 働いていたと考えてみても、 過重労働の被害者になっている自分 というのが想像しにくいのも確かだ。給料は成果への報酬か、苦痛の対価か
常識的に、 私たちは仕事で得る収入、 つまりお給料について 大体二通りの感覚を持っている。 お給料を自分の労働による成果への報酬 と捉えるか、 苦痛の対価と捉えるか。 そして、 もちろん生き生きと仕事をして 自己を華々しく実現する人に 前者の感覚が共有されている場合が多いのだが、 反面、 過労で倒れたり、 追い詰められたりする人も その感覚を持っていることは否定し難い。 そして、 どちらかというと後者の感覚が強く、 お給料に対してどれだけの我慢が 見合うかということを 常に考えている私のようなタイプの人間は、 仕事で成功する道も狭いが 仕事に追い詰められることも 比較的少ない。 私の関心は、 いかに職場での居場所を失わない程度に うまくサボって、 しっかり仕事している人と 同じだけの給料をもらうか、 ということに偏りがちだったし、 だから仕事を面白いとか楽しいとか、 そんな感覚なんてなかった。 ただ、 私の方がカノジョたちより 幸福だなんて言えるんだろうか。 死ぬほど働いてみたい なんて言ったら怒られるけど、 でも死ぬほど疲れていることに気づかないほど 入れ込んでできる仕事を持つのは、 かわいそうなことなんだろうか。 程よく、身体を壊さない程度に、 ワークライフバランスを考えて、 入れ込んで、思いっきり、 楽しみながら、泥臭く、 それなりに一所懸命 ……働くことを彩る言葉は多いが、 どれもこれもしっくりこない。 どうせ同じ給料だから、 と手を抜かないで、 死ぬくらい真面目にやればよかった、 と時々思う。 でも死んでしまったら好きな仕事もできないし、 手を抜いて上手いことやるくらいで ちょうどよかったんだ、とも思う。夜業界でワーカホリック状態の女の子は「給料=成果」派
収入についての感覚が 仕事への姿勢を分けるのは何も、 いかにも自己実現的な 現場や職種に限った話ではない。 私が新聞社の前に勤めていた 夜業界というのは、 とくダネをとったり 上司の機嫌を窺ったりして 評価査定をあげて花形部署に異動して 論説委員や 部長の席を狙う新聞記者なんかよりも ずっと直接的に ずっと露骨に 出来高による収入格差と 成績ランキングが可視化される場所だった。 そして 過度なワーカホリック状態になる女の子たちが 持っているのは まさに給料を成果ととる思考回路だ。 彼女たちの論理では当然、 美人で気が利く巨乳の若い娘、 がより多く稼げる。 逆に言えば稼いだ金額が、 自分の女としての価値であると 見紛うようなシステムがそこにある。 そして、 幸福なことに、 あるいは大変不幸なことに、 それほど美人でもなく 機転も利かず貧乳で年増であっても、 労働時間を増やすことで 収入をある程度補填できる。 彼女たちにとって稼いだ金額は、 時に自分の常軌を逸した 頑張りの結果でもあるが、 その過程を無視すれば、 それはそのまま 自分が良い女であるという証明にもなる。 夜業界の女の子たちが 競ってホストクラブで 死ぬほどまずいスパークリング酒に 高額を使うのは、 お金が使えるということは 稼げるということであり、 稼げるということは 自分がスペックの高い良い女である という誇りに直結しているからだ。 そして彼女たちは あたかも自分は寝ずに節約を重ねて 過度な出勤と 長い労働時間によって稼いでいるのではなく、 良い女だから簡単に稼げているように振る舞う。 そうでなければすぐさま 「鬼出勤してまでホスト通い乙www」 なんて不名誉な噂を立てられる。「指名本数を少なく、客単価を上げる」派の嬢たちも
「大して働いてないよ」 というそれはもちろん、 他人に対してのポーズでもある。 しかし彼女たちを見ていると、 あくまで装いだったその姿勢を いつしか内面化し、 自分でもどこかしら過重労働の実態を 意識的に忘却し、 売れっ子だから かわいいから 色っぽいから稼いでいると 信じ込むようなところまで見え隠れする。 そして 他人に対しても 自分に対しても そのポーズを裏切らない成果を上げるために、 より一層過酷な労働環境に没入していく。 と、書くと いかにも蟹工船状態で あくせくと働く姿が想像されるが、 彼女たちの実態は内面的にも 外見的にも 大変華やかで充実したものである。 夜業界においては 忙しいということそれ自体が 自分が個人的にある程度 求められるような存在でない限り 実現しないことであり、 どんなに忙しくてもそれは自分の 「売れっ子」っぷりを 体現しているに過ぎない と思えてしまう。 売れに売れているアイドル歌手の睡眠が 2時間であるような事態と似ている。 対極にはもちろん、 いかに効率よく 必要なぶんだけを稼ぐかを目的に、 なんとか指名本数を少なく、 客単価を上げようという思考の嬢たちもいる。 彼女たちの場合は、 稼いだ金額は 見知らぬオヤジのちんぽをしゃぶる苦痛に 見合うものであるべきで、 ホストクラブで 豪快に散財する同輩たちを見ても、 「あんなにお金が使えるほど 売れっ子の良い女なんだ」 などとは思わず、 「あのシャンパンタワーのために 何本のちんぽをしゃぶったのだろう」 と捉える。 チップをくれる上 客がいれば一本の稼ぎだけで勤務を終えるし、 店を通さずに お金をくれるパパを見つければ 平気で無断欠勤を続ける。「好きを仕事に」の否定は神を証明し愛を否定するくらいに難しい
社会学者の阿部真大氏は 初期の名著『搾取される若者たち』 (集英社新書) の中で、 過酷な労働条件の中で バイク便ライダーがある意味 嬉々として労働に打ち込んでいく様を、 「好きを仕事に」 することの落とし穴として 鮮やかに描いた。 私がかつて 『「AV女優」の社会学』 (青土社) の中で指摘した、 下がっていく条件を うまくプライドに置き換えていく 彼女たちのホリックの構造も 似たようなところはある。 しかし、 現場で見るワーカホリックのホスト狂いたちも 劣悪なギャランティのAV嬢たちも、 苦痛の対価だと割り切って 仏頂面で通勤するかつての私や 私のような労働者に比べて ずっと輝かしく、 羨ましい存在でもあった。 確かに、 「好きを仕事に」も 「仕事で自己実現」も 「やりがい搾取」も、 人が本来保つべき 安定した生活習慣を 脅かす落とし穴だらけではある。 ただ、 それを否定しようとするのは、 実は神を証明し 愛を否定するくらいに難しい。AV女優時代のギャラ100万円は何の対価に支払われていたのか
何にお金が支払われているのか、 というのは、 実は正解のない問いである。 そして時間が経って、 考えが変わることもある。 例えば、 私はAV女優時代、 今ほど給料を 苦痛の対価だと考えて 仕事をしていなかった。 100万円のギャラは 私の若さや巨乳や 可愛らしさに支払われているものと信じていたし、 だからこそ頑張って ダイエットして お金にならない営業も回り、 需要がなくならないように どんどん過激な内容にもチャレンジした。 引退して数年後、 本気で好きになった人に 「元AV嬢とは付き合えない」 と言われて、 若さや可愛さの対価だと思っていたお金は、 実はそんなことを言われる 悲しさに対して支払われた 100万円だったのだとわかった。 最初からそう思っていれば、 過激なビデオなんて出なかっただろうし、 もっともっと手を抜いて 効率よく100万円稼いだだろうし、 高熱で寝不足の現場なんて とっとと休んでいたと思う。 その方が健康にはいいし、 命は落とさないけど、 パワーとやる気に満ち満ちていたあの頃は あの頃で幸せだった。 人の弱みに付け込んだひどい習慣が まかり通るブラック企業は もちろん存在する。 ただ、 全ての過重労働問題を 労務管理に回収しては、 仕事と人の本来的な関係を見落とす。 かつての同僚と 久しぶりにメールをしたら 「夜回り禁止なんていう バカみたいなルールのせいで 思うように取材できない」 と会社のホワイトっぷりを呪っていた。 少なくとも、 時に仕事のやりがいが 健康より大切に思えることを 一刀両断に否定することなんて、 他人にできるんだろうか、 とちょっと思う。
2017年11月13日
橋下氏、維新に離党届の丸山氏と和解 「言い過ぎた」
朝日新聞デジタル よりおもしろいと思った。 感情は当然感情的だから 「それ以上でもそれ以下でもない」ところで 止めることはできないし そんな理性的な感情などあるわけない。 本気で怒れば言いすぎることも 言わな過ぎてしまうこともある。 そういうものだ。 また特に 潔さも感じた。 そしてそこから この怒りに雑念がないことも感じた。 どういうことかというと、 政治家が怒りを公に表す時、 多くは その怒りの効果を狙う場合が多い。 怒りによって 存在を誇示したり 相手を 服従させたり 貸しを作ったりと 怒りの使い方はいろいろある。 橋下徹のこの怒りは 腹が立ったから 怒っているだけで それ以上でもそれ以下でもない。 だからそれによって 存在を示して相手に服従させるとか そういう二次利用を目的とはしていない。 もしそういう意図があったら 「丸山議員が電話で謝罪したから許した」 ということだけを強調して 「自分も言いすぎたとあやまった」ことは 少なくても公の場では言わない。 それは恥と感じる。 確かに現実的には 丸山議員は当然しばらくは 橋下徹に対して大人しくしてるだろうが それはそれで正常な関係だ。 しかし もう一回か二回くらいなら また橋下徹を怒らせることが あって良い。 それは丸山穂高の人生にとって プラスに働らく。 丸山穂高は 子供ではないので これは余談だが 子供を叱る時 1 叱って 2 反省があって 3 それを許して はじめて叱る効果がある。 つまり この三つが揃って 子供が成長する糧になる。 意外と知られていないことだ。橋下氏、維新に離党届の丸山氏と和解 「言い過ぎた」
日本維新の会前代表の橋下徹氏は 9日のインターネットテレビ局の番組で、 維新の代表選にからんで ツイッターで対立した 丸山穂高衆院議員(大阪19区) と和解したことを明らかにした。 丸山氏は離党を表明したが、 離党届は受理されておらず、 松井一郎代表(大阪府知事)は10日、 党への復帰は「本人次第」と記者団に述べた。 2人の対立は維新が議席を減らした 衆院選直後に起きた。 丸山氏が10月24日に 「維新は総括と代表選が必要。 若造に言われんでも代表は 言うだけの人ちゃうし、 ちゃんとやりまっせですね、失礼をば」 などとツイートしたところ、 橋下氏が 「代表選を求めるにも言い方があるやろ。ボケ!」 と激しく反発。 丸山氏は31日に離党を表明した。 橋下氏は番組で 「お互いに言い過ぎた所があるということで お互いに謝りながら、 僕は僕の思いを言いました。 向こうも 『ちょっと言いすぎた所があります』 と言ってきたんで、 こっちも『言い過ぎたところがあったね』と」 と語った。 橋下氏によると、 丸山氏から電話があったという。
2017年11月11日
東京新聞・望月衣塑子記者、また意味不明な質問…菅義偉官房長官「事実に基づいて質問を…」と苦言
産経ニュース より最近の左派の 著しい劣化を象徴する話だ。 事実認識が正常ではない。 客観的な事実の組み合わせによって 矛盾や疑問を 追求するのではなくて、 主観的な想像や妄想によって 事実を誤って認識している。 この態度は 「報道」にとって 致命的なことではないのか。 これはいわゆる 「偏向報道」 ということともまた違った次元の話だ。 偏向報道や 報道しない自由と言われることは 事実はある程度正確に 認識した上で 都合の悪いことや 都合が悪く解釈される事実を 削除したり 意図的に 本来の解釈を曲げる文言で 受け手の印象を操作する。 だから ある意味で 事実の認識は正常だ。 加計学園問題では 加戸元知事の話を 理解し 正確に認識したから 自分たちにとって 都合の悪い話であることを 正確に認識し 都合の悪い度合いが高いことも 正確に認識したため 報道しない選択をした。 自分たちの望む姿と 違うという事実を 客観的に 正確に認識している。 しかし この望月さんという方は 基本的な事実認識に 客観性がなく 感情的・主観的な 認識や解釈を 勝手にすることを よしとしているようにしか 思えない。 このような方は 自分や自分たちに 都合の良い事実さえも見落とす。 つまり 目的は 反対や批判のみで 事実には全く関心がない。 反対のための反対 批判のための批判 ということの典型だ。東京新聞・望月衣塑子記者、また意味不明な質問…菅義偉官房長官「事実に基づいて質問を…」と苦言
菅義偉官房長官は9日の記者会見で、 東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者が、 政府がトランプ米大統領の長女、 イバンカ補佐官が関わる基金に 資金を提供することにより、 幼児教育無償化の予算が 削られるのではないかと 質問したことについて、 「事実に基づいて質問してほしい」 と苦言を呈した。 安倍晋三首相は イバンカ氏も参加した 3日の国際女性会議で、 イバンカ氏が主導し、 世界銀行などが設立した 女性起業家を支援する基金に 5千万ドル(約57億円)を 拠出すると表明した。 望月記者は、 これまで加計(かけ)学園問題などで 菅氏を質問攻めにしており、 この日は 「イバンカさんの基金、 世銀が設立した基金に かなりの金額が費やされるという話が出た。 教育無償化に財源を当てる以上に イバンカ基金が必要という意見か」 と尋ねた。 菅氏は 「イバンカ基金なんかありません」 と否定。 世銀と主要国が立ち上げ、 「各国同じような形で拠出する」 と一蹴した。
2017年11月10日
憲法改正するから自民党はリベラル」10〜20代の政治観とは?「保守」「リベラル」を再定義
AbemaTV/『AbemaPrime』 より右と左に別れていたものが 上と下に別れるようになったら 右と左を区別することに 建設的な意味は 見出せない。 すると 右と左の色は 連続したグラデーションのようになって 境目がなくなる。 それは良いとか悪いではなくて 必然だ。 そもそも政治は 「誰かの利益のため」 であった。 しかし 時代が進めば 特定の「誰か」 のためだけの利益は 行き詰まる。 どんなに資本家が 富を蓄えようとしても ものを買う側に 買う力がなければ 資本家の利益は 保障されないように。 だから 一部にとっての利益は そもそも複雑な社会生活では 成り立たないのだが 人のサガは 対立軸を作って どちらかの側にいることに 自分の存在感を感じやすく 敵がいることで 味方がいると感じられるので 安心感を感じる。 対立軸がないと 仲間がいても 相対的な孤独を感じてしまう人が結構いて 仲間の存在に 気づかない場合さえある。 それは 本能の部分とも関係があるし 育ち方とも関係がある。 だから本来 右とか左とか そういう対立軸の有効性は この国では そもそもかなり前に 期限切れになっているのだが 対立軸を作らないと 不安な人たちによって なんとか 形骸を保存されていたに過ぎない。 特に一部のマスコミは 実質同人誌を作る上で 「同人」が存在する 必要があっただけだ。 だから マクロンをはじめ エダノンも小泉進次郎も安倍晋三も 小池百合子も橋下徹も 本質的に イデオロギーの どちらかの側にいるわけではない。 共産党でさえも実質的にはそうだ。 現在の日本共産党は 言うことと やることが 違っていても良い という党是なので 表面の言葉と一致しないだけで 実質的には 自衛隊だって認めているし 革命も起こす気はない。 それが現実だし 悪いことでもない。 ただこれからは 本当の意味での政治の質が問われる。 上と下にわかれる。 そこには 全体の幸福を高度に希求した態度が 理想論ではなく 具体的に 必要だし それには 本当に有効な 思想も哲学も さらに 政治技術も経済知識も 必要だ。 一部には 即物的な 技術や知識の教育だけあればよくて 文系学部は必要ないなどと アホなことを 本気で言ってる人もいるようだが そこでの失敗は 取り戻すのに 千年単位の時間と労力がいる。 決して誇張ではない。 少なくとも 今は 史観を持とう。憲法改正するから自民党はリベラル」10〜20代の政治観とは?「保守」「リベラル」を再定義
先の衆院選でも対立軸とされた「保守」と「リベラル」。
立憲民主党の枝野代表は選挙中 「大体、今の自民党が保守なんですか? 一億総中流と言われて、 世界一治安がいいと言われて、 お隣近所、地域社会、 お互いさまに支えあっていた 日本社会を壊してきたのは誰ですか、 日本社会の良き伝統を 壊している保守なんかあるはずがありません。 みんなが安心して暮らせていた時代の 日本社会を取り戻す。 私はリベラルであり保守であります!」 と訴えた。 また、 保守派の論客でありながら、 立憲民主党の応援演説をした 漫画家の小林よしのり氏は 「自民党は保守ではない。 あれは単なる対米追従勢力だ。 アメリカについていって戦争をしろと。 それだけだ。 なんで自衛隊のまま 集団的自衛権に参加させるんですか。 枝野さんは安保法制の議論のときに、 個別的自衛権を強化しろと言った。 実はこれがね、 保守の考え方なんですよ。 枝野の方がもっと保守なんですよ」 と力を込めた。 先月の衆議院選挙のANNの出口調査によると、 20代の49%が 比例区で自民党に投票したという 結果が出ており、 「現代の若者は保守化している」 とする意見もある。 一方、街で18歳から29歳の男女50人に 「自民党は保守かリベラルか」 と尋ねてみると、 「めちゃくちゃリベラルじゃないか。 結構、改憲、改憲と言っているので」 (20歳学生) 「保守。ずっと安倍さんだから」 (18歳学生) 「リベラルな気もする。 改憲するという話になっている。 保守なら今までのことを守るという気がするが、 改憲ならリベラルかなと思う」 (20歳学生) 「立憲民主党で掲げていた方が そういう感じがしたので。 そうすると 自民党は保守なのかなって」 (20歳学生) 「伝統を守っているというのも あるかもしれないんですけど、 新しい方を活性化させている気がするので」 (19歳学生) と、保守が20人に対し、リベラルが30人という結果になった。 こうした状況になっている背景には、 「保守」「リベラル」が 日本では独特のイメージづけを されていることがありそうだ。 日本大学の岩井奉信教授は 「保守の基本的な考え方は、 伝統を守り、 手続きを重視するというもの。 自民党の結成当時、 社会主義と資本主義が対立していた。 社会主義には"革命"という考え方があるので、 これに対抗するとなれば、 原初的な意味合いで 自民党が保守になるのは当然だと思う。 これに対してリベラルは、 冷戦終結後に革命と保守の対立が成立しなくなり、 自民党の保守の対抗概念として打ち出された。 したがって、 左派だとか、あるいは大きな政府だとか、 そういったものを リベラルというような感じで、 時代と共に変わってきている。 本来、 リベラルは個人の自由を重んじ 国家の役割を小さくする立場で 資本主義を基礎づける概念。 しかし、 こうした経緯から 日本では憲法改正に反対することなどが リベラルとされており、 本来の意味とは少し異なった使われた方をしている」と説明する。 実際、 日本における保守のイメージには、 憲法9条改正推進、 日米安保重視、防衛力強化、 伝統や家族などの価値観を重視、 小さな政府路線といったものがある。 「結党の時に自主憲法を制定するというのを 党是にしたということなので、 自民党の保守という考え方と 憲法改正というのはここで結びついた」 (岩井氏)。 また、 リベラルのイメージには、 憲法9条改正反対、 アジア重視、対話外交に軸足、 個人の権利や平和主義の尊重、 分配政策を重視といったものが挙げられる。 この基準に照らせば、 自民党、安倍政権も 十分にリベラルだと 言うことができるのではないだろうか。 ジャーナリストの有本香氏も 「憲法9条改正以外、 安倍さんの政策はほぼリベラルだ。 歴代首相の中でも首脳間の行き来は多く、 日米安保重視ではあるが、 中国と韓国との関係を除けばアジア重視、 対話外交でもある。 個人の権利や 平和主義の尊重というのも まあ当てはまる。 欧州で言えば、 金融緩和、財政出動を含む アベノミクスは基本的には かなり左派的な政策。 保守であれば小さな政府で、 そういうものはどんどん切り詰め、 民間で自由にやってくれという考え方。 自民党はウィングを広げる という言い方をしていて、 安倍政権も左派のお株を奪うような政策が 非常に多い。 例えば、 女性に社会に出て働いてもらおうとか、 経済の上では国境に関係なく 投資を自由にしていこうだとか。 あるいは外国人の労働者に永住権を与えて、 一年で永住権を与えようなど。 これは保守とは言えないような政策」 と話す。 その上で有本氏は 「あえて言えば、 枝野さんは戦後体制を 保守するというタイプ。 安倍さんは ざっくりした言い方だが、 日本の伝統はしっかりと保守したい。 だが、 経済活動については かなりリベラルというタイプ。 みんな保守とリベラルの両面を持っていて、 混在しているし、 保守とリベラルで分けることも 次第に意味をなさなくなってきた。 再定義する必要がある」とした。 (AbemaTV/『AbemaPrime』より)
2017年11月08日
キレる人を落ち着かせる"アドラー心理学"
PRESIDENT Online より「過ぎたるは及ばざるが如し」 は 意外なほど どんな分野にも 通用する。 頑張ることは 悪いことではないが 頑張りすぎることは 良いことではない。 思わぬトラブルに見舞われたり 対人関係で失敗したり 意外な苦しみが待っている。 また 何事であれ 我慢することが 必要な場面は 人生の至る所であるから 我慢が全くできなければ 社会生活に支障をきたす。 だから我慢することは 良いことで それが人にとって 必要な社会性だなどと 思ってしまい 我慢しすぎると どこかで爆発して 人生を破壊する。 学問的な明確な根拠はないが 頑張り過ぎと 我慢のし過ぎは うつ状態の人に 共通していると 感じられることが多い。 「がんばり」も 「がまん」も 適度に使って 必要がなくなれば やめればよいが それが 自分を守る道具になってしまうと 自分を傷つけ始める。 守る道具になると 傷つけるというのは皮肉だ。 豊田さんの場合 どうして劣等感を持つに至ったのか 親の期待なのか 兄弟の中での関係性から来るのか または 全く別の 本人の記憶にも残らないような 出来事があったのか とにかく 本人の かなり深い 私的な部分に属することだ。 ただ言えることは 客観的に見れば 全く劣等感を持つ必要のない 能力を持ってたり 社会的に高い立場にあっても 劣等感は存在することがあり その劣等感が その立場なり能力を維持していることは よくある。 その維持は本人にとっては 実は辛い。 多くは たくさんの「怒り」を 溜め込んでいるからだ。 その 怒りは 重いものを持ち続けているのと同じで 持ち続けるのは とても辛い。 どこか吐き出せる場所があれば 吐き出したい。 些細なことでも 怒る大義名分が成り立つ場があれば 一気に怒りを吐き出す。 周りは そんなことでなんでそんなに怒るのか わからず唖然とするか 異常な人だと感じるか どちらかで 豊田さんの場合は 後者だった。 詳しくはこちらも参照願いたい 極端に爽やかな人の中には サイコパスがいると言われるが 極端に真面目な人 極端に頑張る人 極端に我慢する人 には ちょっと 注意してみよう。 その注意はできれば 思いやりから出て来る 注意であって欲しい。 排除するだけでは 世の中にとって よいことはない。キレる人を落ち着かせる"アドラー心理学"
いかに「二次感情」をおさえるか
「このハゲーッ!」。 テレビで繰り返し流された豊田真由子氏の罵声。 なぜここまで激しくキレてしまうのか。 アドラー心理学に詳しい岩井俊憲氏は 「劣等感が感情を爆発させてしまう」 と指摘する。 突然キレる人への対処法を解説しよう――。職場で、家庭で、街中で、怒りが止まらない
「週刊新潮」の記事で報じられた 豊田真由子氏の「このハゲーッ!」 「ちーがーうーだーろーッ!!」 という元秘書への罵声。 その音声はテレビでも繰り返し流された。 豊田氏は一連の騒動により自民党を離党し、 今回の衆院選には無所属で出馬している。 あの罵声をはじめて聞いたときには、 異常な心理状態だと思えた。 だが、この状況、 意外とあるのではないか。 筆者の家庭では、 パソコンや電気機器の配線や操作を、 妻の私がほとんどやっている。 夫は機械とITが苦手な文系人間だ。 つい先日、 夫は大好きな歴史番組を録画するために、 DVDにHDDのデータをダビングして 空き容量をつくろうと、 リモコンを操作しては何度も失敗した。 教えるこちらはとにかくイラつく。 「まずDVDを初期化しなさいよっ」 「そのボタンは違う!」 「前もやったのに、何度言えばわかるんだよ〜ッ!」 ……豊田氏の気持ちが痛いほどわかる。 次に、 前に勤めていた職場の風景を思い出す。 数少ない女性営業マネジャーに抜擢された同僚は 優秀で、大手のクライアントを抱えていた。 連携する他部署に頼んだ仕事がうまくいかず、 相手がのらりくらりとかわしたとき、 オフィス中に響きわたる声で急に怒りを爆発させた。 「信じられないッ、 2回も同じミスをするなんてあり得ない! お客さまになんて説明すればいいの!!」 職場が凍りついた。 キャリア女性だけではない。 部下のミスを怒鳴り散らす 切れ者男性上司は、 枚挙にいとまがない。 満員電車の中、 優先席で席を譲らない若者にキレ、 騒ぎ出す子供に怒り、 商品やサービスの欠陥を見つけては お客さま相談センターにクレームの電話を入れる。 キレる人は男女限らずいる。 家庭で、職場で、公共の場で、 怒りを爆発させるのは、 どんな心理メカニズムなのだろうか。劣等感が災いして完璧主義と支配欲を生む
アドラー心理学を使った 研修やカウンセリングで 定評のある岩井俊憲氏 (ヒューマン・ギルド代表)は、 豊田氏の一連の心理状態をこう分析する。 「怒りというのは普通、 瞬発的に終わるものです。 しかし彼女の場合怒りは執拗(しつよう)に 続いています。 これが特徴その1。 2つ目の特徴は、 彼女は挫折知らずで 自分を追い込むタイプ。 その執拗さは劣等感の裏返しです」 桜蔭中高から東京大学法学部、 厚生労働省、 米ハーバード大学留学という エリートコースをたどった豊田氏だが、 記者会見では “完璧主義”“劣等感”を 匂わせるキーワードがあった。 「振り返れば、 自分はなんでも 完璧にやらなきゃいけないと ずっと思ってきて。 仕事も、 国会でも地元でも たぶんすごい抱えちゃっていて」 「私はもともと 自分にものすごく自信がなくて。 自己肯定感がめちゃめちゃ低くて、 なんでもすごくがんばらないと 自分はここにいちゃいけないという思いを 小さいころからずっと持っていて」 秘書への執拗な追及は、 何でも完璧にやらねばならないのに、 未達成な自分の劣等感の表れからくる、 というのだ。 はた目から見ると 劣等感なんか持つ必要がないキャリアだが、 「他者との比較ではなく 自分の掲げた、 あるいは親から期待されて 自分の中に勝手に内在化した劣等感」 というのが岩井氏の見立てだ。 さらに、 怒りの元には、別の感情がある。 その元は一次感情といい、 悲しみ、心配、落胆、寂しさなどが ベースに潜んでいる。 次にくる怒りは二次感情となり、 対人関係の中で発動する。 アドラー心理学によれば、 感情は、ある状況で、 特定の人(相手役)に、 ある目的(意図)をもって発動されるとする。 そして、 怒りの目的にあるのは、 大きく次の4つだ。 (1)支配 (2)主導権争いで優位に立つこと (3)権利擁護 (4)正義感の発揮 いずれの要素にも、 根底には 「〜しなければならない」 「〜べき」という信念がある。 キレながら お説教やクレームをまくし立てる 暴走老人に多いのは(4)のタイプである。 豊田氏の場合は 「予定通り業務をこなせず、 自分が傷つけられたと思い、 秘書の失敗に落胆しているのです。 それに対して怒りで表すと、 秘書としては なぜこんなにキレられるのかがわからない」 (岩井氏) 上司が支配や主導権を目的に、 理不尽な怒りを発動すれば、 傷つけられたと感じる部下は 「だったら私も反撃します」 というモードで復讐に至る。 豊田氏と秘書、 両者とも対人関係のトレーニングが できていなかったわけだ。「このハゲーッ!」は相手へのリスペクト不足から出た言葉
また、 秘書への怒りはアドラー心理学の言葉で言うと 「リスペクト(尊敬)不足」 が招いたことだと岩井氏は指摘する。 エリートやワンマンな上司の中には、 「自分は上の立場だから、 秘書や部下は使用人、 上役に奉仕して当然」 という考え方をする人がいる。 リスペクト不足はいろんな局面に表れ、 組織では パワハラ、セクハラ、モラハラにつながる。 夫婦間のドメスティックバイオレンスや 子供に対する虐待もその一種。 リスペクトの対象なら 「このハゲーッ!」 は出なかったわけだ。 さらに、 支配的で利害感覚がものすごく強く、 カネ・モノ・人の注目を 徹底的に追求するタイプは “ゴー・ゲッター(go-getter)パーソナリティ” と言い、 やり手ではあるが 周りも傷つける 両刃の剣の持ち主である。 さらに岩井氏によると、 豊田氏は、 「タイプA」パーソナリティの典型だという。 AはAggressive(攻撃的)の意味があり、 性格面ではAccountable(責任感が強い)、 Ascending attack(上昇志向が強い)、 Ambitious(野心的)、 行動面では、Awful(せきたてられる)、 Active(行動的)、 Annoying(いらだちやすい)傾向だ。 こういう性質のタイプは、 循環器系の疾患になりやすいという 医師の研究がある。 心臓病にかかった 著名政治家や経営者の顔が思い浮かぶ。 それに対して温和なのんびり屋は タイプB(Being)といわれる。 忙しい議員やビジネスマンともなると、 スケジュールは分刻みになり、 前の予定が狂うと全てに影響してしまう。 絶えずせきたてられるように行動するが、 そういう状況は本人の気質が招いている部分もある。 「豊田氏の記者会見を見ると、 このスクープを最初に報じた週刊誌記者の質問を、 いきなり遮ってにらみながら バーッとしゃべり出しました。 本人も周りもくつろげない性格の人なんですよ。 急げ急げ病です」(岩井氏) 豊田氏のような上司は、 政治家だけでなく、 特にエリートに多い。 このような気質の人は、 失敗を非常に恐れる。 完璧主義者だから、 想定から外れる事態を恐れ、 自分を評価する相手を恐れ、 自分自身を恐れる。 恐れがせきたてる行動の原動力でもあり、 攻撃的になり、それが致命傷にもなる。「秘書」はどんな行動を取るべきだったか
このようなタイプは、どうやって自分を律すればよかったのだろうか。 まず、 怒りそうだと感じとき、 二次感情の発動をいったん抑え、 「あなたにはがっかりしたわ」 「あなたのことを心配しているよ」 という、 一次感情の問題にフォーカスしながら、 やわらかく相手の立場から諭すことである。 こういう伝え方なら、 激しい感情を出さなくても、 部下に自省を促すことができる。 豊田氏の場合は 秘書のたび重なるミスで完全にわれを失い、 怒りが増幅して高揚し、 火に油を注ぐ状態だった。 こうなると、 「周囲が羽交い締めにするしか止める方法はない」(岩井氏)という。 そこで重要なのが、 部下、 この場合では「秘書」のとる行動だ。 例えば、 道を間違えたときは、 「車を止めてしまえばよかったんですよ。 そうすることで豊田氏が 目的地に行けなくなるわけですからね」と、 岩井氏は意外な策を提示する。 ミスが続いて相手が 怒りまくる非常事態だから、 秘書の立場もかなり危ない。 ここはなんとかしようと焦るよりも、 クビ覚悟で車を止め、 「これ以上怒ると、私にとって運転不可能です」 と思いきって言うことで、 その場の空気が変わる。 車を止められると豊田氏もさらに困るわけだが、 怒りが問題解決にならないことに気づき、 クールダウンするきっかけにもなる。 あるいは、 内部告発という最終手段に出る前に、 同僚と共闘することで、 事態を打開できることがある。 暴言に悩まされている同じ仲間3人くらいで囲み、 「先生、ちょっとお話があります。 これは先生のためを思って申し上げるのですが……」 と、問題を話し合う。 心理学ではコンフロンテーション(直面化)と言い、 ときには部下もそれをやらなくてはいけない。 部下ひとりでやらなくてはいけないときは、 かなりの覚悟の上で向き合うことが求められる。 岩井氏のもとを訪れる相談者の中に、 ある企業のミドルがいた。 その企業のトップは、 中興の祖と言われたやり手だったが、 怒りっぽく支配的で、 公私混同や違法行為を繰り返していた。 そのミドルが勇気を出して直言し、 さらに他の役員に根回ししても、 トップは改心せず、 最終的にそのミドルは コンプライアンス委員会に 違法行為を報告した。 結果そのトップは、 株主からの突き上げで 解任されたというから、 経営者が部下からの声に 真摯に耳を傾けることがいかに大事かわかる。 「基本は人のフィードバックを受けること。 友人でもいいし、 部下でもいい。 あるいは自分の尊敬する師匠や メンターを持つのも効果的。 偉くなっても謙虚でいるためには、 意見を言ってくれる存在を持つことです」 と岩井氏。 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」 ということわざがある。 上に立つ人ほど謙虚に聞けるようになること、 どんな立場の相手も、 一人の人間として尊敬の念を持つこと。 怒りの感情を抑え、 対人関係を円滑にして 良い結果を出すためのコツは、 仕事でも家庭でも ぜひ心しておきたいものだ。 岩井俊憲(いわい・としのり) ヒューマン・ギルド代表。1947年、栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒。外資系企業に就職。85年ヒューマン・ギルド設立。中小企業診断士、上級教育カウンセラー、アドラー心理学カウンセリング指導者。カウンセリング、カウンセラー養成や公開講座を行うほか、企業・自治体・教育委員会・学校から招かれ、カウンセリング・マインド研修、勇気づけ研修、リーダーシップ研修や講演を行っている。主な著書に『人を育てるアドラー心理学』『人生が大きく変わるアドラー心理学入門』などがある 。
2017年11月07日
リベラル改憲派・枝野幸男代表と、長谷部恭男教授のダブルスタンダード
篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログ より憲法改正が現実味を帯びてきたが 当然 拙速であってはならない。 自分も含め 面倒臭いことが嫌いな 性分の人間でも 少し丁寧に 自分と意見の異なる方の言説を含め 見るべきものを見て 聞くべきものを聞く態度を 持った方が良い。 その中で 避けて通るべきではないのは エダノン 枝野幸男の 政治家であり法律家としての考えだ。 最近は リベラル系の方の著作や文章を きちっと読み込もうとすると がっかりしたり 情けなく思ったり 不快な気分に苛まれることが多かったが エダノンを「学ぶ」ことは そういった焦燥感を 感じなくて済むし 立憲民主党が どういう党なのかを 知る上でも面白い。 枝野さんは 確かにややこしい。 良い悪いではないが 確かにややこしい。 最近のリベラルは 感情的に動いてしまう方が多いので 枝野さんの 都合の良いところだけを 取り上げて 賞賛したりしているように 見える面があるので 枝野さんが ややこしいと思っている人は あまりいないかもしれない。 そして 枝野さんが正直に 色々なことを言い始めると 民進出身者は 立憲民主党さえも 壊し始める。 そのくらい ややこしいといっても良い。 しかし そのややこしさは ネガティブに見るべきものではなくて そこから 枝野幸男という人物の 様々な特性が見えてくる性格のものだし そこから見出すべきものは多い。 枝野さんは 「右でも左でもなく」 ということを言うが 確かにそれは 本人の言う通りだろう。 同じ傾向は 小池百合子さんもそうだし 小泉進次郎も マクロン大統領もそうだ。 そのことは 見るべきものがある。 ただその中身はかなり様々で この4人を同じ傾向と見るのは 軽率だ。 それでも 旧来の右とか左と言うことが 機能しなくなってきていることは確かで かなり新しい価値観の構築が 始まっているようにも思える。リベラル改憲派・枝野幸男代表と、長谷部恭男教授のダブルスタンダード 〜そして枝野代表を指導した憲法学者・小嶋和司に関する補足〜
最近、枝野幸男・立憲民主党代表が、 「改憲派」であったことが、 少しずつ話題になっているようだ。 衆議院選挙の中で、 リベラル=護憲派のイメージで 立憲民主党は「躍進」 したことになっているが、 枝野代表自身は、 自分を「保守」だと自称している。 枝野代表が 「第三の道」なる改憲案を公表したのは、 わずか4年前のことだ。 保守を自認する小林よしのり氏が、 衆議院選挙中から、 一貫して「保守/改憲派」の枝野代表を応援し、 選挙後も支援を繰り返し表明していることは、 真面目に受け止めてよい。 http://blogos.com/article/256525/ 安保法制を「立憲主義に違反する」とする 立憲民主党/枝野代表の立場は、 実は「安全法制は違憲だ」論ではない。 立憲主義違反だが、 違憲とは言っていない、 というのが、 枝野代表の発言である。 http://www.nicovideo.jp/watch1502956118 控えめに言って、これはややこしい。 護憲派の枝野ファンが、 小林よしのり氏が枝野代表を 誤解しているのではないか、 と思おうとするのも、無理もない。 実際、 「アベを許さない」 「リベラル」 「保守」 「安保法制反対」 「改憲派」の枝野氏の立場は、 仮に姑息でないとしても、ややこしい。 たとえば、 私は、安保法制は違憲ではなく、 立憲主義違反でもないと考えている。 全く逆に考える人もいる。 しかし、枝野代表は、どちらでもない。 立憲主義違反だが、違憲ではない、と言う。 ややこしい。 仮に姑息ではないとしても。 それにしても驚いたのは、 あの長谷部恭男教授が登場し、 「すべて個別的自衛権の行使として説明できる」 という 「従来の政府解釈を憲法に明文化しようとしたもの」 だという理由で、 2013年の「枝野氏の改憲案」を擁護していることだ。 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171031-00000051-sasahi-pol 率直に言って、 2013年10月に『文芸春秋』に掲載された 「枝野氏の改憲案」について、 長谷部教授のような描写をすることは、 正しくないと思われる。 しかし驚くのは、そのことだけではない。 そもそも長谷部教授は、 従来の政府解釈を 明文化するだけなら改憲は必要ない、 と考えるため、 「アベ改憲は許さない」 の立場だったのではないか? なぜ「枝野氏の改憲案」であれば、 従来の政府解釈と同じだからOKだ、 になるのか? これはダブル・スタンダードではないのか? アベはダメで、枝野なら良い、らしい。 アベは敵だが、枝野は「アベを許さない」同志だ、 ということなのか。 党派的な対立関係は、明確だ。 しかし知的議論の内容は、 混乱しているように見える。 2013年論文 (枝野幸男「憲法九条 私ならこう変える」 『文芸春秋』2013年10月号、126−131頁) において、 枝野氏は、 個別的自衛権か集団的自衛権かで 「線引き」をした旧来の内閣法制局の見解から、 明らかに距離を取っていた。 「日米安全保障条約に基づき、 我が国に米軍基地が存在しているという実態は、 集団的自衛権の「行使」ではないにしても、 ある種の集団的自衛と説明するしかありません。 そもそも、 こうして個別的か集団的かという 二元論で語ること自体、おかしな話です。 そんな議論を行っているのは、 日本の政治家や学者くらいでしょう。」 (同上、127頁。) このような立場から出発した枝野氏は、 「具体的に、どうしたケースであれば、 実際に集団的自衛権の行使を 可能とする必要があるのか」 という問いを出した。 そして公海上の米艦船を助けることを合憲とし、 「その他の大部分の集団的自衛権行使」 については否定する、 という改憲案を提案した。 長谷部教授は、これをもって、 「個別的自衛権にあたるから合憲だ」 と枝野氏が言っている、 と解釈するようだ。 だが、それは枝野氏の議論ではない。 枝野氏は、 「集団的自衛権の一部容認と説明するのか、 それとも個別的自衛権として許される ギリギリの限界として説明するのか。 説明の方法が異なるだけで 大きな差はないと思います」、 などと述べていた。 日本政府は個別的自衛権と 集団的自衛権が重なることはない、 という解釈をとっている。 したがって、 枝野氏が述べたことが 「従来の政府解釈」 にそったものなら、 枝野氏は、 米艦防護が 個別的自衛権か 集団的自衛権かはわからないが、 どちらかではある、 しかしいずれにせよ合憲だ、 と言ったわけである。 枝野氏が、 「集団的自衛権ではない、 個別的自衛権だから合憲だ」、 と主張した形跡はない。 2013年の改憲案論文で、 枝野氏は、 「後方支援については言及する必要がない」、 といって議論の必要性それ自体を退けた。 国際法で集団的自衛権に該当するものは 「違憲」だ、 と考えるのであれば、 枝野氏のような態度はとれない。 枝野氏は、 「私は憲法でタガをはめるべきなのは、 実際に我が国が、 自衛目的ではない武力行使に 踏み切らないようにすること」 だと宣言していた。 枝野氏は、 「集団的自衛権」と「個別的自衛権」の差異には、 関心がなかったのである。 2013年枝野論文によれば、 「個別的か集団的かという二元論で語る」 という 「おかしな話」を広めているのは、 日本の憲法学者、 および憲法学者へのアンケート調査結果で 政策を決める政治家だけである。 ちなみに国連憲章51条は、 個別的・集団的自衛権を 包括的に扱っている。 2013年枝野論文の見解でよい。 そうした見解で、 枝野氏は、解釈を明確にするための 「9条の2」「9条の3」 を加える改憲を提案したのであった。 これに対して長谷部教授は、 枝野氏の改憲案は良い、 アベ改憲案は 「地球の裏側」の活動も認めてしまうので、 ダメだと言う。 しかし共産党は、枝野改憲案に対して、 「日本への攻撃に対する自衛措置としていますが、 地理的な限定も示されていません」 と批判していた。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-10/2013091002_02_1.html 枝野氏は「公海」の話しかしていない。 共産党のほうが、 きちんと2013年枝野論文を読んでいると思う。 私個人は、国際法上の概念を不当に軽視するのは、 危険なことだと考えているし、 個別的自衛権の拡大解釈は さらにいっそう危険なことだとも考えている。 だが、それ以前の問題がある。 今、私が指摘しているのは、 アベはダメだが、枝野なら良い、 と言った話を、 憲法学者が憲法学者の権威を利用して 世間に広めようとしているのではないか、 ということだ。 もしそうであれば、それは極めて危険な行為だ。 2013年枝野論文を、長谷部教授は曲解し、 「すべて個別的自衛権だからできると 枝野は言っているにすぎない」、 と読み替えてしまっている。 意図的に曲解しているのでなければ、 「枝野自身がそう言っていなくても、 この私、憲法学者の長谷部恭男が、 そのように認定するので、 枝野はそう言っているということだ」、 と言い替えてしまっている。 仮にそれで、 アベはダメだが、枝野なら良い、 という結論が出せるとしても、 そこに至る議論の内容は、 全く不明瞭極まりない。 アベが加憲するなら絶対反対、 枝野が加憲するなら全く問題ない、 ということだとしたら、 それは単なる党派的事情に応じた ダブル・スタンダードでしかない。 枝野代表は、 東北大学では小嶋和司ゼミに属していたという。(故)小嶋和司は、 その優秀さで知られていたが、 ウィキペディアでは、 その優秀さのゆえに かえって宮沢俊義に疎まれて 東大に残れなかった、 などと書かれている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B6%8B%E5%92%8C%E5%8F%B8 ミステリアスな憲法学者だ。 小嶋教授の弟子、 いわば枝野代表の兄弟弟子に、 大石眞・京都大学法学研究科教授がいる。 大石教授は、集団的自衛権は違憲とは言えない、 と明言する論文を持つ数少ない憲法学者の一人だ。 大石教授の下で学んだ者の中に、 井上武史・九州大学准教授がいる。 井上准教授は、 集団的自衛権は違憲とは言えない、 と発言したため、 執拗な嫌がらせと脅迫を受け、 警察官とともに 通勤せざるを得なくなった経験を持つ憲法学者だ。「2013年枝野改憲案」論文は、 枝野氏が小嶋教授門下生であることを 考えながら読んでみると、 よりよく理解できるかもしれない。 (ただし、2017年の立憲民主党代表の枝野氏の立場が何であるかは、まだ判然としないのだが。) * 追記になるが、 小嶋和司は、非常に魅力的な憲法学者だ。 「憲法典の規定から姿を消した 緊急権・軍制といった問題 (が論じられなくなったのは)・・・、 立憲制や国家制度にとって バイタルな意味を持つだけに、 学問にとって喜ばしき現象とは考えがたい」、 と書き、 弟子にも軍制研究を奨励していた (小嶋和司「戦後憲法学の特色」『ジュリスト』1977年5月3日号、小針司「立憲主義と軍隊」『小嶋和司博士東北大学退職記念:憲法と行政法』[1987年])。 興味深いのは、 拙著『ほんとうの憲法』で 私がとった立場と同じように、 宮沢俊義に見込まれて 東大法学部第一憲法学講座に 招聘された小林直樹によって 「通説」化された、 日本国憲法には「三大原理」がある (国民主権は一つの「原理」である)、 という説を、 小嶋が採らなかったことだ。 小嶋にとって、 「主権が国民に存する」 と宣言することは、 日本国憲法が「民定憲法」 である性格を示している、 それだけのことだった。 小嶋は、代わりに、 三つの「日本国憲法の諸主義」として、 「自由主義、戦争放棄主義、国際協和主義」 をあげていた。 (小嶋和司『憲法概観』(新版)[1968年])。 小嶋の主権論は、 日本国内の 主権をめぐる議論に関する論説の中では、 珠玉だ (小嶋和司「『主権』論おぼえがき<その一>『法学』46巻5号、1982年)。 「明治憲法当時多数説であった 『統治権総攬』を『主権』とする立場は、 明治憲法典と、 その下の精神的風土においてのみ 多数説となりえたもので、 『主権』の一般的概念ではありえない」(43頁) このような記述は、 もし「三流蓑田胸喜の篠田英朗」が 言ったことだったら、 「sovereign powerは統治権と訳していい」 と主張する憲法学者の方に、 即座に斬首されるようなものだろう。 http://agora-web.jp/archives/2029005.html 師であった宮沢俊義に対する小嶋の 次のような鋭利な文章も、 「三流蓑田胸喜の篠田英朗」 が言ったら、斬首間違いなしだ。 「宮沢俊義教授は、 ポツダム宣言の受諾は『主権』の変更を意味し、 『主権』の変更は法律上『革命』とみるべき であるとして、 有名な『八月革命説』を述べられた。 ポツダム宣言は 『日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ』 政府形態が定めらるべきことを述べるのみで、 『主権』を問題としていないし、 その受諾のとき、 『革命』の担い手もなければ、 『革命』の意識もなかったのにである。 この論理において注目されるのは、 『主権』概念をもち出し、 それを媒介とする論断で、 ここでは、その語の権威的印象が、 これまた強烈な印象を随伴する 『革命』論の決め手とされている。 『主権』の語の意味多面性は、 それを上手にふりかざせば、 望みの帰結を出しうるごとくである。」(7頁)
2017年11月05日
欽ちゃんと呼ぶべきか、萩本さんと呼ぶべきか、それが問題だ
文春オンライン より基本的に文春は好きだ。 ラディカルな芸風が良い。 (編集方針ではなくてあえて芸風と言おう) 「親しき仲にもスキャンダル」とか。 しかしスキャンダルのその後に こだわり過ぎる時は 思考停止の状態だろうと思っている。 売る柱をスキャンダルに求め過ぎると 多分窒息するから こういう記事は良い。 めちゃイケが終わると聞いても あまりショックはなかった。 驚くほど 普通に聞こえた。 潮時とか フジの劣化とか そういう問題じゃなくて 何か時代が変わったような 種類の環境の変化なのだろう。 かと言って 岡村や矢部が落ち目になるとか そういうこともなく めちゃイケの進化は限界でも 二人の進化はまだ余地がある。 あらかじめ 約束された 暗黙の前提のある笑いは 本物の笑いではない とまで 極端なことを 言わなくとも お茶の間の笑いは ある意味 特殊な笑いだ。 不和の絶えない家庭を別とすれば ほとんどの家庭は 安らぎの場だったり 喜びの場だったり 安心の場だったりするから (そこまで肯定的に見られない方も多いだろうがそれはさておき) お茶の間の笑いが 特殊な笑いであることには 案外気づかないものだ。 密室的な空間の笑いが 一番本音の笑いに近いと言う意味で 本来の王道の笑いかもしれない。 そう考えると タモリもたけしも お茶の間向きの番組でも 密室的な笑いの要素を ちらっと見せることを 忘れていないことに感心する。 だから 水道橋博士の指摘は 確かにそうなのだ。 欽ちゃんの笑いに 引導を渡したのだろう。 タモリはしないが たけしはやる。 しかし この映画の面白さは 欽ちゃんの芸の面白さが 焦点ではなく 欽ちゃんの 生活のひだのような感性に スポット当てること、 それを人間の面白さを キュレーションする 土屋敏男の目線で見ることが 面白いのだろう。 それは確かに期待する。欽ちゃんと呼ぶべきか、萩本さんと呼ぶべきか、それが問題だ
萩本欽一のドキュメンタリー映画 「We Love Television?」 が11月3日より公開された。 これは「電波少年」のTプロデューサーで 知られる土屋敏男が監督したもの。 今週の文春には、 その土屋敏男が 「この人のスケジュール表」欄に 登場し、裏話を語っている。捨てることで新しい表現が生まれた「電波少年」
ドキュメンタリーといえば カメラが人物を追うものだが、 本作は違うようだ。 萩本欽一に自撮り用のカメラを渡し、 自分で自分を撮らせた と記事にはある。 「今まで映画は 監督やカメラマンが駆けつけないと 始まらなかったけど、 この手法なら 本人さえいれば撮れるんです」 さすが土屋敏男。 「電波少年」放送開始当時、 肩に担ぐような大型のカメラで 撮るのが当たり前の時代に、 土屋はハンディカムでの撮影を決める。 「当時は技術の人に 『こんなの放送できるか!』 ってすごい怒られたよ。 画面は暗いしザラザラだしね」 (TVBros.・2012年1/21-2/3号掲載の藤村忠寿・土屋敏男・西田二郎の鼎談より) 放送用機材で撮ることは オンエア・クオリティを守ることだが、 それを捨てることで 新しい表現が生まれもする。 上記の鼎談によると、 「水曜どうでしょう」 も企画時に、 局側から同じことを言われるが、 「あの『電波少年』 も手持ちのデジカメでやってますよ」 と説得して、誕生したのだという。萩本欽一とは何者か
今週の水道橋博士の連載コラム 「週刊藝人春秋Diary」 も萩本欽一である。 題して「欽ちゃんはどこまでやるの!」。 ここで水道橋博士は、 萩本欽一の栄枯盛衰を整理しつつ、 くだんのドキュメンタリーを引き合いに、 萩本欽一とは何者かを問い直す。 萩本欽一は 1週間の視聴率の合計が100%を超えることから、 「視聴率100%男」 の異名を得るほどであったが、 いっぽうで 「『萩本欽一=いい人』 の世評は広がり、 本人はやがて、 そこに搦め取られていった」。 ここで“搦め取られていった”とするのは、 コント55号時代はハチャメチャな 芸風だったからだ。 それがいつしか「いい人」となり、 「微温湯のバラエティ」 をお茶の間に届けるようになる。 それを潰しにかかったのが、 たけしである。 水道橋博士は言う。 「我が師・ビートたけしは、 日本バラエティ史において 萩本欽一的な笑いに 引導を渡した張本人である」 たけし自身、 「いい人」になった萩本欽一は 「俺の性に合わないということがあって。 もし萩本さんの番組が ずっと続くようだったら、 これお笑いの危機だと思ったわけ」 とテレビ番組で述べている。(注)たけしが「欽ちゃん」のことを「萩本さん」と語ったとき
80年代半ばのことだが、 たけしが「欽ちゃん」のことを 「萩本さん」と言っているのを聞いたとき、 筆者はこころが冷える思いをした。 あえて「さん」付けにすることで、 現役の土俵にいない、 過去のひとにしてしまったように 感じ取れたからだ。 「さん」付けでいえば、 「ジャイアント馬場から 『馬場さん』に」という見出しが、 柳澤健『1964年のジャイアント馬場』(双葉社) にある。 ジャイアント馬場は、 現役プロレスラーにして、 動けずとも敬われる対象になっていく。 柳澤健はそんな馬場を「隠居老人」と称し、 こう続ける。 「老人に強さを求めるのはおかしい。 馬場さんは馬場さんでいてくれればそれでいい。 観客はそう考えるようになった」。 もっとも、 たけしはオールナイトニッポンに 「動け馬場」 なるコーナーを設けるのであったが。 「馬場さん」と違って 「萩本さん」は居場所を失う。 これがテレビの世界の厳しさか。 とはいえ、 それほどの世界で頂点を極めた欽ちゃんである。 コラムから一端を記せば 「リハーサルは面白くないまま進める」、 こうした視聴率「30%を取る奥義」を 土屋敏男は映画の中で解き明かすのだという。萩本欽一について、立川談志の場合
なお、コント55号時代は認めるたけしと異なり、立川談志はそれも認めない。水道橋博士はコラムでそんな談志の評、「逆にいやあ、談志なんぞに誉められなかったから萩本欽一の全盛があった」(立川談志『談志百選』講談社)を引く。一級の芸談である。 そういえば先週の文春で、 弟子の立川談春が、 石原慎太郎と親しくしながらも田中角栄には 近づくことのなかった談志の言葉を紹介している。「本当の権力をおちょくるピエロは殺されるぞ」。 これもまた一級の芸談である。 籠池さん逮捕を 目の当たりにした 今ならなおさらのこと……。 (注)戸部田誠『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』(文春文庫)より
2017年11月04日
小泉氏「このままなら自民党必要ない」 政策決定巡り
朝日新聞デジタル よりまたこれに対して橋下徹は小泉氏「このままなら自民党必要ない」 政策決定巡り
■小泉進次郎・自民党筆頭副幹事長(発言録) (安倍晋三首相が 幼児教育無償化などの財源確保のため、 企業に3千億円の拠出を 要請したことについて) 党は何も聞いてないし、 議論もしてないですから。 このままだったら 自民党必要ないですよ。 経済界の皆さんにも、 考えてもらうべきことが あるんじゃないかと思いますよ。 政治が頼むと、賃上げする。 3千億円も頼まれれば出す。 何かまるで、 経済は政治の下請けなのかと。 仮にそれだけ 政治の動きに左右されるような 世界だとしたら、 日本にイノベーションなんか生まれないですよ。 (国会内で記者団に)正論と正論がぶつかって 議論が進むのは面白い。 小泉進次郎の発言には 彼のビジョンや 基本的な姿勢がにじみ出ている。 また 橋下徹が 「おかんに怒られた」 という 「ボケ」 という表現が 彼にとってどういうことかを より具体的に 知ることができる。 経済と政治の関係は もちろん簡単ではない。 密着してもいけないが 全く連携できないようでも 問題だ。 しかし彼が言うのは 付くか離れるかといった 距離のよう単純なことではなく 質的な問題を提起しようとしている。 様々な 大人の事情をさておき 経済の主体性と イノベーションの可能性 を結びつけたのは 良い。 目先の様々な方法論の問題ではなく ことの外郭の定義を 提案することで 手段より先に 目的を明示することができている。 橋下徹の説は もちろんボケ議員と 小泉進次郎を 比較することが目的ではないが 党の執行部に ものを言う手順と 作法を教えている。 ボケ議員殿におかれては くだらん言い訳を考えるより こういう発言に敏感に 耳を傾けて 冷静に問題点を整理し したたかに次の行動を 選び取るような 政治家マインドを身につけてほしい。 あの言い訳文は 上司に怒られた新米が 居酒屋で同僚にこぼす愚痴と変わらない。 しかも完全に公務員マインドだ。 しかし 橋下徹は 「優等生過ぎる」 というが 小泉進次郎はある程度は 優等生を 演じ続けなくてはいけない面もある。 また演じ続けることで 必要な時に多少過激な 表現方法をとることのできる パスポートを手に入れているような面もある。 効果的に自説を表現することには かなり考え抜かれた形跡を感じる。 先日の選挙特番で 新聞への軽減税率適用を批判した。 見事だと思う。 ただその後 新聞社側が 何のアクションも 起こさないわけはない。 上の記事にしても 朝日新聞の忖度かもしれない。 新聞社は小泉進次郎を潰したいが 敵に回して得する相手ではないのは 百も承知だ。 小泉進次郎の 「なかなか報じてもらえない」 へのアリバイ作りかもしれないし ごますりか懐柔策かもしれない。 とにかく朝日新聞することは 額面通りに受け取れないし 受け取らない方が良い。自民党内は先輩後輩の関係が厳しいし、同僚同士でも足の引っ張り合いが激しい。
- 11月2日のツイート
この言い方ならボケとは言えない。 維新の会の中堅若手も 執行部にしっかりとモノを申せばいい。 ただ安倍さんは 小泉氏のこども保険の提案を半分 (企業拠出金の増額)採用した。 自分の提案を採用してもらったのに 党内の議論が足りないと文句を言うのは、 ちょっと優等生過ぎる主張 自民党内は先輩後輩の関係が厳しいし、 同僚同士でも足の引っ張り合いが激しい。 これは政治家を鍛えるための 良い意味での権力闘争環境。 小泉氏がそれを気にしたのなら 「自分の提案がいきなり採用されると 党内で反感を買うので、 しっかりと党内議論を 踏んで頂けるとありがたいです」 という主張にすべき
2017年11月03日
立憲・枝野代表「民進党との連携は難しい」
ホウドウキョク より数年前のことだが ある県の偏差値トップの高校の先生が 優秀な生徒さんが揃うと 授業はやりやすいでしょう という旨の問いかけに対し 確かにうちの生徒は (授業をしていて)素晴らしいと思うが ある水準以上の生徒がいるということは 実はかなり幅が広い。 つまり水準を少し超えた生徒と はるかに超えた生徒とでは 実はかなりの能力差がある。 2番手3番手の学校は 上位と下位の差は限られているので その方が授業はやりやすい。 という旨の返答をしていたのを 聞いたことがある。 様々な人間が 集まった集団から いろいろなものを 学べるが 目的が絞られているときは より純化した集団の方が 目的を達成する効率は良い。 また 「それ」と「それ以外」 ということを 改めて考えさせらる。 〇〇から△△までと言えば とにかくその中の差があっても ある性格なり性質が集まる。 つまりその中に 質的な共通点はほぼ必ず見つかる。 それに対して 〇〇以上という定義では その集合の中に はっきりした共通点を 見つけることは 困難になる場合は多い。 民進党が 分裂したことは 国民全体にとっても 民進党自身にとっても よかったと思うが 改めて民進党とは 何だったかを考えると 「〇〇の集団」 ではなく 「〇〇以外の集団」 だったのだと思う。 つまり そこに個々の共通点を 見つけることは難しい。 共通してないないことによって 集まった集団だったのだと思う だから 民進党出身者が どこへいっても 民進党で身につけた 流儀のまま行動すれば その中で組織よりも 自分の立場を 確立する方向に動くだろう。 希望の党での 小池批判などは象徴的だ。 小池批判自体が批判されても 民進党の流儀が身についてしまっていると その批判の意味がよく呑み込めない。 そこでくだらない言い訳をして また批判される。 分裂後の民進党が 様々な 「繋がる」 を受け入れることは 普通に常識的に 考えられるより はるかに難しいということだ。 ふと 野党共闘が難しいのは そもそも共闘できない人の集まりが 野党なのではないかという ことさえ考えてしまう。 論理の飛躍のように聞こえるが ここは少し深い。立憲・枝野代表「民進党との連携は難しい」
巨大与党に対峙すべき野党側に「足並みの乱れ」。
立憲民主党の枝野代表は、 1日、 福山幹事長が 民進党の会派からの 離脱を余儀なくされたことを理由に、 「民進党との連携は難しい」 との認識を示した。 枝野代表は 「(民進党は)別の党ですから。 わが党の幹事長が会派にいたのを、 出て行ってと言われたので、 なかなか連携は難しい」 と述べた。 立憲民主党の枝野代表は、 党内でただ1人の参議院議員である 福山幹事長が、 参議院の民進党会派からの 離脱を求められたことを受け、 民進党との 「連携は難しい」と述べた。 民進党の大塚代表は 「われわれは、 『三党物語』で『三割政権』を しっかり倒す」と述べた。 民進党の大塚代表は1日、 このように、 立憲民主党・希望の党との 3党の連携をアピールしていたが、 枝野氏の発言を受け、 信頼関係を構築する必要性を強調した。 大塚代表は 「まずは公党間の 信頼関係を築くことに取り組んでいきたい」、 「きょうの発言は、 私は直接聞いていないし、 趣旨も承っていないので、 そのことを、あらためてうかがいたい」 と述べた。 また、大塚代表は、 民進党の執行部人事について、 党籍を持ちながら 無所属で当選した衆院議員を 登用する可能性を示唆し、 「無所属の会」の 岡田代表も前向きな姿勢を示した。