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2017年11月15日
鈴木涼美「好きを仕事に」で生まれるブラックな過重労働は「悪」と断罪できるのか
文春オンライン より好きなことを始めれば やめられない。 好きなんだから しょうがない。 しかし 美味しいものも 毎日たくさん食べれば 飽きるように 好きなことだって それだけやっていれば 飽きる。 飽きたら 少し別のことをする。 でもまた 元の好きなことを 始める。 好きだから またやりたくなる。 これが自然で健康的なわけだが これが仕事に 当てはめられるかというと 簡単ではない。 簡単ではないが 「飽きたらやめる」か 「飽きても続ける」かは 健康か不健康(肉体的・精神的共に)の 分岐点ではありそうだ。 しかし 仕事を 「飽きたらやめる」ことは 世の中は奨励してないし 親も先生も それを良いこととは教えていない。 つまり 「飽きたらやめる」 ことには あらかじめ 「罪悪感」 が設定されている。 その罪悪感に どの程度反応するか また 反応しないのかは 当然個人差があるわけだが その個人差を作る要素の一つには 「自己評価」 ということが 関係する。 つまり 自分に自信のある人は 休みたいときに 休むのに抵抗はないが 自信のない人や 劣等感の強い人は 休むことに罪悪感を感じたり 一生懸命にやっても 足りない感じがしたり 休むと不安になって 仕事をしてる方が 安心だったりして 結果として休めない。 でも本人は 休まないことを 自分で決めたつもりでいる。 実際には 過労に至る道筋は もっと多様で複雑な場合も多いから あまりこの場では 原因を むやみに断定するような言い方は 避けるべきだと思うが 嫌なこと、嫌な時に 「やりたくない」は わがままと考えるより 健康管理の目安と考える方が有益だ。 それでも やらなければいけない時はあるのだが それはある種の異常な事態で 異常な事態を正常な状態だと思って働らくと 幾多の災難に見舞われるが 異常な状態を異常な状態だと思って働らく分には まだ歯止めが効いて 災難は多少少ない。鈴木涼美「好きを仕事に」で生まれるブラックな過重労働は「悪」と断罪できるのか
NHK女性記者の過労死報道から1ヶ月。君たちはどう稼ぐか
「そうだ、鈴木さん、あの方ご存知だったんじゃないですか?」
先日、 久しぶりに 私が新聞記者時代に大変お世話になった 取材先の広報の方と お話しする機会があった。 私が密かに憧れていた その課長も今は広報を離れ、 本流のエリートコースを大驀進中なのだが、 お世話になった頃には 明かされていなかった私の黒歴史 (文春砲とかAVとか) は気に留めてくださっていたようで、 「会社にいても会社を辞めても話題の中心ですね」 と若干皮肉られつつ、 「そうだ、鈴木さん、 あの方ご存知だったんじゃないですか?」 と話題を振られた。 彼があの方、 と指したのは先月、 過重労働によって亡くなっていたことが 幾度も報道されたNHKの女性記者のことである。 2013年に亡くなった時の年齢は31歳で、 現在34歳の私とは年齢も大変近く、 ほぼ同時期に都政報道の担当をしていたことから、 その取材先の課長も 「うちの部下も鈴木さんと似たような時期に お世話になっていたようで」と、 私とその女性記者が仕事仲間だったのでは と心配していたようだ。 ちょうど電通新入社員の 過労自殺などが 大きく報道された後というタイミングもあって NHK過労死報道への人々の関心は高かった。 ブラック企業などについて テレビや週刊誌もいつにも増して 特集を組んでいる。過重労働の被害者になっている「私」は想像しにくい
あいにく、 私は利害関係のない プライベートの友達は女の子だけ、 仕事上の利害あるお付き合いは ほぼ男の子だけ、 というゲンキンで薄情な人間のため、 亡くなった佐戸未和さんとは 直接的な知り合いではない。 しかし年齢と担当の取材先が似通っている 元同業者の死が 労災認定されていたことは、 私にとっても少なからず気になる報道だったし、 周囲の人間も 記事を見て私を連想した人はいたようで、 ある人は 「君も死んでいたかもしれない、 記者なんて辞めて良かったのかも」 というような内容のメールをよこした。 確かに 私がのうのうと生きていて 別の人が亡くなったということに 必然性などないのかもしれないが、 仮に私がそのまま新聞記者として 働いていたと考えてみても、 過重労働の被害者になっている自分 というのが想像しにくいのも確かだ。給料は成果への報酬か、苦痛の対価か
常識的に、 私たちは仕事で得る収入、 つまりお給料について 大体二通りの感覚を持っている。 お給料を自分の労働による成果への報酬 と捉えるか、 苦痛の対価と捉えるか。 そして、 もちろん生き生きと仕事をして 自己を華々しく実現する人に 前者の感覚が共有されている場合が多いのだが、 反面、 過労で倒れたり、 追い詰められたりする人も その感覚を持っていることは否定し難い。 そして、 どちらかというと後者の感覚が強く、 お給料に対してどれだけの我慢が 見合うかということを 常に考えている私のようなタイプの人間は、 仕事で成功する道も狭いが 仕事に追い詰められることも 比較的少ない。 私の関心は、 いかに職場での居場所を失わない程度に うまくサボって、 しっかり仕事している人と 同じだけの給料をもらうか、 ということに偏りがちだったし、 だから仕事を面白いとか楽しいとか、 そんな感覚なんてなかった。 ただ、 私の方がカノジョたちより 幸福だなんて言えるんだろうか。 死ぬほど働いてみたい なんて言ったら怒られるけど、 でも死ぬほど疲れていることに気づかないほど 入れ込んでできる仕事を持つのは、 かわいそうなことなんだろうか。 程よく、身体を壊さない程度に、 ワークライフバランスを考えて、 入れ込んで、思いっきり、 楽しみながら、泥臭く、 それなりに一所懸命 ……働くことを彩る言葉は多いが、 どれもこれもしっくりこない。 どうせ同じ給料だから、 と手を抜かないで、 死ぬくらい真面目にやればよかった、 と時々思う。 でも死んでしまったら好きな仕事もできないし、 手を抜いて上手いことやるくらいで ちょうどよかったんだ、とも思う。夜業界でワーカホリック状態の女の子は「給料=成果」派
収入についての感覚が 仕事への姿勢を分けるのは何も、 いかにも自己実現的な 現場や職種に限った話ではない。 私が新聞社の前に勤めていた 夜業界というのは、 とくダネをとったり 上司の機嫌を窺ったりして 評価査定をあげて花形部署に異動して 論説委員や 部長の席を狙う新聞記者なんかよりも ずっと直接的に ずっと露骨に 出来高による収入格差と 成績ランキングが可視化される場所だった。 そして 過度なワーカホリック状態になる女の子たちが 持っているのは まさに給料を成果ととる思考回路だ。 彼女たちの論理では当然、 美人で気が利く巨乳の若い娘、 がより多く稼げる。 逆に言えば稼いだ金額が、 自分の女としての価値であると 見紛うようなシステムがそこにある。 そして、 幸福なことに、 あるいは大変不幸なことに、 それほど美人でもなく 機転も利かず貧乳で年増であっても、 労働時間を増やすことで 収入をある程度補填できる。 彼女たちにとって稼いだ金額は、 時に自分の常軌を逸した 頑張りの結果でもあるが、 その過程を無視すれば、 それはそのまま 自分が良い女であるという証明にもなる。 夜業界の女の子たちが 競ってホストクラブで 死ぬほどまずいスパークリング酒に 高額を使うのは、 お金が使えるということは 稼げるということであり、 稼げるということは 自分がスペックの高い良い女である という誇りに直結しているからだ。 そして彼女たちは あたかも自分は寝ずに節約を重ねて 過度な出勤と 長い労働時間によって稼いでいるのではなく、 良い女だから簡単に稼げているように振る舞う。 そうでなければすぐさま 「鬼出勤してまでホスト通い乙www」 なんて不名誉な噂を立てられる。「指名本数を少なく、客単価を上げる」派の嬢たちも
「大して働いてないよ」 というそれはもちろん、 他人に対してのポーズでもある。 しかし彼女たちを見ていると、 あくまで装いだったその姿勢を いつしか内面化し、 自分でもどこかしら過重労働の実態を 意識的に忘却し、 売れっ子だから かわいいから 色っぽいから稼いでいると 信じ込むようなところまで見え隠れする。 そして 他人に対しても 自分に対しても そのポーズを裏切らない成果を上げるために、 より一層過酷な労働環境に没入していく。 と、書くと いかにも蟹工船状態で あくせくと働く姿が想像されるが、 彼女たちの実態は内面的にも 外見的にも 大変華やかで充実したものである。 夜業界においては 忙しいということそれ自体が 自分が個人的にある程度 求められるような存在でない限り 実現しないことであり、 どんなに忙しくてもそれは自分の 「売れっ子」っぷりを 体現しているに過ぎない と思えてしまう。 売れに売れているアイドル歌手の睡眠が 2時間であるような事態と似ている。 対極にはもちろん、 いかに効率よく 必要なぶんだけを稼ぐかを目的に、 なんとか指名本数を少なく、 客単価を上げようという思考の嬢たちもいる。 彼女たちの場合は、 稼いだ金額は 見知らぬオヤジのちんぽをしゃぶる苦痛に 見合うものであるべきで、 ホストクラブで 豪快に散財する同輩たちを見ても、 「あんなにお金が使えるほど 売れっ子の良い女なんだ」 などとは思わず、 「あのシャンパンタワーのために 何本のちんぽをしゃぶったのだろう」 と捉える。 チップをくれる上 客がいれば一本の稼ぎだけで勤務を終えるし、 店を通さずに お金をくれるパパを見つければ 平気で無断欠勤を続ける。「好きを仕事に」の否定は神を証明し愛を否定するくらいに難しい
社会学者の阿部真大氏は 初期の名著『搾取される若者たち』 (集英社新書) の中で、 過酷な労働条件の中で バイク便ライダーがある意味 嬉々として労働に打ち込んでいく様を、 「好きを仕事に」 することの落とし穴として 鮮やかに描いた。 私がかつて 『「AV女優」の社会学』 (青土社) の中で指摘した、 下がっていく条件を うまくプライドに置き換えていく 彼女たちのホリックの構造も 似たようなところはある。 しかし、 現場で見るワーカホリックのホスト狂いたちも 劣悪なギャランティのAV嬢たちも、 苦痛の対価だと割り切って 仏頂面で通勤するかつての私や 私のような労働者に比べて ずっと輝かしく、 羨ましい存在でもあった。 確かに、 「好きを仕事に」も 「仕事で自己実現」も 「やりがい搾取」も、 人が本来保つべき 安定した生活習慣を 脅かす落とし穴だらけではある。 ただ、 それを否定しようとするのは、 実は神を証明し 愛を否定するくらいに難しい。AV女優時代のギャラ100万円は何の対価に支払われていたのか
何にお金が支払われているのか、 というのは、 実は正解のない問いである。 そして時間が経って、 考えが変わることもある。 例えば、 私はAV女優時代、 今ほど給料を 苦痛の対価だと考えて 仕事をしていなかった。 100万円のギャラは 私の若さや巨乳や 可愛らしさに支払われているものと信じていたし、 だからこそ頑張って ダイエットして お金にならない営業も回り、 需要がなくならないように どんどん過激な内容にもチャレンジした。 引退して数年後、 本気で好きになった人に 「元AV嬢とは付き合えない」 と言われて、 若さや可愛さの対価だと思っていたお金は、 実はそんなことを言われる 悲しさに対して支払われた 100万円だったのだとわかった。 最初からそう思っていれば、 過激なビデオなんて出なかっただろうし、 もっともっと手を抜いて 効率よく100万円稼いだだろうし、 高熱で寝不足の現場なんて とっとと休んでいたと思う。 その方が健康にはいいし、 命は落とさないけど、 パワーとやる気に満ち満ちていたあの頃は あの頃で幸せだった。 人の弱みに付け込んだひどい習慣が まかり通るブラック企業は もちろん存在する。 ただ、 全ての過重労働問題を 労務管理に回収しては、 仕事と人の本来的な関係を見落とす。 かつての同僚と 久しぶりにメールをしたら 「夜回り禁止なんていう バカみたいなルールのせいで 思うように取材できない」 と会社のホワイトっぷりを呪っていた。 少なくとも、 時に仕事のやりがいが 健康より大切に思えることを 一刀両断に否定することなんて、 他人にできるんだろうか、 とちょっと思う。