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2017年11月13日

橋下氏、維新に離党届の丸山氏と和解 「言い過ぎた」

朝日新聞デジタル  より

橋下氏、維新に離党届の丸山氏と和解 「言い過ぎた」

日本維新の会前代表の橋下徹氏は 9日のインターネットテレビ局の番組で、 維新の代表選にからんで ツイッターで対立した 丸山穂高衆院議員(大阪19区) と和解したことを明らかにした。 丸山氏は離党を表明したが、 離党届は受理されておらず、 松井一郎代表(大阪府知事)は10日、 党への復帰は「本人次第」と記者団に述べた。 2人の対立は維新が議席を減らした 衆院選直後に起きた。 丸山氏が10月24日に 「維新は総括と代表選が必要。 若造に言われんでも代表は 言うだけの人ちゃうし、 ちゃんとやりまっせですね、失礼をば」 などとツイートしたところ、 橋下氏が 「代表選を求めるにも言い方があるやろ。ボケ!」 と激しく反発。 丸山氏は31日に離党を表明した。   橋下氏は番組で 「お互いに言い過ぎた所があるということで お互いに謝りながら、 僕は僕の思いを言いました。 向こうも 『ちょっと言いすぎた所があります』 と言ってきたんで、 こっちも『言い過ぎたところがあったね』と」 と語った。 橋下氏によると、 丸山氏から電話があったという。
おもしろいと思った。 感情は当然感情的だから 「それ以上でもそれ以下でもない」ところで 止めることはできないし そんな理性的な感情などあるわけない。 本気で怒れば言いすぎることも 言わな過ぎてしまうこともある。 そういうものだ。 また特に 潔さも感じた。 そしてそこから この怒りに雑念がないことも感じた。 どういうことかというと、 政治家が怒りを公に表す時、 多くは その怒りの効果を狙う場合が多い。 怒りによって 存在を誇示したり 相手を 服従させたり 貸しを作ったりと 怒りの使い方はいろいろある。 橋下徹のこの怒りは 腹が立ったから 怒っているだけで それ以上でもそれ以下でもない。 だからそれによって 存在を示して相手に服従させるとか そういう二次利用を目的とはしていない。 もしそういう意図があったら 「丸山議員が電話で謝罪したから許した」 ということだけを強調して 「自分も言いすぎたとあやまった」ことは 少なくても公の場では言わない。 それは恥と感じる。 確かに現実的には 丸山議員は当然しばらくは 橋下徹に対して大人しくしてるだろうが それはそれで正常な関係だ。 しかし もう一回か二回くらいなら また橋下徹を怒らせることが あって良い。 それは丸山穂高の人生にとって プラスに働らく。 丸山穂高は 子供ではないので これは余談だが 子供を叱る時 1 叱って 2 反省があって 3 それを許して はじめて叱る効果がある。 つまり この三つが揃って 子供が成長する糧になる。 意外と知られていないことだ。
posted by sachi at 06:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2017年11月11日

東京新聞・望月衣塑子記者、また意味不明な質問…菅義偉官房長官「事実に基づいて質問を…」と苦言

産経ニュース より

東京新聞・望月衣塑子記者、また意味不明な質問…菅義偉官房長官「事実に基づいて質問を…」と苦言

菅義偉官房長官は9日の記者会見で、 東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者が、 政府がトランプ米大統領の長女、 イバンカ補佐官が関わる基金に 資金を提供することにより、 幼児教育無償化の予算が 削られるのではないかと 質問したことについて、 「事実に基づいて質問してほしい」 と苦言を呈した。   安倍晋三首相は イバンカ氏も参加した 3日の国際女性会議で、 イバンカ氏が主導し、 世界銀行などが設立した 女性起業家を支援する基金に 5千万ドル(約57億円)を 拠出すると表明した。   望月記者は、 これまで加計(かけ)学園問題などで 菅氏を質問攻めにしており、 この日は 「イバンカさんの基金、 世銀が設立した基金に かなりの金額が費やされるという話が出た。 教育無償化に財源を当てる以上に イバンカ基金が必要という意見か」 と尋ねた。 菅氏は 「イバンカ基金なんかありません」 と否定。 世銀と主要国が立ち上げ、 「各国同じような形で拠出する」 と一蹴した。
最近の左派の 著しい劣化を象徴する話だ。 事実認識が正常ではない。 客観的な事実の組み合わせによって 矛盾や疑問を 追求するのではなくて、 主観的な想像や妄想によって 事実を誤って認識している。 この態度は 「報道」にとって 致命的なことではないのか。 これはいわゆる 「偏向報道」 ということともまた違った次元の話だ。 偏向報道や 報道しない自由と言われることは 事実はある程度正確に 認識した上で 都合の悪いことや 都合が悪く解釈される事実を 削除したり 意図的に 本来の解釈を曲げる文言で 受け手の印象を操作する。 だから ある意味で 事実の認識は正常だ。 加計学園問題では 加戸元知事の話を 理解し 正確に認識したから 自分たちにとって 都合の悪い話であることを 正確に認識し 都合の悪い度合いが高いことも 正確に認識したため 報道しない選択をした。 自分たちの望む姿と 違うという事実を 客観的に 正確に認識している。 しかし この望月さんという方は 基本的な事実認識に 客観性がなく 感情的・主観的な 認識や解釈を 勝手にすることを よしとしているようにしか 思えない。 このような方は 自分や自分たちに 都合の良い事実さえも見落とす。 つまり 目的は 反対や批判のみで 事実には全く関心がない。 反対のための反対 批判のための批判 ということの典型だ。
posted by sachi at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2017年11月10日

憲法改正するから自民党はリベラル」10〜20代の政治観とは?「保守」「リベラル」を再定義

AbemaTV/『AbemaPrime』 より

憲法改正するから自民党はリベラル」10〜20代の政治観とは?「保守」「リベラル」を再定義

先の衆院選でも対立軸とされた「保守」と「リベラル」。

立憲民主党の枝野代表は選挙中 「大体、今の自民党が保守なんですか? 一億総中流と言われて、 世界一治安がいいと言われて、 お隣近所、地域社会、 お互いさまに支えあっていた 日本社会を壊してきたのは誰ですか、 日本社会の良き伝統を 壊している保守なんかあるはずがありません。 みんなが安心して暮らせていた時代の 日本社会を取り戻す。 私はリベラルであり保守であります!」 と訴えた。 また、 保守派の論客でありながら、 立憲民主党の応援演説をした 漫画家の小林よしのり氏は 「自民党は保守ではない。 あれは単なる対米追従勢力だ。 アメリカについていって戦争をしろと。 それだけだ。 なんで自衛隊のまま 集団的自衛権に参加させるんですか。 枝野さんは安保法制の議論のときに、 個別的自衛権を強化しろと言った。 実はこれがね、 保守の考え方なんですよ。 枝野の方がもっと保守なんですよ」 と力を込めた。 先月の衆議院選挙のANNの出口調査によると、 20代の49%が 比例区で自民党に投票したという 結果が出ており、 「現代の若者は保守化している」 とする意見もある。 一方、街で18歳から29歳の男女50人に 「自民党は保守かリベラルか」 と尋ねてみると、 「めちゃくちゃリベラルじゃないか。 結構、改憲、改憲と言っているので」 (20歳学生) 「保守。ずっと安倍さんだから」 (18歳学生) 「リベラルな気もする。 改憲するという話になっている。 保守なら今までのことを守るという気がするが、 改憲ならリベラルかなと思う」 (20歳学生) 「立憲民主党で掲げていた方が そういう感じがしたので。 そうすると 自民党は保守なのかなって」 (20歳学生) 「伝統を守っているというのも あるかもしれないんですけど、 新しい方を活性化させている気がするので」 (19歳学生)  と、保守が20人に対し、リベラルが30人という結果になった。  こうした状況になっている背景には、 「保守」「リベラル」が 日本では独特のイメージづけを されていることがありそうだ。 日本大学の岩井奉信教授は 「保守の基本的な考え方は、 伝統を守り、 手続きを重視するというもの。 自民党の結成当時、 社会主義と資本主義が対立していた。 社会主義には"革命"という考え方があるので、 これに対抗するとなれば、 原初的な意味合いで 自民党が保守になるのは当然だと思う。 これに対してリベラルは、 冷戦終結後に革命と保守の対立が成立しなくなり、 自民党の保守の対抗概念として打ち出された。 したがって、 左派だとか、あるいは大きな政府だとか、 そういったものを リベラルというような感じで、 時代と共に変わってきている。 本来、 リベラルは個人の自由を重んじ 国家の役割を小さくする立場で 資本主義を基礎づける概念。 しかし、 こうした経緯から 日本では憲法改正に反対することなどが リベラルとされており、 本来の意味とは少し異なった使われた方をしている」と説明する。 実際、 日本における保守のイメージには、 憲法9条改正推進、 日米安保重視、防衛力強化、 伝統や家族などの価値観を重視、 小さな政府路線といったものがある。 「結党の時に自主憲法を制定するというのを 党是にしたということなので、 自民党の保守という考え方と 憲法改正というのはここで結びついた」 (岩井氏)。 また、 リベラルのイメージには、 憲法9条改正反対、 アジア重視、対話外交に軸足、 個人の権利や平和主義の尊重、 分配政策を重視といったものが挙げられる。 この基準に照らせば、 自民党、安倍政権も 十分にリベラルだと 言うことができるのではないだろうか。  ジャーナリストの有本香氏も 「憲法9条改正以外、 安倍さんの政策はほぼリベラルだ。 歴代首相の中でも首脳間の行き来は多く、 日米安保重視ではあるが、 中国と韓国との関係を除けばアジア重視、 対話外交でもある。 個人の権利や 平和主義の尊重というのも まあ当てはまる。 欧州で言えば、 金融緩和、財政出動を含む アベノミクスは基本的には かなり左派的な政策。 保守であれば小さな政府で、 そういうものはどんどん切り詰め、 民間で自由にやってくれという考え方。 自民党はウィングを広げる という言い方をしていて、 安倍政権も左派のお株を奪うような政策が 非常に多い。 例えば、 女性に社会に出て働いてもらおうとか、 経済の上では国境に関係なく 投資を自由にしていこうだとか。 あるいは外国人の労働者に永住権を与えて、 一年で永住権を与えようなど。 これは保守とは言えないような政策」 と話す。 その上で有本氏は 「あえて言えば、 枝野さんは戦後体制を 保守するというタイプ。 安倍さんは ざっくりした言い方だが、 日本の伝統はしっかりと保守したい。 だが、 経済活動については かなりリベラルというタイプ。 みんな保守とリベラルの両面を持っていて、 混在しているし、 保守とリベラルで分けることも 次第に意味をなさなくなってきた。 再定義する必要がある」とした。 (AbemaTV/『AbemaPrime』より)
右と左に別れていたものが 上と下に別れるようになったら 右と左を区別することに 建設的な意味は 見出せない。 すると 右と左の色は 連続したグラデーションのようになって 境目がなくなる。 それは良いとか悪いではなくて 必然だ。 そもそも政治は 「誰かの利益のため」 であった。 しかし 時代が進めば 特定の「誰か」 のためだけの利益は 行き詰まる。 どんなに資本家が 富を蓄えようとしても ものを買う側に 買う力がなければ 資本家の利益は 保障されないように。 だから 一部にとっての利益は そもそも複雑な社会生活では 成り立たないのだが 人のサガは 対立軸を作って どちらかの側にいることに 自分の存在感を感じやすく 敵がいることで 味方がいると感じられるので 安心感を感じる。 対立軸がないと 仲間がいても 相対的な孤独を感じてしまう人が結構いて 仲間の存在に 気づかない場合さえある。 それは 本能の部分とも関係があるし 育ち方とも関係がある。 だから本来 右とか左とか そういう対立軸の有効性は この国では そもそもかなり前に 期限切れになっているのだが 対立軸を作らないと 不安な人たちによって なんとか 形骸を保存されていたに過ぎない。 特に一部のマスコミは 実質同人誌を作る上で 「同人」が存在する 必要があっただけだ。 だから マクロンをはじめ エダノンも小泉進次郎も安倍晋三も 小池百合子も橋下徹も 本質的に イデオロギーの どちらかの側にいるわけではない。 共産党でさえも実質的にはそうだ。 現在の日本共産党は 言うことと やることが 違っていても良い という党是なので 表面の言葉と一致しないだけで 実質的には 自衛隊だって認めているし 革命も起こす気はない。 それが現実だし 悪いことでもない。 ただこれからは 本当の意味での政治の質が問われる。 上と下にわかれる。 そこには 全体の幸福を高度に希求した態度が 理想論ではなく 具体的に 必要だし それには 本当に有効な 思想も哲学も さらに 政治技術も経済知識も 必要だ。 一部には 即物的な 技術や知識の教育だけあればよくて 文系学部は必要ないなどと アホなことを 本気で言ってる人もいるようだが そこでの失敗は 取り戻すのに 千年単位の時間と労力がいる。 決して誇張ではない。 少なくとも 今は 史観を持とう。
posted by sachi at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2017年11月07日

リベラル改憲派・枝野幸男代表と、長谷部恭男教授のダブルスタンダード

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログ     より

リベラル改憲派・枝野幸男代表と、長谷部恭男教授のダブルスタンダード 〜そして枝野代表を指導した憲法学者・小嶋和司に関する補足〜

最近、枝野幸男・立憲民主党代表が、 「改憲派」であったことが、 少しずつ話題になっているようだ。 衆議院選挙の中で、 リベラル=護憲派のイメージで 立憲民主党は「躍進」 したことになっているが、 枝野代表自身は、 自分を「保守」だと自称している。 枝野代表が 「第三の道」なる改憲案を公表したのは、 わずか4年前のことだ。 保守を自認する小林よしのり氏が、 衆議院選挙中から、 一貫して「保守/改憲派」の枝野代表を応援し、 選挙後も支援を繰り返し表明していることは、 真面目に受け止めてよい。 http://blogos.com/article/256525/    安保法制を「立憲主義に違反する」とする 立憲民主党/枝野代表の立場は、 実は「安全法制は違憲だ」論ではない。 立憲主義違反だが、 違憲とは言っていない、 というのが、 枝野代表の発言である。 http://www.nicovideo.jp/watch1502956118 控えめに言って、これはややこしい。 護憲派の枝野ファンが、 小林よしのり氏が枝野代表を 誤解しているのではないか、 と思おうとするのも、無理もない。 実際、 「アベを許さない」 「リベラル」 「保守」 「安保法制反対」 「改憲派」の枝野氏の立場は、 仮に姑息でないとしても、ややこしい。   たとえば、 私は、安保法制は違憲ではなく、 立憲主義違反でもないと考えている。 全く逆に考える人もいる。 しかし、枝野代表は、どちらでもない。 立憲主義違反だが、違憲ではない、と言う。 ややこしい。 仮に姑息ではないとしても。   それにしても驚いたのは、 あの長谷部恭男教授が登場し、 「すべて個別的自衛権の行使として説明できる」 という 「従来の政府解釈を憲法に明文化しようとしたもの」 だという理由で、 2013年の「枝野氏の改憲案」を擁護していることだ。 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171031-00000051-sasahi-pol    率直に言って、 2013年10月に『文芸春秋』に掲載された 「枝野氏の改憲案」について、 長谷部教授のような描写をすることは、 正しくないと思われる。 しかし驚くのは、そのことだけではない。 そもそも長谷部教授は、 従来の政府解釈を 明文化するだけなら改憲は必要ない、 と考えるため、 「アベ改憲は許さない」 の立場だったのではないか? なぜ「枝野氏の改憲案」であれば、 従来の政府解釈と同じだからOKだ、 になるのか? これはダブル・スタンダードではないのか?   アベはダメで、枝野なら良い、らしい。 アベは敵だが、枝野は「アベを許さない」同志だ、 ということなのか。 党派的な対立関係は、明確だ。 しかし知的議論の内容は、 混乱しているように見える。   2013年論文 (枝野幸男「憲法九条 私ならこう変える」 『文芸春秋』2013年10月号、126−131頁) において、 枝野氏は、 個別的自衛権か集団的自衛権かで 「線引き」をした旧来の内閣法制局の見解から、 明らかに距離を取っていた。 「日米安全保障条約に基づき、 我が国に米軍基地が存在しているという実態は、 集団的自衛権の「行使」ではないにしても、 ある種の集団的自衛と説明するしかありません。 そもそも、 こうして個別的か集団的かという 二元論で語ること自体、おかしな話です。 そんな議論を行っているのは、 日本の政治家や学者くらいでしょう。」 (同上、127頁。) このような立場から出発した枝野氏は、 「具体的に、どうしたケースであれば、 実際に集団的自衛権の行使を 可能とする必要があるのか」 という問いを出した。 そして公海上の米艦船を助けることを合憲とし、 「その他の大部分の集団的自衛権行使」 については否定する、 という改憲案を提案した。 長谷部教授は、これをもって、 「個別的自衛権にあたるから合憲だ」 と枝野氏が言っている、 と解釈するようだ。 だが、それは枝野氏の議論ではない。 枝野氏は、 「集団的自衛権の一部容認と説明するのか、 それとも個別的自衛権として許される ギリギリの限界として説明するのか。 説明の方法が異なるだけで 大きな差はないと思います」、 などと述べていた。   日本政府は個別的自衛権と 集団的自衛権が重なることはない、 という解釈をとっている。 したがって、 枝野氏が述べたことが 「従来の政府解釈」 にそったものなら、 枝野氏は、 米艦防護が 個別的自衛権か 集団的自衛権かはわからないが、 どちらかではある、 しかしいずれにせよ合憲だ、 と言ったわけである。 枝野氏が、 「集団的自衛権ではない、 個別的自衛権だから合憲だ」、 と主張した形跡はない。   2013年の改憲案論文で、 枝野氏は、 「後方支援については言及する必要がない」、 といって議論の必要性それ自体を退けた。 国際法で集団的自衛権に該当するものは 「違憲」だ、 と考えるのであれば、 枝野氏のような態度はとれない。 枝野氏は、 「私は憲法でタガをはめるべきなのは、 実際に我が国が、 自衛目的ではない武力行使に 踏み切らないようにすること」 だと宣言していた。 枝野氏は、 「集団的自衛権」と「個別的自衛権」の差異には、 関心がなかったのである。 2013年枝野論文によれば、 「個別的か集団的かという二元論で語る」 という 「おかしな話」を広めているのは、 日本の憲法学者、 および憲法学者へのアンケート調査結果で 政策を決める政治家だけである。 ちなみに国連憲章51条は、 個別的・集団的自衛権を 包括的に扱っている。 2013年枝野論文の見解でよい。   そうした見解で、 枝野氏は、解釈を明確にするための 「9条の2」「9条の3」 を加える改憲を提案したのであった。 これに対して長谷部教授は、 枝野氏の改憲案は良い、 アベ改憲案は 「地球の裏側」の活動も認めてしまうので、 ダメだと言う。 しかし共産党は、枝野改憲案に対して、 「日本への攻撃に対する自衛措置としていますが、 地理的な限定も示されていません」 と批判していた。  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-10/2013091002_02_1.html  枝野氏は「公海」の話しかしていない。 共産党のほうが、 きちんと2013年枝野論文を読んでいると思う。   私個人は、国際法上の概念を不当に軽視するのは、 危険なことだと考えているし、 個別的自衛権の拡大解釈は さらにいっそう危険なことだとも考えている。 だが、それ以前の問題がある。 今、私が指摘しているのは、 アベはダメだが、枝野なら良い、 と言った話を、 憲法学者が憲法学者の権威を利用して 世間に広めようとしているのではないか、 ということだ。 もしそうであれば、それは極めて危険な行為だ。   2013年枝野論文を、長谷部教授は曲解し、 「すべて個別的自衛権だからできると 枝野は言っているにすぎない」、 と読み替えてしまっている。 意図的に曲解しているのでなければ、 「枝野自身がそう言っていなくても、 この私、憲法学者の長谷部恭男が、 そのように認定するので、 枝野はそう言っているということだ」、 と言い替えてしまっている。 仮にそれで、 アベはダメだが、枝野なら良い、 という結論が出せるとしても、 そこに至る議論の内容は、 全く不明瞭極まりない。 アベが加憲するなら絶対反対、 枝野が加憲するなら全く問題ない、 ということだとしたら、 それは単なる党派的事情に応じた ダブル・スタンダードでしかない。   枝野代表は、 東北大学では小嶋和司ゼミに属していたという。(故)小嶋和司は、 その優秀さで知られていたが、 ウィキペディアでは、 その優秀さのゆえに かえって宮沢俊義に疎まれて 東大に残れなかった、 などと書かれている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B6%8B%E5%92%8C%E5%8F%B8 ミステリアスな憲法学者だ。 小嶋教授の弟子、 いわば枝野代表の兄弟弟子に、 大石眞・京都大学法学研究科教授がいる。 大石教授は、集団的自衛権は違憲とは言えない、 と明言する論文を持つ数少ない憲法学者の一人だ。 大石教授の下で学んだ者の中に、 井上武史・九州大学准教授がいる。 井上准教授は、 集団的自衛権は違憲とは言えない、 と発言したため、 執拗な嫌がらせと脅迫を受け、 警察官とともに 通勤せざるを得なくなった経験を持つ憲法学者だ。「2013年枝野改憲案」論文は、 枝野氏が小嶋教授門下生であることを 考えながら読んでみると、 よりよく理解できるかもしれない。 (ただし、2017年の立憲民主党代表の枝野氏の立場が何であるかは、まだ判然としないのだが。)                * 追記になるが、 小嶋和司は、非常に魅力的な憲法学者だ。 「憲法典の規定から姿を消した 緊急権・軍制といった問題 (が論じられなくなったのは)・・・、 立憲制や国家制度にとって バイタルな意味を持つだけに、 学問にとって喜ばしき現象とは考えがたい」、 と書き、 弟子にも軍制研究を奨励していた (小嶋和司「戦後憲法学の特色」『ジュリスト』1977年5月3日号、小針司「立憲主義と軍隊」『小嶋和司博士東北大学退職記念:憲法と行政法』[1987年])。   興味深いのは、 拙著『ほんとうの憲法』で 私がとった立場と同じように、 宮沢俊義に見込まれて 東大法学部第一憲法学講座に 招聘された小林直樹によって 「通説」化された、 日本国憲法には「三大原理」がある (国民主権は一つの「原理」である)、 という説を、 小嶋が採らなかったことだ。 小嶋にとって、 「主権が国民に存する」 と宣言することは、 日本国憲法が「民定憲法」 である性格を示している、 それだけのことだった。 小嶋は、代わりに、 三つの「日本国憲法の諸主義」として、 「自由主義、戦争放棄主義、国際協和主義」 をあげていた。 (小嶋和司『憲法概観』(新版)[1968年])。    小嶋の主権論は、 日本国内の 主権をめぐる議論に関する論説の中では、 珠玉だ (小嶋和司「『主権』論おぼえがき<その一>『法学』46巻5号、1982年)。   「明治憲法当時多数説であった 『統治権総攬』を『主権』とする立場は、 明治憲法典と、 その下の精神的風土においてのみ 多数説となりえたもので、 『主権』の一般的概念ではありえない」(43頁)   このような記述は、 もし「三流蓑田胸喜の篠田英朗」が 言ったことだったら、 「sovereign powerは統治権と訳していい」 と主張する憲法学者の方に、 即座に斬首されるようなものだろう。 http://agora-web.jp/archives/2029005.html    師であった宮沢俊義に対する小嶋の 次のような鋭利な文章も、 「三流蓑田胸喜の篠田英朗」 が言ったら、斬首間違いなしだ。   「宮沢俊義教授は、 ポツダム宣言の受諾は『主権』の変更を意味し、 『主権』の変更は法律上『革命』とみるべき であるとして、 有名な『八月革命説』を述べられた。 ポツダム宣言は 『日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ』 政府形態が定めらるべきことを述べるのみで、 『主権』を問題としていないし、 その受諾のとき、 『革命』の担い手もなければ、 『革命』の意識もなかったのにである。 この論理において注目されるのは、 『主権』概念をもち出し、 それを媒介とする論断で、 ここでは、その語の権威的印象が、 これまた強烈な印象を随伴する 『革命』論の決め手とされている。 『主権』の語の意味多面性は、 それを上手にふりかざせば、 望みの帰結を出しうるごとくである。」(7頁)
憲法改正が現実味を帯びてきたが 当然 拙速であってはならない。 自分も含め 面倒臭いことが嫌いな 性分の人間でも 少し丁寧に 自分と意見の異なる方の言説を含め 見るべきものを見て 聞くべきものを聞く態度を 持った方が良い。 その中で 避けて通るべきではないのは エダノン 枝野幸男の 政治家であり法律家としての考えだ。 最近は リベラル系の方の著作や文章を きちっと読み込もうとすると がっかりしたり 情けなく思ったり 不快な気分に苛まれることが多かったが エダノンを「学ぶ」ことは そういった焦燥感を 感じなくて済むし 立憲民主党が どういう党なのかを 知る上でも面白い。 枝野さんは 確かにややこしい。 良い悪いではないが 確かにややこしい。 最近のリベラルは 感情的に動いてしまう方が多いので 枝野さんの 都合の良いところだけを 取り上げて 賞賛したりしているように 見える面があるので 枝野さんが ややこしいと思っている人は あまりいないかもしれない。 そして 枝野さんが正直に 色々なことを言い始めると 民進出身者は 立憲民主党さえも 壊し始める。 そのくらい ややこしいといっても良い。 しかし そのややこしさは ネガティブに見るべきものではなくて そこから 枝野幸男という人物の 様々な特性が見えてくる性格のものだし そこから見出すべきものは多い。 枝野さんは 「右でも左でもなく」 ということを言うが 確かにそれは 本人の言う通りだろう。 同じ傾向は 小池百合子さんもそうだし 小泉進次郎も マクロン大統領もそうだ。 そのことは 見るべきものがある。 ただその中身はかなり様々で この4人を同じ傾向と見るのは 軽率だ。 それでも 旧来の右とか左と言うことが 機能しなくなってきていることは確かで かなり新しい価値観の構築が 始まっているようにも思える。
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2017年11月04日

小泉氏「このままなら自民党必要ない」 政策決定巡り

朝日新聞デジタル より

小泉氏「このままなら自民党必要ない」 政策決定巡り

■小泉進次郎・自民党筆頭副幹事長(発言録)  (安倍晋三首相が 幼児教育無償化などの財源確保のため、 企業に3千億円の拠出を 要請したことについて) 党は何も聞いてないし、 議論もしてないですから。 このままだったら 自民党必要ないですよ。 経済界の皆さんにも、 考えてもらうべきことが あるんじゃないかと思いますよ。 政治が頼むと、賃上げする。 3千億円も頼まれれば出す。 何かまるで、 経済は政治の下請けなのかと。 仮にそれだけ 政治の動きに左右されるような 世界だとしたら、 日本にイノベーションなんか生まれないですよ。 (国会内で記者団に)
またこれに対して橋下徹は

自民党内は先輩後輩の関係が厳しいし、同僚同士でも足の引っ張り合いが激しい。

- 11月2日のツイート

この言い方ならボケとは言えない。 維新の会の中堅若手も 執行部にしっかりとモノを申せばいい。 ただ安倍さんは 小泉氏のこども保険の提案を半分 (企業拠出金の増額)採用した。 自分の提案を採用してもらったのに 党内の議論が足りないと文句を言うのは、 ちょっと優等生過ぎる主張 自民党内は先輩後輩の関係が厳しいし、 同僚同士でも足の引っ張り合いが激しい。 これは政治家を鍛えるための 良い意味での権力闘争環境。 小泉氏がそれを気にしたのなら 「自分の提案がいきなり採用されると 党内で反感を買うので、 しっかりと党内議論を 踏んで頂けるとありがたいです」 という主張にすべき
正論と正論がぶつかって 議論が進むのは面白い。 小泉進次郎の発言には 彼のビジョンや 基本的な姿勢がにじみ出ている。 また 橋下徹が 「おかんに怒られた」 という 「ボケ」 という表現が 彼にとってどういうことかを より具体的に 知ることができる。 経済と政治の関係は もちろん簡単ではない。 密着してもいけないが 全く連携できないようでも 問題だ。 しかし彼が言うのは 付くか離れるかといった 距離のよう単純なことではなく 質的な問題を提起しようとしている。 様々な 大人の事情をさておき 経済の主体性と イノベーションの可能性 を結びつけたのは 良い。 目先の様々な方法論の問題ではなく ことの外郭の定義を 提案することで 手段より先に 目的を明示することができている。 橋下徹の説は もちろんボケ議員と 小泉進次郎を 比較することが目的ではないが 党の執行部に ものを言う手順と 作法を教えている。 ボケ議員殿におかれては くだらん言い訳を考えるより こういう発言に敏感に 耳を傾けて 冷静に問題点を整理し したたかに次の行動を 選び取るような 政治家マインドを身につけてほしい。 あの言い訳文は 上司に怒られた新米が 居酒屋で同僚にこぼす愚痴と変わらない。 しかも完全に公務員マインドだ。 しかし 橋下徹は 「優等生過ぎる」 というが 小泉進次郎はある程度は 優等生を 演じ続けなくてはいけない面もある。 また演じ続けることで 必要な時に多少過激な 表現方法をとることのできる パスポートを手に入れているような面もある。 効果的に自説を表現することには かなり考え抜かれた形跡を感じる。 先日の選挙特番で 新聞への軽減税率適用を批判した。 見事だと思う。 ただその後 新聞社側が 何のアクションも 起こさないわけはない。 上の記事にしても 朝日新聞の忖度かもしれない。 新聞社は小泉進次郎を潰したいが 敵に回して得する相手ではないのは 百も承知だ。 小泉進次郎の 「なかなか報じてもらえない」 へのアリバイ作りかもしれないし ごますりか懐柔策かもしれない。 とにかく朝日新聞することは 額面通りに受け取れないし 受け取らない方が良い。
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2017年11月03日

立憲・枝野代表「民進党との連携は難しい」

ホウドウキョク より

立憲・枝野代表「民進党との連携は難しい」

巨大与党に対峙すべき野党側に「足並みの乱れ」。

立憲民主党の枝野代表は、 1日、 福山幹事長が 民進党の会派からの 離脱を余儀なくされたことを理由に、 「民進党との連携は難しい」 との認識を示した。 枝野代表は 「(民進党は)別の党ですから。 わが党の幹事長が会派にいたのを、 出て行ってと言われたので、 なかなか連携は難しい」 と述べた。 立憲民主党の枝野代表は、 党内でただ1人の参議院議員である 福山幹事長が、 参議院の民進党会派からの 離脱を求められたことを受け、 民進党との 「連携は難しい」と述べた。 民進党の大塚代表は 「われわれは、 『三党物語』で『三割政権』を しっかり倒す」と述べた。 民進党の大塚代表は1日、 このように、 立憲民主党・希望の党との 3党の連携をアピールしていたが、 枝野氏の発言を受け、 信頼関係を構築する必要性を強調した。 大塚代表は 「まずは公党間の 信頼関係を築くことに取り組んでいきたい」、 「きょうの発言は、 私は直接聞いていないし、 趣旨も承っていないので、 そのことを、あらためてうかがいたい」 と述べた。 また、大塚代表は、 民進党の執行部人事について、 党籍を持ちながら 無所属で当選した衆院議員を 登用する可能性を示唆し、 「無所属の会」の 岡田代表も前向きな姿勢を示した。
数年前のことだが ある県の偏差値トップの高校の先生が 優秀な生徒さんが揃うと 授業はやりやすいでしょう という旨の問いかけに対し 確かにうちの生徒は (授業をしていて)素晴らしいと思うが ある水準以上の生徒がいるということは 実はかなり幅が広い。 つまり水準を少し超えた生徒と はるかに超えた生徒とでは 実はかなりの能力差がある。 2番手3番手の学校は 上位と下位の差は限られているので その方が授業はやりやすい。 という旨の返答をしていたのを 聞いたことがある。 様々な人間が 集まった集団から いろいろなものを 学べるが 目的が絞られているときは より純化した集団の方が 目的を達成する効率は良い。 また 「それ」と「それ以外」 ということを 改めて考えさせらる。 〇〇から△△までと言えば とにかくその中の差があっても ある性格なり性質が集まる。 つまりその中に 質的な共通点はほぼ必ず見つかる。 それに対して 〇〇以上という定義では その集合の中に はっきりした共通点を 見つけることは 困難になる場合は多い。 民進党が 分裂したことは 国民全体にとっても 民進党自身にとっても よかったと思うが 改めて民進党とは 何だったかを考えると 「〇〇の集団」 ではなく 「〇〇以外の集団」 だったのだと思う。 つまり そこに個々の共通点を 見つけることは難しい。 共通してないないことによって 集まった集団だったのだと思う だから 民進党出身者が どこへいっても 民進党で身につけた 流儀のまま行動すれば その中で組織よりも 自分の立場を 確立する方向に動くだろう。 希望の党での 小池批判などは象徴的だ。 小池批判自体が批判されても 民進党の流儀が身についてしまっていると その批判の意味がよく呑み込めない。 そこでくだらない言い訳をして また批判される。 分裂後の民進党が 様々な 「繋がる」 を受け入れることは 普通に常識的に 考えられるより はるかに難しいということだ。 ふと 野党共闘が難しいのは そもそも共闘できない人の集まりが 野党なのではないかという ことさえ考えてしまう。 論理の飛躍のように聞こえるが ここは少し深い。
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2017年10月31日

橋下徹 僕の日本維新の会丸山氏に対するツイッター表現に批判があるのは当然だ。

橋下徹 twitter より

僕の日本維新の会丸山氏に対するツイッター表現に批判があるのは当然だ。 - 10月30日のツイート

僕の日本維新の会丸山氏に対するツイッター表現に批判があるのは当然だ。しかしツイッター一つで政治権力にモノ申そうと思えばこれくらいのことをしないとね。笑っちゃうのが僕の表現を批判する多くの人は、安倍さんや僕、その他自分の気に食わない相手には普段悪態の限りをつくしていること。
現在の日本の政治に 関係することで もっとも危惧していることは 希望の党の今後でもなく 立憲民主党の舞い上がりでもなく 橋下徹の暴言では当然なく 左派やリベラルのモラルの低下だ。 少し前までのリベラルは 理論なりセオリーなりがあって それに忠実であったり 正確さを求めたりと その言説に賛成できないことであっても 基本的な姿勢や 少なくとも ことを良い方向へ という気持ちは 感じることができたし 共感することもできたし 評価できた。 しかし 今の左派の動き方 または 動く根拠 行動原理には どうしても 肥大したエゴを感じてしまう。 それはかつての 良識的なリベラルが もっとも嫌悪していたことではないか。 今これほど アンフェアな行動が 良しとされるリベラルは 世界各国を覗いても 歴史を振り返っても 本当にないのではないか。 確かにサイドメニューのような 犯罪や悪事は 右派左派問わずあるし 右派左派問わず 極のつく 初めから暴力を前提にしたものもある。 そういったものはもちろん論外だし 人間のやることに 完璧を求めるのも 多いに稚拙な思考だ。 しかし 加計学園問題での 報道しない自由や リベラル系マスコミの 捏造やその煮え切らない謝罪 など サイドメニューとは言えない 行動原理の根本に関わることには 世の中をよくする とか 人間がもっと幸福になる とか そういった 正しい方向性の 理念が全く感じられない。 その行動から感じられることは エゴしか感じない。 相手より高い立場に立ちたい とか 相手をこらしめることが快感 とか つまり 主観・感情・生存本能のようなものが 行動の原点にあるとしか思えない。 だから 日本の民主主義や人権を守ると言いながら 彼らは 安倍晋三と橋下徹には 基本的人権を認めない。 本人も認める通り 暴言は非難されるが そのような状況にあって 実際の暴力行動には及ばず 暴言にとどめる橋下徹の理性は むしろ 賞賛されて良い。 また 加計学園問題での 報道しない自由は 極めて広義の「暴力」ではないか と考えている。 合法的な暴力の模索の結果といっても良い。 つまり リベラルのモラルの低下とは 根本的な行動原理の変更だ。 客観から主観へ 利他から利己へ そのことが 橋下徹のみならず 社会の様々なものを傷つけて いることに 気付く気配もない。 こう書くと 当然、観念的な思考に慣れておられる方は リベラル全員がアンフェアなのか と言われるかもしれない。 そうではない。 良識的なリベラルは今もいるし 頑張っておられる。 アンフェアな人たちがかなり増えたということだ。 かなり増えたし アンフェアな人たちのほうが 声が大きいので なかなか目立たなかったが この度は 枝野さんが脚光を浴びた。 枝野さんは 非常に柔軟な考えができるし 現実的な認識を踏まえた上で リベラルの必要を説く。 いやみな言い方をあえてすれば しばらく見なかった 善人顔のリベラルが 新鮮だったことが 枝野人気に つながっているのではないか とも思う。
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2017年10月30日

排除の論理"を批判する東京新聞のセコさ

PRESIDENT Online  より

"排除の論理"を批判する東京新聞のセコさ

なぜ立憲民主党が生まれたのか

総選挙は自民党の大勝に終わった。 それでも安倍晋三首相をはじめとする自民幹部は 「謙虚」という言葉を繰り返している。 それは小池百合子都知事に ギリギリまで振り回されたという 認識があるからだろう。 ジャーナリストの沙鴎一歩氏は 「とにかく野党がだらしなかった」 と指摘する。 この先、政局はどう動くのだろうか――。

大騒ぎをした野党の責任は大きい

「だれが勝ったのかよく分からない」 「これほどメチャクチャになった選挙も珍しい」 「これまでの大騒ぎは何だったのだろう」――。 今回の衆院総選挙に対して、 大方の見方はこんなところではないか。 まず安倍晋三首相が衆院解散を表明し、 対抗して都知事の小池百合子氏が 間髪入れずに新党を立ち上げた。 これが事実上、 選挙戦のスタートだった。 そしてここまでは実に面白かった。 だが、 小池新党と民進党との間で ゴタゴタやっているうちに 小池人気が衰え出し、 代わって小池氏に追い出された 枝野幸男氏の立憲民主党に 人気が集まっていった。 結局、 勝利を収めたのは自民党だった。 それでも自民の面々の顔色はさえない。 漁夫の利で勝っただけで、 自民党が 高い信任を得たとは 言い切れないからである。 とにかく野党がだらしなかった。 それが証拠に安倍首相をはじめとする 自民幹部らは 「謙虚」という言葉を やたらと繰り返している。 今回の衆院選は一体、 何だったのだろうか。 大騒ぎをした野党の責任は大きい。 民進党代表の前原誠司氏と 希望の党代表の小池氏に 焦点を絞って論じてみたい。

民進党は「議員生命」にしか関心がないのか

前原氏は10月25日、 都内で講演した。 その講演の中で、 希望の党が思うように 票を獲得できなかったことを考え、 希望の党との合流自体を 見直す方向性を示し、 「民進党の新たな方向性を定めたい」 と述べた。 当初、前原氏は 民進党をすべて 希望の党に合流させることを 主張していた。 民進党は新しい方向性を求め、 27日に両院議員総会を開き、 30日には全国幹事長会議も開くという。 選挙が終わっても、 ゴタゴタの好きな 民進党の体質は変わらないようだ。 「自分たちの議員生命さえ維持できればいい」 と考えるからだろう。 この際、 民進党には だれのための国会議員であるかを しっかり意識してもらいたい。 国民の信任が得られてこその政治家であり、 政党である。

希望の党との合流「あまりにも奇策」

さて選挙関連の社説の中で、 目立って面白かったのが、 10月23日付の日経新聞の1本社説だ。 冒頭部分では 「いちばんの責任は民進党の前原誠司代表にある」 と指摘している。 そのうえで 「いくら党の支持率が低迷していたとはいえ、 衆院解散の当日という土壇場になって、 野党第1党が できたてほやほやの 新党『希望の党』に合流を決めたのは、 あまりにも奇策だった」と酷評する。 さらに 「有権者に『選挙目当て』とすぐに見透かされ、 7月の都議選に続くブームを当て込んで 希望の党になだれ込んだ候補者は いずれも苦戦を余儀なくされた」とも書く。 当然の結末である。 この日経社説を 民進党の議員や関係者はどう読んだのだろうか。

日経も「野党の自滅」と指摘

さらに日経社説は 「この選挙をひとことで総括すれば 『野党の自滅』である」 と指摘し、 「自民党と公明党を合わせて、 定数の過半数を大幅に上回り、 選挙前と同水準の議席を獲得したとはいえ、 野党候補の乱立に 救われた選挙区も多い。 両党が 『与党の勝利』『安倍政権への全面承認』 と受け止めているとしたら、 大いなる勘違いである」と書く。 そのうえで 「有権者は自公の連立政権に軍配を上げたが、 野党よりはややましという 消極的な支持にすぎない。 自民党に取って代われる受け皿さえあれば、 簡単に見限る程度の支持であることは、 都議選で身に染みたはずだ」 と言及する。その通りである。

小池氏「私自身にもおごりや慢心があった」

一方、 24日付の東京新聞の社説は、 「希望の党敗北」とのタイトルで 「都知事の仕事に専念を」 との見出しを付けている。 社説のリードには 「東京都民を置き去りにしたような振る舞いが 不興を買ったのだろう。 小池百合子知事が 率いる希望の党の敗北。 知事としての求心力の低下は 避けられまい。 都民のための都政に専念することを望む」 とある。 そのうえで社説本文は 「小池氏は出張先のパリで 『私自身にもおごりや慢心があった』 と反省の弁を述べた。 だが、もはや『都民ファースト』のスローガンが信用を取り戻すのは簡単ではあるまい」 と書き出す。

「民主主義が担保されていない」

東京社説は 中盤で希望の党が 逆風にさらされたことに言及し、 その理由についてこう指摘する。 「都民ファの組織運営を巡る情報公開が 不十分なこと。 議員個人としての自由な意見表明や 調査活動が制約されていること。 つまり、 党内の民主主義が 担保されていないという 痛烈な批判だった」 情報の公開が不十分で、 議員の意見表明や 調査活動が制約されていることは あるのかもしれない。 ただ希望の党は できたてのほやほやである。 安倍首相の突然の解散に打って出るために かなりの急ごしらえだった。 党として安定するのはこれからだった。 そこを 「党内の民主主義が担保されていない」 と言い切るのはいかがなものだろうか。

「排除の論理」が立憲民主党を生んだ

さらに東京新聞は 「合流組に対し、 違憲の疑いが強い安全保障関連法や 憲法改正を支持するよう踏み絵を迫り、 排除の論理を打ち出した」 とも指摘している。 しかし 排除の論理で 考え方の違う議員を選別した結果、 選挙戦自体が 分かりやすくなった。 だからこそ立憲民主党も生まれたのである。 その点を 東京新聞はどう考えているのか。 社説を担当する論説委員たちの論議が、 不十分である気がしてならない。 続けて東京社説は 「政治理念や政策よりも、 小池人気にあやかることが 結集軸のようにも見えた。 多様な言論を認めない 不寛容を印象付けたのも、 都民ファの体質に似ているといえる」 と批判する。 だが、 理念と政策抜きで 小池人気だけ集まってきた 議員連中を選別したのが、 排除の論理であることを忘れないでほしい。

「安易な離合集散を繰り返すな」

次に26日付の読売新聞の社説を取り上げる。 タイトルは 「立民と希望」で、見出しは 「安易な離合集散を繰り返すな」である。 社説の中盤で 「公示前勢力を下回った希望の党の 両院議員懇談会で、 小池代表は『排除』発言について陳謝した。 今後の党運営を 国会議員に委ねる考えも示した。 出席者からは辞任を求める声も上がったが、 小池氏は代表を続投する意向を表明した」 と書く。 そのうえで読売社説は 排除の論理の是非をこう論じていく。 「疑問なのは、 憲法改正や 安全保障関連法容認を 掲げた公約を認めて、 公認を得て当選しながら、 なお反発する議員がいることだ」 「同じ党に所属する以上、 基本理念と政策の一致は欠かせない。 小池氏の発言に行き過ぎがあったとはいえ、 路線や政策などでの選別自体は 否定すべきではない」

緊張感を失わせた野党の責任は大きい

この主張には大賛成である。 これまで沙鴎一歩も指摘してきたが、 民進党やその前身の民主党は、 保守派と革新派とが同居する 寄り合い所帯だった。 それが最大の欠点であった。 それゆえ党としての安定性に 欠いていたのである。 だから一度は政権を取りながら、 内紛を繰り返してきた。 単純に排除の論理を否定する 東京新聞の社説とは違い、 読売社説は物事の是非の判断が きちんとできている。 続けて 「離党や解党に言及する落選者もいる。 『小池人気』 にすがって入党したのに、 全責任を小池氏にかぶせるのは 身勝手ではないか」 とも訴えている。これも納得できる。 さらに読売社説は後半で 「立民、希望、無所属で当選した 民進党出身者は計108人だ。 衆院解散時の97人を上回った。 こうした人材を活用・育成し、 政策立案力を高める必要がある」 と強調し、 「安倍内閣の下では、 政権を担える野党の不在が続く。 政権選択選挙である衆院選で、 緊張感を失わせた野党の責任は大きい」 と野党の責任をはっきりと示している。 まったく、その通りで賛成だ。
やはり 東京新聞はわからない。 何をしたいか どんなものに向かおうとしてるのかが わからない。 それが右であれ左であれ その当事者自身の利益である方向に 向かっていると認められるのであれば 自分の考えといかに隔たっていても 理解はできる。 しかし 東京新聞は 自らの利益の方向に 向かっているとは 思えないということだ。 東京社説は 希望の党が 逆風にさらされた理由について 情報公開や自由な意見表明などの 党内の民主主義が 担保されていないからだという そして 違憲の疑いが強い安全保障関連法や 憲法改正を支持するよう踏み絵を迫り、 排除の論理を打ち出した としている。 これらの 東京新聞が うまくいかなかった理由として あげていることはどれも 新しい党の 「定義づけ」 の行為ではないか。 つまり 結局 東京新聞は かつての民進党が 問題なく うまくいっていたという 認識なのだろうか。 自民党が もりかけで 支持を30パーセント台まで 落とした時 民進党は支持率をあげるどころか 自民党よりさらに支持を落とした。 それは誰の目にも 健全な野党として民進党は 機能していないことは 明々白々だった。 そしてその民進党の問題は 党内の主義主張に 幅がありすぎることだ ということは かなり 共通の認識に なっていたのではないか。 だから 民進党と同じ轍を踏まないように 新党は 性格づけ 定義を明確にするのは 至極当然の行動ではないか。 立憲民主の躍進も 定義の確立に寄るところが 大きいのではないか。 つまり そこで必要なのは 新党の創設者の 党の理念 党の定義の確立だ。 その時点で民主主義という次元ではない。 東京新聞は そういった理念の確立よりも 「民主主義」 の方が大切だと言う。 創設者の創設の理念よりも 創設者の人気にあやかろうと 集まってきた人たちの 多様な意見を尊重しろと言う。 その結果 おこる状態を あるべき姿だと思うのだろうか。 その結果おこる状態とは 民進党の状態と同じではないのか。 東京新聞の「民主主義」 とは何だろうか。 民主主義とは 新党を創設する人間が その自分が作ろうとする党の理念を 民に問うことが必要なのだろうか。 民進党から希望に移った人は 創設者ではないのだ。 創設の理念を提示する人ではなくて 創設の理念の下に集まった人なのだ。 共有された理念のもとで 諸々の問題を処理解決する手立てとして 民主主義ならわかるし当然だ。 民主主義とは確かに良いものだ。 しかし 良いものだからといって どこに置いても 良いものとしての機能を 発揮するわけではない。 当たり前だ。 その 「置く場所が違う」 ということは 「執拗な質問」 にも言えないか。
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2017年10月28日

田原総一郎ブログ 小池百合子の本当の目論見は、どこで外れたのか?

田原総一郎ブログ より

小池百合子の本当の目論見は、どこで外れたのか?

第48回衆議院選挙が22日、投開票された。 与党は、自民党、公明党あわせて 313議席という勝利に終わった。 安倍晋三首相は、 「衆院選、勝敗ラインは与党過半数」 、 つまり自公あわせて 233議席以上と言っていたのだから、 3分2を超える議席の獲得は、 大勝利と言っていいだろう。 自民党が一時の劣勢から、 ここまで挽回した要因はいったい何なのか。 ひとつ目は、 自民党が成果としてアピールした 「アベノミクス」に、 各党が対案を打ち出せなかったことだ、 と僕は思う。 以前にも話したことだが、 アメリカ、イギリス、フランスなど、 欧米の先進国は2大政党だ。 ひとつは、自由経済をうながし、 政府は社会に深く介入しない、 つまり小さな政府を目指す 「保守政党」。 対する 「リベラル政党」は、 社会保障に厚い大きな政府を志向する。 保守政党の政権で 自由競争が続くと格差が広がり、 不満が高まる。 そこで選挙を行うと、 社会保障が厚いリベラル政党が勝つ。 政権をとったリベラル政権は、 社会保障や福祉に、 どんどん税金を投入する。 当然、財政が悪化する。 そこで財政再建のため、 小さい政府を志向する保守政党が 次の選挙では勝つ。 こうして、政権交代が起きていくのだ。 だが自民党というのは、 保守政党でありながら、 経済面ではリベラルだ。 自由経済主義ではないのだ。 これは、 日本人が自由経済を嫌いなことに要因がある、 と僕は考えている。 だから、 かつて竹中平蔵さんらが 「新自由主義」を掲げたとき、 国民はたいへんな拒否反応をみせたのだ。 そのため日本の政党は、 自民党を含めてみんな 経済面ではリベラルになった。 みんなリベラルなのだから、 野党が対案が出せないのも仕方ないだろう。 いま、自民党は消費税を2%引き上げ、 10%にしようとしている。 これに対して、野党はもちろん大反対だ。 だがしかし、 そもそも消費税を10%にするということは、 三党合意で決定したことだ。 民主党の野田佳彦政権のときのことである。 だから、野党の態度は、 反対するための反対に思えるのだ。 そもそも欧州では、 消費税率20%前後が当たり前である。 日本の財政を考えても、 消費増税反対には まったくリアリティがない。 さて、 自民党が挽回した要因の もうひとつの理由だ。 それは、 東京都知事の小池百合子さんにある、 と僕は考えている。 希望の党と民進党が合流した際、 「全員を受け入れる気はさらさらない」と、 小池さんが言った。 この冷たい発言が、 最後まで尾を引いた。 なぜ、こんな言い方をしてしまったのか。 実は、この発言の前に小池さんは、 若狭勝議員と細野豪志議員が 画策していた新党立ち上げについて、 ばっさりと 「リセットします」と言い放っていた。 ここまでは、 メディアにも国民にも受けていた。 小池さんは これに気をよくしたのではないか。 だから、 わざと厳しい言い方を してしまったのではないか。 希望の党が野党第1党となり、 自公が過半数割れすることを 小池さん自身、 目論んでいたのだろう。 もっと言えば、 安倍首相が退陣、 石破茂さんがそのあとを引き継いだところで、 自民党と連立する、 という青写真だ。 以前、僕は、 「『小池さん』という人は、 非常に不思議な存在だ」 「党にビジョンがなくても、 「小池さん自身がビジョンになれる」 と書いたことがある。 小池さん自身が、 「希望の党」の象徴なのだ。 だからこそ、この発言は痛かった。 今回の選挙は、 与党の勝利に終わった。 だが国民は、 安倍政権を選んだのではない。 ほかに選択肢がなかっただけだ。 そのことを、 安倍さんは肝に銘じてほしい。 長期政権のゆるみから、 森友・加計学園問題が起きた。 一時は政権の危機になった。 そのことを、 安倍さんはちゃんと自覚しなければならない。 いい気になってはいけないのだ。
内容の全てに賛成ではないが 読む価値のある文章だ。 田原さんの視点は 他の人が設定しない位置にある。 そして 歴史観が優れている。 野党がすることをなくしてしまうのが 自民党の戦略と言えなくもないが、 それはある意味では 当然のことで オリジナルが 自民党だろうが野党だろうが 良いと思うことは なんでもやるというのは 基本的に正しい。 自民党は野党のアイデアに 何か少しの変化やオプションを加えて 政策にしてしまうこともある。 だから野党も そういったことをやればいいのに 何かこだわりがあるのかやらない。 だから 憲法改正は賛成だが 安倍政権の下の改正は反対などと わけのわからないロジックに迷い込んでしまう。 それは確かに 今までの解釈改憲とか 安保法制の扱いに それなりの問題を感じ その延長線上であることを根拠に 安倍政権の下では となるのだろうが 普通に聞けば 反対のための反対ととられかねない。 むしろ 改憲案の中身で もっと 主張をはっきりさせるべきところだ。 小池さんのことについては 大きな尺度で見れば まだ成功もしていないし 失敗もしていないと見るので 田原さんの論に 賛成も反対もしない。 しかし これは半分妄想だが 小池希望の党が 大勝利をおさめていたら どうなっていたかを 考えると ちょっと恐ろしい気がする のも確かだ。 旧民進党の 議員の多くは 小池さんを差し置いて 自分たちの力であることを 誇示するだろう。 そして 結局主導権を得ようとして ガバナンスの効かない 民進党と同じ状態に なっていたのではないかと 希望の党の 両院懇談会の様子を聞けば 想像できる。 つまり 選挙に勝っても負けても 選挙後の両院懇談会は あまり変わらなかったと思っている。 だから 長い目で見れば 希望の党は まだ始まってもいないし 終わってもいない。 旧民党出身者は なにをやっても 結局自分たちの支持を 落とすだけなので とりあえず好きなことを してればいい。 旧民進党出身者が 妥当安倍政権と言えば言うほど 安倍政権は 延々と続くのではないか と思われるほど レベルが低い。 救いようがないことが 希望の党にいったことで さらに明らかになった。 もう一つ 田原さんの論に 異論を挟むとすれば 安倍政権の評価であるが そもそも世論調査で出てくる 数字は 安倍政権に限って言えば かなり あてにならないのではないか ということだ。 安倍政権支持を隠す人は 案外多い。 (トランプさんもそうだったようだが 中身の意味はかなり違うと思うが) 結局安倍政権が続いて欲しいと 思ってはいても 正面切って支持しているとは 言いたくない心理があるようだ。 それがなぜかは 一概には言えないが 一つには 安倍首相には多少右翼的なイメージが絡むため 素直に支持していると言いづらい面がある。 また 経済的な恩恵をある程度受けている場合 隠しておいてさらに頑張って欲しい、 また、支持が高くなりすぎると 経済政策が緊縮の方に向かうのではないかと 考える人もいるようだ。 とにかく安倍さんは 女性にはわかりにくいと 感じられてしまうし 硬くて真面目な性格だから 小泉さんのような 人気というわけにはいかないと思うが 実は確実に安定感を むしろ強めているのではないか もりかけ問題にしても 多くの人は批判はしても 本当に大変な問題だとは 思っていない。 むしろそのために やめてもらっては困るという人が 今回の大勝利に つなげたのではないかとも考える。
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2017年10月27日

橋下徹 丸山という口のきき方も知らない若造が勘違いしてきた

橋下徹twitter     より

橋下徹 丸山という口のきき方も知らない若造が 勘違いしてきた

@維新国会議員にも 丸山という口のきき方も知らない若造が 勘違いしてきた。 国会議員は永田町病にすぐかかる。 丸山も自分の力で当選したと錯覚している。 お前が勝てたのは松井さんが 知事をやっているからだ。ボケ! 代表選を求めるにも言い方があるやろ。ボケ! こいつには一度注意したのにあかんな。 A維新も代表選をやればいいが、 松井さんは手を挙げないだろうね。 国政政党の代表なんて 松井さんには何のメリットもない。 しんどいことだけやらされて 国会議員に高い給料にふんだんの活動費、 破格の身分を与えるだけ。 維新の国会議員が代表に就いて 次の選挙で維新は消滅。 B地方議員の大阪維新の会は、 大阪での実績があるので 代表・執行部が変わっても 何とかなるかもしれない。 それでも行政権を握る首長が 重要であることにかわりはない。 他方、弱小野党の国政政党日本維新の会で 松井さんが降りたら日本維新の会は終わり。 C大阪維新の会はしらんけど、 日本維新の会では 国会議員は 松井さんに代表をお願いする立場だろ。 永田町にいると政党の代表は 誰もがやりたいポジションだと思い込む。 大阪からすれば 日本維新の会の代表なんてやりたくないわ、 丸山のボケ。 結局国会議員、 特に丸山がお願いするという落ちになるだろう。 D丸山のボケも含む 『大阪』の日本維新の会国会議員が 何故当選できるか。 それは大阪府政市政が 大阪では報道され、 そして実際府民市民が 府政市政の前進を感じているからだ。 一度大阪維新と 日本維新を切り離して、 丸山のボケに大阪維新の力を 学ばせるしかなさそうだ。 それとまず言葉遣いから学べ、ボケ!
橋下徹が嫌いな方々には 橋下徹の言説を わざわざこうして並べるのは とても不愉快かもしれない。 そこはお許し願うとして ぜひ 嫌いな方は嫌いなままでいいので 一つの考えとして お聞きいただきたい。 橋下徹を面白いと思う人間が どう面白いと思うか ということの 一つの形だが 政治家というものの あり方についての 話でもある。 それは 確かに 普通の人が 職場や学校などの ある程度社会的な場所で 30やそこらの若造捕まえて 「ボケ」 を連呼するのは いかがなものかという 「常識」 の存在も認めるし そのことに異論はない。 ちなみに 「ボケ」は 今回のツイートで9回連呼されていると TBSラジオで荒川強啓さんが言っていた。 「ボケ」9回連呼は 確かに多いが もちろん回数が少なかったら 良いという問題ではない。 9回の「ボケ」に何を見るか これが 良いか悪いかの判断はさておき 見るべきものは 感受性の 質と強さだと思っている。 橋下徹は 高い発信力を持っている。 それは 橋下徹の好き嫌いに関わりなく 誰もが認めるところだし 嫌いな人の嫌いな所以も 発信力の高さと深く関係する。 発信力が 外への力だとすると 内への力は感受性だ。 橋下徹の発信力は優れているが その発信力の元は 並外れた強烈な感受性に 支えられている と見ている。 つまり 強い内への力があればこそ 強い外への力に なり得るということ。 そして 外へ力が発揮されるところでは 普段は内への力の片鱗を なかなか見られないものだが 時々ある程度偶発的に 片鱗を垣間見ることができる。 「ボケ」 とは その片鱗だ。 橋下徹は相手を 「ボケ」と感じたのだ。 橋下徹の面白さは つまり感受性の強さだ。 これは政治家にとって 大事なものだ。 様々なものから 様々な情報を 感じ取ったり 読み取ったりする。 人一倍それが強ければ 高度な状況判断ができて 人を動かすことができる存在になる。 しかし 橋下徹の言う 「ボケ」 とか 「ガラクタ」 の類の政治家は 根本的に その 受け取る力が弱い。 物事をよく見て 様々な要素を総合して 自分の出方や言い方 またそういったもののタイミングを 考えているようには 到底見えない。 民進党出身者が 小池人気にあやかって 希望の党入りをしたにも関わらず 選挙でうまくいかないと 小池辞任を要求したり ボケ議員が 松井おろしを画策したり 道徳論とか 善悪の問題以前に 仕組みの理解や洞察の問題だ。 仕組みの理解や洞察がないから 出来上がった仕組みの上にあぐらをかいて その仕組みは何食わぬ顔で利用するが その成り立ちを考えたり その仕組みを維持するための 労力や知的コストについては 考えようとしない、 自分には関係のない 誰かがやることだと思っている。 しかし自分の都合に合わなければ 文句は言う。 こういったことは 人間性の問題とも言えるが 元は 内への力の弱さ・感受性の弱さ・洞察力の 貧弱さからくる。 政治家の仕事とは つまるところ 人を動かすことだ。 歴史的には 無理やり力で動かそうとする人も多くいた。 しかし 今はそれは効率のいい方法ではないし 今はそれでは結果的に 自分が排除されてしまう可能性の方が高い。 良い人の動かし方とは 「気持ちよく動いてもらう」 のが理想でベストだ。 そこまで理想的な状態は少ないとしても 人を動かすには また人に動いてもらうために必要なのは 人というものの深い理解と洞察 政治の仕組みの深い理解と洞察だ。 橋下徹の怒りを買うような ボケやガラクタが 単に道徳的道義的に 問題だといっているのではない。 問題は 政治家としての適正を 著しく欠いているのではないかということだ。 それは本人にとっても 世の中にとっても不幸なことだ。 人を動かせない政治家が 人を動かすためにとることを考えれば 策略・謀略・うそ、良くて利益供与だ。 つまり世の中の害になるしか無くなってくる。 学校の成績が良くて 学歴が高く 様々な能力に恵まれていて 順風満帆の人生を送ってきても この洞察や感受性のダメな人間はいる。 たまにいるのではない 結構いる。 そしてさらに悪いことには 本人はそれに気づかない。 順風満帆な生き方をしてきて 自分はどんな分野でも 世間一般より能力があると 結構本気で思っていたりする。 官僚の中には あらゆる事務処理能力に長けていても そういった人を動かしたりするのが 苦手だから 官僚になったという人の話も 聞いたことがある しかし 官僚から政治家になった人の中には そういうことに全く気づかないが故に 政治家に転身した人がいる。 確かに 「ボケ」だ。 感受性がボケている。 そういった人たちの 対極にいる 強い感受性を持っているのが 橋下徹であり 小泉進次郎なのだ。
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