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ともなりたかひろ
小説家界の革命児。 主な著作に『太郎取扱説明書』(インディーズ文庫)。『小説・神聖かまってちゃん』(Amazon Kindle)などがある。 もっと詳しい著作が知りたい場合は、以下を参照下さい。 メインホームページ(ニコニコ動画)→http://com.nicovideo.jp/community/co1841805 Twitterアカウント→https://twitter.com/jiga_from_jiga ちなみに、このブログはアフィリエイト(金稼ぎ)のためにやってみよう、と思って開設したんですが、まったくの無知(あるいはバカ)のため、そうですね、うん、まずまぁ、稼げないでしょうね。
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2015年06月06日

2015年度のAKB総選挙の感想――もうAKB総選挙は年々「緊張感」がなくなり、「劣化イベント」と化した件

 2015年6月6日、午後9時。
 AKB総選挙、やっている真っ最中に、この記事を書いています。

 今日は、AKB関係者の方々のご機嫌を伺いに参りました。

 どうも。
 「推しメン」は生駒理奈ちゃん(AKBじゃないじゃん)の、小説家のともなりたかひろです。

 (注)この記事はタバコ一本で読めます(いや、この記事は○○分で読めます、だろ)。


 では、さっそく核心、つきますよ。

 あのさ、年々、AKB総選挙自体に、「緊張感」がなくなってませんか

 なくなってますよね?

 その答案は簡単。

 「スターが不在だから

 だから、普通に放映してても、ドキドキしない。

 まるで、2000年に到るまでの一年一年には一種の「カウントダウン感」があってドキドキしたが、2000年以降の一年一年には何のドキドキ感もないかのように。

 そこで、僕の提案。

 もう普通にAKB総選挙をやっても、緊張感がなく、アップでメンバーたちの涙を見てもいまいち感動しないわけだから、別の場所で茶化す視点(メタ視点)=副音声的な「解説」を導入したらどうすかね?

 その「解説」に適任なのが、僕的には乃木坂46のメンバー。

 特に生駒ちゃんなんかは、一回総選挙を経験しているわけだから、「ああ、このときは、本当はこういう心境なんだよ」とか、いろいろとぼけた感じの口調でいい塩梅に「解説」してくれそうじゃないの。

 そしたら、楽しいよね。

 改めて、結論を言います。

 もうAKB48には「スター」がいないわけだから、真面目に総選挙をやってもつまらない、だから、総選挙自体をメインにせず、俯瞰的な場所での「解説」(メタ視点)をメインにすることでなんとか総選挙というイベントは存続すると思います。

 
 さて、ここからは、余談。

 ――あれですよね、こじはるは、引退しても人生安泰ですよね。

 だって、・・・超美人じゃん!

 AKB48中NO1のお姫様だよ。

 だから、引退しても、美容・下着系のCMにヨッチャンイカ、じゃなかった、引っ張りダコだろうし(現在もそうだけど)、引退後、一番楽に成功できると思う。

 それは、前田敦子と大島敦子さんが、引退後、一から女優として再出発し、いろいろ努力し、苦渋を舐めて、成功しようと頑張っているのと、好対照だと思う。

 ほんと、こじはるって、・・・ツイてる人だよね。

 というわけで、今日の商品は、こちら。

 小嶋陽菜写真集 『どうする?』


 これを見ると分かるけど、いやぁ、こじはる、ほんと「お姫様」ですな。
 いや、「女王」と言ってもいいかもしれない。

 ・・・どうです、この写真集を見ると、夏休みに旅行に行きたくなりませんか?(出た! 毎度のお宣伝!)

 特に、京都に行くなんてのは、どうでしょうかね。

 夏休みに京都に行って、京都のアイドルこと、舞妓さんと出会い、口説いてみるのも、また、一興なんじゃないの?

 ――まぁ、オタクの人たちじゃ無理か。。(失礼)

 というわけで、ご旅行する際は、この記事の末尾に配置してある、旅行会社のアフィリエイト2つをご利用下さい。

 それでは。

 最後に。

 ・・・僕のことは嫌いになっても、僕のことは嫌いにならないで下さい!!(同じやん)





2015年06月03日

渦中のFIFAの賄賂事件の「真相」

 タイトルほいほい、第二弾ということでね。

 はい、FIFAのことなんか、語るつもりは毛頭ありません。

 というより、僕のポテンシャル・エネルギー(後の伏線です)が足りないのです。

 というわけで、こんばんわ。
 Twitterのフォロワーから、僕が学校の教師だとしたら「理科」の先生だ、と言われた、小説家のともなりたかひろです。

 ところで、今日(2015年6月3日)は満月ですね。

 占星術的に言えば、太陽星座と月星座がオポジション(180°)の角度を取る日が、満月に当たります。

 そんなスピリチュアルな日ですから、今日は宇宙について少し語りたいと思っています。


 皆さんは、宇宙がどのようにして生まれたのか、ご存知でしょうか?


 最新の宇宙論によると、宇宙は「無」から誕生した、と考えられています。

 「無」というと、物質がなく、エネルギーもなく、時間・空間もないわけですから、文字通りに解釈すると、本当に「何もない世界」ということになってしまいます。

 しかし、量子論では、その「無」を説明しようとします。

 量子論は、原子よりももっと小さな素粒子の世界での物理法則を扱っています。


 そして、量子論では、こんなことを言っています。

「素粒子の世界では、粒子というのは、存在したり、しなかったりしていて、存在するか否かは確率でしか説明できない。」

 私たちが普段生活していて、ある人が突然消えたり、現れたりすることはまずありません。

 が、量子論を突き詰めてミクロの世界にいくと、時間・空間・エネルギーですら、あったり、なかったり、たえずゆらいでいると考えられています。

 この状態を「無のゆらぎ」と言います。


 そして宇宙のはじまりは、この「無のゆらぎ」の中で現れたり・消えたりする、超ミクロな真空(最低エネルギー状態)だったわけです。

 こうして、「無」から誕生した宇宙は、誕生直後に、「一瞬」にも満たないような時間で、ゼロが一気に43個つくような大きさまで「膨張」しました。

 宇宙論では、この膨張を「インフレーション」と呼んでいます。

 しかし、最低エネルギーだった宇宙に、そんな加速度的な膨張(成長)が果たして可能でしょうか。

 明らかに膨張を可能にした「エネルギー」が必要になってきます。

 これを説明するのが、真空のポテンシャル(潜在)・エネルギーの存在です。

 ポテンシャル・エネルギーとは、たとえれば、地上の位置エネルギーのようなものです。
 といっても、たとえになってないほど意味不明ですが、簡単に言いますと、位置エネルギーとは、重力の弱い山の上より、重力の強い地面の方が小さくなる、そして、岩はエネルギーの低い方へ山を転げ落ちていく、というような法則のことです。

 しかし、真空のポテンシャル・エネルギーには、空間同士が斥け合うという法則も持ちます。

 そんな岩が山を転げ落ちるように、宇宙は誕生するやいなや、エネルギーの低い状態へ移行していきました。

 というよりも、宇宙はインフレーションを起して膨張する方が、ポテンシャル・エネルギーが低くなる、すなわち、空間同士が斥け合わなくなる、ゆえに、マクロ(広大)な宇宙へ進化するように運命付けられていた、といった方が正解でしょうか。

 さて、このインフレーションの過程において何が起こったでしょうか?

 真空のポテンシャル・エネルギーは、インフレーションによって最後にはゼロになりました。
 これを真空の「相転移」といいます。
 そして、その「相転移」によって失われたポテンシャル・エネルギーと引き換えに、それに相当する熱エネルギーが生まれました。

 そして、皆さんもご存知の通り、宇宙は、次の段階、ビッグバンに進みます。


 ――などと、宇宙の歴史を語りだすとキリがなく、僕も面倒くさいので、最後に「宇宙の未来はどうなっていくのか?」について語り、この記事を終らせようと思います。


 まず、宇宙の未来には、2通りの「未来」が考えられます。

 一つは、「開いていく宇宙」の末路。
 もう一つは、「閉じていく宇宙」の末路です。

 僕は後者の方を信じているので、「閉じていく宇宙」の末路の方を語ることにします。

 この説は、ある時点を境に宇宙が収縮していく、ということを意味します。

 収縮を始めた宇宙は、狭くなる分、温度がどんどん高まり、そのせいでやがて銀河が激しく衝突し、星が爆発して溶け始め、ブラックホール(星が爆発することで、中性子の核が収縮、結果、強い重力により時空が曲がり、光さえも閉じ込めるような強い重力のこと)が巨大に成長することになり、そして最後には、宇宙全体が一点に収縮していくことになります。

 つまり、宇宙の「未来」は、「過去」(はじまり)に戻る、ということになります。

 面白くありませんか?

 現在、「宇宙の果て」はわかっていません。
 というのも、私たちが見て知ることのできる宇宙の範囲は、光が到達できる範囲までなのです。
 しかも、宇宙は今も膨張を続けているというのが定説です。
 すると、「宇宙の果て」は、光より遠く遠ざかっているので、見ることができないのです。
 もし仮にようやく光が届いても、その時点で、「宇宙の果て」はさらに先に膨張していっているのです。


 そんな宇宙の終わりが、「はじまり」(過去)に戻る、というのは、面白いじゃありませんか。


 「宇宙の果て」を追いかけることは、時間を進めているようで、実は、時間を遡ることかもしれないのです


 ん〜、面白いですね。


 というわけで、本日の商品紹介。
 じゃん!

 2001年宇宙の旅(初回生産限定スペシャル・パッケージ) [Blu-ray]


 この映画、俺、今でも意味わかんないす。
 でも、メモリアルな作品ですし、難解だからこそ、何回も観直すべき映画ですから、ここはぜひとも購入の方を・・・(以下略)


 とまぁ、今日は宇宙について語ってきましたけど、僕はこの記事を書きながら、ラーメンズのコント『STUDY』を思い起こしてしまいました。
 なんか、この記事、ラーメンズの『STUDY』のトーンですよね、全体的に。
 なので、コント『STUDY』風に(というか引用しながら)、アフィリエイトの宣伝をしてみたいと思います。


 ・・・この世界にある長い長い時間の中で、今までいなかったあなたという存在が現れて、今いて、そしてまたいなくなっていく。

 何もなかったかのように、完全に消えるんです。

 私を含め、人間の存在とは、ただそれだけのことです。

 ・・・この広い広い宇宙の中で、あなたの存在など、もはや、ないんです。

 1才の赤ん坊と、2才の赤ん坊とでは、倍違う。がしかし、79万1才と、79万2才との赤ん坊とでは、見分けが、つかないのですよ…。

 この広い広い宇宙の中で、あなたの自宅と、あらゆる国との距離なんて、もはや、・・・ないんです。

 だから、この記事の末尾に設置してある、夏休みの旅行を格安で提供するアフィリエイトをご利用なさい。

 短い人生において、夏休みに旅行ぐらい、しておいた方がよいでしょう。

 あなた、という存在が、この世界から消えてしまわぬ前に……。





2015年06月01日

片岡愛之助と熊切あさ美の関係の真相

 そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと始末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。


 ――以上、太宰治の『姥捨』からの引用である。

 そして、これから書く記事に、なんの関係もない一節である(じゃあ、何故引用した?)。


 というわけで、こんばんわ、本日も皆さんのご機嫌を伺いにやって参りました。

 そろそろ誕生日が近づいている、双子座のAB型、小説家ともなりたかひろです。

 
 ・・・もう、今日はね、気が乗らないから、手っ取り早く終らせます。

 愛之助さんと熊切さんの別れ話ゴシップが加熱してますよね?

 この話題について、ちゃっちゃっと片付けてしまいましょう。

 
 あのですね、まず、熊切さんサイドの目論みから見てみましょう。

 熊切さんはある時期から、「崖っぷちアイドル」として売り出しており、当初の彼女の目論見としては、「大物有名人と付き合ってそのネタでテレビ出演の機会を増やそう」と思っていたに違いない。

 そのターゲットが、愛之助さんだった、ということでしょう。

 
 さて、今度は、愛之助さんサイドの視点から見てみましょう。

 たぶん、愛之助さんは、熊切さんの性的なアピールに負けて(人がいいから)、あくまで「遊び」として付き合っていたに違いない。

 しかし、ですよ?
 時は流れ、同じ歌舞伎界の知人たちが次々結婚していきましたよね?

 海老蔵さんは、小林麻央さん(生真面目)と。

 そして、中村獅童さんは、つい最近、一般人女性(生真面目)と。


 そんな流れがあり、愛之助さんは、周囲の歌舞伎界の知人、つまり、海老蔵さんや獅童さんから、「そろそろ身を固めたらどうだい? 今、大事な時期(仕事が増えてる時期)だし」などと助言されたのかもしれない。
 
 それを受けた愛之助さんも、「そうだなぁ。・・・結婚するなら、やっぱり生真面目な女性だよなぁ」と思い、藤原紀香に的を絞ったに違いない。

 だって、梨園の妻にふさわしいのは、明らかに藤原紀香(生真面目)でしょう。

 というか、熊切さんに梨園の妻が務まるわけがないでしょうに。

 
 以上のような事情があって、藤原紀香と影で付き合いだし、熊切さんと別れることを決意した。
 が、必要以上に、熊切さんがアレだったので、泥沼になった、といったところだろうと思う。

 
 しかし、熊切さんの事務所は「変わらず、仲良くさせてもらっています」と破局を否定している。
 つまり、事務所側は、「今回のような“騒動タレント”として熊切あさ美というタレントを売り出そう」と画策しているのだ。
 そして、熊切さんの中にも、そういった「打算」があるのかもしれない。

 
 ところで、歌舞伎界の人の恋愛遍歴には、一定の特徴があるようだ。

 この業界では、よく「芸のために遊べ」と言うが、確かに大抵の歌舞伎役者はそうで、海老蔵も、獅童も、若い頃はよく女遊びをしたようだ。
 だが、40近くにもなると、――というより、結婚(梨園の妻を選ぶ)となると、やっぱり「生真面目な女性」に落ち着く、というケースになるのである。


 以上である。

 今回は、別段、紹介したい商品もない。
 しかし、一応、通過儀礼として、商品を紹介しなければならない。


 窮余の策として、女性の怖さを描いた、傑作映画『ゴーン・ガール』を紹介しておく。まず、この場で紹介しても誰も買わないだろうし(レンタルできるし)、僕も別に買って欲しいとは思っていない。

 しかし、映画史に残る傑作であることは間違いない。
 メモリアルな作品として、おうちに一つ買っておいても、まぁ、損はしないでしょうね。

 【Amazon.co.jp限定】ゴーン・ガール (初回生産限定) (B2ポスター付) [DVD]



 最後に余談ですが、――梅雨が近づいていますね。
 梅雨が明けたら、夏ですよ。
 前回も書きましたが、最近、地震も多発しているし、火山も噴火するし、・・・僕たち、いつ死ぬかわからないですよね。

 だから、死ぬ前に、夏休みに旅行に行くのもいいのではないでしょうか?

 というわけで、この記事の末尾に貼ってあるアフィリエイト(2つ)をご利用頂き、お安く旅行へ行くのもいいのではないでしょうか?

 ・・・以上です。






2015年05月31日

東京直下型地震はいつくるのか?を予言

 どうも、ともなりたかひろです。

 今日も皆さんのご機嫌を伺いに参りました。

 昨日(2015年5月30日)は、少しビビりましたね。

 東海・関東地方に震度5強の地震が起こり、僕の家も海老名市(関東)にあるので、結構激しい横揺れが続き、「ああ、これは近々、でかいのがくるな」とぼんやりオナニーの手を休めず思いました(オナニーしてたんかい!)。

 というわけで、今回は、

「もし、東京都心で大地震が起こったら?」をプロデュース!

 ・・・じゃなかった、「もし、東京都心で大地震が起こったら?」について語ってみたいと思うとるわけです。

 
 まず、思うのはですね、「もし、東京都心で大地震が起こったら?」という予測と対策は、もうさまざまな研究者の方々が語りつくしていると思うんですよ。

 でも、僕は真の「問題」は、地震をどう防ぐかではなく、地震が起きたあとどうアフターケアをするのかの方が問題だと思うんですよ。

 それが、あまり語られていないように思います。

 だって、考えてみてくださいよ、奥さん(なぜに奥さん?)。

 地震、起こりますよね?
 そうしたら、電車は当然ダメ、道路も地割れ+車の渋滞でダメ、で、避難しようとした六本木ヒルズなども火災が発生しているかもしれないじゃないですか。

 つまり、東京都心は「逃げる場所がない」土地なんですよ。

 安部公房的にいえば、『燃えつきた地図』なわけです。

 これが、東北だったら、また話が違ってきます。

 東北の田舎(失礼な言い方ですみません)だったら、まだ「村」というミニマムな単位があったじゃないですか。
 だから、一応は「避難場所」も確保できたし、仮説も用意できる土地もあったし、少なくとも、「地震後の対策」が出来る可能性はあったんです。

 ですが、東京に避難場所があるでしょうか?
 
 東京に、仮設が立てられるスペースがあるでしょうか?

 おそらく、ない、ですよね。

 それが問題だと思うんです。

 
 でもね、――ここからが重要な話になるんですが、もし仮に、東京都心に直下型の大地震がきても、その大半の人々は、・・・東京から逃げられないと思うんです。


 その理由を、映画監督の岩井俊二さんが以前語っておりました。
 以下、それを僕なりに要約して、説明しましょう。


 3.11の後、福島に残った人々が一定数いましたよね?
 あんな放射線に脅かされる土地に。

 そのとき外部の人々の大半は、「ああ、この人たちは郷土愛が強い人たちなんだなぁ」と思ったのです。

 でも、それは違うのではないか、と岩井さんは語ります。

 彼らが福島に固執しているのは、郷土愛からなどではなく、そこの社会というシステムに組み込まれているからなのです。

 もう少し噛み砕いて言いますと、福島(社会)を捨てたら、彼ら自身の「仕事」がなくなるから、彼らは福島を離れられないのです。

 明日から他の土地へ引っ越せ、と急に言われたって、「じゃあ、明日から仕事はどうなるの?」となりますし、他にも、もし、その人がある会社の社長なら、その人が他の土地に引っ越しただけで、社員全員、職を失うことに繋がるのです。

 つまり、繰り返しになりますが、我々はその土地に愛着があるから逃げられないのではなく、不可避的にその土地の社会のネットワークに組み込まれているから、その土地から逃げられないのです。

 岩井俊二さんは、こう結論づけています。

3.11で学んだことは、――僕らが思っていた以上に(社会というネットワークから)逃げられないんだな、ってことだと思うんですよね。


 そして、この真理は、東京という土地に変換しても成り立つと思います。
 
 もし、東京都心で大地震が起こっても、一部のセレブ(金持ち)の方はそりゃ逃げられるかもしれませんが、一般のサラリーマン家庭などは、――やっぱり、逃げられないのではないでしょうか。

 だって、明日から仕事がなくなるわけですからね。

 
 ・・・などと、日曜日だというのに、前回の記事と同様、ずいぶんシリアスなトーンになってしまいましたね。


 ところで、余談ですが、読者である貴方は、もし仮に大地震が起こったとき、どういう振る舞いをしますか?

 「死にたくない!」とテンパりますか?

 それとも、冷静に「死」を受け入れますか?


 僕は個人的には、前者が振る舞いだけはしたくない主義です。

 なぜなら、・・・人間として見苦しいからです。

 緊急時でも怯まない人間でいたい。
 ですから、このブログの冒頭で書いたように、昨日の地震が起きたときにも「オナニーしていた」のです。
 はい、これで「伏線」が回収されましたね。まぁ、そこは一応、小説家ですから。

 人間、極限状態に追い詰められたときにこそ、本当の本性がわかります。
 それは、サルトルも『水いらず』(新潮文庫)の中の短編「壁」で明らかにしています。

 僕は、最後の最後まで、怯まず、人を助けるのが、理想的な人間だと思います。


 
 ・・・というわけで、今回ご紹介する商品は、こちら(結局宣伝かよ)。


  宮崎駿監督作『風立ちぬ』。


 風立ちぬ [DVD]




 もう大半の人がご存知でしょうが、この映画の主人公堀越二郎は、関東大震災のときでも、まったく怯まず、むしろ、人助けを優先するような、かっこいい男でした。

 皆さんもこの映画を買って観て、勇気ある人間になって下さい。



 ――最後に、もうすぐ大地震がくるかもしれないわけですから、どうです? 夏休みぐらい、旅行に行っておきませんか?
 もう、僕たちに残された時間は少ないかもしれないのですから。

 というわけで、この文章の下に表示されてあるアフィリエイト(二つ)もご利用していただき、悔いのない人生を送りましょう。

 以上です。






2015年05月29日

死後の世界はあるのか?――今井雅之氏と今いくよ氏の訃報によせて――

 まず、今井雅之さんと、今いくよさんに、追悼の意を表します。

「人間の一生」という大事業、お疲れさまでした。

・・・というわけで、今日も皆さんのご機嫌を伺いに参りました。

 そうです、小説家のともなりたかひろです。


 今日は、前回のように打算(自分の利益)に走ることなく、「死後の世界はあるのか?」という真面目な疑問について、真面目に考えてみたいと思います。

 その前に、大前提として、「死」とはなんなのか? という問題をちょちょっと片付けてみたい、と思います。

 みなさんは、「生があるから死がある」、あるいは、「死があるから生がある」、つまり、「生の結果」=「死」、と思っているのではないでしょうか。

 しかし、「生」と「死」の問題を、そのひとの「内面」(精神)と「外面」(肉体)に区別して考えると、どうもそうではなさそうです。

 少し、考えてみてください。 

 そのひとの「人生の価値」(内面)の結果は、「死体」という無関係な「外面」となってあらわれます。

 つまり、「死」と「死体になる」ということは同一の事実ではない、ということが言えるわけです。

 例えば、仮に「自殺したい」と思っている人がいるとしましょう。
 けれども、それは「死にたかった」だけであって、「死体になりたかった」ということではなかったはずです。

 これが「死」の本質です。

 
 では、次に本題の「死後の世界はあるのか?」という問題について、面倒くさいですが、そして、読者の皆さんも面倒くさいでしょうけれど、少し語ってみたいと思います。

 結論から言いましょう。

 「死後の世界」はあるともないとも言えない。

 それが人間の出せる回答の「限界」でしょう。

 そして「死後の世界」について考えることは、「この世界」を超えてあるもの=「神」はいるのか、ということを考えることと同義です。

 これについては、柄谷行人さんの著書『探求U』の中で、最も上手い回答を考案しております。

 それを要約いたしますと、「この世界」を超えてあるもの(神)はなく、「この世界」が「在る」こと自体が「神」である、と言っています。

 つまり、「神」は「この世界」そのもの(内在的)である、ということです。

 これを、スピノザという哲学者の「決定論」と言います。

 しかし、宗教では、「この世界」を超越するような、さまざまな「人格神」(ヤハウェなど)を想像してしまいがちです。

 ですが、その想像も、「この世界」に生きている人間の妄想、という意味では、やはり、「この世界」の中に回収されることになり、「この世界」を超越している、とは言えないわけです。

 こう考えると、「死後の世界」など、ありそうもありません。

 しかし、宗教の世界では、「死後の世界」はあるよ、「神」(人格神)はいるよ、と言わなければいけません。
 言うまでもなく、「商売」にならないからです。

 
 ここで、このブログお約束の関連話カットインです。

 韓国映画に『シークレットサンシャイン』というのがあります。

 あの映画のテーマは「宗教」でしたが、ことに素晴らしいのは、「宗教が持つ矛盾」の核心をついた、という点です。

 「宗教の持つ矛盾」――。

 それはずばり、善人も悪人も平等に救ってしまう、という点です。

 言い換えると、それが「宗教」の限界であるといえるわけです。



 ――などと、今日は、どうも湿っぽい話になってしまいました。
 
 なので最後は、明るい・ノー天気な曲を紹介して終りたいと思います。

 以下、ゴールデンボンバーの新曲です。


 死 ん だ 妻 に 似 て い る [鬼龍院 翔 歌唱] [ボディースメルフレグランス(体臭付きカード)+CD]

 
 
 この曲でもきいて、死の悲しみを吹き飛ばしましょう。
 
 追記。

 明るい・ノー天気といえば、もうすぐ「夏」がきますね。
 
 もう、ぶっちゃけます。 

 この記事の最後に、「夏休み」に関するアフィリエイトを掲載しております。
 
 読者の皆さんにも役立つ情報だと思いますし、――何より、僕の文章が読み続けたいのなら(お金がないので)、クリックして、契約してみてください。
 
 それでは。

 




 

2015年05月27日

宇多丸、実写版『進撃の巨人』を批判(ネタバレあり)!

 はい。
 これが、タイトルほいほい、ってヤツですね。

 実際は、宇多丸氏は関係ないし、まったく映画を批判するつもりはありません。

 別に『進撃の巨人』も嫌いじゃないし、実写化もいいと思うし、SEKAI NO OWARIも別に嫌いじゃないです(というか、よく知らないです)。

 というわけで、本日も皆さんのご機嫌を伺いに馳せ参じました。

 小説家のともなりたかひろと申します。

 以下、真面目に『進撃の巨人』を論じますので、最後までお読み下さい。

 
 まず、原作(漫画)の話からしますと、僕は1巻しか持っていません。

 理由は、どこの本屋(というか海老名市に本屋は2件しかない)にも売ってないんですよね! それに、最後の砦のブックオフにも置いてない始末。
 じゃあ、Amazonで買えばいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、・・・うーん、そこまでして読みたい漫画でもないかな、と思ってしまって、すいません、結局、1巻以降は買わずじまいの僕なのでした。

 でも、1巻を読んで、なるほど、と思う点が多々ありました。

 つまりこれは、3.11に代表されるような「世界の不条理」をテーマにした「文学的な漫画」なんだな、ということです。

 ようは「巨人」という存在は、「地震」だったり、「津波」だったり、人類がどうしようもできない「世界の不条理さ」の象徴なわけですよね?

 この点から、『進撃の巨人』はある種の「寓話」だ、と言えるわけです。

 だから、「巨人」という存在を、前述の通り、「地震」だったり、「津波」だったりと、色んなものに置き換えて考えてみるとより面白い、ということなのではないでしょうか。

 僕がこの漫画を読んだのは去年ですから、読んですぐに「ああ、この漫画は3.11のことを描いているんだな」と思いました。

 でも、連載開始は、2009年ですよね。
 だから、作者の諌山創さんは、すごく先見の明があるな、と素直に感心しました。
 まぁ、もちろん、諌山さん自身はそんなことは意識してなかったでしょうけど。

 ゲームでいえば、『FF10』の「シン」、文学でいえば、うん、やっぱりカフカの『審判』や『城』でしょうね。
 まぁ、安部公房も入れてもいいんですが、彼の著作の大半はカフカのパクリですから度外視してもいいかな、とも思います。


 それでまぁ、今後の展開についてですが、――勿論、1巻しか読んでいない僕に展開予想もクソもないわけですが、今後、こうしていったらいいんじゃないかな、という勝手な提案を一つさせて頂きたいなと思います。

 僕はですね、「巨人」を倒す、とか、「巨人」の正体を明かす、とか、あるいは、「巨人」が実はある登場人物と関連があった、みたいな展開にはしてほしくないなぁ、と思うんです(もう既にそういう展開になっているかもしれませんが)。

 「巨人」=「地震」=「津波」は、あくまで「世界の不条理」のまま、「謎」のまま、絶対に崩せない「壁」のまま、屹立していてほしいんです。

 なぜなら、この漫画の「力点」は、おそらくですけど、「巨人」=「地震」=「津波」(世界の不条理)を前にしたら人類はどういう振る舞いをするのか、にあるからだと思うからです。

 一応、1巻から推察するに、人類は「巨人」を倒そうと立ち上がる選択をしているみたいですけど、人類が他の振る舞いをする可能性もあると思うんです。

 だって、考えてみてください。

 あの3.11が起こって、当初、僕たちは自然(巨人)の猛威に対して、唖然としましたよね。 
 そして、一方では原発問題や東電批判があり、また、一方ではボランティア活動が盛んに行われました。
 勿論、東京も危ないから関西に引っ越そう的な卑怯な振る舞いをした人もいましたが、日本人の大半が「これからはちゃんと人類の未来について真剣に考えよう」と真剣に考えていたはずです。

 しかし、現在はどうでしょうか。

 すっかり震災のことなど忘れ、「いつも通りの一週間」が戻ってきて、芸能ニュースに一喜一憂したり、スポーツ選手の大躍進に湧いたり、かの宇多丸氏が言うところの「ものの見事に過去から学ばねぇ」平和ボケ的な振る舞いが復活してきました。

 『進撃の巨人』も、こういった「風化してしまった」時期の人類の振る舞いを描けば、より「深みのある漫画」になるのではないでしょうか。

 つまり、「巨人」が去ってしまった「平和な時期」をあえて描くのです。

 そうしたら、人類はどういう振る舞いをするでしょうか?

 もしかしたら、より高い壁を作り、「よし、これで未来永劫安全」と思い込むんじゃないでしょうか。
 でも、その中でも疑問を持つ人は出てくるでしょう。
「100年 壁が壊されなかったからといって 今日壊されない保障なんか どこにもないのに・・・」(1巻のアルミンなる人物の台詞より引用)。

 ――なんてね。

 繰り返すようですが、勿論、こんな展開になるわけがないし、根本のテーマ自体も少し捻じ曲げてしまっているし(元々のテーマは抑圧にあえて挑み、自由=外の世界を見たいということでしょうし)、それにもし、こんな展開になったら、まず「少年漫画」として失格でしょう。

 だがしかし、この漫画の「力点」は、「巨人」を倒す云々よりも、「巨人」(不条理)を前にしたときの人類の振る舞いにこそある、ということは確実ラインだとは思うんです。

 などと、長々と話してきました。

 最後に、関係ないですが、SEKAI NO OWARIというバンドの勢いは、凄いですね。
 僕はボーカルのFukaseくんとは同年代なのですが、なんだか、別世界の人みたいに思えます。
 それに比べて、――ね、神聖かまってちゃん。
 『進撃の巨人』の作者諌山さんも、神聖かまってちゃんのファンだそうで、たびたびブログで取り上げているようですが、SEKAI NO OWARIと同世代なのに、なんだか、いまいち伸びきらないですね。
 
 そんな彼らをフックアップするために、『小説・神聖かまってちゃん』を紹介して、この記事を終りたいと思います。
 この小説を読めば、神聖かまってちゃんのイメージが随分変わると思います。



         小説・神聖かまってちゃん


 
 というわけで、完全に無関係の宣伝になりましたが、その理由は、・・・・・・言わなくてもわかるね?

2015年05月25日

がんと闘ったアイドル丸山夏鈴さんの死の真相

 どうも。
 今日も、皆さんのご機嫌を伺いにやってきました。

 ところで、今、がんと闘ったアイドル丸山夏鈴さんの死が、巷で話題になっておりますよね。

 僕は別段、彼女のファンでもないので、彼女のことなどほとんど何も知りません。

 けれども、語れることがありそうなので、書いてみようと思います。

 僕は、“がんなのに必死に最後までアイドル活動を続けようとした彼女に感動した”、という視点には、あまり興味が持てません。

 むしろ、丸山夏鈴さんにとって、がんは諸刃の剣だった、という視点に興味があります。

 わかりやすく言うと、丸山夏鈴さんにとって、がんという存在は、人生を潰すものでもあり、逆に、人生の「武器」にもなった、ということです。

 その証拠として、彼女が芸能事務所のオーディションに送る用であろうプロモーションビデオの映像を見ると、撮影場所は、病院内であり、術着的な患者服を着ている彼女の姿が映っています。

 結果、丸山夏鈴さんは、今の芸能事務所に入ることが出来た。

 つまり、丸山夏鈴さん側の策略はともかく、芸能事務所側は、明らかに「ああ、これは“がんと闘っているアイドル”というパッケージで売れるな」と確信したからこそ、彼女を採用したのではないか、と推察されるわけです。

 だって、・・・これは故人に対して鞭打つような言い方ではばかられるのですが、丸山夏鈴さん本人は、お世辞にも「かわいい」とは言えません。
 いえ、はっきり言いましょう。
 彼女は、ブスです。

 ゆえに、もし、彼女に「がんと闘っているアイドル」というパッケージの付加価値がなければ、彼女はアイドルとして相手にされてなかったとも言えるのです。
 
 もちろん、これは僕故人の憶測です。
 真実は、誰も知りえません。

 しかし、丸山夏鈴さん側の策略としても「ガンなのに頑張ってアイドルを目指している」ことを多少は「売り」にしていただろうし、また、事務所側もそこが「売り」になるだろう、と思って契約したはずなのです、という推論は、当らずとも遠からずと言えると思うのであります。

 だから、所属事務所の社長が集めていた募金を持ち逃げしたところで、どうせ聞いたこともない弱小事務所でしょうから、推して知るべし、でしょうし、何より、そんな弱小事務所でもいいと彼女が選んだわけですから、誰も恨むことは出来ません。


 ところで、この丸山夏鈴さんと似たようなケースが、以前にもありました。

 それは元人気AV女優の麻美ゆまさんです。

 彼女は、2012年の6月に境界悪性腫瘍を患い、その後、子宮と卵巣の全摘出をし、さらに直腸への転移も認められ、抗がん剤の治療を受けていることが、一時期、ニュースになりました。

 そのとき、ファンのリアクションはどうだったでしょうか?

 今まで、彼女を「性的対象」=「物」として見ていたファンたちは、「ああ、この人は人間なんだ」と気付き、彼女に対して「人間として」同情しはじめました。

 お気づきの通り、始めの文章からすっかりテーマが変っていますが、僕はこの「男性の女性への差別意識」というテーマに対しても、かなりの興味を持っています。

 ここで、中村うさぎさんの『私という病』(新潮文庫)という著書から、このテーマに関連する名言を紹介してみたいと思います。


『つい最近、私に向かって、「僕は女の人をリスペクトしています。女性という存在に対して、超越者のような荘厳なイメージを持っています」と熱く語った人がいて、私に水のような絶望感をもたらした。「差別ではない、リスペクトじゃないか」と反論する人もいるだろうが、私に言わせれば、これもまた、女を人間として見られない男たちがよく使う「欺瞞」なのだ。己の中の差別意識を正当化しようとして、逆に女を「神格化」するワケよ。人間性を認めない、という点では、露骨な男尊女卑論とまったく変わらん。下のものを上に持って来ただけじゃん。女は、「人間」なのである。あなたの母も妻も娘も、すべての女は「神」でもなければ「獣」でもない、あなたと同じ生身の「人間」なのだ。』

 
 どうでしょうか?
 この文章を読んだあと、前述の、アイドル丸山夏鈴さんの人生や、元AV女優麻美ゆまさんのことを思い返すと、考えさせられるアイドルファンやAVファンは多くおられるのではないでしょうか。


 さて、最後に、前述の元AV女優の麻美ゆまさんの自叙伝を紹介して、今日のブログを終わりたいと思います。


 Re Start ~明日へ~ (初回限定盤B)


 ・・・ほんと、男っていう生き物は、哀れですね。
 
 そして、一生、男と女は理解しあえない宿命なのでしょうね。

2015年05月23日

じゃんけん必勝法

 どうも。

 今日も、皆さん(読者)のご機嫌を伺いにやってまいりました。 

 一肌恋しいこの季節(どこがやねん)、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

 実は、わたくし、このたび、「新しいじゃんけん」なるものを発明致しまして。

 それをこれから、説明していきたいと思います。


 まず大前提として、じゃんけんには、「グー」「チョキ」「パー」があり、「グー」は「パー」に負け、「パー」は「チョキ」に勝ち、「チョキ」は「グー」に勝ちます。

 ここまでは、よろしいですよね。

 で、僕がした「発明」は、2つあるんです。



 1つ目の「発明」は、「設定の変更」です。
 僕は、こう変更しました。 
 
 れいの「グー」「チョキ」「パー」、これらすべてに勝てる技「スナイパー」を設定しました。
 これに接した読者は、「え? それって、最強じゃん! 誰だって、それ出すよ!」と反論してくるだろう。
 勿論、わたくしも、わかっている。
 そこで、次の変更を考えた。
 「スナイパー」に勝てる技を設定したのだ。
 それを仮に、「フレミング」と名づけよう。
 
 この「フレミング」は、最強の「スナイパー」に勝てる
 が、しかし、「グー」「チョキ」「パー」には絶対に負けるのだ。

 まさに新・三すくみ。
 
 こうすれば、じゃんけんの面白みはさらに増すだろう。


 さて、2つ目の「発明」は、「勝者が“ルール”を決める権威を持つ」というものだ。

 どういうことか、と言うと、先の例の通りの「新・三すくみじゃんけん」の元で、勝った者がいたとしよう。
 すると、その勝者は、次のじゃんけんの「ルール」を決める権利を得るのだ。

 例えば、次のようなものである。

次回のじゃんけんから、『グー』『チョキ』『パー』禁止な!

 という具合に。

 しかし、この「新じゃんけん」にも、限界がある。

 なぜならば、次に勝った勝者が、「次の勝者にはルール変更をさせない! 元のルールに戻す!」と決めたら、元の木阿弥、それで終わりだからである。

 けれども、このアイデアは、なかなか面白くないか。

 僕は、このアイデアを利用し、楽しいじゃんけんをしてくれる人が一人でも増えることを切に望む者である。

 人間、まさに、K・U・F・U(from Rhymester)、アイデア勝負である。

 ちなみに、この「発明」は、バカルディー(現さまぁ〜ず)のコント『布袋』から暗示を与えられた。

 なので、今夜は、さまぁ〜ずのコントライブの中でも抜きん出て傑作だと思われるDVD『さまぁ〜ずライブ5』を紹介して、筆を置きたいと思う。


 さまぁ~ずライブ 5 [DVD]



 
 僕は、このDVDの中でもとりわけ『駅』というコントが大好きだ。
 それでは(僕の記事を読み続けたい方は、ぜひAmazonで買ってね)。

2015年05月22日

「萩原流行さん妻」ドタバタ会見について

この経緯は、多くの人がYahooニュースや報道番組で知っているだろうから、割愛させていただく。

僕が問題視しているのは、夫(それも有名な俳優)が死んだあとの妻の態度についてなのである。

僕は、基本的には、残された妻は、悲しみを隠し、凛として、なにか、死後の夫の評価を上げるようなことをするべきだ、と考えている。

今回の場合では、萩原流行の「お別れ会」でも開き、盟友たちを呼びつけ、生前の萩原さんの心温まるエピソードを語り合ったりするのが正道である。

それで、萩原さんの「死後の評価(印象)」は、ずっと良いものになったはずなのである。

それなのに、彼女は、やれ警察にイチャモンをつけて、裁判沙汰に持っていこうとすらしている。

これでは、萩原流行さんという俳優の「死後の印象」が少なくとも良くは映らないだろうに。

過去の前例を見よ。

かのジョン・レノンの妻オノ・ヨーコさんは、ジョンが殺された直後にも関わらず、凛とした姿勢で冷静に事件を対処し、夫であるジョン・レノンの「意志」(人類愛)を受け継ぎ、その後も積極的に慈善活動をすることによって、結果、夫のジョン・レノンの「死後の評価」を見事に上げたではないか。

これこそが、残された妻の取るべき行動としての「模範解答」であろう。

勿論、萩原流行さんとジョン・レノンとでは、「スター性」が違うから比較にはならないだろうが、これほど残された妻の言動によって、死んだ夫の「死後の評価」に差異が生まれるのだ。

まゆ美さん。

あなたは、有名俳優の妻が取る言動として、間違っている。

もう一度、重ねて言う。

有名人の夫が死んだ場合、妻は、死んだ夫の「死後の評価」が上がるように行動するべきだ。

オノ・ヨーコは、ジョンが殺害された翌日、こんな声明を発表したそうだ。


『ジョンの葬儀は行われません。ジョンは人類を愛し、人類のために祈りました。彼のために同じことをしてください。愛をこめてヨーコ』


これぞ、有名人の「妻の鏡」であろう。

というわけで、今日は、ジョン・レノンのベスト・アルバムを紹介したいと思う。



レノン・レジェンド ― ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ジョン・レノン



もう、皆買っていると思うが、世界で一「最高のアルバム」の一つなので、ぜひ手元に置いてみて欲しい。

2015年05月21日

降谷建志ソロプロジェクトについて

 さる5月20日に、第一弾シングル『Stairway』が販売されたそうだ。

 僕も、YoutubeでPVと共に拝聴させてもらった。




 曲の感想は置いておくとして、僕は、そもそもこの降谷建志ソロプロジェクト自体に、「欠陥」があると思った。

 まず、降谷建志ソロプロジェクトと銘打ったのなら、「海外進出」を目標にするべきだと思うのだ。

 なぜなら、降谷建志ことKjは、アルバムの『LILY OF DA VALLEY』のとき、ロックインJAPANのインタビューで、

海外進出は考えている。けど、それは日本を制してからでいい。

 的なことを放言していた。

 Dragon Ashは、今や「日本を制した」ロックバンドだ。
 このタイミングで、ソロ活動をするならば、海外への兆戦が妥当であろう。

 実際、ソロプロジェクト第一弾として発表した曲『Swallow Dive』は、「全編英詩」であった。
 この要素だけで、明らかに「海外進出」向けの曲と取れる。
 なにせ、日本人には、歌詞の内容は理解できないのだから。
 その、「海外進出」向けの曲を日本人向けの曲として発表していること自体に、この降谷建志ソロプロジェクト自体のベクトル(方向性)が揺らいでいる気がするのである。
 このソロプロジェクトのベクトル(方向性)を日本国内に絞っているのなら、『Swallow Dive』は明らかに失敗曲である。


 もう一つ、そもそも降谷建志ソロプロジェクトの「欠陥」をあげるとすれば、やはり、「プロジェクト感のなさ」だろう。
 降谷建志ソロプロジェクトと銘打っているのだから、当然、曲とPVを配信するだけでなく、何か、プロジェクトにふさわしい「イベント」があるんでしょうね? と思うじゃないですか。

 でも、何もない。

 曲とPVを配信しているだけなのだ。

 これでは、注目度も、Youtubeでの再生数が上がらないのも、仕方のないことだと思うのだ。

 僕は、こう考える。

 くどいようだが、今回は、降谷建志個人のソロプロジェクトである、という点が重要なのだ。

 ゆえに、降谷建志個人を前面に押し出さなくてどうする、ということにならないか。

 例としては、「プロジェクト」と冠しているぐらいなのだから、それこそ、ニコニコ動画でも使って、「生配信」でもして、ファンとの交流・対話をするべきだろう。

 そして、その交流・対話の中で、発表した曲に関する「物語」を追加し、完結させていけば、一曲一曲としての「プロジェクト感」が出るではないか。

 このままだと、いくら曲が良くても、「プロジェクト感」ではなく、「趣味感」ばかりがフィーチャーされてしまうだろう。

 「プロジェクト」ほどの大掛かりな冒険でもなく、個人名義で曲を発表しているだけの「趣味」じゃん

 ファンに、そう思われても、仕方がないではないか。

 けれども、降谷建志の音楽は、僕の青春である。

 曲は、とてもいいのだ。

 だから、これからも頑張ってほしい。

 降谷くんのために、第一弾シングル『Stairway』を買ってやってください。

   Stairway (完全生産限定盤)
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