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2014年10月15日
千葉胤明 ちばたねあき 書 明治天皇御歌
千葉胤明
歌人。御歌所寄人。佐賀県生。父は桂園派歌人の千葉元祐。高崎正風に歌を学ぶ。明治25年御歌所に入り、同40年寄人となる。『明治天皇御集』編纂委員。芸術院会員。昭和28年(1953)歿、89才。
絹本 肉筆 背景色絵付け
白文の「御歌所寄人」、朱文の「臣平胤明」の落款印
歌人。御歌所寄人。佐賀県生。父は桂園派歌人の千葉元祐。高崎正風に歌を学ぶ。明治25年御歌所に入り、同40年寄人となる。『明治天皇御集』編纂委員。芸術院会員。昭和28年(1953)歿、89才。
絹本 肉筆 背景色絵付け
白文の「御歌所寄人」、朱文の「臣平胤明」の落款印
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円山応挙 蝙蝠図 コウモリ 花と蝙蝠図
円山応挙
類似参考作品 「弧月蝙蝠図」
まるやま おうきょ
1733-1795 | 日本 | 絵師・写生画・円山派
18世紀中頃に京都で活躍した代表的な絵師であり、近代京都画壇の原点ともなった円山派の始祖。裸形着衣法、そして付立て、片ぼかしなど没骨法の技法を駆使し、対象の形態的特長を的確に捉え精細に表現する写生画様式を確立。保守的で形式主義的な狩野派の低迷も手伝い、当代随一の人気絵師として絵画界に君臨した。また古典、中国画、狩野派など伝統的な様式は元より、光琳を始めとした琳派など当時流行していた作風を研究・積極的に自身の様式へと昇華させた点も応挙を人気絵師へと押し上げた要因となった。1733年(享保18年)丹波国桑田群穴太村の農家の次男として生を受け、幼い頃に小僧として金剛地に預けられるものの絵に強い興味を示す。1747〜1749年頃に上洛、呉服商や玩具商に丁稚奉公する。1749年頃から狩野派の絵師石田幽汀に入門、同氏の許で狩野派様式や花鳥画などを学ぶほか、当時流行していた眼鏡絵の制作にも携わる。1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立、翌1766年から≪応挙≫と雅号を改めた。また同時期、応挙の重要な支援者となる円満院門主祐常と出会ったことで速写(スケッチ)に開眼、絵師としての素養や技術をさらに昇華させてゆく。その後、裕福な呉服商であった三井家などの庇護を受けながら次々と作品を手がけ、京画壇の中でも傑出した人気を博すようになった。1787年(天明7年)に妙法院真仁法親王の寵遇を受けるなど絵師として多大な成功を収めるものの、晩年期の1793年(寛政5年)には眼病を患い歩行が不自由になり、1795年(寛政7年)に死去。なお高名であった応挙には弟子も多く、門人には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源g、渡辺南岳などがいる。
紙本 肉筆 やや色絵
類似参考作品 「弧月蝙蝠図」
まるやま おうきょ
1733-1795 | 日本 | 絵師・写生画・円山派
18世紀中頃に京都で活躍した代表的な絵師であり、近代京都画壇の原点ともなった円山派の始祖。裸形着衣法、そして付立て、片ぼかしなど没骨法の技法を駆使し、対象の形態的特長を的確に捉え精細に表現する写生画様式を確立。保守的で形式主義的な狩野派の低迷も手伝い、当代随一の人気絵師として絵画界に君臨した。また古典、中国画、狩野派など伝統的な様式は元より、光琳を始めとした琳派など当時流行していた作風を研究・積極的に自身の様式へと昇華させた点も応挙を人気絵師へと押し上げた要因となった。1733年(享保18年)丹波国桑田群穴太村の農家の次男として生を受け、幼い頃に小僧として金剛地に預けられるものの絵に強い興味を示す。1747〜1749年頃に上洛、呉服商や玩具商に丁稚奉公する。1749年頃から狩野派の絵師石田幽汀に入門、同氏の許で狩野派様式や花鳥画などを学ぶほか、当時流行していた眼鏡絵の制作にも携わる。1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立、翌1766年から≪応挙≫と雅号を改めた。また同時期、応挙の重要な支援者となる円満院門主祐常と出会ったことで速写(スケッチ)に開眼、絵師としての素養や技術をさらに昇華させてゆく。その後、裕福な呉服商であった三井家などの庇護を受けながら次々と作品を手がけ、京画壇の中でも傑出した人気を博すようになった。1787年(天明7年)に妙法院真仁法親王の寵遇を受けるなど絵師として多大な成功を収めるものの、晩年期の1793年(寛政5年)には眼病を患い歩行が不自由になり、1795年(寛政7年)に死去。なお高名であった応挙には弟子も多く、門人には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源g、渡辺南岳などがいる。
紙本 肉筆 やや色絵
春山(伊達宗紀 だて むねただ) 天赦園主人 伊達宇和島藩
宇和島伊達400年祭開催中
伊達宗紀
だて むねただ Munetada Date(だて しゅんざん Shunzan Date)
書家, 武士
1792 ( 寛政4 )〜 1789 ( 明治22 )
本名:宗紀
字:主馬
号:春山
【出身地・師系】
伊予国出身
【所属・任】
宇和島藩7代藩主、従四位下、遠江守、左近衛権少将
【略歴など】
6代宇和島藩主の伊達村寿の長男として生まれ、1824年に父の隠居により7代藩主となり、当時藩が財政難であった事もあり経費節減、領内特産品の保護、検地などを実施、更に藩士を農政学者であった佐藤信淵に入門させるなど農業開発に力を要れ技術の改良・促進を飛躍的に伸ばした。そのほか春山と号して書を能くした。
〔印 名〕
「宗紀」「心?章信」など
〔市場評価〕★
「天赦園主人」の下に、陽刻「春山」の落款が押されている。
伊達春山は伊予の人で、名は宗紀、字は伯綱、号を春山と
称し、宇和島藩伊達家第七代藩主で、20年に及ぶ藩主治
世の中で財政改革を断行し、藩財政の再建を行った名君で、
百才の長寿を保って書画・詩文にも優れ、文人大名としても
知られている。
紙本 肉筆 水墨画
スーパードライホールのオブジェは、フランスのインダストリアルデザイナー、フィリップ・スタルクによる設計であるが・・・
その「炎のオブジェ」とかぶるデザインの先見あるセンスがうかがえる。
伊達宗紀
だて むねただ Munetada Date(だて しゅんざん Shunzan Date)
書家, 武士
1792 ( 寛政4 )〜 1789 ( 明治22 )
本名:宗紀
字:主馬
号:春山
【出身地・師系】
伊予国出身
【所属・任】
宇和島藩7代藩主、従四位下、遠江守、左近衛権少将
【略歴など】
6代宇和島藩主の伊達村寿の長男として生まれ、1824年に父の隠居により7代藩主となり、当時藩が財政難であった事もあり経費節減、領内特産品の保護、検地などを実施、更に藩士を農政学者であった佐藤信淵に入門させるなど農業開発に力を要れ技術の改良・促進を飛躍的に伸ばした。そのほか春山と号して書を能くした。
〔印 名〕
「宗紀」「心?章信」など
〔市場評価〕★
「天赦園主人」の下に、陽刻「春山」の落款が押されている。
伊達春山は伊予の人で、名は宗紀、字は伯綱、号を春山と
称し、宇和島藩伊達家第七代藩主で、20年に及ぶ藩主治
世の中で財政改革を断行し、藩財政の再建を行った名君で、
百才の長寿を保って書画・詩文にも優れ、文人大名としても
知られている。
紙本 肉筆 水墨画
スーパードライホールのオブジェは、フランスのインダストリアルデザイナー、フィリップ・スタルクによる設計であるが・・・
その「炎のオブジェ」とかぶるデザインの先見あるセンスがうかがえる。
2014年10月14日
羽林中郎将基任か? 和歌
2014年10月09日
狩野探信 守政探信 ぶどう
紙本 肉筆 水墨画
狩野探信(狩野守政)
Tanshin Kano
日本画
1653 ( 承応2 )〜 1718 ( 享保3 )
本名:仙千代のち守政
通称:図書
号:探信、忠淵
【出身地・師系】
江戸/狩野探幽
【所属・任】
鍛冶屋町狩野派2代目
【略歴・作風など】
鍛冶屋町狩野派創始の狩野探幽の長男として生まれ、幼少の頃より父に画を学び、5歳の頃には徳川4代将軍徳川家綱の御前にてその筆を披露。
その後、父の後を継いで鍛冶屋町狩野派2代目を襲名し幕府の奥絵師として出仕、晩年の1715年に法眼に叙された。
※後の同家7代目に狩野探信(守道)がおり、区別する為に一般には守政探信、或いは守道探信とそれぞれ称される。
〔主な作品所蔵館〕静岡県立美術館など
〔印 名〕
「守政」「忠淵」「藤原」「探信之印」など
〔市場評価〕★〔美年鑑評価〕150万
関連: 狩野探信(狩野守道) (重)狩野探幽
狩野探信(狩野守政)
Tanshin Kano
日本画
1653 ( 承応2 )〜 1718 ( 享保3 )
本名:仙千代のち守政
通称:図書
号:探信、忠淵
【出身地・師系】
江戸/狩野探幽
【所属・任】
鍛冶屋町狩野派2代目
【略歴・作風など】
鍛冶屋町狩野派創始の狩野探幽の長男として生まれ、幼少の頃より父に画を学び、5歳の頃には徳川4代将軍徳川家綱の御前にてその筆を披露。
その後、父の後を継いで鍛冶屋町狩野派2代目を襲名し幕府の奥絵師として出仕、晩年の1715年に法眼に叙された。
※後の同家7代目に狩野探信(守道)がおり、区別する為に一般には守政探信、或いは守道探信とそれぞれ称される。
〔主な作品所蔵館〕静岡県立美術館など
〔印 名〕
「守政」「忠淵」「藤原」「探信之印」など
〔市場評価〕★〔美年鑑評価〕150万
関連: 狩野探信(狩野守道) (重)狩野探幽
2014年10月06日
池 大雅 Taiga Ikeno(Taiga Ike)
紙本 肉筆 水墨画
(国)池 大雅
Taiga Ikeno(Taiga Ike)
日本画, 書家, 文人
1723 ( 享保8 )〜 1776 ( 安永5 )
本名:池野、(幼名)又次郎
通称:秋平
字:(諱)無名(ありな)
号:子井、霞樵、大雅(大雅堂)、待賈堂、九樵、九霞山樵、三岳道者、他
【詳細略歴】
幼少期より画を卓越していたが15歳のころより大和郡山藩の絵師:柳沢里恭に師事、また独自に中国南宋派の画技や、俵屋宗達の大和絵の画風を取り入れながら画風を樹立し各地の寺院仏閣の襖絵などを制作、近代日本南画の大家として知られる。
高 芙蓉とも深く信仰があり、自ら印章を刻した。その風雅ある書体は独自のもので、ライバルの蕪村と良く見せ合ったと言われている。
代表作に山水羅漢図(黄檗山万福寺襖絵)、十便十宣帖(与謝蕪村合作:国宝指定)、等
*尚、大雅堂清亮は別人のため混同しないよう注意を必要とする。
〔主な作品所蔵館〕
池大雅美術館/東京国立博物館/京都国立博物館/北海道立函館美術館/群馬県立近代美術館/石川県立美術館/山梨県立美術館/静岡県立美術館/三重県立美術館/千葉市美術館/飯田市美術博物館/福岡市美術館/大和文華館/富士美術館など
〔印 名〕
「大雅」 「大雅堂」 「大雅主人」 「池無名印」 「無名」 「九霞道人」 「九霞山人」 「霞樵」 「半疑半?」 「貸生」 「貸成氏」 「王皇香案史」 「池勤之印」 「己行千里道未読萬巻書」 「東山無名」 「三岳道者」 「公敏」 「野池」 「无名」 「无名之印」 「吸日月之休光」 「深湾池氏」 「前身相馬方九皐」 「臣乗居」 「遵生」 「五日弌山十国?水」 「茂梥清泉」(「茂松清泉」) 「狩野子井」など
(検証:池大雅印譜集、日本畫大成、他)
〔市場評価〕★★★★★〔美年鑑評価〕5000万
(国)池 大雅
Taiga Ikeno(Taiga Ike)
日本画, 書家, 文人
1723 ( 享保8 )〜 1776 ( 安永5 )
本名:池野、(幼名)又次郎
通称:秋平
字:(諱)無名(ありな)
号:子井、霞樵、大雅(大雅堂)、待賈堂、九樵、九霞山樵、三岳道者、他
【詳細略歴】
幼少期より画を卓越していたが15歳のころより大和郡山藩の絵師:柳沢里恭に師事、また独自に中国南宋派の画技や、俵屋宗達の大和絵の画風を取り入れながら画風を樹立し各地の寺院仏閣の襖絵などを制作、近代日本南画の大家として知られる。
高 芙蓉とも深く信仰があり、自ら印章を刻した。その風雅ある書体は独自のもので、ライバルの蕪村と良く見せ合ったと言われている。
代表作に山水羅漢図(黄檗山万福寺襖絵)、十便十宣帖(与謝蕪村合作:国宝指定)、等
*尚、大雅堂清亮は別人のため混同しないよう注意を必要とする。
〔主な作品所蔵館〕
池大雅美術館/東京国立博物館/京都国立博物館/北海道立函館美術館/群馬県立近代美術館/石川県立美術館/山梨県立美術館/静岡県立美術館/三重県立美術館/千葉市美術館/飯田市美術博物館/福岡市美術館/大和文華館/富士美術館など
〔印 名〕
「大雅」 「大雅堂」 「大雅主人」 「池無名印」 「無名」 「九霞道人」 「九霞山人」 「霞樵」 「半疑半?」 「貸生」 「貸成氏」 「王皇香案史」 「池勤之印」 「己行千里道未読萬巻書」 「東山無名」 「三岳道者」 「公敏」 「野池」 「无名」 「无名之印」 「吸日月之休光」 「深湾池氏」 「前身相馬方九皐」 「臣乗居」 「遵生」 「五日弌山十国?水」 「茂梥清泉」(「茂松清泉」) 「狩野子井」など
(検証:池大雅印譜集、日本畫大成、他)
〔市場評価〕★★★★★〔美年鑑評価〕5000万