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2014年10月17日
頼 山陽(らい さんよう)
売切れ御免
紙本 肉墨筆
(重)頼 山陽
Sanyo Rai
日本画, 国学家, 儒者, 書画家
1780 ( 安永9 )〜 1832 ( 天保3 )
本名:襄 (のぼる)
通称:山紫水明
字:子成
号:山陽、三十六峯外史(三十六峰外史)、山陽外史
大坂出身 師、頼春水、菅茶山
大坂の江戸堀にて私塾を開いていた頼春水の子として生まれ1871年1歳の頃に父が広島の藩儒に登用された為に広島竹原に移住。
1797年に江戸に遊学して尾藤二洲に師事して儒学・詩文を学んだが青年期は素行が悪く1800年に広島藩を脱藩、京都などを巡遊したがすぐに藩に連れ戻されて幽閉となりその間、著述に没頭。
出獄後は福山藩の儒官菅茶山の廉塾の門下となりその後塾長も務め、1811年には再び京都にて自由な学問を求めて私塾を開校。
詩文、書、絵画に優れ著書においても多数残しているが代表的なものに「日本外史」「日本政記」「日本楽府」、詩文集に「山陽詩鈔」「山陽遺稿」などがある。
また、文人・画家・詩人と数多く交友を持ち著名な人物では画家の田能村竹田、浦上玉堂、江馬細香、儒者の梁川星巌、大塩平八郎らがいる。
印章は、自ら刻した。書斎は常に行届いており、骨董と書物を愛したと言われている。
〔印 名〕
「頼子成」「頼襄」「迂襄」「臣襄」「山紫水明」「身留一剣答君恩」「古之人古之人」「頼襄之印」「匪莪」「有不為心」「水竹人」「不薄今人」「山水艸堂」(「山水草堂」)「遊戯」「論事学誼約事学仙」「醉襄」(「酔襄」)「水竹主人」「我思古人實穫我心」「洗眼看軽薄」「一箇?人天地?」「山陽外史」「友竹」「彫蟲」(「彫虫」)「行雲流水」「弎十六峯外史」(「三十六峰外史」)「寧静到遠」「頼氏子成」「在禑耕」「存戯」「園無欲情」など
〔市場評価〕★★★
紙本 肉墨筆
(重)頼 山陽
Sanyo Rai
日本画, 国学家, 儒者, 書画家
1780 ( 安永9 )〜 1832 ( 天保3 )
本名:襄 (のぼる)
通称:山紫水明
字:子成
号:山陽、三十六峯外史(三十六峰外史)、山陽外史
大坂出身 師、頼春水、菅茶山
大坂の江戸堀にて私塾を開いていた頼春水の子として生まれ1871年1歳の頃に父が広島の藩儒に登用された為に広島竹原に移住。
1797年に江戸に遊学して尾藤二洲に師事して儒学・詩文を学んだが青年期は素行が悪く1800年に広島藩を脱藩、京都などを巡遊したがすぐに藩に連れ戻されて幽閉となりその間、著述に没頭。
出獄後は福山藩の儒官菅茶山の廉塾の門下となりその後塾長も務め、1811年には再び京都にて自由な学問を求めて私塾を開校。
詩文、書、絵画に優れ著書においても多数残しているが代表的なものに「日本外史」「日本政記」「日本楽府」、詩文集に「山陽詩鈔」「山陽遺稿」などがある。
また、文人・画家・詩人と数多く交友を持ち著名な人物では画家の田能村竹田、浦上玉堂、江馬細香、儒者の梁川星巌、大塩平八郎らがいる。
印章は、自ら刻した。書斎は常に行届いており、骨董と書物を愛したと言われている。
〔印 名〕
「頼子成」「頼襄」「迂襄」「臣襄」「山紫水明」「身留一剣答君恩」「古之人古之人」「頼襄之印」「匪莪」「有不為心」「水竹人」「不薄今人」「山水艸堂」(「山水草堂」)「遊戯」「論事学誼約事学仙」「醉襄」(「酔襄」)「水竹主人」「我思古人實穫我心」「洗眼看軽薄」「一箇?人天地?」「山陽外史」「友竹」「彫蟲」(「彫虫」)「行雲流水」「弎十六峯外史」(「三十六峰外史」)「寧静到遠」「頼氏子成」「在禑耕」「存戯」「園無欲情」など
〔市場評価〕★★★
2014年10月16日
千楯(城戸千楯) 和歌 「宴居弾翠 先誦歌」
売切れ御免
紙本 墨肉筆
宴居弾翠 先誦歌
城戸千楯(きど ちたて)
(大江千楯)
江戸後期の歌人。名は範次。京都の書林紙魚蛭子屋市右衛門・本居宣長の門。弘化2年(1845)歿、68才。
安永7年(1778)〜弘化2年(1845)9月21日。68歳。京都錦小路室町西入にあった本屋蛭子屋市右衛門の子に生まれる。名は初め経正、後に千楯。晩年範次。通称万次郎、のち市右衛門。号は紙魚室、鐸舎、曙廼舎。
寛政9年(1797)宣長に入門。同12年家業を継ぐ。その後、鐸屋(ヌデノヤ)を開き国学教授をする。文政6年(1823)以文会に入る。平田篤胤を排斥する急先鋒であったという。定誉戒空恵範禅定門(墓石は定誉恵範信士)。墓は京都黒谷金戒光明寺。著書は『万那備能広道』、『和歌ふるの山ふみ』、『紙魚室屋筆記』など。
紙本 墨肉筆
宴居弾翠 先誦歌
城戸千楯(きど ちたて)
(大江千楯)
江戸後期の歌人。名は範次。京都の書林紙魚蛭子屋市右衛門・本居宣長の門。弘化2年(1845)歿、68才。
安永7年(1778)〜弘化2年(1845)9月21日。68歳。京都錦小路室町西入にあった本屋蛭子屋市右衛門の子に生まれる。名は初め経正、後に千楯。晩年範次。通称万次郎、のち市右衛門。号は紙魚室、鐸舎、曙廼舎。
寛政9年(1797)宣長に入門。同12年家業を継ぐ。その後、鐸屋(ヌデノヤ)を開き国学教授をする。文政6年(1823)以文会に入る。平田篤胤を排斥する急先鋒であったという。定誉戒空恵範禅定門(墓石は定誉恵範信士)。墓は京都黒谷金戒光明寺。著書は『万那備能広道』、『和歌ふるの山ふみ』、『紙魚室屋筆記』など。
2014年10月15日
千葉胤明 ちばたねあき 書 明治天皇御歌
千葉胤明
歌人。御歌所寄人。佐賀県生。父は桂園派歌人の千葉元祐。高崎正風に歌を学ぶ。明治25年御歌所に入り、同40年寄人となる。『明治天皇御集』編纂委員。芸術院会員。昭和28年(1953)歿、89才。
絹本 肉筆 背景色絵付け
白文の「御歌所寄人」、朱文の「臣平胤明」の落款印
歌人。御歌所寄人。佐賀県生。父は桂園派歌人の千葉元祐。高崎正風に歌を学ぶ。明治25年御歌所に入り、同40年寄人となる。『明治天皇御集』編纂委員。芸術院会員。昭和28年(1953)歿、89才。
絹本 肉筆 背景色絵付け
白文の「御歌所寄人」、朱文の「臣平胤明」の落款印
円山応挙 蝙蝠図 コウモリ 花と蝙蝠図
円山応挙
類似参考作品 「弧月蝙蝠図」
まるやま おうきょ
1733-1795 | 日本 | 絵師・写生画・円山派
18世紀中頃に京都で活躍した代表的な絵師であり、近代京都画壇の原点ともなった円山派の始祖。裸形着衣法、そして付立て、片ぼかしなど没骨法の技法を駆使し、対象の形態的特長を的確に捉え精細に表現する写生画様式を確立。保守的で形式主義的な狩野派の低迷も手伝い、当代随一の人気絵師として絵画界に君臨した。また古典、中国画、狩野派など伝統的な様式は元より、光琳を始めとした琳派など当時流行していた作風を研究・積極的に自身の様式へと昇華させた点も応挙を人気絵師へと押し上げた要因となった。1733年(享保18年)丹波国桑田群穴太村の農家の次男として生を受け、幼い頃に小僧として金剛地に預けられるものの絵に強い興味を示す。1747〜1749年頃に上洛、呉服商や玩具商に丁稚奉公する。1749年頃から狩野派の絵師石田幽汀に入門、同氏の許で狩野派様式や花鳥画などを学ぶほか、当時流行していた眼鏡絵の制作にも携わる。1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立、翌1766年から≪応挙≫と雅号を改めた。また同時期、応挙の重要な支援者となる円満院門主祐常と出会ったことで速写(スケッチ)に開眼、絵師としての素養や技術をさらに昇華させてゆく。その後、裕福な呉服商であった三井家などの庇護を受けながら次々と作品を手がけ、京画壇の中でも傑出した人気を博すようになった。1787年(天明7年)に妙法院真仁法親王の寵遇を受けるなど絵師として多大な成功を収めるものの、晩年期の1793年(寛政5年)には眼病を患い歩行が不自由になり、1795年(寛政7年)に死去。なお高名であった応挙には弟子も多く、門人には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源g、渡辺南岳などがいる。
紙本 肉筆 やや色絵
類似参考作品 「弧月蝙蝠図」
まるやま おうきょ
1733-1795 | 日本 | 絵師・写生画・円山派
18世紀中頃に京都で活躍した代表的な絵師であり、近代京都画壇の原点ともなった円山派の始祖。裸形着衣法、そして付立て、片ぼかしなど没骨法の技法を駆使し、対象の形態的特長を的確に捉え精細に表現する写生画様式を確立。保守的で形式主義的な狩野派の低迷も手伝い、当代随一の人気絵師として絵画界に君臨した。また古典、中国画、狩野派など伝統的な様式は元より、光琳を始めとした琳派など当時流行していた作風を研究・積極的に自身の様式へと昇華させた点も応挙を人気絵師へと押し上げた要因となった。1733年(享保18年)丹波国桑田群穴太村の農家の次男として生を受け、幼い頃に小僧として金剛地に預けられるものの絵に強い興味を示す。1747〜1749年頃に上洛、呉服商や玩具商に丁稚奉公する。1749年頃から狩野派の絵師石田幽汀に入門、同氏の許で狩野派様式や花鳥画などを学ぶほか、当時流行していた眼鏡絵の制作にも携わる。1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立、翌1766年から≪応挙≫と雅号を改めた。また同時期、応挙の重要な支援者となる円満院門主祐常と出会ったことで速写(スケッチ)に開眼、絵師としての素養や技術をさらに昇華させてゆく。その後、裕福な呉服商であった三井家などの庇護を受けながら次々と作品を手がけ、京画壇の中でも傑出した人気を博すようになった。1787年(天明7年)に妙法院真仁法親王の寵遇を受けるなど絵師として多大な成功を収めるものの、晩年期の1793年(寛政5年)には眼病を患い歩行が不自由になり、1795年(寛政7年)に死去。なお高名であった応挙には弟子も多く、門人には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源g、渡辺南岳などがいる。
紙本 肉筆 やや色絵
春山(伊達宗紀 だて むねただ) 天赦園主人 伊達宇和島藩
宇和島伊達400年祭開催中
伊達宗紀
だて むねただ Munetada Date(だて しゅんざん Shunzan Date)
書家, 武士
1792 ( 寛政4 )〜 1789 ( 明治22 )
本名:宗紀
字:主馬
号:春山
【出身地・師系】
伊予国出身
【所属・任】
宇和島藩7代藩主、従四位下、遠江守、左近衛権少将
【略歴など】
6代宇和島藩主の伊達村寿の長男として生まれ、1824年に父の隠居により7代藩主となり、当時藩が財政難であった事もあり経費節減、領内特産品の保護、検地などを実施、更に藩士を農政学者であった佐藤信淵に入門させるなど農業開発に力を要れ技術の改良・促進を飛躍的に伸ばした。そのほか春山と号して書を能くした。
〔印 名〕
「宗紀」「心?章信」など
〔市場評価〕★
「天赦園主人」の下に、陽刻「春山」の落款が押されている。
伊達春山は伊予の人で、名は宗紀、字は伯綱、号を春山と
称し、宇和島藩伊達家第七代藩主で、20年に及ぶ藩主治
世の中で財政改革を断行し、藩財政の再建を行った名君で、
百才の長寿を保って書画・詩文にも優れ、文人大名としても
知られている。
紙本 肉筆 水墨画
スーパードライホールのオブジェは、フランスのインダストリアルデザイナー、フィリップ・スタルクによる設計であるが・・・
その「炎のオブジェ」とかぶるデザインの先見あるセンスがうかがえる。
伊達宗紀
だて むねただ Munetada Date(だて しゅんざん Shunzan Date)
書家, 武士
1792 ( 寛政4 )〜 1789 ( 明治22 )
本名:宗紀
字:主馬
号:春山
【出身地・師系】
伊予国出身
【所属・任】
宇和島藩7代藩主、従四位下、遠江守、左近衛権少将
【略歴など】
6代宇和島藩主の伊達村寿の長男として生まれ、1824年に父の隠居により7代藩主となり、当時藩が財政難であった事もあり経費節減、領内特産品の保護、検地などを実施、更に藩士を農政学者であった佐藤信淵に入門させるなど農業開発に力を要れ技術の改良・促進を飛躍的に伸ばした。そのほか春山と号して書を能くした。
〔印 名〕
「宗紀」「心?章信」など
〔市場評価〕★
「天赦園主人」の下に、陽刻「春山」の落款が押されている。
伊達春山は伊予の人で、名は宗紀、字は伯綱、号を春山と
称し、宇和島藩伊達家第七代藩主で、20年に及ぶ藩主治
世の中で財政改革を断行し、藩財政の再建を行った名君で、
百才の長寿を保って書画・詩文にも優れ、文人大名としても
知られている。
紙本 肉筆 水墨画
スーパードライホールのオブジェは、フランスのインダストリアルデザイナー、フィリップ・スタルクによる設計であるが・・・
その「炎のオブジェ」とかぶるデザインの先見あるセンスがうかがえる。