2014年10月16日
千楯(城戸千楯) 和歌 「宴居弾翠 先誦歌」
売切れ御免
紙本 墨肉筆
宴居弾翠 先誦歌
城戸千楯(きど ちたて)
(大江千楯)
江戸後期の歌人。名は範次。京都の書林紙魚蛭子屋市右衛門・本居宣長の門。弘化2年(1845)歿、68才。
安永7年(1778)〜弘化2年(1845)9月21日。68歳。京都錦小路室町西入にあった本屋蛭子屋市右衛門の子に生まれる。名は初め経正、後に千楯。晩年範次。通称万次郎、のち市右衛門。号は紙魚室、鐸舎、曙廼舎。
寛政9年(1797)宣長に入門。同12年家業を継ぐ。その後、鐸屋(ヌデノヤ)を開き国学教授をする。文政6年(1823)以文会に入る。平田篤胤を排斥する急先鋒であったという。定誉戒空恵範禅定門(墓石は定誉恵範信士)。墓は京都黒谷金戒光明寺。著書は『万那備能広道』、『和歌ふるの山ふみ』、『紙魚室屋筆記』など。
紙本 墨肉筆
宴居弾翠 先誦歌
城戸千楯(きど ちたて)
(大江千楯)
江戸後期の歌人。名は範次。京都の書林紙魚蛭子屋市右衛門・本居宣長の門。弘化2年(1845)歿、68才。
安永7年(1778)〜弘化2年(1845)9月21日。68歳。京都錦小路室町西入にあった本屋蛭子屋市右衛門の子に生まれる。名は初め経正、後に千楯。晩年範次。通称万次郎、のち市右衛門。号は紙魚室、鐸舎、曙廼舎。
寛政9年(1797)宣長に入門。同12年家業を継ぐ。その後、鐸屋(ヌデノヤ)を開き国学教授をする。文政6年(1823)以文会に入る。平田篤胤を排斥する急先鋒であったという。定誉戒空恵範禅定門(墓石は定誉恵範信士)。墓は京都黒谷金戒光明寺。著書は『万那備能広道』、『和歌ふるの山ふみ』、『紙魚室屋筆記』など。
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