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2014年10月15日

円山応挙 蝙蝠図 コウモリ 花と蝙蝠図

円山応挙

類似参考作品 「弧月蝙蝠図」


まるやま おうきょ
1733-1795 | 日本 | 絵師・写生画・円山派


18世紀中頃に京都で活躍した代表的な絵師であり、近代京都画壇の原点ともなった円山派の始祖。裸形着衣法、そして付立て、片ぼかしなど没骨法の技法を駆使し、対象の形態的特長を的確に捉え精細に表現する写生画様式を確立。保守的で形式主義的な狩野派の低迷も手伝い、当代随一の人気絵師として絵画界に君臨した。また古典、中国画、狩野派など伝統的な様式は元より、光琳を始めとした琳派など当時流行していた作風を研究・積極的に自身の様式へと昇華させた点も応挙を人気絵師へと押し上げた要因となった。1733年(享保18年)丹波国桑田群穴太村の農家の次男として生を受け、幼い頃に小僧として金剛地に預けられるものの絵に強い興味を示す。1747〜1749年頃に上洛、呉服商や玩具商に丁稚奉公する。1749年頃から狩野派の絵師石田幽汀に入門、同氏の許で狩野派様式や花鳥画などを学ぶほか、当時流行していた眼鏡絵の制作にも携わる。1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立、翌1766年から≪応挙≫と雅号を改めた。また同時期、応挙の重要な支援者となる円満院門主祐常と出会ったことで速写(スケッチ)に開眼、絵師としての素養や技術をさらに昇華させてゆく。その後、裕福な呉服商であった三井家などの庇護を受けながら次々と作品を手がけ、京画壇の中でも傑出した人気を博すようになった。1787年(天明7年)に妙法院真仁法親王の寵遇を受けるなど絵師として多大な成功を収めるものの、晩年期の1793年(寛政5年)には眼病を患い歩行が不自由になり、1795年(寛政7年)に死去。なお高名であった応挙には弟子も多く、門人には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源g、渡辺南岳などがいる。

紙本 肉筆 やや色絵

P1110243.JPGP1110242.JPGP1110245.JPGP1110244.JPGP1110238.JPG
posted by 越後守 at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 掛け軸
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