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2014年08月26日
大徳寺515世 藤井誠堂 「円相」
売切れ御免
大徳寺管長 大徳寺515世
藤井誠堂
「 円 相 」
和紙 肉筆
藤井誠堂(誡堂宗省:かいどうそういく)京都大徳寺 三玄院
◆大徳寺515世。昭和59年(1984)寂、86才
臨斎正宗
※表装良く、綺麗な掛け軸で、
なにより、万全の構図にてアンティークな飾りとして超お薦めいたします。
大徳寺管長 大徳寺515世
藤井誠堂
「 円 相 」
和紙 肉筆
藤井誠堂(誡堂宗省:かいどうそういく)京都大徳寺 三玄院
◆大徳寺515世。昭和59年(1984)寂、86才
臨斎正宗
※表装良く、綺麗な掛け軸で、
なにより、万全の構図にてアンティークな飾りとして超お薦めいたします。
寛斎 仙人鹿図
寛斎
仙人と鹿図
絹本着色 共箱はなし
森 寛斎
【出身地・師系】
長州(山口県)萩/森徹山。
【所属・任】
帝室技芸員、京都府画学校教授
【略歴詳細】
森徹山の養子。塩川文隣没後、如雲社を任され、多くの門下生を育てる。又、明治時代に円山派の画風を伝えた。門下に、山元春挙、奥谷秋石、野村文挙、田中頼章。
代表作に「松間瀑布」「赤壁の図」「月前葡萄栗鼠図」「楠木正成像」「京都名所四季図屏風」。
〔主な作品所蔵館〕
京都国立博物館/飯田市美術博物館/滋賀県立近代美術館/山口県立美術館など
〔印 名〕
「森」 「寛斎」 「萩之國」(「萩之国」) 「華木有情」 「田寛印」 「森公粛印」 「公粛」 「橘氏子容」 「子容之印」 「字曰子容」 「桃蹊」 「桃蹊樵夫」 「桃蹊陳人」 「適意」 「字曰子容」 「瞑雲聴泉」 「橋尚畫印」(「橋尚画印」) 「橘公粛印」 「橘子容印」 「坐華醉月」 「條忽造化」 「八十一翁寛斎」 など
〔市場評価〕★★★〔美年鑑評価〕700万
※名鑑WEBによると、この作品の銘並びに落款は森寛斎として当てはまらない。
仙人と鹿図
絹本着色 共箱はなし
森 寛斎
【出身地・師系】
長州(山口県)萩/森徹山。
【所属・任】
帝室技芸員、京都府画学校教授
【略歴詳細】
森徹山の養子。塩川文隣没後、如雲社を任され、多くの門下生を育てる。又、明治時代に円山派の画風を伝えた。門下に、山元春挙、奥谷秋石、野村文挙、田中頼章。
代表作に「松間瀑布」「赤壁の図」「月前葡萄栗鼠図」「楠木正成像」「京都名所四季図屏風」。
〔主な作品所蔵館〕
京都国立博物館/飯田市美術博物館/滋賀県立近代美術館/山口県立美術館など
〔印 名〕
「森」 「寛斎」 「萩之國」(「萩之国」) 「華木有情」 「田寛印」 「森公粛印」 「公粛」 「橘氏子容」 「子容之印」 「字曰子容」 「桃蹊」 「桃蹊樵夫」 「桃蹊陳人」 「適意」 「字曰子容」 「瞑雲聴泉」 「橋尚畫印」(「橋尚画印」) 「橘公粛印」 「橘子容印」 「坐華醉月」 「條忽造化」 「八十一翁寛斎」 など
〔市場評価〕★★★〔美年鑑評価〕700万
※名鑑WEBによると、この作品の銘並びに落款は森寛斎として当てはまらない。
2014年08月25日
谷文晁 山水
谷文晁
二重箱 紙本 肉筆
【出身地・師系】
江戸(東京)/加藤文麗、渡辺玄対、釧雲泉、張秋谷など
【略歴・作風など】
徳川田安家の家臣で漢詩家の谷麗谷の子として生まれ、幼少期より狩野派の画家加藤文麗に画を学び、その後、渡辺玄対に師事。
さらに各地を巡遊、大阪の釧雲泉、長崎の張秋谷に学んで南宋、北宋の中国画を修得、また鈴木芙蓉の作品に私淑するなど古画の模写を基本としながらも蘭画の技法なども取り入れた文晁様式の絵画世界を確立。
その後、父の後を継いで田安家に出仕し図録集「集古十種」の編纂に従事、また古画の模写などを担当。
さらに、画塾「写山櫻」を開いて多くの門下を集め、その中でも渡辺崋山、椿椿山、立原杏所など優れた南画家を輩出、関東随一の文人画家としてその名を轟かせた。
代表作に「公余探勝図(重文指定)」、「木村蒹葭堂像(重文指定)」など
〔主な作品所蔵館〕
北海道立近代美術館/東京国立博物館/京都国立博物館/大和文華館/富士美術館群馬県立近代美術館/静岡県立美術館/飯田市美術博物館/福岡市美術館など
〔印 名〕
「文晁」「文晁画印」「谷文晁印」「谷氏文晁」「寫山行楼」「文伍氏」「無二道人」「一如」「無二」「無弐」「近江谷氏」「畫學斎」(「画学斎」)「畫學斎印」(「画学斎印」)「蜨仙」「畫仙」(「画仙」)「樂山」「樂山叟」「七十五翁」「七十六翁」「蜨叟」など
〔市場評価〕★★★〔美年鑑評価〕2900万
二重箱 紙本 肉筆
【出身地・師系】
江戸(東京)/加藤文麗、渡辺玄対、釧雲泉、張秋谷など
【略歴・作風など】
徳川田安家の家臣で漢詩家の谷麗谷の子として生まれ、幼少期より狩野派の画家加藤文麗に画を学び、その後、渡辺玄対に師事。
さらに各地を巡遊、大阪の釧雲泉、長崎の張秋谷に学んで南宋、北宋の中国画を修得、また鈴木芙蓉の作品に私淑するなど古画の模写を基本としながらも蘭画の技法なども取り入れた文晁様式の絵画世界を確立。
その後、父の後を継いで田安家に出仕し図録集「集古十種」の編纂に従事、また古画の模写などを担当。
さらに、画塾「写山櫻」を開いて多くの門下を集め、その中でも渡辺崋山、椿椿山、立原杏所など優れた南画家を輩出、関東随一の文人画家としてその名を轟かせた。
代表作に「公余探勝図(重文指定)」、「木村蒹葭堂像(重文指定)」など
〔主な作品所蔵館〕
北海道立近代美術館/東京国立博物館/京都国立博物館/大和文華館/富士美術館群馬県立近代美術館/静岡県立美術館/飯田市美術博物館/福岡市美術館など
〔印 名〕
「文晁」「文晁画印」「谷文晁印」「谷氏文晁」「寫山行楼」「文伍氏」「無二道人」「一如」「無二」「無弐」「近江谷氏」「畫學斎」(「画学斎」)「畫學斎印」(「画学斎印」)「蜨仙」「畫仙」(「画仙」)「樂山」「樂山叟」「七十五翁」「七十六翁」「蜨叟」など
〔市場評価〕★★★〔美年鑑評価〕2900万
2014年08月03日
2014年08月01日
今村 紫紅
紫紅 今村 (と、記されていたのだが、
作風も落款も異なる。)
紙本 肉筆
(重)今村紫紅
Shiko Imamura
日本画
1880 ( 明治13 )〜 1916 ( 大正5 )
本名:寿三郎
号:紫紅
神奈川県出身 師、松本楓湖
日本美術院同人
1897年、松本楓湖の画塾に入り画技を熟練、1901年安田靫彦らと紅児会を結成し新時代日本画の創造に奔走し日本絵画共進会・巽画会・文展などに出品、また1914年にはインド外遊をはさみ小茂田青樹らとの赤曜会結成や日本美術院再興にも貢献し日本美術院同人に推挙。
大和絵の技法を基本としながらも琳派・印象派・南画などを織り交ぜた独自の技法として評価され常に斬新で進取的な画風を展開し後の有数日本画家たちに多大な影響を与えたが37歳という若さで病歿。
代表作「熱海の巻」が重文指定を受けている。
公定鑑定は東京美術倶楽部。
〔主な作品所蔵館〕
東京国立近代美術館/東京国立博物館/神奈川県立近代美術館/埼玉県立近代美術館/茨城県近代美術館/横浜美術館/平塚市美術館/佐久市立近代美術館/豊田市美術館/山種美術館/石橋美術館など
〔印 名〕「紫紅」「紫」ほか
〔市場評価〕★★★★★
本阿弥 光悦 書
売切れ御免
光悦書
紙本 肉筆
(国)(重)本阿弥光悦
Koetsu Honami
日本画, 工芸家, 陶芸家, その他, 書家, 鑑定家
1558 ( 永禄元 )〜 1638 ( 寛永14 )
本名:多賀
通称:次郎三郎、光悦
号:自得斎、徳友斎、太虚庵
【出身地・師系】
京都/古田織部
代々、京都の刀の鑑定、研磨、拭いなどを家業とする本阿弥家8代本阿弥光二(7代光心の養嗣子)の子として生まれ家業に従事したがその傍らで茶を古田織部に師事。
また、本業のほかに陶芸、蒔絵、書などに独自の芸術的センスを発揮、陶芸では楽茶碗、漆芸では金をふんだんに用いた金蒔絵といった優雅な作風を示し書では近衛信尹、松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人として称されるなど本業よりも芸術家として名が残っている。
そうした背景には光悦の天才的な才能もさることながら家柄的な資金力があったためともいわれる。
また、1615年には徳川家康から洛北鷹ヶ峰の土地を拝領し一族が移住、現在は本阿弥一族が法華宗徒であったため日蓮宗の光悦寺として残る。
代表作に「国宝・楽焼片身替茶碗:銘不二山」、「国宝・船橋蒔絵硯」、「重文・鶴下絵和歌巻(光悦書、宗達下絵)」、「重文・鹿蒔絵笛筒」、「重文・黒楽茶碗:銘雨雲」など
〔主な作品所蔵館〕
東京国立博物館/京都国立博物館/群馬県立近代美術館/富士美術館/石川県立美術館/大和文華館/福岡市美術館など
〔印 名〕
「光悦」など
〔市場評価〕★★★★★☆〔美年鑑評価〕5000万
光悦書
紙本 肉筆
(国)(重)本阿弥光悦
Koetsu Honami
日本画, 工芸家, 陶芸家, その他, 書家, 鑑定家
1558 ( 永禄元 )〜 1638 ( 寛永14 )
本名:多賀
通称:次郎三郎、光悦
号:自得斎、徳友斎、太虚庵
【出身地・師系】
京都/古田織部
代々、京都の刀の鑑定、研磨、拭いなどを家業とする本阿弥家8代本阿弥光二(7代光心の養嗣子)の子として生まれ家業に従事したがその傍らで茶を古田織部に師事。
また、本業のほかに陶芸、蒔絵、書などに独自の芸術的センスを発揮、陶芸では楽茶碗、漆芸では金をふんだんに用いた金蒔絵といった優雅な作風を示し書では近衛信尹、松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人として称されるなど本業よりも芸術家として名が残っている。
そうした背景には光悦の天才的な才能もさることながら家柄的な資金力があったためともいわれる。
また、1615年には徳川家康から洛北鷹ヶ峰の土地を拝領し一族が移住、現在は本阿弥一族が法華宗徒であったため日蓮宗の光悦寺として残る。
代表作に「国宝・楽焼片身替茶碗:銘不二山」、「国宝・船橋蒔絵硯」、「重文・鶴下絵和歌巻(光悦書、宗達下絵)」、「重文・鹿蒔絵笛筒」、「重文・黒楽茶碗:銘雨雲」など
〔主な作品所蔵館〕
東京国立博物館/京都国立博物館/群馬県立近代美術館/富士美術館/石川県立美術館/大和文華館/福岡市美術館など
〔印 名〕
「光悦」など
〔市場評価〕★★★★★☆〔美年鑑評価〕5000万