2015年10月31日
第十四章 国清寺で川島芳子の遺骨発見
二〇〇七年十一月初め、我々研究団は証人逯興凱の「方おばあさんは夏は長春新立城に住み、冬は国清寺に行った」という証言に基づいて、川島芳子の国清寺での証拠探しに出かけ、何景方が浙江省天台県国清寺で探索を行った。探索の結果、国清寺の悠久の歴史と中国仏教会における重要な地位について認識を深めた。また国清寺が日本仏教天台宗の源流であり、日本仏教と切っても切れない関係にあることが分かった。そこから方おばあさん川島芳子が毎年冬に国清寺へ赴く理由を察することが出来た。
二〇〇八年、我々の研究はまた新たな進展を見せた。張玉の父親張連挙が次のように証言したのである。「一九八一年国清寺の一人の老僧が四平に来て方おばあさんの遺骨を持ち去った。」獅子像の中から出現した紙片から秀竹の実在が確認できたが、彼は一九四八年三月二十五日以後に川島芳子護衛の責任者でもあり、さらに秀竹の仏教法号は「広幸」であると推測された。我々はそこで、方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去った国清寺の僧侶は秀竹である可能性が高いと判断した。方おばあさん(川島芳子)の遺骨の行方を探し、《秀竹》が国清寺にいた証拠を探すため、日本のテレビ朝日撮影スタッフと共に、李剛の委託を受けた研究者の何景方と顧問王慶祥が二〇〇九年一月十六日―十九日再び国清寺を訪れた。
方おばあさんが住んでいた大家の逯興凱は方おばあさんが毎年寒くなる前に南の国清寺へ冬籠りに出かけ、いつも次の年の春に暖かくなってから新立城に戻っていたと証言した。しかし、方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で半年も生活したというのは、これは女居士の身から考えて実際に可能なのかどうかというのが始終我々の心の中に一つの疑問となっていた。我々はこの点を確かめるべく、国清寺で実地調査を行った。
研究の便を図って、我々は寺院内の客室に宿を取り、数日を寒い部屋で精進料理を食べる「苦行僧」の生活を過ごした。四日の探索期間で、我々はこの寺の住職である可明方丈、徳の深い克慧、乗方、法方などの老僧を尋ね、また国清寺公安派出所の老警備員から事情を聞いた。また彼らの紹介を聞き、寺院の参観と宿での自らの体験により、我々は次のように感じた。一千四百年の歴史がある国清寺は歴代王朝の拡充と修理を経て、土地と建物をかなり多く所有するようになった。「文化大革命」の無情の歳月の間に、仏堂の仏像は重大な損失と破壊を受けたとは言え、すでに「人民公社」化した「国清寺大隊」はなおも存在していた。改革解放前に、寺院内に住んでいる僧と仏像を拝んで香を焚いている居士は今日のように多くはなかった。それゆえ、寺院を訪問する居士は男女に限らず、何らかの力が及ぶ限りでの生活手段があれば、寺院内の修行や寂寞にも耐えることができ、また食事や宿舎にも事欠くことはなかった。さらに方おばあさんは居士証を所有して合法的な身分だったのだから、たとえ「文化大革命」の時期でも、ここに住むことが出来たであろう。
このたび国清寺では我々は百を超える「参拝客」のための宿舎である「万字楼」、また賓客を招待するための「迎塔楼」と「貴賓楼」を見ることができた。また同時に数百人分の食事が用意できる二階建ての大食堂、また寺院の中の各隅に分布している小食堂と僧の宿舎があった。我々は以下のように想像した。国清寺のこの桃源郷のような世俗を離れた静かな地なら、方おばあさん(川島芳子)が後半生を過ごす場所として選択してもなんら不思議ではない。当然のことだが、長い冬季に川島芳子が南方のその他の寺院や場所に立ち寄った可能性も否定できない。
寺院内で、我々は出会う人毎に尋ねて、一九六〇年代から七〇年代にかけて、毎年冬にやってくる俗家の女弟子である「方居士」と法号を「広幸」と名乗る僧侶がいなかったかどうかを尋ねた。八十二歳になる可明方丈は両耳が遠くなっていたので、筆談で我々の質問に答えてくれた。可明方丈は十数歳の時に出家して国清寺に来て以来七十年にわたりここを離れたことがない。「文化大革命」で僧侶が散らされた時にも、可明方丈が「国清生産大隊」の労働責任者となっていた。一九九七年に彼は寺の住職(方丈)となって今に至る。しかし彼はこの女性の《方居士》についてまったく印象が残ってなかった。我々が《方居士》の写真を見せて知っているか尋ねた時も、彼は写真の人物を知らないと答えた。我々は紙の上に川島芳子と四文字を書いて、彼がその人を知っているかどうか尋ねると、可明方丈は我々に「これは日本の地名ですか、人名ですか。」と尋ねた。傍で待機しいてた延如さんが補足して「方丈は小説も読まないし、テレビや映画も見ないので川島芳子が誰かなんて知りませんよ」と述べた。
しかし我々が克慧と乗方の二人の僧侶を訪問した時、思いもかけない結果を得ることが出来た。
克慧法師は年齢八十歳、一九五七年に剃髪して出家し、一九六七年三〜九月紅衛兵により原籍の浙江象山の実家で半年を過ごした外は、国清寺で修行して五十年余りになる。我々が彼に三十数年前に女性の《方居士》という名前と《広幸》と言う僧侶を見たり聞いたりしたことはないかと尋ねると、彼はあっさりと答えていった。「私は僧侶のことは管理していないから《広幸》という僧侶の名前は知らないし聞いたこともない。しかし《方居士》というのは聞いたことがある。」我々はさらに彼に《方居士》にはどんな記憶があるかと尋ねた。彼は「これは僧侶の間の噂話でだが、《方居士》という在家の女弟子がいると聞いたことがある。しかし彼女は私の在家の弟子ではないので、会ったことはないが、名前を聞いたことはある。」
その後に我々は乗方法師を訪ねた。乗方は七十八歳で、一九六一年に国清寺へ来てから今までそこを離れたことがない。「文化大革命」中には「国清大隊」の保林防火員を担当し、国清寺にたいして発言権を持つ徳のある僧侶である。我々が再び《方居士》と《広幸》の二人について尋ねると、彼はなんの戸惑いもなく女性の《方居士》と《広幸》という僧侶の名前を聞いたことがあるが、会ったことはないと答えた。
どちらも寺院内で数十年修行してきた老僧侶であるが、《方居士》と僧侶《広幸》に対して、どうしてある人は聞いたことがあるのに、そのほかの人はまったく印象がないのだろうか。我々が居士の遺骨を保存している「五峰塔院」の老僧である法方師を訪れた時に、その答えが分かった。法方師は七十五歳で、「文化大革命」の後に国清寺で出家して、克慧法師は彼の先生に当たる。しかし、すぐに我々がその疑問を解くことが出来たのは、彼は国清寺に四十年もいるのに、同じ寺でしかも長年いる乗方法師のことをなんと知らなかったのである。もとより、寺院が比較的大きいことも一つの要素であるが、更に主要な原因は寺院内の僧侶の仕事の区別がはっきりしており、どの僧侶も自分の持ち場で余計なことに耳をはさまずに、一心に修行したり念仏しているため、老僧の間でも相互に知らないという現象が珍しくもないのである。
国清寺の克慧と乗方の二人の高僧は、どちらも《方居士》の記憶があり、また乗方法師はさらに僧侶《広幸》にも印象があった。このことは、方おばあさん(川島芳子)が一九六〇、七〇年代に、かつて国清寺の居士として常客だったことを証明している。途中で出家した僧侶《広幸》(秀竹)も国清寺にしばしば宿を取っていたのではないか。彼が四平から方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去って、国清寺の風水に優れた土地に頬むったというのは、可能性としてまったくありうることである。
我々がこのたび国清寺を訪れたのには、さらにもう一つの重要な任務があったからである。それは《方居士》(川島芳子)の遺骨の行方を探すことであった。我々が寺院内の各殿堂で細心の注意を払って調査した後に発見したのは寺院の西北角にある「地蔵殿」で、たくさんの物故した居士の位牌が置かれている。可明方丈の紹介によれば、これらの位牌の居士たちは、みな国清寺の改修の過程で力を貸したり寄付をしたり、あるいは家族や友人が寺院に供養代を供えている場合で、寺院には「仏事登記所」がありそこにすべて記載がある。しかし、我々が「仏事登記所」に来て《方居士》の位牌を探そうとしたところ、登記所を管理している僧は我々に位牌を具えているという「証書」を提出するよう求めた。しかし、我々の手元には「証書」がなかったので、調査は拒否されてしまった。しかしこの熱心な管理係の僧侶は我々に一つのヒントを与えてくれた。それは寺院の外にある霊芝峰南麓に、居士の遺骨が置いてある「五峰塔院」があり、そこを訪ねて見てはどうかということであった。
二日目の早くに寺院で精進料理を食べてから、我々は寒拾亭から潤渓を過ぎて、山沿いの小道をあるいて小さな峰に登り「五峰塔院」にたどり着いた。ちょうど、塔院の管理事務所の僧である法方師が出勤してきて、我々が可明方丈の許しを得て居士の遺骨を捜していると聞くと、彼は熱心に我々を建物の中に入れてくれた。塔院は三合院で、正殿は南向きで、三間続きである。殿門の正面の上に「同登極楽」の額がかかっている。殿内の正面には仏像が三体祭っており、中間には阿弥陀仏、左は観世音菩薩、右は大勢至菩薩である。両側には一画一画ガラス戸がついた木の棚があり、なかに遺骨箱が置かれている。法方師は、殿の左側に置かれているのはすべて女居士の遺骨箱であると述べた。我々は女居士の遺骨箱が安置されている左殿に入り、一つ一つを丹念に調査した。
突然、一つの格子の中にガラス窓を通して、毛筆で書かれた「方覚香骨灰盒」を発見して、我々は目の前が明るくなったような気がした。この漆が塗られてもおらず、花が彫られてもいない木製の遺骨箱は見ただけで数十年前の古い箱であることがわかり、またこの部屋の中でただ一つだけ死者の姓が方で、また女性でもある。覚香の二文字は仏教の法号のようでもある。我々がまた理解できたのは、川島芳子の出身は愛新覚羅皇族であり、覚香の「覚」の字はちょうど愛新覚羅の「覚」である。さらに清朝皇族が世を去るとみな香冊があるが、方覚香の「香」の字は香冊の「香」の字と符合する。また、あるいは「香」の字は「芳香」を意味するのかもしれないし、「李香蘭」の「香」の字であるのかもしれない。また「方」の字は川島芳子の「芳」と同じ音である。まさに靴も擦り切れるほどにあちこち探したものが、突然何の苦労もなく目の前に現れたかのようであった。まさかこれが我々の捜し求めていた《方居士》(川島芳子)の遺骨ではあるまいか?我々は胸の高鳴るのを抑えられなかった。
テレビ朝日記者と相談の後、塔院の管理をしている僧侶の同意を経て、「芳覚香居士」の遺骨をDNA鑑定用に採取した。法方師の許可を得て、何景方と王慶祥はマスクとゴム手袋をつけて、棚から「方覚香」の遺骨箱を取り出し、細心の注意を払って蓋を開け、中を補填している綿を取り去り、遺骨を入れた白い布の袋を開けると、一枚の新聞紙にくるまれた遺骨が出てきた。新聞紙を注意してみるとそれは一九八八年七月十七日の『寧波日報』であった。ここから推定できたのは、遺骨は一九八八年七月十七日以後にこの塔院に送られたか、あるいはそれ以前にこの塔院に送られていたものをその頃に新たに入れ直したかである。
幾つかの遺骨を採取した後、何・王の二人は遺骨を再び新聞紙でくるみ、袋の口を閉めて、綿を箱の中に詰めて、丁寧に拝んだ後に再び遺骨箱を元の場所にもどした。法方師はずっと我々が塔院の山門を出るまで見送ってくれた。
二〇〇八年、我々の研究はまた新たな進展を見せた。張玉の父親張連挙が次のように証言したのである。「一九八一年国清寺の一人の老僧が四平に来て方おばあさんの遺骨を持ち去った。」獅子像の中から出現した紙片から秀竹の実在が確認できたが、彼は一九四八年三月二十五日以後に川島芳子護衛の責任者でもあり、さらに秀竹の仏教法号は「広幸」であると推測された。我々はそこで、方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去った国清寺の僧侶は秀竹である可能性が高いと判断した。方おばあさん(川島芳子)の遺骨の行方を探し、《秀竹》が国清寺にいた証拠を探すため、日本のテレビ朝日撮影スタッフと共に、李剛の委託を受けた研究者の何景方と顧問王慶祥が二〇〇九年一月十六日―十九日再び国清寺を訪れた。
方おばあさんが住んでいた大家の逯興凱は方おばあさんが毎年寒くなる前に南の国清寺へ冬籠りに出かけ、いつも次の年の春に暖かくなってから新立城に戻っていたと証言した。しかし、方おばあさん(川島芳子)が毎年国清寺で半年も生活したというのは、これは女居士の身から考えて実際に可能なのかどうかというのが始終我々の心の中に一つの疑問となっていた。我々はこの点を確かめるべく、国清寺で実地調査を行った。
研究の便を図って、我々は寺院内の客室に宿を取り、数日を寒い部屋で精進料理を食べる「苦行僧」の生活を過ごした。四日の探索期間で、我々はこの寺の住職である可明方丈、徳の深い克慧、乗方、法方などの老僧を尋ね、また国清寺公安派出所の老警備員から事情を聞いた。また彼らの紹介を聞き、寺院の参観と宿での自らの体験により、我々は次のように感じた。一千四百年の歴史がある国清寺は歴代王朝の拡充と修理を経て、土地と建物をかなり多く所有するようになった。「文化大革命」の無情の歳月の間に、仏堂の仏像は重大な損失と破壊を受けたとは言え、すでに「人民公社」化した「国清寺大隊」はなおも存在していた。改革解放前に、寺院内に住んでいる僧と仏像を拝んで香を焚いている居士は今日のように多くはなかった。それゆえ、寺院を訪問する居士は男女に限らず、何らかの力が及ぶ限りでの生活手段があれば、寺院内の修行や寂寞にも耐えることができ、また食事や宿舎にも事欠くことはなかった。さらに方おばあさんは居士証を所有して合法的な身分だったのだから、たとえ「文化大革命」の時期でも、ここに住むことが出来たであろう。
このたび国清寺では我々は百を超える「参拝客」のための宿舎である「万字楼」、また賓客を招待するための「迎塔楼」と「貴賓楼」を見ることができた。また同時に数百人分の食事が用意できる二階建ての大食堂、また寺院の中の各隅に分布している小食堂と僧の宿舎があった。我々は以下のように想像した。国清寺のこの桃源郷のような世俗を離れた静かな地なら、方おばあさん(川島芳子)が後半生を過ごす場所として選択してもなんら不思議ではない。当然のことだが、長い冬季に川島芳子が南方のその他の寺院や場所に立ち寄った可能性も否定できない。
寺院内で、我々は出会う人毎に尋ねて、一九六〇年代から七〇年代にかけて、毎年冬にやってくる俗家の女弟子である「方居士」と法号を「広幸」と名乗る僧侶がいなかったかどうかを尋ねた。八十二歳になる可明方丈は両耳が遠くなっていたので、筆談で我々の質問に答えてくれた。可明方丈は十数歳の時に出家して国清寺に来て以来七十年にわたりここを離れたことがない。「文化大革命」で僧侶が散らされた時にも、可明方丈が「国清生産大隊」の労働責任者となっていた。一九九七年に彼は寺の住職(方丈)となって今に至る。しかし彼はこの女性の《方居士》についてまったく印象が残ってなかった。我々が《方居士》の写真を見せて知っているか尋ねた時も、彼は写真の人物を知らないと答えた。我々は紙の上に川島芳子と四文字を書いて、彼がその人を知っているかどうか尋ねると、可明方丈は我々に「これは日本の地名ですか、人名ですか。」と尋ねた。傍で待機しいてた延如さんが補足して「方丈は小説も読まないし、テレビや映画も見ないので川島芳子が誰かなんて知りませんよ」と述べた。
しかし我々が克慧と乗方の二人の僧侶を訪問した時、思いもかけない結果を得ることが出来た。
克慧法師は年齢八十歳、一九五七年に剃髪して出家し、一九六七年三〜九月紅衛兵により原籍の浙江象山の実家で半年を過ごした外は、国清寺で修行して五十年余りになる。我々が彼に三十数年前に女性の《方居士》という名前と《広幸》と言う僧侶を見たり聞いたりしたことはないかと尋ねると、彼はあっさりと答えていった。「私は僧侶のことは管理していないから《広幸》という僧侶の名前は知らないし聞いたこともない。しかし《方居士》というのは聞いたことがある。」我々はさらに彼に《方居士》にはどんな記憶があるかと尋ねた。彼は「これは僧侶の間の噂話でだが、《方居士》という在家の女弟子がいると聞いたことがある。しかし彼女は私の在家の弟子ではないので、会ったことはないが、名前を聞いたことはある。」
その後に我々は乗方法師を訪ねた。乗方は七十八歳で、一九六一年に国清寺へ来てから今までそこを離れたことがない。「文化大革命」中には「国清大隊」の保林防火員を担当し、国清寺にたいして発言権を持つ徳のある僧侶である。我々が再び《方居士》と《広幸》の二人について尋ねると、彼はなんの戸惑いもなく女性の《方居士》と《広幸》という僧侶の名前を聞いたことがあるが、会ったことはないと答えた。
どちらも寺院内で数十年修行してきた老僧侶であるが、《方居士》と僧侶《広幸》に対して、どうしてある人は聞いたことがあるのに、そのほかの人はまったく印象がないのだろうか。我々が居士の遺骨を保存している「五峰塔院」の老僧である法方師を訪れた時に、その答えが分かった。法方師は七十五歳で、「文化大革命」の後に国清寺で出家して、克慧法師は彼の先生に当たる。しかし、すぐに我々がその疑問を解くことが出来たのは、彼は国清寺に四十年もいるのに、同じ寺でしかも長年いる乗方法師のことをなんと知らなかったのである。もとより、寺院が比較的大きいことも一つの要素であるが、更に主要な原因は寺院内の僧侶の仕事の区別がはっきりしており、どの僧侶も自分の持ち場で余計なことに耳をはさまずに、一心に修行したり念仏しているため、老僧の間でも相互に知らないという現象が珍しくもないのである。
国清寺の克慧と乗方の二人の高僧は、どちらも《方居士》の記憶があり、また乗方法師はさらに僧侶《広幸》にも印象があった。このことは、方おばあさん(川島芳子)が一九六〇、七〇年代に、かつて国清寺の居士として常客だったことを証明している。途中で出家した僧侶《広幸》(秀竹)も国清寺にしばしば宿を取っていたのではないか。彼が四平から方おばあさん(川島芳子)の遺骨を持ち去って、国清寺の風水に優れた土地に頬むったというのは、可能性としてまったくありうることである。
我々がこのたび国清寺を訪れたのには、さらにもう一つの重要な任務があったからである。それは《方居士》(川島芳子)の遺骨の行方を探すことであった。我々が寺院内の各殿堂で細心の注意を払って調査した後に発見したのは寺院の西北角にある「地蔵殿」で、たくさんの物故した居士の位牌が置かれている。可明方丈の紹介によれば、これらの位牌の居士たちは、みな国清寺の改修の過程で力を貸したり寄付をしたり、あるいは家族や友人が寺院に供養代を供えている場合で、寺院には「仏事登記所」がありそこにすべて記載がある。しかし、我々が「仏事登記所」に来て《方居士》の位牌を探そうとしたところ、登記所を管理している僧は我々に位牌を具えているという「証書」を提出するよう求めた。しかし、我々の手元には「証書」がなかったので、調査は拒否されてしまった。しかしこの熱心な管理係の僧侶は我々に一つのヒントを与えてくれた。それは寺院の外にある霊芝峰南麓に、居士の遺骨が置いてある「五峰塔院」があり、そこを訪ねて見てはどうかということであった。
二日目の早くに寺院で精進料理を食べてから、我々は寒拾亭から潤渓を過ぎて、山沿いの小道をあるいて小さな峰に登り「五峰塔院」にたどり着いた。ちょうど、塔院の管理事務所の僧である法方師が出勤してきて、我々が可明方丈の許しを得て居士の遺骨を捜していると聞くと、彼は熱心に我々を建物の中に入れてくれた。塔院は三合院で、正殿は南向きで、三間続きである。殿門の正面の上に「同登極楽」の額がかかっている。殿内の正面には仏像が三体祭っており、中間には阿弥陀仏、左は観世音菩薩、右は大勢至菩薩である。両側には一画一画ガラス戸がついた木の棚があり、なかに遺骨箱が置かれている。法方師は、殿の左側に置かれているのはすべて女居士の遺骨箱であると述べた。我々は女居士の遺骨箱が安置されている左殿に入り、一つ一つを丹念に調査した。
突然、一つの格子の中にガラス窓を通して、毛筆で書かれた「方覚香骨灰盒」を発見して、我々は目の前が明るくなったような気がした。この漆が塗られてもおらず、花が彫られてもいない木製の遺骨箱は見ただけで数十年前の古い箱であることがわかり、またこの部屋の中でただ一つだけ死者の姓が方で、また女性でもある。覚香の二文字は仏教の法号のようでもある。我々がまた理解できたのは、川島芳子の出身は愛新覚羅皇族であり、覚香の「覚」の字はちょうど愛新覚羅の「覚」である。さらに清朝皇族が世を去るとみな香冊があるが、方覚香の「香」の字は香冊の「香」の字と符合する。また、あるいは「香」の字は「芳香」を意味するのかもしれないし、「李香蘭」の「香」の字であるのかもしれない。また「方」の字は川島芳子の「芳」と同じ音である。まさに靴も擦り切れるほどにあちこち探したものが、突然何の苦労もなく目の前に現れたかのようであった。まさかこれが我々の捜し求めていた《方居士》(川島芳子)の遺骨ではあるまいか?我々は胸の高鳴るのを抑えられなかった。
テレビ朝日記者と相談の後、塔院の管理をしている僧侶の同意を経て、「芳覚香居士」の遺骨をDNA鑑定用に採取した。法方師の許可を得て、何景方と王慶祥はマスクとゴム手袋をつけて、棚から「方覚香」の遺骨箱を取り出し、細心の注意を払って蓋を開け、中を補填している綿を取り去り、遺骨を入れた白い布の袋を開けると、一枚の新聞紙にくるまれた遺骨が出てきた。新聞紙を注意してみるとそれは一九八八年七月十七日の『寧波日報』であった。ここから推定できたのは、遺骨は一九八八年七月十七日以後にこの塔院に送られたか、あるいはそれ以前にこの塔院に送られていたものをその頃に新たに入れ直したかである。
幾つかの遺骨を採取した後、何・王の二人は遺骨を再び新聞紙でくるみ、袋の口を閉めて、綿を箱の中に詰めて、丁寧に拝んだ後に再び遺骨箱を元の場所にもどした。法方師はずっと我々が塔院の山門を出るまで見送ってくれた。
タグ:川島芳子生存説
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