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2015年10月31日

第十三章 川島芳子と李香蘭

方おばあさんの隠居生活における趣味の一つは、李香蘭のレコードを聞くことであった。李香蘭の歌の中でも方おばあさんが特にお気に入りだったのは『蘇州夜曲』と『蘇州の夜』である。この二つの歌は題名が良く似ているが異なる歌で、『蘇州夜曲』は作詞西條八十、作曲服部良一で映画『支那の夜』の中で李香蘭が歌ったが、レコードは渡辺はま子の歌で一九四〇年に発売されている。一方の『蘇州の夜』は同名映画の歌で、作詞西條八十、作曲仁木他喜雄、レコードは李香蘭の歌で一九四一年に発売されている。張玉が方おばあさんから教わった歌にはこの二曲が共に含まれており、『蘇州の夜』のレコードが残されていた。
蓄音機

晩ご飯の後、張玉がオンドルの上にトランプを並べると、方おばあさんはとてもご機嫌がよかった。方おばあさんは香を焚き、コーヒーを沸かして、手で蓄音機のハンドルを回し、『蘇州の夜』が部屋に悠々と流れてくるのを聞いていた。突然に方おばあさんは寝椅子から立ち上がると、しばらく経口モルヒネを口にして精神が高揚してくると、周りの木イスの傍にもたれてダンスを始め、あたかも以前に李香蘭と一緒だったひびを思い出したかのようであった。方おばあさんは李香蘭は彼女が最も好きな映画スターで、とても優しくて人の気持ちをよく理解してくれ、歌が上手で演技もすばらしく仙女のように美しい姿をしていると語っていた。李香蘭は方おばあさんが最も慕っていた女性の一人だった。李香蘭の歌は方おばあさんが最も好んだ日本の歌で、伊藤宜二作曲『乙女の祈り』や服部良一作曲『蘇州夜曲』がお気に入りの曲だった。張玉の記憶に残っているのは方おばあさんが大病が癒えたばかりのときに、張玉と祖父が彼女の傍で見守っていると、方おばあさんが眼を覚まし、「万一私が死んだら、喪服を着たり葬儀に哀歌を流さなくてもいいから、あなたたちが『蘇州夜曲』を歌ってくれればそれでいい。私の霊魂を永遠に蘇州の寒山寺に残したい」と語っていた。一九七八年初頭に方おばあさんが亡くなった時も張玉と祖父の段連祥は方おばあさんの遺言に従って、『蘇州夜曲』を歌って彼女を見送ったのであった。

方おばあさんが使用していた蓄音機はスイスで生産された初期の「銀盆式」で、性能がとても良かった。この蓄音機には電源は要らず、「ハンドル」を何度か回して、ターンテーブルの上にレコードを置くと旋回して音声を発する。当時の農村で電気がまだ十分整備されていなかった状況下では、確かに大変実用的なものであった。

方おばあさんが生前に語っていたのは『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に届けてほしいということであった。我々が丁寧なつくりの箱を開けると、白い布にくるまれた黒いレコードがあり、レコードは多年にわたって使用されていたため、見るからに古く、真ん中の赤いラベルもすでに文字がかすんでいた。望遠鏡で拡大するとかすかに読めたのは、このレコードが松竹映画録音の『蘇州の夜』の主題歌で、西条八十作詞、仁木他喜雄作曲、李香蘭歌、レコード番号は一〇〇三三三、日本コロムビア社が一九四一年に発売したものであった。

野崎の紹介によれば映画『蘇州の夜』の内容は、李香蘭演じる中国の乙女が佐野周二が演じる日本人青年と恋に落ち、二人は互いに深く愛し合う。しかし様々な原因で二人は最後は別れ離れになるというものである。この映画の筋書きは川島芳子が経験した身の上と大変似ている。川島芳子と日本人はとても密接な関係があり、戦後小方八郎と李香蘭は日本へ帰ったが、川島芳子は中国に永遠に留まることとなった。もし方おばあさんが確かに川島芳子であったとするならば、彼女が『蘇州の夜』を好んで聞いていた原因は、きっと自身の経歴にあり、遠く離れ離れになった友人の小方八郎と李香蘭を恋い慕ってのことであろう。李香蘭と川島芳子は同じ時代の歴史舞台でともに日中の政治と戦争に巻き込まれたが最終的な運命は全く異なっていた。またレコードの裏面にある『乙女の祈り』は西条八十作詞、伊藤宜二作曲、仁木他喜雄編曲、李香蘭歌である。

『蘇州の夜』のレコードに収められた二曲の歌詞についてはさほど多くを語る必要はないだろう。総じて言えば、これらの曲の歌詞に反映された思いは当時の川島芳子の経験と重なるものがあったということである。張玉と母親の段霊雲が証言して言うには方おばあさんが一生のうちに最も重いが深かった三人の一人は李香蘭で、段連祥も臨終前に養孫の張玉に機会があれば『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に渡すようにと遺言した。こうして、外見だけ見れば薄いレコードだが、その意味は極めて重厚なレコードを前にして、我々はこれをいつ李香蘭に渡せばいいのか、また李香蘭はどういう反応をするだろうかと考えた。

李香蘭は現在でも健在の日本人で、本名は山口淑子といい、一九二〇年中国遼寧省撫順に生まれた。十三歳の時に父親と親交のあった当時の瀋陽銀行総裁を勤めていた李際春将軍(一九三一年十一月天津暴動の際の「便衣隊」指導者)の義理の娘となり、その際に李香蘭という中国名を付けられた。瀋陽、天津、北京などでも生活し、中国の小学校と中学校を卒業している。彼女は生まれつきの美人で、そのはっきりした顔立ちから「東洋屈指の美人女優」と呼ばれた。流暢な中国語を話すことができ、またロシア人歌手に師事して美しい歌声を響かせて、「満州映画協会」の看板女優となり、満州と日本で映画スターとして売れっ子になり、日本の侵略を正当化する国策映画に出演させられた。当時の満州映画協会第二代理事長甘粕正彦は李香蘭を多方面で支援した。満州映画協会の初代理事長は川島芳子の兄である金璧東で、当然に甘粕正彦と川島芳子も大変に良く知った間柄であった。李香蘭は『万古流芳』や『百蘭の歌』などの映画に出演し、また彼女が歌った「夜来香」は大ヒットして、後にテレサ・テンのカバーで中国でもよく知られている。李香蘭は日本の敗戦後、川島芳子と同様に漢奸罪で中国の裁判にかけられたが、日本人であることを証明する戸籍謄本があったため、漢奸罪の適用を免れて無事に日本に戻ることができた。また彼女は外交官の大鷹弘と結婚し、大鷹淑子の名前で参議院議員にも選ばれ、日本の環境政務次官などを務め、日本でも異色の女性政治家と知られ、日中国交回復後の一九七八年に中国の長春映画製作所に昔の友人を訪ねている。

メディアの報道により、李香蘭は我々の川島芳子「生死の謎」研究を知った。かつて国会議員まで務め、現在八九歳の高齢に達した李香蘭(山口淑子)は「川島芳子生死の謎」に関するニュースを聞いた後、二〇〇八年十一月十八日の時事通信社のインタビューに次のように答えている。

李香蘭

「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」と語った。「妹のようにかわいがってくれた」。山口さんが芳子と初めて会ったのは十六歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は「君も『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」と最初から打ち解けた。山口さんは十三歳年上で、りりしい男装姿の芳子を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「方おばさん」として処刑から三十年生き延びたとされる芳子が形見として残したものの中に、李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌ったレコードがあった話を知ると、「そう言えば、お兄ちゃんと最後に博多で会ったときに、李香蘭のレコードを擦り切れるまで聞いているよ、と言ってくれたのを思い出した」。
「生存情報とともにレコードが残されていたということも縁を感じる」と感慨深げだった。 清朝の王女ながら日本人の養女となり、日本籍を取得していなかったため、中国人として死刑判決を受けた芳子。中国で生まれ育ち、中国名で活躍した山口さんも終戦後、中国で「売国奴」として裁判にかけられたが、国籍が日本だったため帰国を果たした。 「国籍という紙切れで、私とお兄ちゃんは運命が変わった」と山口さん。「七八年まで生きていたのなら会いたかった。でも、隠れて暮らしていたんでしょうから、会えなかったでしょうね。切ない思いもする」と声を詰まらせた。
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