2009年11月14日
ラピュタの都市伝説
「天空の城ラピュタ」には、幻のエンディングがある、という都市伝説があります。
テレビ放送の際、劇場版のエンディングとは違い、パズーがシータの故郷に訪れ、握手して別れるという、別バージョンのエンディングが一度だけ放送された、というものです。検索エンジンで、「ラピュタ 幻のエンディング」で検索いただくと、検証サイトがゴロゴロヒットします。
この噂が他の都市伝説に比べて特徴的なのは、多くの都市伝説が「友達の友達」的なところを出所としており、実際に目撃した人の話を聞くことが滅多にないのに対し、「私も覚えている!」という証言者が非常に多くいる点です。例えばこちらやこちら。
一方、制作元のスタジオジブリは、この噂を公式に否定しており、こちらのサイトでは完全なガセネタとして扱われています。
これらは一体何を表しているのでしょうか?
これだけ多くの人が「見た」と証言しているにもかかわらず、そのビデオ1本出てこないのです。
証拠が出てこないということは、物理的に幻のエンディングが放送された可能性はゼロに近いのではないかと僕は思います。
ただ、そうなると多くの人が体験した別バージョンのエンディングは何だったのか……。
この都市伝説にも多くの説があります。小説版ラピュタ混同説。未来少年コナン混同説。子供の空想説。
しかし、どれも決定打にかけます。小説版を読んでいる人は少数でしょうし、いくら同じ宮崎作品だからといって、多くの人が同時にこのような勘違いをするとは考えにくいです。また、証言者の中にはそのエンディングを見た時点ですでに大人だった人も多く、「子供は想像力が豊かだから……」と片付けてしまうには無理があると思います。
やはり幻のエンディングは本当に存在するのでしょうか?
僕はこの都市伝説は、集団催眠現象の典型ではないかと考えています。
映画を観る、という行為は、広義の意味での催眠状態に人を導きます。
催眠誘導の方法のひとつに、ブレイド法といって、光源などの一点を凝視させる方法がありますが、テレビや映画を観ているときの集中状態はこれに近く、例えばテレビを観ていて時間が経つのがはやく感じたり、お風呂の水を止め忘れたり、誰かの呼びかけが聞こえなかったりするのは、変性意識状態ゆえの現象です。
また、ラピュタには浮遊シーンが多く描かれており、この「浮かぶ」というイメージが更にトランスを深くしているのではないかと思われます。(余談ですが、空を飛ぶ夢というのは明晰夢 ― 夢の中で「これは夢だ」と気がつき、夢の内容をある程度コントロールできる夢 ― と関係があります。明晰夢もまた、変性意識状態のひとつです)
そして催眠状態が深くなったところで、映画の中の映像やセリフ、音楽が暗示的な作用をし、多くの人たちに同様の体験(この場合は、パズーがシータの故郷に訪れるシーンを観るという体験)をさせたのではないでしょうか。
例えば、パズーの「見たいんだ、シータの生まれた古い家や谷やヤク達を」という言葉は、いずれそうなることを暗示していますし、エンディングに流れる「君をのせて」の「さあ出掛けよう」は訪問を、「君を隠して」はシータとの離別を暗示していたのかもしれません。
「確かに観た」と証言する人の中に、「うちにビデオが残っているはず」とおっしゃり、見直したところ、「あるはずのそのシーンがなかった」、と書いていらっしゃる人がいました。また、ほとんどの人が、1度目でこのエンディングを観ており、2度目で「あれ? エンディングが違う……」と感じていらっしゃいます。仮にテレビでそのエンディングが放送されたとしても、人によって時期がバラバラ。もし、そのエンディングが何回か放送されていたとしたら、2回観たことがある人がいても良いはずですが、僕の確認した限り、そういった人はひとりもいらっしゃいませんでした。
何が言いたいかというと、1度目に観たときはトランスに入りやすく、暗示的要素に反応した人も、2度目は理性の働きが強く、「この後は○○になるんだよね」という確認作業を無意識的にしながら観ているため、暗示に反応しなかったのではないかと思うのです。
というわけで、僕はこの都市伝説は、「集団催眠説」が正解なのではないかと考えています。
ガセネタとして扱っているサイトには、偽の記憶のせいだというニュアンスの説明がありましたが、偽の記憶というのは、実際には見ていないものを、記憶の混乱などで「見た」と錯覚している状態です。それに対して、幻のエンディングを観た人たちは、記憶違いをしているのではなく、「実際に催眠の中でそのエンディングを観た」のですから、偽の記憶とは別物なのです。
その人にとっての事実というのは客観的なものではなく、主観的なものです。言葉にすると当たり前ですが、ラピュタの都市伝説を調べていて、僕は何とも言えない、恐怖に似た気持ちになりました。
僕の生きている現実は、周りの人たちと同じ現実なのか?
頭では「そうではない可能性がある」と解っていても、無意識では「現実はひとつ」と何の疑いもなく思っていました。
だからこそ、この都市伝説を通して、その無意識が揺さぶられ、何とも言えない気持ちになったのだと思います。
正午は午前12時? 午後12時? でも似たようなことを書きましたが、僕が怖かったのは、事実というのはひとりひとり違うのだということをまざまざと見せつけられたからでは決してなく、それでも何の問題もなく世界が動いているから、なんです。
この都市伝説を検証するのは簡単です。
ラピュタを1度も観たことのない人に、幻のエンディングや検証のことを何も告げずに観てもらうのです。
そしてしばらくしてからもう1度観てもらい、何か気がついた点はないか、話を聞きます。
千人単位でこの検証をすることができれば、何人かは「幻のエンディング」を観るのではないかと思います。
天空の城ラピュタ [DVD]
テレビ放送の際、劇場版のエンディングとは違い、パズーがシータの故郷に訪れ、握手して別れるという、別バージョンのエンディングが一度だけ放送された、というものです。検索エンジンで、「ラピュタ 幻のエンディング」で検索いただくと、検証サイトがゴロゴロヒットします。
この噂が他の都市伝説に比べて特徴的なのは、多くの都市伝説が「友達の友達」的なところを出所としており、実際に目撃した人の話を聞くことが滅多にないのに対し、「私も覚えている!」という証言者が非常に多くいる点です。例えばこちらやこちら。
一方、制作元のスタジオジブリは、この噂を公式に否定しており、こちらのサイトでは完全なガセネタとして扱われています。
これらは一体何を表しているのでしょうか?
これだけ多くの人が「見た」と証言しているにもかかわらず、そのビデオ1本出てこないのです。
証拠が出てこないということは、物理的に幻のエンディングが放送された可能性はゼロに近いのではないかと僕は思います。
ただ、そうなると多くの人が体験した別バージョンのエンディングは何だったのか……。
この都市伝説にも多くの説があります。小説版ラピュタ混同説。未来少年コナン混同説。子供の空想説。
しかし、どれも決定打にかけます。小説版を読んでいる人は少数でしょうし、いくら同じ宮崎作品だからといって、多くの人が同時にこのような勘違いをするとは考えにくいです。また、証言者の中にはそのエンディングを見た時点ですでに大人だった人も多く、「子供は想像力が豊かだから……」と片付けてしまうには無理があると思います。
やはり幻のエンディングは本当に存在するのでしょうか?
僕はこの都市伝説は、集団催眠現象の典型ではないかと考えています。
映画を観る、という行為は、広義の意味での催眠状態に人を導きます。
催眠誘導の方法のひとつに、ブレイド法といって、光源などの一点を凝視させる方法がありますが、テレビや映画を観ているときの集中状態はこれに近く、例えばテレビを観ていて時間が経つのがはやく感じたり、お風呂の水を止め忘れたり、誰かの呼びかけが聞こえなかったりするのは、変性意識状態ゆえの現象です。
また、ラピュタには浮遊シーンが多く描かれており、この「浮かぶ」というイメージが更にトランスを深くしているのではないかと思われます。(余談ですが、空を飛ぶ夢というのは明晰夢 ― 夢の中で「これは夢だ」と気がつき、夢の内容をある程度コントロールできる夢 ― と関係があります。明晰夢もまた、変性意識状態のひとつです)
そして催眠状態が深くなったところで、映画の中の映像やセリフ、音楽が暗示的な作用をし、多くの人たちに同様の体験(この場合は、パズーがシータの故郷に訪れるシーンを観るという体験)をさせたのではないでしょうか。
例えば、パズーの「見たいんだ、シータの生まれた古い家や谷やヤク達を」という言葉は、いずれそうなることを暗示していますし、エンディングに流れる「君をのせて」の「さあ出掛けよう」は訪問を、「君を隠して」はシータとの離別を暗示していたのかもしれません。
「確かに観た」と証言する人の中に、「うちにビデオが残っているはず」とおっしゃり、見直したところ、「あるはずのそのシーンがなかった」、と書いていらっしゃる人がいました。また、ほとんどの人が、1度目でこのエンディングを観ており、2度目で「あれ? エンディングが違う……」と感じていらっしゃいます。仮にテレビでそのエンディングが放送されたとしても、人によって時期がバラバラ。もし、そのエンディングが何回か放送されていたとしたら、2回観たことがある人がいても良いはずですが、僕の確認した限り、そういった人はひとりもいらっしゃいませんでした。
何が言いたいかというと、1度目に観たときはトランスに入りやすく、暗示的要素に反応した人も、2度目は理性の働きが強く、「この後は○○になるんだよね」という確認作業を無意識的にしながら観ているため、暗示に反応しなかったのではないかと思うのです。
というわけで、僕はこの都市伝説は、「集団催眠説」が正解なのではないかと考えています。
ガセネタとして扱っているサイトには、偽の記憶のせいだというニュアンスの説明がありましたが、偽の記憶というのは、実際には見ていないものを、記憶の混乱などで「見た」と錯覚している状態です。それに対して、幻のエンディングを観た人たちは、記憶違いをしているのではなく、「実際に催眠の中でそのエンディングを観た」のですから、偽の記憶とは別物なのです。
その人にとっての事実というのは客観的なものではなく、主観的なものです。言葉にすると当たり前ですが、ラピュタの都市伝説を調べていて、僕は何とも言えない、恐怖に似た気持ちになりました。
僕の生きている現実は、周りの人たちと同じ現実なのか?
頭では「そうではない可能性がある」と解っていても、無意識では「現実はひとつ」と何の疑いもなく思っていました。
だからこそ、この都市伝説を通して、その無意識が揺さぶられ、何とも言えない気持ちになったのだと思います。
正午は午前12時? 午後12時? でも似たようなことを書きましたが、僕が怖かったのは、事実というのはひとりひとり違うのだということをまざまざと見せつけられたからでは決してなく、それでも何の問題もなく世界が動いているから、なんです。
この都市伝説を検証するのは簡単です。
ラピュタを1度も観たことのない人に、幻のエンディングや検証のことを何も告げずに観てもらうのです。
そしてしばらくしてからもう1度観てもらい、何か気がついた点はないか、話を聞きます。
千人単位でこの検証をすることができれば、何人かは「幻のエンディング」を観るのではないかと思います。
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