2018年09月01日
書評『文脈こそが知性である』
こんにちわ、小谷中広之です
「小谷中広之」が読んだ本の書評をします。「小谷中広之」なりに感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に書評は更新していきます)
「小谷中広之」が感じ、思った事を書きたいと思っております
今回のご紹介する本は、斉藤孝様の「文脈こそが知性である 」です
このような方にお勧めです
「テレビのワイドショーなどの影響をもろに受けている人 相談役」
著者の方のプロフィール
「1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。明治大学文学部助教授」
まとめ
自分の思いを相手に伝えるとき、表現する言葉をいくつも持っていること自体問題はないように思う、むしろ強みになる
しかし、多くの言葉を持っていても、そしてその言葉を表現に使ったとしても、相手に伝わらなければ、相手が理解しなければ言葉を多く持っていることは邪魔になる場合があるようにも思う
伝える者は多くの言葉からコレだと思う最も表現に適した言葉を使いたがる、そして聞く者は何となくはわかるけどもはっきりとはわからない止まり
つまり相手のことを考えずに自分の表現を披露しているに過ぎなくなる
そうなってしまうと沢山の言葉達はフラフラと散っていき、同時に聞いている者も散っていく
つまりその場での会話に意味が全く存在しなくなってしまうのだ
言葉をいくら覚えても、その言葉を相手が知らなければ、その知らない相手の立場に寄り添った言葉選びが最も重要になってくる
言葉を知っている者が伝える立場ではなく、聞く立場にある時に私が思うことがある
この本にも書かれていてとても共感した
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったのか」が重視されるのが日本の社会
日本の社会全体の隅々まではわからないが実体験として共感した
私が心掛けている事の一つ、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか。そしてその言葉のみを自分の中で解釈し、必要であれば質問をして、さらに言葉との距離を縮めていく」
どうしても影響力のある人の言葉というのは、響きやすい
しかし深くその言葉について考えようとはしない人が多いように思う
「あの人が言ったから本当だよ!」や「あれだけの偉業を成し遂げてきた人ならではの言葉だね!」などその人以外のいわゆる凡人(私の含め)がその言葉を使っても聞き手には全く響かない
それはやはり人で判断しているにすぎないからだ
言葉は、その人物と切り離して考えることができる
誰が言おうと、言葉のみを切り取って考えてみる癖をつけるために今日も意識を改革中
そのためにも読書は外せない改革ツールだ
なにせ読書は相手の顔などわからなくても問題ないし、著者の経歴にすら興味を示さなくても十分言葉と出会うことができるから
ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです
この本の他の文章が気になった方下記のサイトで購入可能です。
文脈力こそが知性である (角川新書) [ 齋藤 孝 ] |
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