心の修行において、念覚支は重要な一端を担う。しかし、その修行は単純なものではない。修行者は、念の力を強化し、精神力を高めることに努める。知性、情緒、意志のバランスを崩さずに、それぞれの力を鍛えねばならない。だが、この修行は容易なことではない。知に偏ると理屈っぽくなり、情に流されると心が揺れ動き、意志が強すぎると頑固になる。だからこそ、バランスを保つことが肝要だ。そして、念そのものの力を神秘的なほどに高め、一点に集中した時には火花を散らすほどの力を持つようになる。その上で、「空観」を体得し、「四念処法」の修行を積むことで、諸法の実相を悟り、真実を見極める。この道は、宗教や信仰、哲学の中から真理を選び取る道であり、修行者は真実なるものを見極め、正しい信仰を選び取らねばならない。この修行は、自己の勉強と修行によって、真実を見極め、正しい道を歩むことに他ならない。
念力をつよくして
ノ一バランスをたもつ
これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっないと思います。
わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのものでらいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。
わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、念の力を強化する。
活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書いおきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ちっと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化すということですね。
それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。ういったものを非常に強化する訓練である。
もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま
知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。
要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。
人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こいがかたよりやすいわけです。
夏目漱石の『草枕』の書き出しに、
−知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。
だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。
情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。
意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということになりますね。
ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか
そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じて、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。
意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。
だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。
しかし、それだけじやない。
念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。
つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。
この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさとることになるわけです。
この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも
これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす
ということです。
択というのは、「選択」のタクでず。 略どない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。
つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。
正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、どういうことなんだろう? そう思ったことかありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知能によってそれをなすというところにあるわけです。 、
たとえば、つぎのようなことです。
お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、肘あたりしてぶつかっていっているわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しいか、正しくないか、ということをご自分でI生けんめい考えられたということです。
そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しくないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到達したわけです。
ですから、わたくしたちも、この択法覚文が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行によって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしなければいけないんです。
瞑想ひつとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想の先生、そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの瞑想のなかから、どれが正しい瞑想法なのか? どの先生が、正しい瞑想法を教えているのか? というこ
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