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2024年09月15日

 1135 彫刻刀




人体にとって、血液は酸素やビタミンを運び調節、無くてはならない重要な役割を果たす事はいうまでもないが、人生においては、その役目を好奇心が果たすのではないだろうか。
好奇心があるからこそ、知恵が湧きだし工夫もするし、トライも出来、幸せも湧き出る。
小学校時、貧しくてクレヨンが買えない、がしかしじっとしていなかった。
ふしん場を周り釘を見つけてくる。五寸釘は最高で、硬い木に打ちつけ、頭を火にくべ、トンカチで叩き、砥石で研ぐと色々な形の彫刻刀が出来る。
カエルやハト、面や仏像など彫りまくる。
デイゴの木は枯れると硬いが、生の状態は柔らかい。
石膏代わりに使えるのだ。メガネの木なるものがあるが、その木を切って自分の骨格に合わせ、自作の水中メガネ、ゴーグルを作る。
三角や四角いガラスを根気よくコソギ、丸くして取り付ける。
ヤラブの木の根に傷を付けると、蝋状の樹液が出る、それをガラスの隙間へつめる。
子供は骨格が毎年変わるので作り替えるのである。
ちなみに最初は竹で作ったが具合が悪いのでユナーの木で作った、水中メガネ発祥はこの島だと古老が言っていたが、定かでない。
最初は生芋で作ったそうだが、かろうじて一日しか使えなかったといっていた。
ひかるはかすかなチャンスを確実に生かしてきた、といえるのではないだろうか。
高校は叔父さん叔母さんのたらい回し世話でやっと出る。
当然就職するところを上京のチャンスを得る。
会社選び、周りは金に目がくらみ、条件のいい会社へいくが、ひかるはテレビ界を選ぶ。
しばらくは泣かず飛ばずの窓外族を決め込む。沖縄が本土復帰をし、パスポートを焼き捨てるとひかるは豹変したが、そこには訳があった。

 1134 簿記




石垣島の高校に理系コースはなく、ひかるは商業コースで簿記やそろばんを習い、上京後たった二年間夜学の理系専門コースを出、局入り。
昼間は重労働のため、勉強もままならない。
入社時、専門知識は同期の連中に比べれば雲泥の差で、かなり出遅れていたため、情報最先端のシステムは驚きの連続でしたが、好奇心の固まりのひかるにとって最高の場でした。
父の言った、思った通りやればいい、これは生涯ひかるの座右の銘、となった。
進路や会社選び、仕事の上、結婚など、誰にも相談することなく、存分に思った通りを貫いた。
おそらく、このブログを見ている人でひかるより恵まれない境遇にある人は皆無でしょう。
かすかなチャンスを確実に生かす。後へは引けない境遇が効を奏したといえるでしょう。
そう、島育ちの子供は15才で親の傘下を出、親離れする。
親の庇護から外れるという事は、辛酸を舐める事になるが、この人生の第一関門をどう乗り切るかがその先を大きく左右する。
二十代、それは人生のチャージをする時期です。
タケシも泣かず飛ばずの二十代があったし、テリーも書いた通りで、ひかるも同期にズルズル置いてけぼり。
ちょっとしたチャンスで豹変していったのである。
経験からして、人生で一番大事なのは好奇心ではないかと思います。
よく夢を諦めない・・なんて言われますが、むしろ何でもかんでも好奇心をもってあの手この手でトライし続ける事が大事だ。
死ぬまで好奇心を絶やすな!
ひかるがメディア先進国アメリカをギャフンといわせたい。
そして出来たと自負。クイズやワイドショーなどスタジオ中心時、ロケの映像を全国のお茶の間へ流せばどんな変化があるのかテレビがどう変わるのか、好奇心の延長線だった。
ランプで育ったひかるは入社早々局の心臓部テレシネマスター職場へ配属、そこは送信システム、膨大な送出機材、放送直前の素材管理、30局のローカル制御、衛星回線制御システムなど情報の最先端。
高校は地元に理系がないため商業コース出、目を見張るどころではない。
しかし寸暇を惜しんでラックの裏へ潜り込む。スタジオのラック裏、中継車のラック裏などすべて解明。旺盛な好奇心を満たす絶好の場であった。
後にひかるは中継車を自作、その中継車で生放送までやってのける。情報番組、渡辺浩之司会、正義の味方はひかる自作機放送番組であった。
キー局はネット問題、巨額のスポンサー費等を考えると、VTRやローカル番組は別とし、まず自作機の使用は認めないであろう。キー局の歴史に自作中継車生放送番組の項目があれば、たった一人ひかるの名前が載るであろう。
一時、ダンプ松本などの女子プロレスがはやった時期があったが、その時も裏方としてひかるの存在があった。内容的には中継車を持ち込む状態だったが、そうなると会場等で制約を受ける。
ひかるは映像システムをコンポーネント化しその都度ホールの隅で組み上げ、バラすシステムを作り上げたのである。システムエラーで番組に穴が開けば膨大なペナルティーを要求される。
今なら簡単に出来るが、当時は大きなリスクを伴う手法を実行できる人はいなかった。
女子プロレス番組を見た人なら、当時他の番組にはないリアリティーにとんだ番組であったことわかるであろう。番組制作費をかなり安く出来たのも当然だった。

 1133 高校




当然石垣島での下宿、高校を出ることなどあり得ないことだ。石垣島にいる父の弟、叔父が乗り込み、産まれた子が栄養が行き届かず三人も他界して、やっと出来た男の子だ、せめて高校くらいは出さないとあまりにもかわいそうだよ、と迫るが父は貝になるしかない。
とうとうひかるを叔父が引き取り、高校を出す事になり、一年おくれで入学。しかし二年も終わる頃、叔父と叔母の言い争いがひかるの耳に入る。
叔父はご用聞きの便利屋家業。五人もの子沢山が、自分の子供すら育てられないくせに他人の子供まで預かる甲斐性なしが・と。
二年終了で中退を決意し島に戻ると、今度は別の叔母さんが、もう少しだ、もったいない。私が預かると申し出、やっとの思いで卒業。
当然地元で働き親や周りに恩返しをすべきだが、どうしてもあの五コマ漫画の映画が見られるテレビが忘れられない。
父に上京を打ち明けると、思った通りやればいい、と絞り出すように言ったのである。
わずかばかりの、戻るに戻れない金。親や古里を捨て、本土玉砕を覚悟した特攻精神の原点。這いずっても引かない脳内プログラミングが出来てしまったのである。
ひかるはいつもあのカールブッセの、山の彼方の空遠く・幸い人の住むという・・を口ずさんでいたが、ひかるにとって、それは山ではなく海だった。
人口数百人の島から五万人の大都会、映画館のある石垣島。海の彼方の空遠く・・・
そして高校三年間、ひかるの脳内夢酵母は爆発的な発酵現象を起こし、沖縄本島を飛び越し、遙か海の彼方の空遠く、幸い人の住むという・・・東京があるという・・紙芝居ではない、映画が出るという魔法の箱、テレビがあるとという・・・
舳先へ立つひかるの視界に、巨大な東京、己の人生を存分にぶつけられる大舞台へたどり着いたのである。
人口数百人の島から五年後、一千万人の東京、そして放送界入り、全国のお茶の間、一億人を視野に活躍できる場を確保できたのである。
後は「これしかない!」
やるしかない、だった。

 1132 おいしい画どす




ところがこの男、とんでもない事をしでかすのであった。
野球中継の技術総責任者は、中継車の中でカメラやVTR、音声や照明等に指示を出し、画像を瞬時に切り替えるテクニカルディレクター(TD)である。
このTDは12台のカメラ、6台のスローなど18画面、音響や照明など、インターカムで繋がっており、適宜に指示、かなり経験を積んだ15年、20年選手が通常は座る。
まさかの出来事だが、このB君、五年を待たずしてTDの席へ座っていたのである。
当然大ベテランは自分がTD席へ座る番。10年早い! と怒鳴りつけ、足を引っ張りそうなものだが、どういう訳かB君にはトチらせたくない、という雰囲気を持ってホローしたくなる性格だ。
大先輩、三カメさん、頂きました、あんがとさん・・
およよ、五カメさん監督キープ・・おいしい画どす、OK。なんて、京弁丸だし。
怒号飛び交う車内の雰囲気が、がらりと変わっていたのだ。
TD経験大御所から・B君は君が採用したひかる組だろう、どこを見込んで採用した、と聞かれたが、こちらが質問したいところです、と答えた。
勿論、甲子園経験A君も同期に負けじと、現在でも切磋琢磨中である。
今宵も後輩たちの成長ぶりをテレビで楽しみ、晩酌するひかるである。
ひかる中学卒業時、小児麻痺の妹は7才、どん底生活だった。その日の食べ物すら確保できない状況。
忘れようにも忘れられない食べ物それはカタツムリだ。
食べ物も底をつき何もない。雨が降ると石垣の合間から小さなカタツムリが這い出る。それを沸かして食べるのである。
勿論醤油や味噌もない。ぬるぬるし、殻ごとジャリジャリたべるのである。
母は痩せこけ栄養失調状態だが、必死にひかるの命を繋いだのである。
フランス料理、カタツムリが高級料理らしいが、ひかるにとってはゾッとする食べ物、生涯口にする事はない。

 1131 映像分野アメリカ完敗




放送業界、歴史の最重要なVTR問題に立ち上がった人は一人もいなかった。アメリカへ立ちはだかった人はいなかった。
当時民放から見ると、国家予算にも匹敵する巨額の開発予算を行使していたNHKですら、このオメガ方式には関与する猶予はなかった。技術資料館にはオメガ方式、これに由来する物証は一行たりともないでしょう。
このオメガ方式、電子編集こそがNASA開発のVR-300を駆逐し、日本が先進国アメリカを一気に抜き去り、映像王国にのし上がった瞬間である。
ひかるは3年で方式問題、編集問題をクリアー、5年後にはアメリカ大リーグがお手本にするスローVTRを多用した番組をつくりあげたのだ。
全国のお茶の間が明るくなった事はいうまでもない。
チャンネルや電波の系列など、小さすぎる、コタツでテレビを楽しむ全国の人々を常に意識しろ、が口癖。
ひかるの上司は慶応大卒の切れ者と言われた人物だったが、ひかるの事は、タイ二ン(大人)タイ二ンと呼び、全幅の信頼をおいていた。
未来の番組作りを託せる社員を採用しよう、とひかるは新人採用に乗り出す。
サッカー番組の台頭は著しいものがあったが、当面野球は続くだろう、と考え野球番組メンバー採用を優先させ、筆記試験、書類選考から面接へと進んだ。
その中に甲子園出場者がいたので当確にしたA君、もう一人どうしても拍子抜けするB君がいた。
京都出身で、名前も公家が使う名前、応答が京都弁でくる。スポーツ系でもなく文系でもない。なに系にもあてはまらないが、ドラマのカメラマンでもやらせば使えるかな、と採用を決める。
新人は2年間、ドラマや音楽、報道取材やワイドショーなど、あらゆる番組の下働きをさせ、顔つなぎや適正を見極め、本人の希望も採り入れ、方向付けをし先輩に預け育てる。
一年が経った頃、つかみどころのないB君をどのジャンルへ当てるか悩んでいた。
しゃべりや対応のしかた、ふにゃふにゃに見え、どうやっていいのか、リンダ節、こまっちゃうな〜と歌いたくなる心境、が本人から野球をやらせて欲しいと言ってきたので、とりあえずやらせてみることにした。
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