2016年07月04日
天国に入るためには何が必要なのだろうか。
前回の投稿から、月日がだいぶ経ってしまった。もう年も明け、2016年も折り返し地点を過ぎてしまった。
さて、その遠い昔の話だが、前回は「主に縋る」と言うのはどういうことかということを、黄な粉もちを題材に考察してみた。
今回は、イェシュアとある一人の若者との会話から、天国(ある者は極楽浄土と言うのだろうが)に入るためには、何が求められているのかということについて考察してみようと思う。
マタイによる福音書19章17〜26節にこう書いてある。
一人の人がイェシュアのもとに来て言った。「先生。永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
イェシュアは彼に言われた。「なぜ、善いことについて私に尋ねるのですか。善い方は一人だけです。もし、命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は、「どの戒めですか」と言った。
そこで、イェシュアは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイェシュアに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イェシュアは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上で、私についてきなさい。」
ところが、青年はこの言葉を聞くと、悲しんで去っていった。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イェシュアは弟子たちに言われた。「真に、あなた方に告げます。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。真に、あなた方にもう一度告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっと易しい。」
弟子たちは、これを聞くと、大変驚いて言った。「それでは、誰が救われることができるのでしょう。」
イェシュアは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
この部分は、聖書の中でも理解に苦しむ部分のひとつである。なぜか。それは、われわれ人間の持つ常識をはるかに凌駕した神の教えであるからに他ならない。
たとえて言うなら、ノーベル賞科学者が何十年もかけて研究してきた業績を幼稚園児に噛み砕いて教えようにも、「?」と言う反応しか返ってこないことになぞらえる事ができる。
いや、逆に、いかに殺人犯の量刑を軽くし、あわよくば無罪を勝ち取ることのできる老獪な敏腕弁護士が、幼稚園児の、「人殺しは悪いこと!」と言う言葉に対し、「いや、これこれしかじかの場合において、これこれの方法でやむをえない場合と認定されうるべき状況で、本人は本当に心の底からは望んでいないと思われる中、緊急避難的に行なわざるを得なかった最終的に相手の生命に危害を加えうる可能性のあるあくまでも防衛的な意図を含んだ行為については、人殺しと言うにはあまりにも短絡的過ぎるから云々・・・」と、「理解をしようとしない」というたとえのほうがもっとふさわしいのかもしれない。
この場面で何が起こっているのか、考察してみたい。
ここでイェシュアに質問した青年は、「主に縋る」と言う状況を求めてはいないことが推測される。その論拠は以下のとおりである。
まず、質問の中で、彼が問いたかったことは、言い換えれば、「何をすれば永遠の命が得られるのか」、つまり、「天国に入るために何をすればよいか」ということである。さらに簡潔にすれば、「天国の入場券」は何か、と聞いているのである。
「入場券」というものは、それを持っていれば、「確実に入ることができる」事が保障されている。たとえば、やくざの大親分であろうが、総理大臣であろうが、乞食であろうが、ディズニーランドの入場券を持っていれば、ディズニーの「天国」に入ることができる。というようなものである。
しかし、聖書の中で述べられている「天国に入る」ということは、このような、「入場券」を入手していればそれでよい。というものではない。もし、そのように思っているのであれば、これは非常に重大な誤解であり、大変危険な偽者の「福音」を信じていることになる。
この若者は、心の中では、「自らの今の状態を保ったまま、天の国に入り、永遠の命を満喫するには何をすればよいのか。」とイェシュアに問うているのであるからこそ、イェシュアが、その若者の持つ全ての財産を売り払って貧しい人に与え、その上で彼に従うように伝えたのであり、それを聞いたからこそ、若者は非常に悲しんで去っていったのである。
しかも、このやり取りを聞いていた弟子たちですら、この状況を理解できていなかったことが読み取れる。それは、弟子たちが、「それでは誰が救われることができるのでしょう。」と言って大変驚いたことからうかがい知れる。
ここでは、弟子たちも、「救われるためには、律法を守っていればよい」という考え、を持っていた。それは彼らが、イェシュアの述べ伝えている本物の福音を理解せず、自分たちの考える、律法による「まがい物の福音」からまだ離れられていなかったからである。
では、イェシュアが述べ伝えた福音とは、いったいなんであろうか。
この箇所に関連するイェシュアのほかの言葉を拾い集めてみる。
・「誰でも、私に付いて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私に付いて来なさい。命を救おうと思うものはそれを失い、私のために命を失うものは、それを見出すのです。」(マタイによる福音書16章24〜25節)
・「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。また、私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。自分の十字架を負って私に付いて来ない者は、私にふさわしい者ではありません。自分の命を自分の物とした者はそれを失い、私のために自分の命を失った者は、それを自分の物とします。」(マタイによる福音書10章37〜39節)
・「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天に居られる私の父の御心を行う者が入るのです。」(マタイによる福音書7章21節)
・「私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に立てられていたからです。また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイによる福音書7章24〜27節)
・「誰も、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイによる福音書6章24節)
・「真に、あなた方に告げます。もしあなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義に勝るものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。」
・「あなた方は誰でも、自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。」(ルカによる福音書14章33節)
これらのイェシュアの言葉を見ていくと、イェシュアの弟子になること、天の御国に入ること、神に仕えることは、まさに、「全てを賭ける」覚悟が要求されていることが見て取れる。先の若者のように、簡単に「善い行いを行うことで」天国行きの切符を手に入れようとするのが如何に不十分なのかがよくわかるのではなかろうか。
だから、弟子たちですら、「それでは誰が救われることができるのでしょう。」と言うのである。
では、神の生ける御言葉であるイェシュアはどのような者が天の御国で求められていると言っているのだろうか。
詩篇119編にはこう書かれている。
幸いなことよ。
全き道を行く人々、
主の御教えによって歩む人々。
幸いなことよ。
主の諭しを守り、
心を尽くして主を尋ね求める人々。
真に、彼らは不正を行わず、
主の道を歩む。(1〜3)
どのようにして若い人は自分の道を
清く保てるでしょうか。
あなたの言葉に従ってそれを守ることです。
私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
どうか私が、あなたの仰せから
迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、
私は、あなたの言葉を心に蓄えました。(9〜11)
私は、あなたの諭しの道を、
どんな宝よりも、楽しんでいます。
私は、あなたの戒めに思いを潜め、
あなたの道に私の目を留めます。
私は、あなたの掟を喜びとし、
あなたの言葉を忘れません。(14〜16)
私の魂は、いつもあなたの裁きを慕い、
砕かれています(20)
私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。
私は、この道を喜んでいますから。
私の心をあなたの諭しに傾かせ、
不正な利得に傾かないようにしてください。
むなしいものを見ないように私の目をそらせ、
あなたの道に私を生かしてください。
あなたの言葉を、あなたの僕に果たし、
あなたを畏れるようにしてください。
私が恐れているそしりを取り去ってください。
あなたの裁きは優れて善いからです。
このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。
どうかあなたの義によって、私を生かしてください。(35〜40)
主は私の受ける分です。
私は、あなたの言葉を守ると申しました。
私は心を尽くして、あなたに請い求めます。
どうか、御言葉のとおりに、
私を哀れんでください。
私は、自分の道を省みて、
あなたの諭しのほうへ私の足を向けました。
私は急いで、ためらわずに、
あなたの仰せを守りました。(57〜60)
苦しみに会う前には、私は過ちを犯しました。
しかし今は、あなたの言葉を守ります。
あなたは慈しみ深くあられ、
慈しみを施されます。
どうか、あなたの掟を私に教えてください。
高ぶる者共は、私を偽りで塗り固めましたが、
私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。
彼らの心は脂肪のように鈍感です。
しかし、私あ、あなたの御教えを喜んでいます。
苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。
私はそれであなたの掟を学びました。あなたの御口の教えは、私にとって、
幾千の金銀に勝るものです。(67〜72)
もしあなたの御教えが私の喜びでなかったら、
私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
私はあなたの戒めを決して忘れません。
それによって、あなたは、
私を生かしてくださったからです。
私はあなたのもの。どうか私をお救いください。
私は、あなたの戒めを、求めています。(92〜94)
私は、いつも命がけでいなければなりません。
しかし私は、あなたのみ教えを忘れません。(109)
私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。(176)
これ以外の多くの聖書の箇所でも、同様なことが繰り返し述べられているが、神は自らの生ける御言葉であり、長子であるイェシュアやその他の多くの預言者の口を通じて、「心の底から主を愛し、命をかけて主の仰せに全力で従いたいと決意し、努めて御言葉を追い求め、それに従うことを喜びとする者」を求めているということがはっきりと述べられている。
これは単に、「地獄に行きたくないから」とか、「安らかになりたいから」律法を守るのとは全くわけが違う。このような者は、神がこれらの者を信仰の試練で試すとき、「神に従うことは私の得にはならない」と言って自ら神に従うことを諦める。
しかし、命をかけて、「神と共に歩みたい」と切に願う者は、自らの命が危険にさらされようとも、どのような侮辱や貧困に苦しめられようとも、それすらも「これを通じて主の掟を学ぶことができたので、私にとって幸せであった」と言い、「喜び勇んで」主の御言葉を守り行うのである。
そして、イェシュアのもたらした福音は、たとえそのような試みに遭って、耐えきれずに躓こうとも、それでもなお諦めずに主に付き従おうとする者を神はその御子イェシュアの名に免じて、豊かに許し、哀れみ、人には不可能でも神の圧倒的な力により、死から救い出すことを約束してくださっていることに他ならない。
だから、箴言にこうあるのだ。
正しい者は七たび倒れても、また起き上がる。(箴言24章16節)
天国に入るためには、何をすればよいのか。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、自らの神である主を愛し、たとえ躓こうとも諦めずに、イェシュアの御名により再び立ち上がって、主に従い続けることを飽くまでも続け通すことである。
躓いてもいい。失敗してもいい。(しないことに越したことは無いが)
それらを通じて心が折れようとも、(本当は鼻っ柱が折られていることが多いが)死にはしない。
なぜなら、主イェシュアの御名により、それでも主に従いたい、愛の道を進みたいと望む者には、神は豊かな許しと、慈しみと、癒しとを賜るからだ。
だから信仰を持つものは、いかなる状況においても決して揺るがされることが無いのだ。
そして、恐れ畏みつつも、大胆に主の御前に喜びつつ近づくことができるのだ。
だから、この世が示す貧乏や、死や、病や、苦しみや、艱難や、餓えや渇きなどは恐れるに足りないものになるのだ。
天の神と主イェシュアの御名に栄光と尊厳と誉れが永久にあるように!
さて、その遠い昔の話だが、前回は「主に縋る」と言うのはどういうことかということを、黄な粉もちを題材に考察してみた。
今回は、イェシュアとある一人の若者との会話から、天国(ある者は極楽浄土と言うのだろうが)に入るためには、何が求められているのかということについて考察してみようと思う。
マタイによる福音書19章17〜26節にこう書いてある。
一人の人がイェシュアのもとに来て言った。「先生。永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
イェシュアは彼に言われた。「なぜ、善いことについて私に尋ねるのですか。善い方は一人だけです。もし、命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は、「どの戒めですか」と言った。
そこで、イェシュアは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイェシュアに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イェシュアは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上で、私についてきなさい。」
ところが、青年はこの言葉を聞くと、悲しんで去っていった。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イェシュアは弟子たちに言われた。「真に、あなた方に告げます。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。真に、あなた方にもう一度告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっと易しい。」
弟子たちは、これを聞くと、大変驚いて言った。「それでは、誰が救われることができるのでしょう。」
イェシュアは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
この部分は、聖書の中でも理解に苦しむ部分のひとつである。なぜか。それは、われわれ人間の持つ常識をはるかに凌駕した神の教えであるからに他ならない。
たとえて言うなら、ノーベル賞科学者が何十年もかけて研究してきた業績を幼稚園児に噛み砕いて教えようにも、「?」と言う反応しか返ってこないことになぞらえる事ができる。
いや、逆に、いかに殺人犯の量刑を軽くし、あわよくば無罪を勝ち取ることのできる老獪な敏腕弁護士が、幼稚園児の、「人殺しは悪いこと!」と言う言葉に対し、「いや、これこれしかじかの場合において、これこれの方法でやむをえない場合と認定されうるべき状況で、本人は本当に心の底からは望んでいないと思われる中、緊急避難的に行なわざるを得なかった最終的に相手の生命に危害を加えうる可能性のあるあくまでも防衛的な意図を含んだ行為については、人殺しと言うにはあまりにも短絡的過ぎるから云々・・・」と、「理解をしようとしない」というたとえのほうがもっとふさわしいのかもしれない。
この場面で何が起こっているのか、考察してみたい。
ここでイェシュアに質問した青年は、「主に縋る」と言う状況を求めてはいないことが推測される。その論拠は以下のとおりである。
まず、質問の中で、彼が問いたかったことは、言い換えれば、「何をすれば永遠の命が得られるのか」、つまり、「天国に入るために何をすればよいか」ということである。さらに簡潔にすれば、「天国の入場券」は何か、と聞いているのである。
「入場券」というものは、それを持っていれば、「確実に入ることができる」事が保障されている。たとえば、やくざの大親分であろうが、総理大臣であろうが、乞食であろうが、ディズニーランドの入場券を持っていれば、ディズニーの「天国」に入ることができる。というようなものである。
しかし、聖書の中で述べられている「天国に入る」ということは、このような、「入場券」を入手していればそれでよい。というものではない。もし、そのように思っているのであれば、これは非常に重大な誤解であり、大変危険な偽者の「福音」を信じていることになる。
この若者は、心の中では、「自らの今の状態を保ったまま、天の国に入り、永遠の命を満喫するには何をすればよいのか。」とイェシュアに問うているのであるからこそ、イェシュアが、その若者の持つ全ての財産を売り払って貧しい人に与え、その上で彼に従うように伝えたのであり、それを聞いたからこそ、若者は非常に悲しんで去っていったのである。
しかも、このやり取りを聞いていた弟子たちですら、この状況を理解できていなかったことが読み取れる。それは、弟子たちが、「それでは誰が救われることができるのでしょう。」と言って大変驚いたことからうかがい知れる。
ここでは、弟子たちも、「救われるためには、律法を守っていればよい」という考え、を持っていた。それは彼らが、イェシュアの述べ伝えている本物の福音を理解せず、自分たちの考える、律法による「まがい物の福音」からまだ離れられていなかったからである。
では、イェシュアが述べ伝えた福音とは、いったいなんであろうか。
この箇所に関連するイェシュアのほかの言葉を拾い集めてみる。
・「誰でも、私に付いて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私に付いて来なさい。命を救おうと思うものはそれを失い、私のために命を失うものは、それを見出すのです。」(マタイによる福音書16章24〜25節)
・「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。また、私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。自分の十字架を負って私に付いて来ない者は、私にふさわしい者ではありません。自分の命を自分の物とした者はそれを失い、私のために自分の命を失った者は、それを自分の物とします。」(マタイによる福音書10章37〜39節)
・「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天に居られる私の父の御心を行う者が入るのです。」(マタイによる福音書7章21節)
・「私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に立てられていたからです。また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイによる福音書7章24〜27節)
・「誰も、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイによる福音書6章24節)
・「真に、あなた方に告げます。もしあなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義に勝るものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。」
・「あなた方は誰でも、自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。」(ルカによる福音書14章33節)
これらのイェシュアの言葉を見ていくと、イェシュアの弟子になること、天の御国に入ること、神に仕えることは、まさに、「全てを賭ける」覚悟が要求されていることが見て取れる。先の若者のように、簡単に「善い行いを行うことで」天国行きの切符を手に入れようとするのが如何に不十分なのかがよくわかるのではなかろうか。
だから、弟子たちですら、「それでは誰が救われることができるのでしょう。」と言うのである。
では、神の生ける御言葉であるイェシュアはどのような者が天の御国で求められていると言っているのだろうか。
詩篇119編にはこう書かれている。
幸いなことよ。
全き道を行く人々、
主の御教えによって歩む人々。
幸いなことよ。
主の諭しを守り、
心を尽くして主を尋ね求める人々。
真に、彼らは不正を行わず、
主の道を歩む。(1〜3)
どのようにして若い人は自分の道を
清く保てるでしょうか。
あなたの言葉に従ってそれを守ることです。
私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
どうか私が、あなたの仰せから
迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、
私は、あなたの言葉を心に蓄えました。(9〜11)
私は、あなたの諭しの道を、
どんな宝よりも、楽しんでいます。
私は、あなたの戒めに思いを潜め、
あなたの道に私の目を留めます。
私は、あなたの掟を喜びとし、
あなたの言葉を忘れません。(14〜16)
私の魂は、いつもあなたの裁きを慕い、
砕かれています(20)
私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。
私は、この道を喜んでいますから。
私の心をあなたの諭しに傾かせ、
不正な利得に傾かないようにしてください。
むなしいものを見ないように私の目をそらせ、
あなたの道に私を生かしてください。
あなたの言葉を、あなたの僕に果たし、
あなたを畏れるようにしてください。
私が恐れているそしりを取り去ってください。
あなたの裁きは優れて善いからです。
このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。
どうかあなたの義によって、私を生かしてください。(35〜40)
主は私の受ける分です。
私は、あなたの言葉を守ると申しました。
私は心を尽くして、あなたに請い求めます。
どうか、御言葉のとおりに、
私を哀れんでください。
私は、自分の道を省みて、
あなたの諭しのほうへ私の足を向けました。
私は急いで、ためらわずに、
あなたの仰せを守りました。(57〜60)
苦しみに会う前には、私は過ちを犯しました。
しかし今は、あなたの言葉を守ります。
あなたは慈しみ深くあられ、
慈しみを施されます。
どうか、あなたの掟を私に教えてください。
高ぶる者共は、私を偽りで塗り固めましたが、
私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。
彼らの心は脂肪のように鈍感です。
しかし、私あ、あなたの御教えを喜んでいます。
苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。
私はそれであなたの掟を学びました。あなたの御口の教えは、私にとって、
幾千の金銀に勝るものです。(67〜72)
もしあなたの御教えが私の喜びでなかったら、
私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
私はあなたの戒めを決して忘れません。
それによって、あなたは、
私を生かしてくださったからです。
私はあなたのもの。どうか私をお救いください。
私は、あなたの戒めを、求めています。(92〜94)
私は、いつも命がけでいなければなりません。
しかし私は、あなたのみ教えを忘れません。(109)
私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。(176)
これ以外の多くの聖書の箇所でも、同様なことが繰り返し述べられているが、神は自らの生ける御言葉であり、長子であるイェシュアやその他の多くの預言者の口を通じて、「心の底から主を愛し、命をかけて主の仰せに全力で従いたいと決意し、努めて御言葉を追い求め、それに従うことを喜びとする者」を求めているということがはっきりと述べられている。
これは単に、「地獄に行きたくないから」とか、「安らかになりたいから」律法を守るのとは全くわけが違う。このような者は、神がこれらの者を信仰の試練で試すとき、「神に従うことは私の得にはならない」と言って自ら神に従うことを諦める。
しかし、命をかけて、「神と共に歩みたい」と切に願う者は、自らの命が危険にさらされようとも、どのような侮辱や貧困に苦しめられようとも、それすらも「これを通じて主の掟を学ぶことができたので、私にとって幸せであった」と言い、「喜び勇んで」主の御言葉を守り行うのである。
そして、イェシュアのもたらした福音は、たとえそのような試みに遭って、耐えきれずに躓こうとも、それでもなお諦めずに主に付き従おうとする者を神はその御子イェシュアの名に免じて、豊かに許し、哀れみ、人には不可能でも神の圧倒的な力により、死から救い出すことを約束してくださっていることに他ならない。
だから、箴言にこうあるのだ。
正しい者は七たび倒れても、また起き上がる。(箴言24章16節)
天国に入るためには、何をすればよいのか。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、自らの神である主を愛し、たとえ躓こうとも諦めずに、イェシュアの御名により再び立ち上がって、主に従い続けることを飽くまでも続け通すことである。
躓いてもいい。失敗してもいい。(しないことに越したことは無いが)
それらを通じて心が折れようとも、(本当は鼻っ柱が折られていることが多いが)死にはしない。
なぜなら、主イェシュアの御名により、それでも主に従いたい、愛の道を進みたいと望む者には、神は豊かな許しと、慈しみと、癒しとを賜るからだ。
だから信仰を持つものは、いかなる状況においても決して揺るがされることが無いのだ。
そして、恐れ畏みつつも、大胆に主の御前に喜びつつ近づくことができるのだ。
だから、この世が示す貧乏や、死や、病や、苦しみや、艱難や、餓えや渇きなどは恐れるに足りないものになるのだ。
天の神と主イェシュアの御名に栄光と尊厳と誉れが永久にあるように!
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