2015年07月05日
「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。」
なんと諍いの多い現代なのだろうか。日々今の状況を悲しく思いつつ、自分にできることをちまちま行っている今日この頃である。
仲間割れというのはあまり見ていて気分がよいものではない。自分の子供が兄弟げんかをしているのを見るにつけ、「どっちもどっちじゃ!」と突込みと拳骨を入れたくなる衝動を押えつつ、これがなぜ起こるのかということを諭す毎日である。
イェシュアが悪霊に取りつかれ苦しんでいる人からその人を苦しめている悪霊を追い出し、悪霊の呪縛から人々を自由にさせているとき、その教えがあまりにも世の人の常識からかけ離れていて奇怪に映った。周りの人は教えていることの意味が解らないために「あいつはキチガイだ」とイェシュアにレッテルを張ったが、その奇蹟自体は否定することができなかった。そのため、訳知り顔の律法学者は以下のように解説したと聖書に書かれている。
マルコの福音書3章22節
エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。
ベルゼブルというのは悪魔のかしらみたいなもので、言ってみればボスキャラである。本来は邪神バアルと同義であるが、これはまた別の話になる。要するに、自らは神の律法を守る善人であると自負している律法学者は、イェシュアのしている事を「取りついた悪霊を、その悪霊のボスキャラの命令で追い出してんだよ」と説明しているのである。
イェシュアはそのような彼らにこう答えている。
マルコの福音書3章23〜26節
そこでイェシュアは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」
なぜにそのような内輪もめが起こるのか。それはイェシュアの最初の弟子のひとりであるヤコブがその手紙で解説してくれている。少々長くなるが、きちんと説明されているのでその個所をしっかりと読んでみたい。
ヤコブ4章1〜12
何が原因で、あなた方の間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方の体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
それとも、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書の言葉が、無意味だと思うのですか。
しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
ですから、、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗い清めなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 あなた方は、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなた方の笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます。
兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟を裁く者は、律法の悪口を言い、律法を裁いているのです。あなたが、もし律法を裁くなら、律法を守る者ではなくて、裁く者です。
律法を定め、裁きを行う方は、ただ一人であり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人を裁くあなたは、いったい何者ですか。
ヤコブは、争いの原因は我々の体の中で戦う欲望が原因であるといっている。内輪もめをするということは、つまり「仲間の中で各々違う欲望がうごめいており、それぞれがそれぞれの欲望をコントロールすることができていない。」ということに他ならない。
仲間の中で違う意見がある?まあ、人それぞれで意見は異なるから、それは致し方ないのであろう。しかし若し本当に仲間なのであれば、それをお互い腹を割って話し合い、お互いが良いと思えるようになる形で様々な議論をし、譲り合うところは譲り合い、相手が絶対に飲めないと言うものはそれを受け入れ、飲めるようなものを互いに協力して探求するという姿勢があるべきではなかろうか。
これは個人対個人のレベルから、団体対団体、地域対地域、国対国に至るまで幅広い場面で行われるものであろう。
ところがである。それが常にできるのであれば、争いなど起こるはずもないのである。
ここでイェシュアや、その弟子であるヤコブが言っているレベルは、もう双方の意見が完全に異なり、お互いが絶対に譲れないものがぶつかるという場合の話をしているのである。その際に、イェシュアが教えた、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」(マタイの福音書7章12節)という教えに従い、「もし本当に自分にとってこれは飲めないというようなことは人から強いられたくないのだから、私が望むものは諦めよう。」とすることが神の律法に適っているという事がわかる。
これを自らの望みを是が非でも通そうとするために、あらゆる手立てを使って拒否している相手に無理強いをするのは、これは律法に適わない事である。(何度私もそういう事をして後で煮え湯を飲まされてきた事か・・・)
律法に適わない事をする者は、いずれ神からの裁きが下るという事でもある。
その様なことを知らない我々凡人は、そのような罪を犯し続けていることにさえ気が付かずにいる。しかし、神の憐みにより、その罪の裁きである我々の受けるべき死刑宣告を、かたくなに受け入れたくないと拒否している我々の代わりにその裁きをその身に受け、身代わりとなることによって、イェシュアは我々が、我々のその頑なな思いを捨て、主である神に対して自らへりくだって悔い改めることを選ぶことにより、神様との和解ができるようにしてくださったというわけである。これこそが、「よい知らせ」つまり福音なのである。
だから、神様は罪の罰を受けるのを頑なに拒否している我々に対し、それを無理強いすることを一度止め、神のほうが折れて自らの一人息子であるイェシュアを犠牲にし、神との和解を望む者のために道を開かれたのである。だから、イェシュアが罪なき神のたった一人の御子であり、彼が我々の代わりにその身に我々の罪の裁きである死の責めを負い、十字架に懸って死なれたという事を信じ、その赦しに与りたいと思うものはだれでも許される。のである。
その許された者が集う所こそ、天の御国であり、そこでは皆が兄弟姉妹という事になるわけなのだが、救われた者同士が互いにいがみ合ったり、争い合ったりしているのであれば、もはやその者どもは神の顔に泥を塗る輩と成り下がってしまっているのである。だからイェシュアは、「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」と言っているのである。(よくわからない場合は同タイトルの過去記事をご一読あれ)
これについては別の機会にもう少し掘り下げてみたいと思う。
さて、ここで神が絶対に譲れないものとは何であろうか。それは「義」である。それはイェシュアも、「神の国と神の義とをまず求めなさい」(マタイの福音書6章33節)と言っていることからもわかるだろう。人が絶対に譲れないものは何か。それがその人の「神」なのである。その人の崇める「神」が、天地を作り、全てを支配している真実の生ける神ヤハウェ以外の物であった場合には、聖書ではそれを「偶像」と呼んでいるのである。悪魔は神でもないのに神になろうと足掻いている被創造物(天使、つまり堕天使ルシファー)であるので、自分が神のように崇め奉られることを望んでいるのであるが、そのためには手段を択ばない残虐な者である。人を恐怖で縛りつけ、「私の言う事を聞かぬと命はないぞ」と脅してみたり、人の欲につけ入り、「私を拝み、崇め奉れば、あなたの望む者は何でもかなえてやろう」とそそのかしてみたりするのである。だから、人が最も望む物である、富、名声、権力といったものには魔物が潜んでいるのである。「好事魔多し」というのとほぼ同じことである。だからこそ、イェシュアは、「あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。」(マタイの福音書6章24節後段)と言っているのである。
だから、前出のヤコブは、「あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と言っているのである。
イェシュアは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイの福音書7章7節)と言って、あなたの望む物は神に請い求め、神の時を待ちなさいと教えているのである。信じなさい。神はあなたを本当に心から愛し、守りたいと望んでいるのです。その愛を信じられない者たちが、自らの手で自らの欲しいものを自分勝手に求め、手に入れようと足掻いているからこそ、今の世には争いが絶えないのです。このままずっと家族が、地域が、国民がお互いの首を絞め合うようでは、近い将来、家庭や地域、果ては国全体が取り返しのつかないほどに破滅する事になるのではないか、と私は大いに憂いているのです。
仲間割れというのはあまり見ていて気分がよいものではない。自分の子供が兄弟げんかをしているのを見るにつけ、「どっちもどっちじゃ!」と突込みと拳骨を入れたくなる衝動を押えつつ、これがなぜ起こるのかということを諭す毎日である。
イェシュアが悪霊に取りつかれ苦しんでいる人からその人を苦しめている悪霊を追い出し、悪霊の呪縛から人々を自由にさせているとき、その教えがあまりにも世の人の常識からかけ離れていて奇怪に映った。周りの人は教えていることの意味が解らないために「あいつはキチガイだ」とイェシュアにレッテルを張ったが、その奇蹟自体は否定することができなかった。そのため、訳知り顔の律法学者は以下のように解説したと聖書に書かれている。
マルコの福音書3章22節
エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。
ベルゼブルというのは悪魔のかしらみたいなもので、言ってみればボスキャラである。本来は邪神バアルと同義であるが、これはまた別の話になる。要するに、自らは神の律法を守る善人であると自負している律法学者は、イェシュアのしている事を「取りついた悪霊を、その悪霊のボスキャラの命令で追い出してんだよ」と説明しているのである。
イェシュアはそのような彼らにこう答えている。
マルコの福音書3章23〜26節
そこでイェシュアは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」
なぜにそのような内輪もめが起こるのか。それはイェシュアの最初の弟子のひとりであるヤコブがその手紙で解説してくれている。少々長くなるが、きちんと説明されているのでその個所をしっかりと読んでみたい。
ヤコブ4章1〜12
何が原因で、あなた方の間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方の体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
それとも、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書の言葉が、無意味だと思うのですか。
しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
ですから、、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗い清めなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 あなた方は、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなた方の笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます。
兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟を裁く者は、律法の悪口を言い、律法を裁いているのです。あなたが、もし律法を裁くなら、律法を守る者ではなくて、裁く者です。
律法を定め、裁きを行う方は、ただ一人であり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人を裁くあなたは、いったい何者ですか。
ヤコブは、争いの原因は我々の体の中で戦う欲望が原因であるといっている。内輪もめをするということは、つまり「仲間の中で各々違う欲望がうごめいており、それぞれがそれぞれの欲望をコントロールすることができていない。」ということに他ならない。
仲間の中で違う意見がある?まあ、人それぞれで意見は異なるから、それは致し方ないのであろう。しかし若し本当に仲間なのであれば、それをお互い腹を割って話し合い、お互いが良いと思えるようになる形で様々な議論をし、譲り合うところは譲り合い、相手が絶対に飲めないと言うものはそれを受け入れ、飲めるようなものを互いに協力して探求するという姿勢があるべきではなかろうか。
これは個人対個人のレベルから、団体対団体、地域対地域、国対国に至るまで幅広い場面で行われるものであろう。
ところがである。それが常にできるのであれば、争いなど起こるはずもないのである。
ここでイェシュアや、その弟子であるヤコブが言っているレベルは、もう双方の意見が完全に異なり、お互いが絶対に譲れないものがぶつかるという場合の話をしているのである。その際に、イェシュアが教えた、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」(マタイの福音書7章12節)という教えに従い、「もし本当に自分にとってこれは飲めないというようなことは人から強いられたくないのだから、私が望むものは諦めよう。」とすることが神の律法に適っているという事がわかる。
これを自らの望みを是が非でも通そうとするために、あらゆる手立てを使って拒否している相手に無理強いをするのは、これは律法に適わない事である。(何度私もそういう事をして後で煮え湯を飲まされてきた事か・・・)
律法に適わない事をする者は、いずれ神からの裁きが下るという事でもある。
その様なことを知らない我々凡人は、そのような罪を犯し続けていることにさえ気が付かずにいる。しかし、神の憐みにより、その罪の裁きである我々の受けるべき死刑宣告を、かたくなに受け入れたくないと拒否している我々の代わりにその裁きをその身に受け、身代わりとなることによって、イェシュアは我々が、我々のその頑なな思いを捨て、主である神に対して自らへりくだって悔い改めることを選ぶことにより、神様との和解ができるようにしてくださったというわけである。これこそが、「よい知らせ」つまり福音なのである。
だから、神様は罪の罰を受けるのを頑なに拒否している我々に対し、それを無理強いすることを一度止め、神のほうが折れて自らの一人息子であるイェシュアを犠牲にし、神との和解を望む者のために道を開かれたのである。だから、イェシュアが罪なき神のたった一人の御子であり、彼が我々の代わりにその身に我々の罪の裁きである死の責めを負い、十字架に懸って死なれたという事を信じ、その赦しに与りたいと思うものはだれでも許される。のである。
その許された者が集う所こそ、天の御国であり、そこでは皆が兄弟姉妹という事になるわけなのだが、救われた者同士が互いにいがみ合ったり、争い合ったりしているのであれば、もはやその者どもは神の顔に泥を塗る輩と成り下がってしまっているのである。だからイェシュアは、「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」と言っているのである。(よくわからない場合は同タイトルの過去記事をご一読あれ)
これについては別の機会にもう少し掘り下げてみたいと思う。
さて、ここで神が絶対に譲れないものとは何であろうか。それは「義」である。それはイェシュアも、「神の国と神の義とをまず求めなさい」(マタイの福音書6章33節)と言っていることからもわかるだろう。人が絶対に譲れないものは何か。それがその人の「神」なのである。その人の崇める「神」が、天地を作り、全てを支配している真実の生ける神ヤハウェ以外の物であった場合には、聖書ではそれを「偶像」と呼んでいるのである。悪魔は神でもないのに神になろうと足掻いている被創造物(天使、つまり堕天使ルシファー)であるので、自分が神のように崇め奉られることを望んでいるのであるが、そのためには手段を択ばない残虐な者である。人を恐怖で縛りつけ、「私の言う事を聞かぬと命はないぞ」と脅してみたり、人の欲につけ入り、「私を拝み、崇め奉れば、あなたの望む者は何でもかなえてやろう」とそそのかしてみたりするのである。だから、人が最も望む物である、富、名声、権力といったものには魔物が潜んでいるのである。「好事魔多し」というのとほぼ同じことである。だからこそ、イェシュアは、「あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。」(マタイの福音書6章24節後段)と言っているのである。
だから、前出のヤコブは、「あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と言っているのである。
イェシュアは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイの福音書7章7節)と言って、あなたの望む物は神に請い求め、神の時を待ちなさいと教えているのである。信じなさい。神はあなたを本当に心から愛し、守りたいと望んでいるのです。その愛を信じられない者たちが、自らの手で自らの欲しいものを自分勝手に求め、手に入れようと足掻いているからこそ、今の世には争いが絶えないのです。このままずっと家族が、地域が、国民がお互いの首を絞め合うようでは、近い将来、家庭や地域、果ては国全体が取り返しのつかないほどに破滅する事になるのではないか、と私は大いに憂いているのです。
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