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2022年01月08日
出雲大社の祟り
平将門公
後世における武士の気風を作ったのはこの方ではないでしょうか。
武士のおこりとも言える兵を指揮し、この時代に「東の将門」を全国に知らしめた天慶の乱により没した後に、その御首は京都へ運ばれ縁者たちによって今の東京へ持ち帰り神田明神周辺に塚を築いたとされています。
恐れられたのは、やがて月日が流れ首塚が荒廃し天変地異が頻発し、疫病が流行して周辺に住む村人たちを苦しめたことによるそうです。
それが14世紀初頭の世の中であったことと、400年近く経っている事にも注目したいですね。
末法元年とも云われた1052年、平安の時代が終わりつつあり将門の呪いとも思われるような武士が台頭し始めた時代から、やがて鎌倉時代を迎えると法然を開祖とする浄土宗や浄土真宗が生まれましたが、この末法思想に立脚した阿弥陀如来の救済を説いていたのです。
その説かれる内容は念仏を唱えれば阿弥陀の極楽浄土へ逝けるといった認識から民衆に受け入れられ、当時の世相からも将門公のような「弱きを助け強きをくじく」武士像に救済を求める心理も働いていたのかもしれません。
他にも鎌倉時代にはもう一人、阿弥陀如来に帰依した有名な僧侶として一遍上人がいます。
その人たちが念仏を唱え遊行する「時宗」と呼ばれる人たちであり、その時宗の他阿(真教上人)が、一遍上人より引き継いだ時宗の念仏遊行の途中に立寄ったところ、村人たちに乞われて将門公の御霊を供養し「蓮阿弥陀仏」の法号を授与し、「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏徳治二年」と記された板碑を建立したのが1307年。
そしてなんと!これにより天変地異が止んだというのです。
そして上人は近くに芝崎道場日輪寺(現在浅草)を開基し、1309年に塚に近い神田明神に合祀して村の鎮守とした、というのが前回からの神田明神の歴史ですね。
平将門公は、東国、承平・天慶年間、猿島郡、現在の坂東市周辺を本拠地とした坂東武士の気風を作り出した人気者です。
自ら戦さの先頭にたつ勇ましさや、弱き者たちを助ける優しい心や命懸けの生き方が、江戸っ子たちにも受け継がれ、江戸が義理人情の町となったとまで云われたほど。
しかも将門公没後に京都で語られ、東国そして全国で作り出されて「将門伝説」になっていったのです。
さらに現在もオフィスビルひしめく東京の千代田区大手町の将門塚を中心に、「首塚伝説」を作り続け、GHQが首塚を工事してようとして呪いを受けたとか、お笑い芸能人が無礼を働いて仕事がなくなったとか、今もまさに伝説を作り続けています。
また、中世の東国武士の間では、自らの始祖を将門公に求める系図が形成されたりする中、千葉氏と相馬氏は、将門公の子孫として、将門公を頂点する東国武士の世界を築いていったようです。
他にも後北条氏からも厚い崇敬を受けていたようです。
そして北条氏の家臣として江戸城の遠山氏も神田明神を崇敬していたようで、当時の神主芝崎氏への書簡などが残されており、芝崎氏はもともと北条氏の家臣であったという記録も見られるのです。
北条氏といえば伊豆国出身の豪族で執権を行う鎌倉北条氏とも呼ばれています。
「三つのウロコ」の家紋から、いかにも三つの御霊と関連してそうな感じですね。
その地方には江ノ島に現れた弁財天の蛇神神話や五頭龍と弁財天の結婚など非常に神秘的な話があります。
江島神社には妙音弁財天と八臂弁財天が祀られています。
これはスサノオとアマテラスの弁財天を意味します。
スサノオが水(瑞)の御霊でアマテラスが火(厳)の御霊
厳はいずと読みますから、伊豆と比定できます。
また江ノ島の五頭龍であり牛頭天王の化身です。
厳(伊豆)の家臣として芝崎(スサノオの三つの御霊)が仕えていたとも考えられます。
私は他にもこうした主従関係を中臣・物部に当てはめたりします。
その原型は天照大神とアメノコヤネ(藤原)とアメノウズメ(物部)です。
ですから北条に対しては芝崎ともう一家の瑞霊に相当する家があるのではとも思います。
こうした瑞霊を背負う家系の特徴としては決まってスサノオ信仰であったり、牛頭天王を崇拝していますし、神社の茅の輪をくぐりながら「私は蘇民将来の子孫です」なんて言ってたりするんですね。
芝崎家にもそうした特徴があり、江戸氏の中にあってスサノオの祭祀をやっていた事と平将門につながる事を考えた場合、その先祖は平高望や桓武天皇につながっているのではないかということです。
すると武蔵江戸氏は桓武兵士ですからつながりますね。
だけど常陸江戸氏が近いですかね?その場合だと藤原につながりますから、モロにアメノコヤネと重なります。
平安時代末期、秀郷の子孫は那珂氏となり南北朝時代に佐竹氏に滅ぼされ、子の通高の代に「江戸氏」を称しています。
そういう流れであれば藤原(中臣)としての江戸氏(芝崎)がスサノオ(牛頭)を祀っていたこともわかります。
俯瞰してみると、その江戸氏が瑞霊として江戸をつくったということです。
厳霊はもちろん天皇が相応しいのですが、昭和に天皇が人間宣言をされてから変わってしまったようです。
どうも大正天皇と昭和天皇との間に何かがあったようです。
それは第九代開化天皇と第十代崇神天皇の間に「何か」があったのと同じことです。
つまり断絶するような何か。
それは何か、私はそれが簸川(出雲大社)の祟りだと考えています。
ホムチワケの呪いが、明治天皇の夭折した10人の子女と無関係であるわけがない、と思うのです。
そのために大正天皇は慢性的な脳膜炎という「障り」が出ていたのだと。
大正天皇の母が霊界物語の高姫なら貞明皇后はまさに「苦情の黒姫様」だったことでしょう。
その黒姫様の血は大河原家という高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であり、敷地に稲荷を祀る法華信者であったようです。
やはり氷川との因縁にも苦しめられたのではないでしょうか。
昭和天皇は本当の子ではないかもしれません。
それがホムチワケの祟りであり、呪われた結果だということです。
垂仁天皇の口のきけない御子ホムチワケがヒナガヒメと一夜を過ごした富能加(ほのか)神社の由緒では長穂の宮の古跡となっています。
ヒナガヒメはナーガ(龍王)になっているのではないでしょうか。
中臣が神武天皇たちと共に連れてきたウサツヒメに転生しているのかもしれません。
やがて藤原の血となり皇室を支配する霊力を発揮したのでしょう。
秀郷を支配する那珂でありナーガです。
それが鹿島と香取の「春日」の裏にある白山のチカラだとしたらどうでしょう。
一光三尊の阿弥陀如来も三角関係にドキドキしそうです。
古事記に登場する口のきけなかったホムチワケが話せるようになったキッカケは、アシワラシコオの祭祀場に来たときでした。
つまり、彼の前世霊が思い出させたのであり、ヒナガヒメの呪いはアシワラシコオから来ていることが考えられます。
また、ホムチワケはヒゲが胸まで垂れる年になっても口がきけなかった、というのはスサノオであるという意味です。
父親の垂仁天皇にナーガが夢を見せたのです。
それでホムチワケは出雲大社へ向かい、アシハラシコオを覚醒したのです。
ちなみに葦原許色男はイケメンという意味もあります。
ナーガはイケメンに恋した蛇女神だったのであり、ギリシャ神話ではヘラに比定(習合)されます。
また、アシハラシコオは大国主であり、スサノオの御子神でもあります。
その場合はスサノオの娘のスセリヒメを娶って後に襲名しています。
ところが大国主は越しのヌナカワヒメや宗像のタキリヒメ、鳥取神のトトリノカミなど在地の女神とも結ばれまくっています。
まさにゼウスです。
しかし大国主はスセリヒメより先にヤガミヒメとの間に子をもうけました。
それが木俣神(きのまたのかみ)です。
稲葉の白ウサギが結ばせた子供ですから、月の世界の月読(黄泉の国)世界です。
また常世の国のスクナヒコでありスサノオです。
その木俣神が御井神(みいのかみ)であり、気比のツヌガアラシトにつながり、アメノヒボコにつながるのです。
それは鉄(武器)を生んだ鍛冶の神であり、後の鹿島や香取の剣の神となったのです。
春日(鹿島・香取)の若宮は紀伊神社であり祭神の五十猛命はスサノオの御子神です。
春日の子供が熊野とすれば、御井神も木俣神も熊野スサノオということです。
そうすると、熊野のスサノオは出雲族から来た御子神であり、父神は鹿島・香取(春日)となり、母(叔母)が白山(菊理姫)となります。
ではヤガミヒメはイザナミの後身であり、スセリヒメは白山姫の後身ということになり、時代を超えてヒナガヒメになっている氷川神社の蛇神様ですね。
ですからアシワラシコオ(後のホムチワケ)とは2代目の大国主命ですね。
前回、四ツ谷の須賀神社の元は赤坂氷川と書きましたが、赤坂の地名は中世には見られません。
江戸時代以降であるようですが、赤坂氷川神社は武州豊島郡一ツ木村に祀られたのが始まりで、土地神を祀って或いは稲荷としていたのではないでしょうか。
赤坂の一ツ木原には六千年前の縄文土器や貝塚が見つかっているそうです。
桓武天皇の流れをくむ江戸氏の勢力下になったのは16世紀、北条氏の勝利によるものだったのです。
太田道灌亡き後の江戸城主を破ったのは高輪のあたりであったそう。
江戸氏の芝や崎などが見られるのは芝崎の影響もあったのでしょうか。
後に北条氏は家康に討たれますが、江戸氏は牛込氏にもなっているようです。
そちらも秀郷につながるのですが、大胡氏との関係が気になります。
もしかすると、赤坂氷川神社と赤城神社は関係大アリかもしれません。
江戸氏と皇室との関わりということです。
出雲族と皇族になると、
出雲大社と大正天皇ですね。
大正天皇の生母の柳原愛子が出雲大社から大国主命の分霊を取り寄せて皇居に祀ったことはすでに周知のとおりですが、貞明皇后の教育係となり子供の誕生を執拗に求めたことでしょう。
しかし大正時代は短命であった…
それでも昭和天皇が生まれた。
だが、それは実子であろうか…否、ヒナガヒメの祟りが成就してしまったのであります。
では昭和天皇のご正体はどなた様なのか、それはいずれ世の中に明らかになるでしょう。
後世における武士の気風を作ったのはこの方ではないでしょうか。
武士のおこりとも言える兵を指揮し、この時代に「東の将門」を全国に知らしめた天慶の乱により没した後に、その御首は京都へ運ばれ縁者たちによって今の東京へ持ち帰り神田明神周辺に塚を築いたとされています。
恐れられたのは、やがて月日が流れ首塚が荒廃し天変地異が頻発し、疫病が流行して周辺に住む村人たちを苦しめたことによるそうです。
それが14世紀初頭の世の中であったことと、400年近く経っている事にも注目したいですね。
末法元年とも云われた1052年、平安の時代が終わりつつあり将門の呪いとも思われるような武士が台頭し始めた時代から、やがて鎌倉時代を迎えると法然を開祖とする浄土宗や浄土真宗が生まれましたが、この末法思想に立脚した阿弥陀如来の救済を説いていたのです。
その説かれる内容は念仏を唱えれば阿弥陀の極楽浄土へ逝けるといった認識から民衆に受け入れられ、当時の世相からも将門公のような「弱きを助け強きをくじく」武士像に救済を求める心理も働いていたのかもしれません。
他にも鎌倉時代にはもう一人、阿弥陀如来に帰依した有名な僧侶として一遍上人がいます。
その人たちが念仏を唱え遊行する「時宗」と呼ばれる人たちであり、その時宗の他阿(真教上人)が、一遍上人より引き継いだ時宗の念仏遊行の途中に立寄ったところ、村人たちに乞われて将門公の御霊を供養し「蓮阿弥陀仏」の法号を授与し、「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏徳治二年」と記された板碑を建立したのが1307年。
そしてなんと!これにより天変地異が止んだというのです。
そして上人は近くに芝崎道場日輪寺(現在浅草)を開基し、1309年に塚に近い神田明神に合祀して村の鎮守とした、というのが前回からの神田明神の歴史ですね。
平将門公は、東国、承平・天慶年間、猿島郡、現在の坂東市周辺を本拠地とした坂東武士の気風を作り出した人気者です。
自ら戦さの先頭にたつ勇ましさや、弱き者たちを助ける優しい心や命懸けの生き方が、江戸っ子たちにも受け継がれ、江戸が義理人情の町となったとまで云われたほど。
しかも将門公没後に京都で語られ、東国そして全国で作り出されて「将門伝説」になっていったのです。
さらに現在もオフィスビルひしめく東京の千代田区大手町の将門塚を中心に、「首塚伝説」を作り続け、GHQが首塚を工事してようとして呪いを受けたとか、お笑い芸能人が無礼を働いて仕事がなくなったとか、今もまさに伝説を作り続けています。
また、中世の東国武士の間では、自らの始祖を将門公に求める系図が形成されたりする中、千葉氏と相馬氏は、将門公の子孫として、将門公を頂点する東国武士の世界を築いていったようです。
他にも後北条氏からも厚い崇敬を受けていたようです。
そして北条氏の家臣として江戸城の遠山氏も神田明神を崇敬していたようで、当時の神主芝崎氏への書簡などが残されており、芝崎氏はもともと北条氏の家臣であったという記録も見られるのです。
北条氏といえば伊豆国出身の豪族で執権を行う鎌倉北条氏とも呼ばれています。
「三つのウロコ」の家紋から、いかにも三つの御霊と関連してそうな感じですね。
その地方には江ノ島に現れた弁財天の蛇神神話や五頭龍と弁財天の結婚など非常に神秘的な話があります。
江島神社には妙音弁財天と八臂弁財天が祀られています。
これはスサノオとアマテラスの弁財天を意味します。
スサノオが水(瑞)の御霊でアマテラスが火(厳)の御霊
厳はいずと読みますから、伊豆と比定できます。
また江ノ島の五頭龍であり牛頭天王の化身です。
厳(伊豆)の家臣として芝崎(スサノオの三つの御霊)が仕えていたとも考えられます。
私は他にもこうした主従関係を中臣・物部に当てはめたりします。
その原型は天照大神とアメノコヤネ(藤原)とアメノウズメ(物部)です。
ですから北条に対しては芝崎ともう一家の瑞霊に相当する家があるのではとも思います。
こうした瑞霊を背負う家系の特徴としては決まってスサノオ信仰であったり、牛頭天王を崇拝していますし、神社の茅の輪をくぐりながら「私は蘇民将来の子孫です」なんて言ってたりするんですね。
芝崎家にもそうした特徴があり、江戸氏の中にあってスサノオの祭祀をやっていた事と平将門につながる事を考えた場合、その先祖は平高望や桓武天皇につながっているのではないかということです。
すると武蔵江戸氏は桓武兵士ですからつながりますね。
だけど常陸江戸氏が近いですかね?その場合だと藤原につながりますから、モロにアメノコヤネと重なります。
平安時代末期、秀郷の子孫は那珂氏となり南北朝時代に佐竹氏に滅ぼされ、子の通高の代に「江戸氏」を称しています。
そういう流れであれば藤原(中臣)としての江戸氏(芝崎)がスサノオ(牛頭)を祀っていたこともわかります。
俯瞰してみると、その江戸氏が瑞霊として江戸をつくったということです。
厳霊はもちろん天皇が相応しいのですが、昭和に天皇が人間宣言をされてから変わってしまったようです。
どうも大正天皇と昭和天皇との間に何かがあったようです。
それは第九代開化天皇と第十代崇神天皇の間に「何か」があったのと同じことです。
つまり断絶するような何か。
それは何か、私はそれが簸川(出雲大社)の祟りだと考えています。
ホムチワケの呪いが、明治天皇の夭折した10人の子女と無関係であるわけがない、と思うのです。
そのために大正天皇は慢性的な脳膜炎という「障り」が出ていたのだと。
大正天皇の母が霊界物語の高姫なら貞明皇后はまさに「苦情の黒姫様」だったことでしょう。
その黒姫様の血は大河原家という高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であり、敷地に稲荷を祀る法華信者であったようです。
やはり氷川との因縁にも苦しめられたのではないでしょうか。
昭和天皇は本当の子ではないかもしれません。
それがホムチワケの祟りであり、呪われた結果だということです。
垂仁天皇の口のきけない御子ホムチワケがヒナガヒメと一夜を過ごした富能加(ほのか)神社の由緒では長穂の宮の古跡となっています。
ヒナガヒメはナーガ(龍王)になっているのではないでしょうか。
中臣が神武天皇たちと共に連れてきたウサツヒメに転生しているのかもしれません。
やがて藤原の血となり皇室を支配する霊力を発揮したのでしょう。
秀郷を支配する那珂でありナーガです。
それが鹿島と香取の「春日」の裏にある白山のチカラだとしたらどうでしょう。
一光三尊の阿弥陀如来も三角関係にドキドキしそうです。
古事記に登場する口のきけなかったホムチワケが話せるようになったキッカケは、アシワラシコオの祭祀場に来たときでした。
つまり、彼の前世霊が思い出させたのであり、ヒナガヒメの呪いはアシワラシコオから来ていることが考えられます。
また、ホムチワケはヒゲが胸まで垂れる年になっても口がきけなかった、というのはスサノオであるという意味です。
父親の垂仁天皇にナーガが夢を見せたのです。
それでホムチワケは出雲大社へ向かい、アシハラシコオを覚醒したのです。
ちなみに葦原許色男はイケメンという意味もあります。
ナーガはイケメンに恋した蛇女神だったのであり、ギリシャ神話ではヘラに比定(習合)されます。
また、アシハラシコオは大国主であり、スサノオの御子神でもあります。
その場合はスサノオの娘のスセリヒメを娶って後に襲名しています。
ところが大国主は越しのヌナカワヒメや宗像のタキリヒメ、鳥取神のトトリノカミなど在地の女神とも結ばれまくっています。
まさにゼウスです。
しかし大国主はスセリヒメより先にヤガミヒメとの間に子をもうけました。
それが木俣神(きのまたのかみ)です。
稲葉の白ウサギが結ばせた子供ですから、月の世界の月読(黄泉の国)世界です。
また常世の国のスクナヒコでありスサノオです。
その木俣神が御井神(みいのかみ)であり、気比のツヌガアラシトにつながり、アメノヒボコにつながるのです。
それは鉄(武器)を生んだ鍛冶の神であり、後の鹿島や香取の剣の神となったのです。
春日(鹿島・香取)の若宮は紀伊神社であり祭神の五十猛命はスサノオの御子神です。
春日の子供が熊野とすれば、御井神も木俣神も熊野スサノオということです。
そうすると、熊野のスサノオは出雲族から来た御子神であり、父神は鹿島・香取(春日)となり、母(叔母)が白山(菊理姫)となります。
ではヤガミヒメはイザナミの後身であり、スセリヒメは白山姫の後身ということになり、時代を超えてヒナガヒメになっている氷川神社の蛇神様ですね。
ですからアシワラシコオ(後のホムチワケ)とは2代目の大国主命ですね。
前回、四ツ谷の須賀神社の元は赤坂氷川と書きましたが、赤坂の地名は中世には見られません。
江戸時代以降であるようですが、赤坂氷川神社は武州豊島郡一ツ木村に祀られたのが始まりで、土地神を祀って或いは稲荷としていたのではないでしょうか。
赤坂の一ツ木原には六千年前の縄文土器や貝塚が見つかっているそうです。
桓武天皇の流れをくむ江戸氏の勢力下になったのは16世紀、北条氏の勝利によるものだったのです。
太田道灌亡き後の江戸城主を破ったのは高輪のあたりであったそう。
江戸氏の芝や崎などが見られるのは芝崎の影響もあったのでしょうか。
後に北条氏は家康に討たれますが、江戸氏は牛込氏にもなっているようです。
そちらも秀郷につながるのですが、大胡氏との関係が気になります。
もしかすると、赤坂氷川神社と赤城神社は関係大アリかもしれません。
江戸氏と皇室との関わりということです。
出雲族と皇族になると、
出雲大社と大正天皇ですね。
大正天皇の生母の柳原愛子が出雲大社から大国主命の分霊を取り寄せて皇居に祀ったことはすでに周知のとおりですが、貞明皇后の教育係となり子供の誕生を執拗に求めたことでしょう。
しかし大正時代は短命であった…
それでも昭和天皇が生まれた。
だが、それは実子であろうか…否、ヒナガヒメの祟りが成就してしまったのであります。
では昭和天皇のご正体はどなた様なのか、それはいずれ世の中に明らかになるでしょう。