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2022年01月05日
亀戸天神社について
神田明神と亀戸天神社とは深い関係にあるようです。
さらに大鳥居家とも関係しています。
天満宮といえば、菅原道真公を祀る太宰府天満宮が本社ですがそちらは、菅原大島居、菅原小鳥居の両家が社家として、平安朝からお仕えしているそうです。
大鳥居家はネットで調べた限りでは菅原姓になるそうです。
菅原道真公は左遷で九州に飛ばされましたから、その後の子孫達になるのでしょうか
小鳥居氏もその流れのようです
他に菅氏も同じようです。
以前の総理大臣でしたね。
それと、戦国時代の有名な大名である大友氏の家祖は大友能直(よしなお)で出生時は近藤(古庄)氏からですね。
そうして検索を重ねると頼朝の落胤説が浮上するのです。
というのは、母の利根局が頼朝の妾のようです。
ではなぜ近藤姓になったのでしょうか?
もしかして利根局と近藤能直は血縁関係にあるとしたら…
近藤女と頼朝の間にできた子供ということもできますよね。
しかし、母の生家は波多野経家とありますから母方先祖は波多野家なのでしょう。
波多野氏といえば渋谷区の元になった渋谷氏と同じ相模国から来ていますね。
となると、武内宿禰から来ているハタかもしれません。
ちなみに渋谷区幡ヶ谷はそこから来ていると思っています。
羽田矢代です、幡の八幡、初台幡代に流れてきたからこそ、その後の源義家ゆかりの旗洗池ができたのではないでしょうか?
話しは飛びましたが、利根局(近藤女)の母方先祖が波多野家ならば、古事記にある天孫降臨につながっていてもおかしくないということです。
それは出雲族であるからこそ後の天皇の祭祀に関わる土師氏となりえたのでしょうから、れっきとした菅原の血なのです。
高木神より遣わされたアメノホヒ神は三年経っても命令を果たさなかったと古事記に書かれていますが、日本書紀となると一書(あるふみ)の解釈が違います。
大国主に天孫降臨の条件として天穂日命に身の回りの世話をさせることを謙虚に提案しているんですね。
以外と天神様の謙虚な姿勢に神観念が変わった気がしました。
天穂日神は後に出雲大社の摂社となり、また出雲四大大神として、出雲(杵築)大神・熊野大神・佐太大神とならんで能義神社に祀られました。
そこで能義神社を調べてみると、誉田別命や息長足姫命を合祀してあります。
忘れてはならないのは、武内宿禰もそのファミリーです。
ここの祭神は天穂日命ですが、他に配祀として大穴持神社の大己貴命、事代主命が祀られています。
そもそも大穴持とは大国主の別名です。
実は大国主はいくつもお名前がありますが、世襲のような形で襲名していたようです。
ですから、大国主は名前の数だけ別人28号がいたということです(笑)
また、その分だけ妻神もおられたことでしょう。
大穴持命はそうした大国主命の一人であり、考え方によっては武内宿禰が襲名したとも考えられます。
武内宿禰は第十二代景行天皇から仁徳天皇まで仕えた人です。
そして能義神社には他に誉田別命をお祀りしていることに注目したいです。
この応神朝の流れがあっての日本全国の八幡神社なんですね。
しかもそれは稲荷神社とセットにして考えられるからです。
つまり、ルーツが同じなのです。
新羅の仏教と百済の仏教が違うように、未開の島国であった日本は道教に傾いた仏教を受け入れるかどうかで揉めたのが「乙巳の変」だったのです。
いっしのへんと読みますが、きのとみとも読みます。
あるいは、おつぼくのみ とも言うそうです。
漢字では乙巳で甲乙の乙ですから陰陽では陰、巳は六番目の干支で南の九紫火星ですから陽の極まりを映す影のような、光り輝く裏側といった激しい事がおきそうな年に大化の改新があったのです。
それは言ってみれば我が国における宗教戦争であったかもしれません。
日本最初の飛鳥寺をつくった蘇我氏が手にした仏像は百済からのモノだったが、仏教伝来の「やり方」が新羅のそれだったのです。
新羅のそれは経典と仏像だけで僧侶のいない仏教伝来です。
片や百済のそれは唐から僧侶もセットでやってくるパターンです。
唐といえば大きな王国ですから、僧侶もセットでやってきたとしたら仏教を導入するかで争うようなことはなかったはずですから大化の改新も起きなかったかもしれません。
そして新羅のやり方で取り入れて、後に新羅を先祖とする源頼義・義家が八幡神へと神格化させていったと考えられます。
その祖とするのが、景行天皇であったとしたらどうでしょう?
八幡神社には足王が祀られている所がありますよね。
新宿区にも月見が岡八幡神社があります。
ここの祭神は応神天皇、息長帯比売命、仁徳天皇です。
奥には足王が祀られています。
景行天皇は垂仁天皇の第三子で母はヒバス姫です。
景行天皇はオオタラシであり、大足と書きます。
その子どもがヤマトタケルです。
ですから、景行天皇の流れであり遡れば垂仁天皇、崇神天皇となるわけです。
しかしここで一旦皇室の系譜が変わったとする考古学者の著作による意見があり、大変興味深いです。
もしそうなら、第九代と十代で断絶するようなことがあったのでしょうか。
それはまさにあった、ということが考えられます。
そのヒントになるのが明治期の偉大なる宗教家である出口王仁三郎聖師の崇敬した小幡神社です。
私は大本教の人ではありませんが、ものすごい霊能者であったことはかなり認めています。
そこで第九代開化天皇にまつわる神秘的な記述がありますので、詳しく知りたい方は無料でダウンロードできる霊界物語の一巻をご覧下さい。
またそれとは関係なく話が戻りますが、八幡神社は仲哀天皇、息長帯比売命、応神天皇、仁徳天皇のいずれかの御名前が祀られています。
ちなみに息長帯比売命はお腹に後の応神天皇を孕ませたまま朝鮮出兵に行った女性です。
長田神社や廣田神社、生田神社、住吉神社に関係する天照大神の神魂をもっていたようです。
つまり後身としての生まれ変わりですね。
その場合、天照大神の荒魂が厳の御霊となりタテの働きをします。
これが変性男子と呼ばれる内面にある国之常立の神魂です。
だから高貴な神魂をもっているという解釈です。
それが血脈を超えて生まれ変わり、また同時に3人もの人間に同時代に生まれ変わることができるようです。
それが同時代に現れると仲哀天皇、息長帯比売命、応神天皇の三神となり、或いは応神天皇、比売神、仁徳天皇になったりする三つ巴の家紋の元になる三ツノ御魂というのです。
その神魂は天之御中主から来た三貴神であり、天照大神・月読大神・スサノオの御魂を総称するものです。
最澄がしきりに山王神道に当てはめようとした三という数字は三ツノ御魂の働きをどこかでキャッチしていたからではないでしょうか。
おそらく、ハタ氏のルーツの一つでもある武内宿禰も三ツノ御魂として現れ、応神ファミリーと共に王朝を築いたのではないでしょうか。
きっと菅原道真公もそうだったのではないかと思っています。
なぜならそれが天穂日命のタカビムスビより命じられた天之御中主の神命だからです。
つまり時代時代の大国主命とセットになる少彦名命ということです。
そうした少彦名命の知恵の働きだからこそ、天神様となって祀られたと考えられるのです。
他にも大阪の服部天神宮では「足を祀った由緒」に5世紀の秦(ハタ)氏が外来神の少彦名命を小さな祠でお祀りしたのが始まりと書かれています。
さて、菅原道真公の系譜に大鳥居氏がいて、小鳥居氏、酒見氏、安武氏、龍造寺氏、大友氏や菅氏などに分かれていったようです。
そして江戸明暦の時代に、菅原大島居信祐という先祖が九州より江戸に来て亀戸村にお社を造ったのが今の亀戸天神となります。
それ以来、大鳥居家が宮司となって、亀戸天神社の兼務宮司として社家を継承したというのが過去のご縁になるそうです。
ちなみにその頃(17世紀の正保年間)に大鳥居氏は天神信仰を広めるためにやってきて、亀戸村に元々あった天神の祠に天神像を奉祀したようです。
この由緒からしても大阪の天神宮と似ていますよね?
菅原大島居信祐が九州からやってきて辿り着いた天神の祠には少彦名命が祀られていたら、そこへ菅原道真公の仏像を差し出しても問題ないですけど、
はじめから菅公の天神像が置いてあったなら、重ねて同じ仏像を奉祀しますかね
(^_^;)
そして注目したいのは大阪天神宮でも足の神社と呼ばれていることです。
カンタンにまとめますと、景行天皇の足の系統が応神天皇の八幡神社につながっていて、天神はアメノホヒとして大国主の補佐役となり、大国主は天皇です。
その天皇は第十代崇神天皇
はつくにしらすすめらみこと
そこが変わり目になっているいうことです。
はつくには初めて
しらすは統治する
すめらみことは天皇
その天皇の子供が群馬の古墳群に眠っている人たちかもしれません
だから桐生に織物や古墳製作といった渡来の人たちにしかできないことをやってのけたのでしょう
桐生が美和(大物主命)神社と関係あるのもそのためです。
古墳時代の大和政権の東端といったところでしょうか。
その政権はおそらく崇神天皇が従来の大和政権を完全に乗っ取った形で始まったのではないでしょうか。
天神社はそれを補佐する「鳥居」になるんですね。
それで大鳥神社も関係してくるわけです。
ヤマトタケルはカササギの大鳥であり、国守りする鳳凰です。
南は朱雀の「鳥が居る」所です。
鳥の羽を祭祀に用いる人たちが、そうした四神相応の思想も同時に持ち込んだのでしょう。
天皇の補佐をする補佐神と共に神様は九州の地で天孫降臨をなされたのです。
天神社とは菅原道真公の先祖ヤマトタケルのその昔、崇神の頃にやってきた百済や新羅や高句麗の
もとたずねれば濊貊の白山姫をヒメ祀る、宇佐の辛島(秦)でありイツキの島に月読のイチキシマヒメとなったのが月見が岡八幡神社ではないでしょうか。
また月見が岡八幡神社にも祀られるコノハナサクヤヒメは天神社によく見られます。
奇しくも亀戸には浅間神社があるではないですか。
そのコノハナサクヤヒメを祀る亀戸浅間神社ではヤマトタケルの東征や景行天皇との縁を御由緒に認めています。
ですから武内宿禰(少彦名命)の裏に神功皇后(木花咲耶姫)があり、応神天皇(大国主命)という図式が形而上に描かれるのです。
さらにその三つの御霊が同時代に3人に生まれ変わり、別々の人だけでなく一霊四魂をそれぞれシェアして、合体した人間になってる場合があり、バリエーション豊かです。
なので一概には言い切れませんが、記紀に見られる神々と天皇の関係からして日本は最古の神システムによって成立しているようです。
信じられないかもしれませんが、日本は神代の頃からつながっており、余談ばかりですが足王というのはその頃にまで遡ることができる神様なのです。
おれがオモダル・アヤカシコネの神でありアシナヅチ・テナヅチであり、イザナギ・イザナミとなっているのです。
それが日本人のルーツとなる神話の世界なのであります。
亀戸は言霊上からも「亀のいるトコロ」に思えます。
亀といえば吉祥な象徴です。
仏教世界にやがて訪れる「弥勒の世」では鶴と亀が統べるそうですから動物達が立役者ですね
(^^)
また、鶴は千年、亀は万年ですからまさに長寿の縁起物です。
そうした吉相なるネーミングとパワースポットは無関係ではありません。
亀戸に龍宮城があると思えばファンタジーです(笑)
さらに奇しくもオモダル・アヤカシコネは亀戸香取神社に坐し、
それで能義神社も実はオモダル・アヤカシコネの他に経津主命ともつながっていたのです。
経津主命=香取神社です。
さらに能義神社では国祖を祀るのです!
それが古事記に見られる国常立命であり、神世七代の最後に現れたイザナギ・イザナミ、六代目にオモダル・アヤカシコネを遡った初代が国祖国常立大神であり、豊雲野を妻神とするのです。
その方が八幡神になっておられるのです。
ですから天神社とは国祖の肉体を補佐する役目があるのです。
八幡神もそうした瑞霊として現れるのです。
それが「みずのみたま」と呼ばれる水の御霊であり、瑞の御霊なのです。
これが水のヨコの働きとなりまして、天神社のタテの働きと合わせて十字になるのがイズノメの働きと呼ばれるのです。
その水神から風神が生まれ、天神から雷が生まれたのです。
その風神雷神が岩の神と土の神を生み国土を創っていったのが神世七代の頃である日本神話です。
繰り返しますが、その初代が国祖国常立大神、その妻神が豊雲野大神です。
豊雲野大神は伊勢の外宮の祭神です。
妻神として内宮の天照大神に呼ばれたのです。
天照大神は神世七代目のイザナギから生まれましたので、祖を祀れば国常立大神になるということは日本神話において重要であります。
イズノメ理論で考えれば、こうして火(雷)系と水(風)系統に分けてみることもできます。
天神社はアメノホヒを従える火の雷神系であり、八幡神社は水の風神系といった具合に。
こうして見ると、八幡神社の三つ巴紋の神紋の意味も透けて見えませんか。
では天神社の神紋である梅の花の五ツ星は?
それは天照大神の神魂だからこその五柱だからです。
だから、スサノオの神魂は三ツノ御霊なのです。
五男三女の物語が天照大神とスサノオのウケヒであり、天の安河で行われた密意だったと考えられるのです。
まさに天神社と八幡神社の関係であり、時に八幡神社と稲荷神社の関係となり、時に三つ巴となるといったような意味をも彷彿とさせてくれるのであります。
なにしろ、神が最初に創った元素は水素だそうです。
Hを生むことで子供(肉体)を創ることができるまでになったのです。
まさに言葉遊びの限度を超えた神技です。
それで原初の神は水神だといわれるのです。
古来の賀茂の人たちが祀ったのが貴船神社の井の神ですから、それが天之御中主なのです。
古事記では天之御中主、日本書紀では国之常立神です。
これはつまり、国之常立神は天之御中主の肉体を持った時の神名ということでありましょう。
ガンダムのモビルスーツのコアファイターは天之御中主だということです。
別々ではなく古事記と日本書紀はセットで考えるべきだと思います。