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2022年01月02日

神田という土地と伊勢との関係


神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称したそうです。

そういえば九段下から飯田橋の辺りに東京大神宮がありますから、伊勢でつながりますね。

IMG20211229135906.jpg

神田から歩いて行けるちょうどよいくらいの距離です。

東京大神宮の境外に白菊稲荷がありますが、桐生稲荷とセットで考えられます。

東国に来た崇神天皇の御子である豊木入日子命が連れてきたのではないでしょうか。

おそらく稲荷は渡来人によってもたらされ、ハチマンの前身であるヤワタの神も同じルートで我が国に来たのでしょう。

八幡神は清和源氏に流れる新羅の道教化された神です。

さらに言えば八幡神はゾロアスターの拝火教と習合しています。

ソグド人がゾロアスター化された仏教を持ち込んだとも考えられます。

彼らの隊商をキャラバンと呼ばずサールトと呼んでいたが、それは猿田とは無関係ではないのではないか?

伊勢の入り口にも猿田彦神社があるように、道案内をする神として古事記にもアメノウズメと交渉している。

アメノウズメは大宮能売大神というウカノミタマで、氷川大宮の八幡神社で祀られた明治天皇が関東の守り神として最重要視していた神様。

そこに出てくる神々もまた田を祭っている。

その代表が天照大神であり、かの太陽神からして田の神を祭っているのが日本神話の基本構造です。

そして天照大神の弟がスサノオです。

スサノオがやがてハチマン化していき、妻神の櫛稲田姫がイナリ化していったということです。

つまり猿田彦はハチマン=氷川=スサノオ(蘇の人)であり、

アメノウズメはイナリ=伏見=秦氏 となります。

宇佐八幡では辛嶋氏が後の秦氏のイナリとなります。

宇佐氏が応神(大神)で八幡神となり、9世紀に岩清水八幡となり国家の守護神として神が表に現れてきた天の時だったのです。

岩清水八幡は清和天皇の御代ですから、後の源頼義や義家につながります。

彼らの祖先は新羅の人たちです。

宇佐の姫神と新羅の姫神と応神八幡神が三つ巴を繰り広げているという構図

日本全国の三つ巴紋の家紋の神霊的な意味になっているはずです

この3つが足されると霊界物語の高姫と黒姫とその旦那の三つ御霊になるのでしょう

それが「水のみたま」ということなのですね

瑞でミズ、水という言葉になり瑞霊となるのです

それが横の働きであり、女神の救済を意味する観音院から起こる慈悲の力となります

天の時を迎え、天の啓示を受けることは人類が正しく天を畏れるようになったということであり良いことです。

原始八幡神は新羅の姫神であり、ヒメコソ神社と関係しているのではないでしょうか。

となると黙ってないのがアメノヒボコです。

兵主神社や田道間守、橘という植物、すべて同じルーツです。

やはり朝鮮半島から渡ってきた人たちだったのです。

ヒメコソのコソとは社、神社という意味ですからヒメコソというのはヒメ神社という意味なのです。

そこで祀られているのはシタテルヒメです。

兄がアジスキタカヒコネにそっくりのアメノワカヒコです。

これが霊界物語に出てくる常世彦と道彦の関係であり、一心同体の関係です。

ちなみに道彦は金毘羅さんで有名なコトヒラワケ命です。

常世彦の神魂は大物主命です。

そしてコトヒラワケの崇め奉る大物主を背にしたアメノカガセオは白山姫の下僕であるのです。

白山姫が加賀であり、それを背負っている男という意味です。

大物主命を裏で操る姫神が常世姫の前身です。

さらに鹿島の神でも戦えなかったのが大物主の力だったのです。

それが転じて経津主命となり、布都御魂大神となり、三種の神器の一つである霊剣になっているのであり、京のファミリーとなって春日大社にいらっしゃるのです。

それが展開される前の一つになったのが賀茂の神であり

貴船神社の原初の神である井の神

すなわち三井の水神です

それは御子神を意味します。

春日大社でいえば紀伊神社であり、八幡神社であれば若宮です。

御井神社の御子神は気比であり、アメノヒボコであり常世彦です。

また、ツヌガアラシトは「角がある人」の意味です。

それはアメノカガセオ(常世彦)の転生であり後身というわけです。

角を持つ常世彦は「熊野」にもなり、また「たから第六天」にもなります。

つまりスサノオであり、波旬であり、たから第六天なのです。

釈迦は魔界の中で説法をされ、弥勒菩薩さえも魔王波旬に及ばないといいますが、欲界の最高位に地球という舞台があるのですから仕方ありません。

天は変わらずに上ばかりに棲んでいたら外界の衆生はますます足場を深め、悪に墜ちていくばかりです。

それでようやくあらわれたのが熊野の浄土による救済、つまり阿弥陀如来というわけです。

またそれは大日如来の救済の働きとなり、一陽来復となります。

こうした密教に見られる呪術的な祭祀は道教の影響も大きく関わっているのではないでしょうか。

単にインドからヴェーダの宗教が仏教徒に伝わっただけでなく、呪術をよくした中国の僧侶たちによって密教は完成したということです。

四世紀、東晋の頃のハクシリミッタラは孔雀呪経を使いましたし、ドンムセンは鬼を使って病を治す呪術を駆使していたのです。

それは大乗仏教がまだ十分に展開されていない時代の大陸で醸されていった道教との融合だったのです!

少なくとも弘法大師空海が唐へ渡る前に恵果和尚はそれを完成させていたのです。

ですから、そこには何代かの中国僧たちによるアレンジが加わっているはずです。

そうして大乗思想の秘密仏教が完成されていき、それはつまり真言宗や天台宗の密教にみられる道教化された格義仏教であり、特に新羅においては独自の仏教文化を作り上げたようです。

それを持ち込んだのが蘇の人たちであり、日本に渡ってきて蘇我氏になっているのではないでしょうか。

聖徳太子の血ですが、百済の人ですね。

しかし蘇我氏は新羅で聖徳太子が百済の人というのはどういうことでしょうか。

もともと、新羅の人も百済の人も同じルーツですから高句麗出身の民族です。

さらに遡れば新羅も百済も高句麗のさらに元は獩貊(ワイ・ハク)の人たちなのです。

白山を共に祀っていた民族で、その人たちが加賀に白山姫を引っ張ってきたのです。

ヒメコソの神はシタテルヒメですが、白山姫の後身の常世姫のことです。

シュメールのイナンナ女神とイシュタル女神のような関係です。

あるいはイナンナ女神と冥界神エレシュキガルといった方がわかりやすいかもしれません。

なぜならどちらも常世姫の後身
だからです。

常世姫はシタテルですから下の世界、黄泉の国を照らす神です。

上を照らせばアマテラスになるのです。

他にも清和源氏が新羅の仏教です。

義家に力を与えたのは白玉稲荷です。

白菊、白玉と似てませんか?

稲荷もおそらく新羅の人たちがもたらしたのでしょう。

稲荷はクシイナダヒメでスサノオの妻神です。

ということはスサノオは蘇の人であったかもしれません。

実際、高天原を追われたスサノオはソシモリにたどり着くのです。

ソに集まった村(ソフル)がやがてソウルの地になっているのです。

我が国にも「フル」は天孫降臨の地でクシフル岳として知られています。

また、皇室に祀る二柱の神は韓神と蘇神です。

そして皇室は田の神を祀るのです。

大嘗祭にしろ、新嘗祭にしろ田の神を祀ればこそ成立するのです。

その田の神がハニヤス姫であり、その前身は加賀の白山姫であり、白山菊理姫命ということです。

飯田橋の白菊稲荷は白山菊理姫命の眷属となります。

桐生稲荷と三津揃って津の神の弁財天となり、白山姫がイチキシマヒメです。

また、田の神を辿ればハニヤス姫が途中にいます。

それは榛名神社の岩の神であり、雷神でもあります。

風の神とセットです。

ハニヤス彦が風の神で風神雷神となるのです。

白山姫は叔母のポジションで両脇にイザナギイザナミを従えます。

これが三津の御霊です。

天之御中主・神産巣日神・高御産巣日神の古事記における造化三神は霊界物語の高姫、黒姫とその旦那の三つの御霊です。

それが古事記にある大物主神にミホツヒメが授けられたということにつながります。

ミホツヒメは三津の御霊であり、弁財天女であり、櫛稲田姫であり、稲荷ということです。

それが田の神でありハニヤス姫という地母神なのです。

忘れてはならないのは、伊勢の最高神さえも田の神を祀っているということです。

ですから神田は伊勢の御田を意味するというのは伊勢と関わる土地柄であり、神田明神はそのパワースポットでもあるということです。

IMG20211229113914.jpg

江戸時代になると「神田明神」と名乗り、明治に入って神社が国家の管理下に入ると明治元年(1868年)に准勅祭社に指定され

その後、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められたようです。
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