新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2022年01月07日
神田明神の三宿稲荷の祭神
神田明神の芝崎納豆をご存知ですか。
大きな豆をマッシャーで潰して、それからゴマやノリを混ぜると途端に高級感のある納豆ご飯ができあがります。
神田明神にはその昔、柴崎家という社家があったそうですけど、明治期に後継者がいなくなり、国学者本居宣長の曾孫や平田篤胤の曾孫が社司となった事もあったそうです。
平田篤胤も本居宣長も四大国学者ですが、それを決めたのも神田明神が発祥のようです。
このことからも江戸時代の神田明神の発信力は大きなものだったことがわかりますし、
なんといっても江戸総鎮守ですからね。
誰が言い始めたかって、その称号は徳川幕府からもらったそうですから、家康からも厚く崇敬を受けていたそうです。
少し遡って家康入府前の創建の頃から江戸時代にかけてを見てみましょう。
正式名称は、神田神社です。
首都東京・千代田区といえば中心部分です。
そこに鎮座する神田明神は、特に神田、日本橋、大手町・丸の内、秋葉原、青果市場、魚市場の人たちから厚い崇敬を受けています。
神田明神の創建は、天平二年ですから8世紀です(七三〇年)
『江府神社略記」
「社家伝説日、当社ハ人皇四十五代聖武天皇御宇、天平二年○紀元一三九〇鎮座也」
聖武天皇の御代でしたら災害や疫病が多発していた時代です。
奈良時代の京都は天平文化の表と裏に花開いています。
東大寺のビルシャナ大仏は奈良の顔ですからね。
その頃はまだ弘法大師空海も真言宗開いていないので、大日如来じゃないんですよね。
ちなみに日本だと大日如来とビルシャナ仏は別々の存在ですけど、インドでは同じ意味になるんです。
マハー・ヴァイロ・チャナという「光り輝く」存在を意味するインドの言葉です。
それが「ビルシャナ」に音写されたネーミングになっているのです。
ですから大日如来は光り輝くビルシャナ仏ということです。
その光り輝く大日如来は太陽神として日本神話の天照大神に比定(習合)できます。
それが熊野信仰では西方浄土の阿弥陀如来となります。
阿弥陀如来は金剛世界にあらわれた大日如来の慈悲による救済です。
慈しむという言葉もインドから来ました「マイトゥリー」と訳されます。
この慈しむマイトゥリーが弥勒菩薩(マイトレーヤ)です。
ですから阿弥陀如来は弥勒菩薩とセットであり、さらに救済は観音院の慈悲から起こるものです。
その救済力を明示したものが「千手観音」であり、十一面千手観音ともいいます。
十一面観世音菩薩の十一番目のお顔は阿弥陀如来なのです。
こうして阿弥陀如来坐像を真ん中にして両脇に観音像、弥勒菩薩像といった三尊のパターンが時に、弥勒菩薩も勢至菩薩となったり、観音菩薩も地蔵菩薩になったりしながら浄土信仰の普及と共に広がっていったようです。
特に新羅の磨崖仏にそうしたパターンが見られるようですからそれが日本に輸入されてきたわけです。
そうした新羅寄りの仏教を伝えて日本に熊野という神を連れてきたのは出雲の国からではないでしょうか。
その出雲族であり、大己貴命の子孫を自認する真神田臣の一族がやってきたということです。
そして現在の大手町にある将門塚周辺(武蔵国豊島郡芝崎村)に祖先の神を祀り、真神田の「神田」をとって神社の名前としたと。
それがそのまま地名の「神田」になっていると御由緒では伝え
ています。
しかし大三輪神(大物主大神)の子孫である大田田根子の後裔の真神田(マカミダ)氏が祖神・大己貴命を祀ったのが神田明神の原型(創建)となります。
日本ではたびたび神の命令によって神を「正しく祀るように」指示されることがありますが、古事記にあります大田田根子(オオタタネコ)もそうした事で神様からご指名を頂いた一人なのです。
真神田氏が神田神社を創建したのも大物主大神の導きであり、大己貴命は大物主大神の神魂をもっていた人(神)だったのです。
大己貴命に御自ら「和魂」であることを知らせ、大物主大神を正しく祀ることを示したのです。
神田明神の境内摂社に三宿稲荷が祀られますが、ここでの祭神は金刀比羅大神がちゃんと祀られています。
それは金刀比羅大神もまた大物主大神の神魂をもっているからです。
そして三宿稲荷にはもともと三河町に祀られていたとされる守護神を併せて祀っているそうです。
三河町は家康入府の際に同行した下級武士が移り住んだことから江戸でもっとも古い町とされています。
なるほど、ということは守護神というのは三河稲荷ですね。
三河の人たちが持ち込んだ稲荷神社は今でも本郷などの地域に二箇所ほど見られます。
その三河町の守護神(三河稲荷)と、芝崎家が神主だった頃の神田神社12代目芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷社と金刀比羅大神が合祀されたようです。
それで三宿になるのでしょうか。
他に芝崎家もオオタタネコの霊的な系譜があると考えられます。
芝崎は柴崎でもあるようです。
中世の具体的な系譜は見られないのですが、調布の方へ展開していった人たちのようです。
そしてどうやら江戸氏とのつながりもありそうです。
調べると、江戸氏の崇敬神社は牛頭天王であり、そこの神主を芝崎家が行っていました。
つまり江戸氏から出たのが芝崎氏であったということです、
さらに、大己貴命・少彦名命を祀っていますが、本来の祭神はスサノオになるようです。
確かに、境内摂社に江戸神社があります。
江戸神社の創建は大宝2年(702)ですから神田神社の創建より30年くらい古いです。
もともと江戸神社は今の皇居の中につくられ、江戸大明神、牛頭天王などと呼ばれていました。
それが17世紀家康入府により江戸城拡張により神田神社へ移されたようです。
また明治以降、江戸神社と名付けられる前は「須賀神社」とも呼ばれていたとか!
それならば四ツ谷の須賀神社がまさに当てはまります。
須賀神社はスサノオと稲荷のセットですから氷川神社と構造は似ていますよね。
「すがすがし」とスサノオが詠んだのは日本最古の和歌をつくった時でした。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
これは日本人なら誰もが知っておきたい和歌ですね
その妻がクシイナダヒメでしたから、須賀神社の稲荷と比定(同化)して考えられます。
さらに、四ツ谷の須賀神社の原型は赤坂氷川神社です。
赤坂氷川神社は調べても10世紀以降の歴史しかわかりませんが
その前はどこからきたのでしょう?
そもそも氷川とは出雲国の簸川から来ていて、そこはヤマタノオロチ伝説がある所です。
真神田氏、柴崎氏、江戸氏、豊島氏、渋谷氏といった人たちは相模国経由で入ってきたと考えられますが、その前は九州の方から来ているようです。
渋谷区と薩摩との関係も古くからあるようです。
また、芝崎氏は調布に展開していったようですが、調布といえば布多天神社です。
そこでは垂仁天皇の頃から歴史がありますので、一気に2000年近く前の話になります。
布多天神社は当時地域に五つあった五宿天神社をまとめたものです。
もとは少彦名命を祀っていた神社がのちに菅原道真公を併せて祀るようになったというプロセスは他の天神社でも見られることです。
芝崎氏がもともと祀っていたのは大己貴命だけではなく少彦名命であったとも考えられます。
大己貴命が祀られるようになったのは全国の神社が官社化されていった8世紀の和銅年間からではないでしょうか。
また、もしその人たちが出雲族であったなら、大国主(大己貴命)は少彦名命とセットで来たのかもしれません。
その場合、少彦名命は大物主大神として比定できます。
大物主大神を祀る三輪山の麓には、共に国土開発をした少彦名命を特別な磐座(イワクラ)にお祀りしています。
そしてそこでは「神農さん」と習合しています。
ここで不思議な一致を感じることがあります。
それは神田明神の目の前にある湯島聖堂にも神農さんが祀られていることです。
薬の神でもあります。
これが「渡来の少彦名命」なのです。
少彦名命は海の向こうからやってきたのであり、神農さんも少彦名命の後身であったことが考えられます。
そして出雲族は肉体としての後身(大国主命の生まれ変わり)である大己貴命の肉体(モビルスーツ)を大物主大神の和魂である少彦名命に提供(奉祀)するのです。
これによって人と神との一心同体の天孫降臨が行われるのです。
また、五宿天神社が布多天神社になったように、約2000年前にこの地域に少彦名命への信仰があったことが考えられます。
そういえば、上野の不忍池近くにある五條天神社と名前が似ていませんか?
上野でも医薬の神として大己貴命と併せて祀られていますが、創建は景行天皇の御代ですから親子で垂仁天皇とつながってますね。
上野や調布にあった約2000年前の少彦名命信仰。
↓
=エビス・恵比寿。恵美須、蛭子、海からやってきた形のないイザナギ・イザナミの原初の御子神です。
ギリシャ神話での「カオス」が蛭子神に比定(習合)できます。
そして大黒天として現れたのが大己貴命(大国主)となります。
大己貴命は建速須佐之男命(スサノオ)の御子神と言われていますから、代々の大己貴命(大物主神の神がかり)がスサノオ(の御子)でもあります。
また出雲大社に祀られる神にもなっているのが大国主命です。
また、死後の世界の主宰神として冥界にてエンマ様となります。
他にも大穴牟遅神、大国主神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神、大物主神など多くのお名前をお持ちになります。
中でも大己貴神は怪我をした兎をたすけるいわゆる「稲葉の白兎」の神話が有名です。
大己貴命のやさしい気持ちが八上姫のハートを射止めたのでしたね。
まさに和魂が少彦名命(大物主大神)だったのです。
そして大己貴命は大物主大神を崇め、共に日本を国づくりしたのです。
だからこそ、金刀比羅大神にも比定(習合)されるのです。
大きな豆をマッシャーで潰して、それからゴマやノリを混ぜると途端に高級感のある納豆ご飯ができあがります。
神田明神にはその昔、柴崎家という社家があったそうですけど、明治期に後継者がいなくなり、国学者本居宣長の曾孫や平田篤胤の曾孫が社司となった事もあったそうです。
平田篤胤も本居宣長も四大国学者ですが、それを決めたのも神田明神が発祥のようです。
このことからも江戸時代の神田明神の発信力は大きなものだったことがわかりますし、
なんといっても江戸総鎮守ですからね。
誰が言い始めたかって、その称号は徳川幕府からもらったそうですから、家康からも厚く崇敬を受けていたそうです。
少し遡って家康入府前の創建の頃から江戸時代にかけてを見てみましょう。
正式名称は、神田神社です。
首都東京・千代田区といえば中心部分です。
そこに鎮座する神田明神は、特に神田、日本橋、大手町・丸の内、秋葉原、青果市場、魚市場の人たちから厚い崇敬を受けています。
神田明神の創建は、天平二年ですから8世紀です(七三〇年)
『江府神社略記」
「社家伝説日、当社ハ人皇四十五代聖武天皇御宇、天平二年○紀元一三九〇鎮座也」
聖武天皇の御代でしたら災害や疫病が多発していた時代です。
奈良時代の京都は天平文化の表と裏に花開いています。
東大寺のビルシャナ大仏は奈良の顔ですからね。
その頃はまだ弘法大師空海も真言宗開いていないので、大日如来じゃないんですよね。
ちなみに日本だと大日如来とビルシャナ仏は別々の存在ですけど、インドでは同じ意味になるんです。
マハー・ヴァイロ・チャナという「光り輝く」存在を意味するインドの言葉です。
それが「ビルシャナ」に音写されたネーミングになっているのです。
ですから大日如来は光り輝くビルシャナ仏ということです。
その光り輝く大日如来は太陽神として日本神話の天照大神に比定(習合)できます。
それが熊野信仰では西方浄土の阿弥陀如来となります。
阿弥陀如来は金剛世界にあらわれた大日如来の慈悲による救済です。
慈しむという言葉もインドから来ました「マイトゥリー」と訳されます。
この慈しむマイトゥリーが弥勒菩薩(マイトレーヤ)です。
ですから阿弥陀如来は弥勒菩薩とセットであり、さらに救済は観音院の慈悲から起こるものです。
その救済力を明示したものが「千手観音」であり、十一面千手観音ともいいます。
十一面観世音菩薩の十一番目のお顔は阿弥陀如来なのです。
こうして阿弥陀如来坐像を真ん中にして両脇に観音像、弥勒菩薩像といった三尊のパターンが時に、弥勒菩薩も勢至菩薩となったり、観音菩薩も地蔵菩薩になったりしながら浄土信仰の普及と共に広がっていったようです。
特に新羅の磨崖仏にそうしたパターンが見られるようですからそれが日本に輸入されてきたわけです。
そうした新羅寄りの仏教を伝えて日本に熊野という神を連れてきたのは出雲の国からではないでしょうか。
その出雲族であり、大己貴命の子孫を自認する真神田臣の一族がやってきたということです。
そして現在の大手町にある将門塚周辺(武蔵国豊島郡芝崎村)に祖先の神を祀り、真神田の「神田」をとって神社の名前としたと。
それがそのまま地名の「神田」になっていると御由緒では伝え
ています。
しかし大三輪神(大物主大神)の子孫である大田田根子の後裔の真神田(マカミダ)氏が祖神・大己貴命を祀ったのが神田明神の原型(創建)となります。
日本ではたびたび神の命令によって神を「正しく祀るように」指示されることがありますが、古事記にあります大田田根子(オオタタネコ)もそうした事で神様からご指名を頂いた一人なのです。
真神田氏が神田神社を創建したのも大物主大神の導きであり、大己貴命は大物主大神の神魂をもっていた人(神)だったのです。
大己貴命に御自ら「和魂」であることを知らせ、大物主大神を正しく祀ることを示したのです。
神田明神の境内摂社に三宿稲荷が祀られますが、ここでの祭神は金刀比羅大神がちゃんと祀られています。
それは金刀比羅大神もまた大物主大神の神魂をもっているからです。
そして三宿稲荷にはもともと三河町に祀られていたとされる守護神を併せて祀っているそうです。
三河町は家康入府の際に同行した下級武士が移り住んだことから江戸でもっとも古い町とされています。
なるほど、ということは守護神というのは三河稲荷ですね。
三河の人たちが持ち込んだ稲荷神社は今でも本郷などの地域に二箇所ほど見られます。
その三河町の守護神(三河稲荷)と、芝崎家が神主だった頃の神田神社12代目芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷社と金刀比羅大神が合祀されたようです。
それで三宿になるのでしょうか。
他に芝崎家もオオタタネコの霊的な系譜があると考えられます。
芝崎は柴崎でもあるようです。
中世の具体的な系譜は見られないのですが、調布の方へ展開していった人たちのようです。
そしてどうやら江戸氏とのつながりもありそうです。
調べると、江戸氏の崇敬神社は牛頭天王であり、そこの神主を芝崎家が行っていました。
つまり江戸氏から出たのが芝崎氏であったということです、
さらに、大己貴命・少彦名命を祀っていますが、本来の祭神はスサノオになるようです。
確かに、境内摂社に江戸神社があります。
江戸神社の創建は大宝2年(702)ですから神田神社の創建より30年くらい古いです。
もともと江戸神社は今の皇居の中につくられ、江戸大明神、牛頭天王などと呼ばれていました。
それが17世紀家康入府により江戸城拡張により神田神社へ移されたようです。
また明治以降、江戸神社と名付けられる前は「須賀神社」とも呼ばれていたとか!
それならば四ツ谷の須賀神社がまさに当てはまります。
須賀神社はスサノオと稲荷のセットですから氷川神社と構造は似ていますよね。
「すがすがし」とスサノオが詠んだのは日本最古の和歌をつくった時でした。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
これは日本人なら誰もが知っておきたい和歌ですね
その妻がクシイナダヒメでしたから、須賀神社の稲荷と比定(同化)して考えられます。
さらに、四ツ谷の須賀神社の原型は赤坂氷川神社です。
赤坂氷川神社は調べても10世紀以降の歴史しかわかりませんが
その前はどこからきたのでしょう?
そもそも氷川とは出雲国の簸川から来ていて、そこはヤマタノオロチ伝説がある所です。
真神田氏、柴崎氏、江戸氏、豊島氏、渋谷氏といった人たちは相模国経由で入ってきたと考えられますが、その前は九州の方から来ているようです。
渋谷区と薩摩との関係も古くからあるようです。
また、芝崎氏は調布に展開していったようですが、調布といえば布多天神社です。
そこでは垂仁天皇の頃から歴史がありますので、一気に2000年近く前の話になります。
布多天神社は当時地域に五つあった五宿天神社をまとめたものです。
もとは少彦名命を祀っていた神社がのちに菅原道真公を併せて祀るようになったというプロセスは他の天神社でも見られることです。
芝崎氏がもともと祀っていたのは大己貴命だけではなく少彦名命であったとも考えられます。
大己貴命が祀られるようになったのは全国の神社が官社化されていった8世紀の和銅年間からではないでしょうか。
また、もしその人たちが出雲族であったなら、大国主(大己貴命)は少彦名命とセットで来たのかもしれません。
その場合、少彦名命は大物主大神として比定できます。
大物主大神を祀る三輪山の麓には、共に国土開発をした少彦名命を特別な磐座(イワクラ)にお祀りしています。
そしてそこでは「神農さん」と習合しています。
ここで不思議な一致を感じることがあります。
それは神田明神の目の前にある湯島聖堂にも神農さんが祀られていることです。
薬の神でもあります。
これが「渡来の少彦名命」なのです。
少彦名命は海の向こうからやってきたのであり、神農さんも少彦名命の後身であったことが考えられます。
そして出雲族は肉体としての後身(大国主命の生まれ変わり)である大己貴命の肉体(モビルスーツ)を大物主大神の和魂である少彦名命に提供(奉祀)するのです。
これによって人と神との一心同体の天孫降臨が行われるのです。
また、五宿天神社が布多天神社になったように、約2000年前にこの地域に少彦名命への信仰があったことが考えられます。
そういえば、上野の不忍池近くにある五條天神社と名前が似ていませんか?
上野でも医薬の神として大己貴命と併せて祀られていますが、創建は景行天皇の御代ですから親子で垂仁天皇とつながってますね。
上野や調布にあった約2000年前の少彦名命信仰。
↓
=エビス・恵比寿。恵美須、蛭子、海からやってきた形のないイザナギ・イザナミの原初の御子神です。
ギリシャ神話での「カオス」が蛭子神に比定(習合)できます。
そして大黒天として現れたのが大己貴命(大国主)となります。
大己貴命は建速須佐之男命(スサノオ)の御子神と言われていますから、代々の大己貴命(大物主神の神がかり)がスサノオ(の御子)でもあります。
また出雲大社に祀られる神にもなっているのが大国主命です。
また、死後の世界の主宰神として冥界にてエンマ様となります。
他にも大穴牟遅神、大国主神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神、大物主神など多くのお名前をお持ちになります。
中でも大己貴神は怪我をした兎をたすけるいわゆる「稲葉の白兎」の神話が有名です。
大己貴命のやさしい気持ちが八上姫のハートを射止めたのでしたね。
まさに和魂が少彦名命(大物主大神)だったのです。
そして大己貴命は大物主大神を崇め、共に日本を国づくりしたのです。
だからこそ、金刀比羅大神にも比定(習合)されるのです。