2021年12月20日
家康の頃の東京
江戸の町は家康入府のビフォーアフターで随分と分かれるようですが、さらに振袖火事で有名な明暦の大火でもまた大きく変わったと云われています
特に寺院の立地においては家康入府前には台地に建てられていたようです
城下町の周りに建てられたのは寺町になってからだそうです
てらまちとは、寺院が集中して配置された地域につけられる町名で市街の外縁にまとめることで敵襲に備える意図もあったとか
明治の頃の地図には江戸の町周縁部一帯に点在していましたが、甲州街道沿いの台地に建っているのは17世紀前半建てられたものです
家康が江戸に入府したのは16世紀も終わりの頃で、征夷大将軍に任じられたのが17世紀に入ってからですから、その頃に町らしくなってきたということですね
吉原の遊郭も一部は駿府の城下にあった二丁町遊廓から移してきたそうです
(にちょうまちゆうかく)はもちろん幕府公認で当時1万坪という広大な面積だったそうです
どんだけ繁盛していたんでしょうかね…当時の静岡恐るべしです
そもそもは駿府築城で武士やら農民やら大工やらをたくさん集めてきて、彼らをねぎらうために遊女たちが集まって来たんだとか
ギブミーマネー、ギブミーチョコレートといった戦後の日本を彷彿とさせてくれます
これには家康もお手上げだったみたいで、一旦は風紀のために遊女たちを追い出したものの、後から側近の鷹匠に懇願されてこれを許したんだとか
そして鷹匠が土地を1万坪購入して幕府公認の遊廓を作ったのが後から三ノ輪の吉原へと移したので残された静岡の遊廓を二丁町遊廓と呼ぶようになったとか
しかし今では空襲で名残すらありませんが、わずかに稲荷神社が残っているそうです
その二丁町遊廓のあたり静岡県葵区駒形通5丁目付近にある稲荷神社を調べると「双街」と云われる地が二丁の町であるそうで、遊廓は元々京都の伏見から誘致してきたものと云われていることがわかりました
ということは、吉原遊廓の歴史の大本は京都の伏見であり、稲荷神社の起源も同じですから吉原と稲荷神社に関係性があるのかもしれないですね
もともと人の欲望と稲荷神社は密接に関わり合ってきました
今も現世利益を願って油揚げをお供えしてお願い事をする習慣がありますが、そうした風習も京都にあったのかもしれませんね
江戸に来た三河武士たちの間でも稲荷信仰が熱かったようで、東京の本郷のあたりには今も三河の稲荷が祀られていますから、三河の一部の人たちが伏見稲荷に関係していたのかもしれません
伏見稲荷の起源は8世紀の秦氏によるものですから、賀茂の人たちや皇室とも大いに関わってきた歴史があり、家康自身は新田の出身であるとも云われています
三つ葉葵の家紋も元々は賀茂の双葉の葵を元に作られたそうですから、二丁町(双街)という言霊からの流れとなんとなく合っている気がします
新田の祖は足利の祖と兄弟ですから祖父は源義家です
家康は新田の出身だとしても当時は足利を上に持ち上げなければならなかったでしょうし、喜連川藩への厚遇を見ても足利をどのように見ているのかわかる気がします
奇しくも足利の家紋もまた二つ引きであり、そのあたりの符号がなんとも重なり合うものとなっているのは偶然でしょうか
また家康の厚遇は神田明神や山王権現(赤坂日枝神社)にまで及んでいますが、実は神田明神と赤坂日枝の神主は確か同族だったはずですから、つまり同じ関係者です
江戸三大祭りも神田明神と山王さんはいつもセットです
そんな山王さんの赤坂日枝神社の神紋は2つあるようで、その一つは「双葉の葵」です
つまり賀茂氏ということです
日本の古代史は賀茂氏抜きには考えられないと思っていますから、やはり繋がりがあるように思えます
さらに伏見稲荷の神官階級から出てきたのは荷田春満ですが、その弟子は賀茂神社から出てきた賀茂真淵であり、二人共に国学の四大人に数えられています
その国学者を讃えた記念碑は神田明神が発祥であり、当時の神田明神の神主も彼らをリスペクトしていたという思想上の歴史もあります
ですから神田明神も伏見稲荷と無関係ではなく、むしろオセロの表裏のような一体の関係であると思っています
神田明神の境内の裏側は稲荷神社でビッシリといった感じで、境内摂社の末廣稲荷は神田下の末広町で信仰されていたのでしょうか、やはり17世紀始めの創建となっていますから、もしかしたら下の町から高台に移されたのかもしれません
こうして江戸城と神田明神との関わりは家康の頃に強固となったのではないでしょうか
今の神田明神や赤坂日枝神社の立地からみても決してぞんざいではなく、寺町との違いも明らかではないでしょうか
明暦の大火以後は当時、神田明神からも近くの日本橋人形町にあった吉原が浅草の裏に移されたのを見てもわかるように、寺町は低地部の湿地帯や谷間などの主要街道から外れた荒れ地のような悪条件を与えられたそうです
今の吉原も大昔は葦原と呼ばれたそうですから、水辺に葦の生い茂る日本の原風景がそこに広がっていたのかもしれないですね
九段下のあたりまで海岸線があり、銀座もまた水辺や湿地であったようですから、周辺にも葦原中国の原風景が広がっていたことでしょう
特に寺院の立地においては家康入府前には台地に建てられていたようです
城下町の周りに建てられたのは寺町になってからだそうです
てらまちとは、寺院が集中して配置された地域につけられる町名で市街の外縁にまとめることで敵襲に備える意図もあったとか
明治の頃の地図には江戸の町周縁部一帯に点在していましたが、甲州街道沿いの台地に建っているのは17世紀前半建てられたものです
家康が江戸に入府したのは16世紀も終わりの頃で、征夷大将軍に任じられたのが17世紀に入ってからですから、その頃に町らしくなってきたということですね
吉原の遊郭も一部は駿府の城下にあった二丁町遊廓から移してきたそうです
(にちょうまちゆうかく)はもちろん幕府公認で当時1万坪という広大な面積だったそうです
どんだけ繁盛していたんでしょうかね…当時の静岡恐るべしです
そもそもは駿府築城で武士やら農民やら大工やらをたくさん集めてきて、彼らをねぎらうために遊女たちが集まって来たんだとか
ギブミーマネー、ギブミーチョコレートといった戦後の日本を彷彿とさせてくれます
これには家康もお手上げだったみたいで、一旦は風紀のために遊女たちを追い出したものの、後から側近の鷹匠に懇願されてこれを許したんだとか
そして鷹匠が土地を1万坪購入して幕府公認の遊廓を作ったのが後から三ノ輪の吉原へと移したので残された静岡の遊廓を二丁町遊廓と呼ぶようになったとか
しかし今では空襲で名残すらありませんが、わずかに稲荷神社が残っているそうです
その二丁町遊廓のあたり静岡県葵区駒形通5丁目付近にある稲荷神社を調べると「双街」と云われる地が二丁の町であるそうで、遊廓は元々京都の伏見から誘致してきたものと云われていることがわかりました
ということは、吉原遊廓の歴史の大本は京都の伏見であり、稲荷神社の起源も同じですから吉原と稲荷神社に関係性があるのかもしれないですね
もともと人の欲望と稲荷神社は密接に関わり合ってきました
今も現世利益を願って油揚げをお供えしてお願い事をする習慣がありますが、そうした風習も京都にあったのかもしれませんね
江戸に来た三河武士たちの間でも稲荷信仰が熱かったようで、東京の本郷のあたりには今も三河の稲荷が祀られていますから、三河の一部の人たちが伏見稲荷に関係していたのかもしれません
伏見稲荷の起源は8世紀の秦氏によるものですから、賀茂の人たちや皇室とも大いに関わってきた歴史があり、家康自身は新田の出身であるとも云われています
三つ葉葵の家紋も元々は賀茂の双葉の葵を元に作られたそうですから、二丁町(双街)という言霊からの流れとなんとなく合っている気がします
新田の祖は足利の祖と兄弟ですから祖父は源義家です
家康は新田の出身だとしても当時は足利を上に持ち上げなければならなかったでしょうし、喜連川藩への厚遇を見ても足利をどのように見ているのかわかる気がします
奇しくも足利の家紋もまた二つ引きであり、そのあたりの符号がなんとも重なり合うものとなっているのは偶然でしょうか
また家康の厚遇は神田明神や山王権現(赤坂日枝神社)にまで及んでいますが、実は神田明神と赤坂日枝の神主は確か同族だったはずですから、つまり同じ関係者です
江戸三大祭りも神田明神と山王さんはいつもセットです
そんな山王さんの赤坂日枝神社の神紋は2つあるようで、その一つは「双葉の葵」です
つまり賀茂氏ということです
日本の古代史は賀茂氏抜きには考えられないと思っていますから、やはり繋がりがあるように思えます
さらに伏見稲荷の神官階級から出てきたのは荷田春満ですが、その弟子は賀茂神社から出てきた賀茂真淵であり、二人共に国学の四大人に数えられています
その国学者を讃えた記念碑は神田明神が発祥であり、当時の神田明神の神主も彼らをリスペクトしていたという思想上の歴史もあります
ですから神田明神も伏見稲荷と無関係ではなく、むしろオセロの表裏のような一体の関係であると思っています
神田明神の境内の裏側は稲荷神社でビッシリといった感じで、境内摂社の末廣稲荷は神田下の末広町で信仰されていたのでしょうか、やはり17世紀始めの創建となっていますから、もしかしたら下の町から高台に移されたのかもしれません
こうして江戸城と神田明神との関わりは家康の頃に強固となったのではないでしょうか
今の神田明神や赤坂日枝神社の立地からみても決してぞんざいではなく、寺町との違いも明らかではないでしょうか
明暦の大火以後は当時、神田明神からも近くの日本橋人形町にあった吉原が浅草の裏に移されたのを見てもわかるように、寺町は低地部の湿地帯や谷間などの主要街道から外れた荒れ地のような悪条件を与えられたそうです
今の吉原も大昔は葦原と呼ばれたそうですから、水辺に葦の生い茂る日本の原風景がそこに広がっていたのかもしれないですね
九段下のあたりまで海岸線があり、銀座もまた水辺や湿地であったようですから、周辺にも葦原中国の原風景が広がっていたことでしょう
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